Karte-39 明日の光
桜の向こうで輝いていた太陽が、沈んで、昇って、新しい日々を連れてきた。
俺と愛のやり取りは、追いかけてきた松山さんには見られていなかったみたいだ。どうも伏見先生が止めてくれたらしい。『帰ってきたらお説教すればいいじゃないか』って言って。先生、グッジョブ。
で、実際に病棟に戻ったとたんに愛は松山さんに捕まって説教されていた。患者が病棟の外に勝手に飛び出すのは禁止って何度も教えたわよね? ──たぶん愛にとっても松山さんにとっても、飽きるほど繰り返されてきた説教だっただろうになぁ。俺、隠れてめちゃくちゃ笑っちゃったよ。おかげで鞄を受け取るのを忘れたまま帰ろうとして、先生に追いかけられたけど。
病院の建物から踏み出て、ふっとガラス戸の向こうを振り返った時、見送りに出てきた先生の目に涙が浮かんでいたことは、今でもまだ、忘れられない。
それから家に帰ったあとも一苦労だった。起きたことを話せる範囲で話したら、母さんにまたしても謝られた。『母親なのに、あんたのこと信じてあげられなくて、悪かったね。ごめんね……』って。余命のことも手術のことも含めて、っていうことだったんだろうけど、俺もどうしたらいいのか分からなくて必死に宥めたよ。宥めながら、これで入院時代の関係のこじれがすべて解消されたのかなって気付いて、心底ほっとしたのを覚えてる。
脳腫瘍が消えたのはずいぶん前のことになったけど、落ち着くまでにはずいぶん時間、かかったな……。
記憶の喪失が起きた時の対処の一つには、ショック療法──その人にとって印象的だった出来事を再現させるという方法があるんだって、後になって知った。俺の声によって愛が二度も覚醒したのは、もしかするとそのショック療法に近いことが起きたからなのかもしれないなって思う。そうでなければ説明がつかないよ。実際に手術の決まる前の夜、俺の声はたぶん本当に、別室にいたはずの愛に届いていたんだろう。
だけどそれから一年が経ったあの日、愛のいる七病棟と俺のいた外気舎の間には、とても病棟内とは比べようがないほどの距離が開いていた。どんな大声だって届くはずない。その声を愛がどうやって聴き、記憶を復活させたのか、先生も含めていまだに真相は分からないままだ。
たぶん、これからも一生涯、分からないままの気がする。
運動障害の克服のために、それからもしばらく愛の入院は続いた。退院したら、また元のように福祉施設に戻って生活することになりそうだという。あの怖そうな爺さんと先生との間で、そういう話が進められているらしい。
高校入学の準備もあって毎日とはいかなかったけど、俺も通える限り見舞いに通って、愛の様子を確かめ続けた。
どういうルートで聞き付けたのか、しまいには山田たちみたいな部活の友達まで冷やかしに来るようになって。どっちが先に告白したんだよとか、どこまで経験してんのとか、もうそんな感じで毎度のように問い詰められた。俺からしたら迷惑で仕方なかったけど、部屋が賑やかになったことが愛には嬉しかったみたい。俺以外の同年代の知り合い、愛にとっては貴重だったからかな?
なんて思っていたら、愛はいつの間にか他の病室の患者たちともすっかり仲良くなっていたみたいだった。もう、“生きる力”を誰かから奪ってしまう心配も要らない。愛の周りで人が死ぬこともない。それで勇気を出して、色んな人たちと接するようになったんだ。リハビリ仲間には二歳年上の女子高生がいたみたいで、いつか私も進学したいなって意気込んでたっけ。
『その人に教わったんだけど、高卒認定試験っていうのをクリアすれば高校に通わないでも大学受験ができるんだって! 私、それ合格して大学で友慈に追い付くことにする』
『まだ三年も先じゃん、それ』
『三年くらいあっという間に過ぎると思うよ、二人でいれば』
何気ない会話の中にさりげなくそういう言葉を混ぜられて、かえって俺の方が顔を赤くしちゃったこともないではなかったりして。照れてない。照れてなんてないから。
人間関係が広がっても、愛は“生きる力”の話だけは相変わらず秘密にしているみたいだった。それを知った時に少しだけ心が舞い上がったこと、愛にはまだまだ当分、秘密かな。
病院を訪れる、しかも病棟に立ち入るようになって、退院以来しばらく顔を見ていなかった室田おばさんや清戸さんたちとも会うようになった。愛が言うには最近、室田おばさんは新しい“標的”を見つけたらしく、前より配膳台を引っ張る速度が上がっているみたい。光景がまぶたに浮かぶよ。ついでに『あらぁ、頑張って食べたわねぇ!』って叫ぶ声まで脳内再生できるもん。
