Karte-04 秘密の場所
病室内には各人ごとに、着ている服を保管するハンガー掛けが設置されている。外から来たばかりの俺も、そして野塩さんも、分厚いコートを着た。できる限り厚着するように再三言われたので、フリースやらパーカーやら、とにかく着られる物は頑張って着込んだ。
どうしてそこまでするのかは、すぐに明らかになった。あろうことか、野塩さんはエネルギーセンターに悠々と侵入した上、そこのドアの一つを開けてみせたんだ。おい、正気かよ。いくら都内だからって、今は一年で一番に寒い時期だぞ!?
「ここは内側から自由に開錠できるんだよ。警備員さんの巡回経路にエネルギーセンターは含まれていないから、絶対に安全!」
彼女はやたら胸を張っていた。俺は早くも寒さで顔を引きつらせていた。
持ってきた靴を履いて外に出ると、零下の世界が俺たちを待っている。はい、と野塩さんが渡してくれたカイロを受け取ると、何とか温かな感覚が身体に染み渡った。安堵したのも束の間、野塩さんはすぐに歩き始めてしまう。
「待ってよ、面白い場所っていったい……」
「行けば分かるよ♪」
俺の疑問は音符付きで返されてしまった。
どうやら駐車場のようだ。車がたくさん停まっている中を、俺たちは地面を踏みしめながら進んでいく。右手には七階建ての新病棟が見えていたけれど、じきにその姿も見えなくなって、三分も歩く頃には俺の視界から建造物が消えてしまった。葉を落とした木立を抜けるように、未舗装の道路はずっと先まで続いている。
これ全部、病院なのか……。看護師の松山さんの言っていたことの意味を、ようやく少し俺は理解した。
前に立って歩く野塩さんは、どこか得意気で、どこか嬉しそうに見える。
でも、その袖から覗いている腕の細さは、やっぱり見逃せるようなレベルのそれじゃない。
いったいこの子は何なんだろう。三十回も病院内を探検してしまえるほど、長い間この病院に滞在しているのか? この子が患っているのは、何の病気なんだ?
怖いというよりも、理解に苦しんだ。人のことは言えないけど、ちょっと馴れ馴れしいんじゃないかとも思った。だって普通に考えたら、知り合ったばかりで信頼が置けるかも分からない俺を、こうして秘密の場所に案内するはずがない。
とは言え、退屈さを紛れさせてくれるかもしれない出来事の連続に、俺の心がひそかな期待を寄せていたのもまた、逃れようのない事実だった。
着いたよ、と野塩さんが言ったその場所には、小さな小屋が建っていた。
真っ暗で外見はよく判別できない。ただ、空の薄明かりに照らされた壁面が怖いくらいにボロボロだってことは、どうにか俺にも分かった。
何だよ、ここ……。ここもまだ病院敷地内なのか?
