Interlude ──幻想の「生」
『お母さんはね、あんたっていう子が生きているだけで、すごく幸せになるの。どれだけ腹が立っても、遣るせなくても、あんたを嫌いになんてなれないし、ならないわ。だって、親なんだもの。あんたはお母さんたちの、かけがえのない大事な大事な子供なんだもの』
絶望して、泣いて、自分を心底嫌いになりかけた俺に、母さんは何度もそう語りかけては、背中をそっと撫でてくれていたっけ……。
十四年前。
俺──竹丘友慈は、竹丘家待望の長男としてこの世に生を受け、生まれてきた。
詳しくは知らないけど、母さんは『不妊治療』というものを受けてまで、俺を産もうとしていたらしい。結局、他に兄弟や姉妹ができることもなかった。何事にも誠実で、時には怖いけど普段は丁寧に俺を鍛えてくれる、芯のしっかりした父さん。心配性で、俺のことになるといつもおろおろしてばかりだけど、何があっても必死に俺を守ろうとしてくれる、優しい母さん。そんな両親の溺愛を受けた俺は、小学校から色んなスクールに通ったり友達と遊んだりして、のびのびと十四年間を生きてきた。
もちろんそんなに平坦だったわけじゃない。それなりに挫折だってしてきたし、それなりに苦しんで、泣いて、悔しい思いだってしてきたつもりだ。そんな時、母さんは泣きじゃくる俺を抱きしめてくれた。父さんは頭をぽんぽんと叩いてくれた。
そして決まって、同じことを口にした。友慈は頑張ってる、その姿を見るのが私たちも嬉しい、だから頑張りなさい、って。
俺にはそれが、嬉しかった。俺が頑張ることが、誰かを幸せにする。そんなことで俺まで幸せになれたんだ。
それが素直に嬉しいと思えなくなったのは、いつぐらいの頃からだっただろう。
考えてみると、不思議な話なんだよね。何かをすることで誰かが幸せになるってみんな簡単に口にするけど、その原理も、根拠も、誰も教えてくれないよ。
自殺防止の取り組みを取材した番組を見ていた時、そこに出ていた人が繰り返し口にした。「あなたが長生きすることで喜ぶ人がいる。あなたには、生きる意味があるんです」──って。それなら誰も幸せにできない人には生きる価値がないんだろうか? 父さんや母さんが死んで、俺の背中に幸せを感じてくれる人がいなくなったら、その時はもう、俺の存在意義も失われてしまうの?
もしもそれが、現実のものになったとして。
誰のために。
何のために。
俺は生きる?
俺は頑張る?
ふと感じた疑問は、あっという間に当たり前の幸せを蹴り出して。独りぼっちになったような感覚が、たちまち俺を頭から包み込んだ。
生きるのは親のためじゃない。そもそも誰かのためじゃない。生きることの原点に立ち返った時、じゃあ俺はどうして生きているんだろう。どうして生きたいと思うんだろう。何を目指していけば、これからも生き続けていけるんだろう。そんな疑問を無視したままにしておくことが、できなくて。
唐突に見えなくなった未来を、手探りでひたむきに掴もうとする日々が始まったのは、初めて頭痛を覚えたあの朝からだったのかもしれない。