そんなニュース、多分この病院内でもトップレベルにどうでもいい一件だろうけど、そういうちょっとした日常の話を聞かされるたびに安心していく俺がいるのもまた、事実で。
やっぱり俺、好きだったんだ。
この病院のこと。
ここで働く人たちのこと。
そして、ここで営まれている日々。
こんなこと言ったなら、やっぱり不謹慎だって非難されたり怒られたりするのかな。だけど俺、不謹慎なくらいがちょうどいいんじゃないかって思うよ。そうでなくても退屈できつい病院生活だもん。少しでも前向きに、少しでも楽しく暮らせる心の持ち方があるのなら、その方がずっとずーっと、いいに決まってる。
病に身体を蝕まれて苦しむたくさんの患者を、丸ごと覆う建物で守って、医療機器や技術で支えて、医師や看護師さんたちが寄り添って、一緒に幸せな結末の在り方を探していく。それは病気の治癒かもしれない。死への穏やかなアプローチかもしれない。その人にとって最良の選択肢を選べるだけの知見と手が、ここには揃えられている。病院っていうのはきっと、そういうことのできる、そういうことをするための、たったひとつの場所なんだ。
そのたったひとつの場所が、他でもない患者にとって居づらい場所になってしまっているのなら、やっぱり悲しいよ。
◆
あの日から三週間後。やっと、愛の退院の予定が決まった。
リハビリの成果は順調に上がっていて、愛ももう普通の人と同じように身体を動かせる。四月の末、つまり俺に遅れること一年で、愛は長く居場所であり続けたこの東都病院を去ることになった。
入院期間は三年に及んだ。
決して珍しい長さの入院ではないかもしれないけど、俺たちの年代にとっては十分すぎるほど長い、長い、入院生活だった。
高校の帰りに面会に立ち寄ると、外を散歩しないかと愛に提案された。あんまり目をきらきらさせながら可否を尋ねるから、俺も断れなくて、二人で建物の外に出ることにした。
愛曰く、珍しく松山さんの許可が出たらしい。とうの昔に自覚症状もなくなって、あとは視覚に残る障害を克服するばかりの愛を、松山さんとしても引き留める理由はなくなったんだろうな──なんて思っていたら、真相は違ったみたい。
『松山さんが外出許可してくれなかったの、私を外に出したら何が起きるか分からないからだったんだってよ』
他人事のようにくすくす笑う愛に、さすがの俺も開いた口が塞がらなかった。うん……まぁ、俺たち、色々とやらかした実績があるもんな……。
外気舎に続く砂利道沿いには、病院の運営する保育園が立っている。送り迎えの車が行き交う横を、俺と愛は歩いた。
「暗くなってきたね」
紫とオレンジの入り交じる空を見上げて、愛が呟いた。高校からの帰りは時間が遅いから、いつもだいたい、こんな景色になるんだよね。
「あ、星が見える」
「どこどこ?」
「ほら、あの高い木の枝の先あたりに」
空に向かって指を差しながら、ふと、懐かしさが胸を過った。いつか愛、言ってたっけ。ここは都心の光害をほとんど受けることのない、星がよく見える場所なんだって。
よく目を凝らすと、仄暗い空には幾つもの光る点が散らばっていて、東の彼方からやって来る夜の闇を迎え入れる準備をすっかり済ませているようだった。
外気舎の前に辿り着いた。のっそりと鎮座する黒いシルエットを眺めて、愛が言った。
「初めて二人でここに来た時のこと、思い出すね」
「うん。俺も」
もう中に入って遊ぶことはできないけど。あの日、窓を開いて見た星空の残り香は、今も頭上に漂っている。
建物の壁に、二人並んで寄り掛かった。それからしばらく、お互い空や木々を眺めて、黙って時間をやり過ごした。話題がなかったわけではないけど、こうして黙って寄り添っている時間は何だかとても居心地がよくて、幸せなんだ。
「──私ね」
先に口を開いたのは、愛だった。うん、と俺が返事をすると、お腹の前で手を組んだ。
「退院したら一度、お祖父さんのところに行ってみようと思うの」
「え……。あの怖い人?」
「うん。それと、お父さんに会いに行こうと思ってる。入院先の病院の名前、このあいだ先生に教えてもらったんだ」
そっか、会いに行くのか。愛の過去を象徴する人たちに。
その話の中に愛が何を求めているのか分からなくて、俺は言葉を返せなかった。あのね、と愛が言葉を繋ぐ。
「もしよかったら、友慈もそこに、ついてきてほしいな……って」
「な、なんで?」
すぐさま問い返してしまった。お、俺いやだよ、あの爺さんと対面するの。だってあの人に俺、顔を覚えられてるかもしれないのに……。