野塩さんは裏に回ると、ぎい、と扉を開いてみせた。施錠はされていないらしい。中にすたすたと侵入する野塩さんを追って、俺も中へ顔をいれた。途端、そこにはびこる雰囲気に恐怖がふわりと舞い上がった。
ぼろぼろに風化したベッドのような木組みが、狭い空間の両脇に二つ。これまた朽ち掛けた机の上には、いったいどれほどの時を経たのだろうと疑いたくなるような錆だらけの金属食器が転がっている。見上げた天井は何とも頼りなげに歪んでいて、今にも崩れてきそうだ。霊感のない俺が言うのもなんだけど、ふっと気を抜いた瞬間に霊か何かが木の板張りの壁から出現しそうな妖気が、この空間には満ちている。
が、野塩さんは臆することもなく奥まで行くと、ベッドの脇からずるずると何かの機械を引っ張り出してきた。
「……何、それ」
「電気ヒーター」
「なんで、そこに?」
違う、質問が違う。「ここは何?」って聞きたかったのに。
「ここ、昼間は作業中の休憩小屋として使われてるみたいなんだ。冬なんかは昼間でも寒いから、電気ヒーターが設置されてるの。夏には扇風機が置いてあったよ」
ヒーターを点けながら、野塩さんは照れたようにはにかんだ。「たはは、暗くてお互いの顔も見えないね。ランタンがどこかにあったと思うから、探してみる」
そのまま後ろを向いて、部屋中をごそごそと探し回り始める。
肝が太いのか、それとも鈍感なのか……。俺にはただただ、野塩さんの為すことを見守ることしかできない。
三十秒も経った頃、あったと声を上げた野塩さんは、手にしたランタンをぱっと灯した。
畳六畳ほどの狭い空間の上に、俺と野塩さん、二人きり。
野塩さんはベッドに腰かけて、ヒーターで足元を暖めながら鼻唄を歌っていた。俺も真似しなければいけないような気がして、ベッドにそっと座った。意外に頑丈なベッドで、俺が座ってもびくともしない。
「……そろそろ、馴れた?」
野塩さんが不意に尋ねてきた。
「この小屋の空気、ちょっと変わってるでしょ」
「……ああ」
何て言うのかな。薬の臭いでも、鉄の臭いでもない。決して心地よくはない妙な臭いが、鼻の周りをまだぐるぐるしている。
「ちょっとはマシになってきたかも」
「よかった」
野塩さんは笑った。いちいちどきっとするほど、可愛い笑顔だった。
「病室では夜中に話してると怒られちゃうけど、ここは絶対に誰も来ないから、いくらでもお話できるよ」
「お話?」
「私、昼間はいつもぐっすり寝ちゃってるから、誰ともお話するチャンスがなくて」
確かに、寝ていた。
ランタンの柔らかな光に下から照らされた野塩さんの顔は、相変わらず笑ってはいたけれど、同時にどこか切なそうだった。俺はどうだったんだろう。まだ戸惑っているんだろうか。
戸惑いを振り払いたくて、もしくは別の表情を定義したくて、俺は訊いた。
「いいのかよ。まだほとんど何も知らない俺のこと、ここに入れちゃっても。ここ、『秘密の場所』なんだろ」
「うん。いいよ」
「帰って看護師さんにチクるかもよ?」
「そんなことするような人には見えないもの」
思わずどきりとした。ときめいたんじゃない、心臓に深々とクギを打ち込まれたような感覚がしたんだ。
「私がここに呼ぶのはね、仲良くなりたいなって思った人だけなの」
足をうーんと伸ばしながら、野塩さんは天井を気持ち良さそうに振り仰ぐ。──そして、俺をしっかりと見据えた。
「ね。竹丘くんが退院するまでの少しの間、私の話し相手にならない?」
「話し相手……」
「うん。竹丘くんの退屈も、きっと解消できると思うんだ」
……俺と野塩さんは、改めて自己紹介を交わした。
一度目が軽すぎたせいか、それともこんな場所だからか、変に緊張したのを覚えている。もっともそれは野塩さんも同じみたいで、ランタンの白熱電球が照らす俺たちの顔はほんのりと赤らんでいた。
「そっか。じゃあ竹丘くんは、まだ脳腫瘍って決まったわけじゃないんだね」
俺が入院の経緯を話して聞かせると、野塩さんは安堵したような落胆したような声を上げた。後者だったら問い詰めてやりたい。
「前は頭痛があったりもしたんだけど、最近はそうでもなくてさ」
俺は頭を振ってみせる。「いきなり脳腫瘍とか言われても、実感まるでないんだよなぁ。罹っていたとしたって軽症なんだと思うんだ」
「軽症だといいね。私、脳腫瘍の患者さんと相部屋だったこともあるけど、末期の患者さんはほんとにつらそうだよ。見ている私の息も、詰まりそうになる」
「へぇ……。例えば、どんな風に?」
「脳腫瘍って、脳細胞がガン細胞に侵食される病気じゃない」
野塩さんはそこで、わざとらしく声を低くする。おい、やめろって……。
「そうすると判断能力とか思考能力も下がっちゃうし、下手をすると記憶が飛んじゃって、たとえ命が助かっても家族を思い出すこともできなくなるの。私の目の前でそうなった患者さんも、いた」
「…………」
いったい何人の患者と相部屋になった経験があるんだろうか。ずっと気になっていた疑問と一緒にして、俺は聞いてみた。
「……野塩さんはいつから、この病院にいるの?」
野塩さんの目が、部屋の中をぐるっと一回転する。
「詳しくは分からないけど、もう一年半くらいは経ってるかな」
「一年半……」
目の奥が真っ暗になりそうになった。一年半も、あの真っ白な壁に囲まれた病室の中で? 冗談じゃない。俺ならそんな仕打ちを受けたら気が狂いそうだ。
でも、あの細すぎる不健康な腕や、三十回も院内を探検したという履歴を考えれば、納得の数字だと言えなくもないか。
「……どんな病気を患ったら、そんなに長い入院になるんだよ」
思わず口を飛び出した疑念に、野塩さんは反応した。てへ、と彼女は照れ笑いする。
「私も、忘れちゃった」
「えっ」
「何もかもが悪いんだって、私。お医者さんには前にそう言われたよ」
「何もかも、って……」
「逆に、分からないの。私の何が悪いのか」
ストーブは焚かれているはずなのに。その一瞬、部屋が、しんとした。
「私には分からないの。自分に起きていることも、自分がどうして生きているのかも。何も知らないし、分からない」
野塩さんはじっとランタンを見つめ、唄うようにして言った。声色は楽しそうだったけど、伏せ気味の真顔は全く楽しそうではなくて、その不釣り合いさが何とも不気味だった。
「ただ、確実に言えることがあるとしたら、私はたくさんの人たちに生かされてここにいるんだっていうことだけ。いつまでこうしていればいいのか、いつまで生き続けていけるのか、私にそれを選ぶ権利はあるのか。誰も、教えてくれないんだ」
「…………」
いやいや、待ってよ。病気の話をしてたのに、どうしてそんな哲学みたいな話になるの。真実はいつも一つ、病名だって一つだろ!?
よっぽどそう聞き返したかった。けど、結果的に俺は、何も言わなかった。
なぜだろう。自分でも分からない。ただ、聞いてはいけないことに踏み込んでしまったのかもしれないという恐怖が、はっきりと胸の奥で燃え上がっていたのは確かだと思う。
静けさの中、ヒーターが穏やかに空気を乱す音だけが、やけに大きく部屋の壁に反響していた。
いつの間にか俺、うつむいていたらしい。コートから伸びる野塩さんの細い足が視界に入って、慌てて目をそらそうとした時、野塩さんが立ち上がった。
「……あ、その、ごめんね。こんな空気にするつもりじゃなかったんだけど」
顔を上げた俺に向かって、ぺこぺこと野塩さんは謝った。
「いや、別に俺は……。俺こそごめん、変な話、させちゃって」
「ううん、いいんだ。もうたくさんの人にしてきた話だもん」
それは自虐なのか、それとも俺をかばってくれているのか。
立ち上がった野塩さんは、ひたひたと窓に歩み寄った。口を開くと、嵌められたガラスにふわりと息の形が浮かび上がった。
「……それにね、長い入院生活のおかげで、見つけたものもあるんだ。だから、あんまり後ろ向きには考えてないんだよ」
「見つけたって、何を?」
「見せてあげる。こっち、来てみて」
野塩さんは手招きする。言われるがままに俺が隣へ行くと、彼女は窓の外を指差した。
外に、何かあるのか。
疑問を抱いたその直後、背後で野塩さんが、ランタンの灯りをぱちんと切った。
刹那、目の前の窓の外の空いっぱいに広がったのは、無限の星たちだった。
息が詰まりそうになるほど美しい、明るく輝く星座たちだった。
「これ……っ!」
俺は絶句した。
いくら都心から離れていると言ったって、ここ、東京だぞ。こんなに綺麗に星が見える場所が、こんなところにあったなんて……。
「綺麗でしょ?」
いつしか横に立っていた野塩さんが、囁いて笑った。
「ここら辺って、病院がたくさん集まってる地域なんだって。病院って夜はみんな消灯しちゃうから、町明かりも眩しくないの。で、冬は空気が澄んでいるから、都心の光の影響を受けることもないんだ」
「へぇ…………」
「──気づいたのは去年の冬、ちょうど今ごろだったかな。私も同じくらい、びっくりした」
こんなの俺、初めて見た……。
野塩さんの説明が半分も耳に入らなかったことを心で詫びながら、俺は応えた。そのくらい、景色に見入っていたんだ。
「えへ。喜んでくれて私も嬉しいな。紹介して、よかった」
野塩さんもうっとりとしている。
「ねっ。だから私、苦しくなんてないんだよ。だって、病気が治らないでここにいられる限り、この景色を見ていられるんだもん。……今以上の幸せなんて、私にはきっと、有り得ないもん」
俺たちはしばらくそこに立って、天にまたたく星たちを黙って眺めていた。
時間の流れも何もかも忘れて、ただひたすらに澄んだ気持ちで眺めていた。
そのあと、またランタンを点けて、他愛のない話を少しばかり続けて。そのあたりで俺に眠気が到来した。
「帰ろっか」
野塩さんはそう言って、ランタンとストーブを消した。
外の空気は凍えそうに冷たい。二人で病院に戻る道は、ところどころが氷と化して光を反射していて、まるで地面にまで光の海が舞い降りたみたいだ。視界の先に立つ、わずかに電気を灯すばかりの七階建の新病棟は、まるでその小さな海に泰然と浮かぶ巨大な旅客船のようだった。
音を立てないようにエネルギーセンターから館内に忍び込み、鍵を閉め、時計を確認しながら注意深く階段を上がれば、病室まではあと一息。光の消えることのないスタッフステーションから見えないように、俺たちは急いで病室に駆け込んだ。
眠くて倒れそうだったけれど、こんな着込んだ状態のまま朝を迎えたら脱走がバレる。欠伸混じりにパーカーやフリースを脱いで、きちんとハンガーにかけて仕舞ったところで、俺はようやくベッドに倒れ込めた。
「おやすみ」
もごもごと野塩さんの声が聞こえた。
彼女はもう寝る体勢を整え終えたらしい。って、早いな。きっとこういうの、慣れてるんだな。
「ああ。……おやすみ」
俺もそう言った。そのあたりから記憶がないけど、たぶん言ったんだろうと思う。
長かった俺の入院初日は、ぼす、と枕に頭が沈む音で、ようやく終わりを告げて立ち去っていった。
野塩愛。
俺と同じ十四歳。
もう一年半以上もこの病院に寝泊まりを続けていて、俺よりずっと色んなことを知っている女の子。
あの小屋で彼女は言った。『竹丘くんの退屈も、きっと解消できると思うんだ』って。だとすると野塩さんは、俺が退屈に感じているのを知っていて、俺のためにあそこへ連れて行ってくれたんだろうか。
怖いくらいに何でも知ってるんだな、あいつ……。
そこまで思案が至った時、『放射線科』のところで追い詰められていた時の激しい既視感が、ほんの少しだけ思い出された。
俺、これから、どうなるんだろう……。
胸をよぎったのは、そんな一抹の不安。
けれど、それはすぐさま現れた俺自身に、思いきり遠くまで蹴り飛ばされた。俺は叫んでいた。寝惚けたこと言ってんなよ、お前は一刻も早く退院して戦線復帰するんだろ、って。
野塩さんの姿は、そこにはまだ、ない。