愛はきっぱりと答えた。
「ドアの前まででいいの。私が途中で、逃げ出したりしないように」
「…………?」
「私がきちんと逃げずに、自分の知らない過去に向き合えるように、友慈にはドアの前まで見張っていてほしいんだ。……私が怖がりなの、知ってるでしょ?」
「うん、まぁ」
まだ返事をしてないのに、決まりだねと愛が笑った。
ま、いいか。そのくらいのことでもいいのなら、俺にも愛のこと、手伝ってあげられそうだ。夕方の風が木々を愉快そうに鳴らしていくのを見上げながら、俺は納得することにした。
それに何より、あんなに何かと向き合うのを恐れ続けていた愛が、せっかく挑戦する気になったんだもの。
親戚と不和であること。父親が植物状態であること。与えられるには過酷すぎるそんな過去を自分の目で直視するのは、愛にとってはやっぱり、苦しいだろうから。せめて途中まででも隣にいて、励まして、背中を押して、戻ってきた時に抱き止めてあげられたら。
「そうなるとさ、これから先の連絡手段とか考えなきゃいけないよな」
「私も思ってたの、それ。施設の方でスマホとかケータイ、買ってもらえたりしないかなぁ」
「お祖父さんに退院祝いって言って買ってもらえたりして」
「そんな優しい人だったらいいんだけどねー」
二人、顔を見合わせて、苦笑いを交わした。認識は共通だったんだな。
それからまた、空に目を向けた。
たくさんの星が瞬く夜空の世界が、広がっている。
明るさも、大きさも、位置も、何もかもが違う数多の星たち。際立って明るい星があるかと思えば、有名な星座の一部だったりする。ゆっくりとした一定のスピードで空を横切っていくのがあれば、実は星じゃなくて人工衛星だったりする。
輝き方も、輝きの度合いも、みんな違う。あらゆる在り方が許される。あの夜空はやっぱりどこか、この地球上に暮らす人々の風景に似ているなって思う。
初めて同じことを思ったのも、この場所だったよね。
何気なく、愛が隣にぴたりとくっついた。
服越しに感じる体温は、俺よりも低い。愛は素で低体温みたいだ。それでもどこか奥の方に確かな温もりを感じられるから、感覚って、不思議。
──『私には分からないの』
遥か以前にこの場所で愛が口にしていた言葉が、リフレインして星空に散っていく。
──『いつまでこうしていればいいのか、いつまで生き続けていけるのか、私にそれを選ぶ権利はあるのか。誰も、教えてくれない──』
この前、伏見先生から聞いたんだ。俺の存在を何もかも忘却していた一年の間、愛はときどき独り言のように、うわごとのように、同室の患者さんや看護師さんの前でその言葉を口にしていたって。リハビリで行き詰まったり痛みや苦しみに喘いだりして、生きることを諦めてしまいたくなっても、なぜか何が何でも生き延びなければいけないような観念が高波のように押し寄せてきて諦められなくなるんです──松山さんにそう漏らしたこともあったんだそうだ。……だとしたら、あの日までの愛を力強く生かそうとしていたのは、生きる理由ではなくて義務感のようなものだったのかもしれないよな。
愛を見た。愛は夜空に顔を向けたまま、じっと目を閉じている。目には見えない何かを探ろうとしているように、俺には見える。
無限に闇の広がる夜空の向こうに、明日がある。明後日がある。未来がある。
どんな道を選んだっていいんだ。
俺だって選んできたよ。部活をやめて、みんなとの縒りを戻して、リハビリを乗り越えて、自分で決めた高校に頑張って入学した。今はまだ親に支えられる立場だから、もちろん選択の幅には限界があるけど。でも、その可能性の海の中へと自分の意思で一歩を踏み出すことが、“生きる”っていうことなのかもしれない。
誰だって生きる意味を持っているわけじゃない。誰からも価値を認めてもらえない人だって、今、この空の下には存在するんだろうから……。だけど“生きる理由”を胸の奥に宿し続けてさえいれば、人はきっと生きていけるんだと思うんだ。
ねぇ、愛。だからもう遠慮するなよな。自分は生きていていいのかとか考えなくていいから、そんなことはどうだっていいから、ちょっとでも明るく輝けるような未来、一緒に探し続けようよ。
「…………」
無言のまま、愛の手を握ってみた。
僅かな時間の硬直を挟んで、すぐにきゅっと手が握られた。愛の手が俺を、俺の手が愛を、そしてその上から淡い白の光が包み込む。
「愛」
声をかけると、愛が目を開いた。
「今の愛に“生きる理由”があるなら、聞いてみてもいい?」
きょとんとしたように愛が俺を見た。その頬がふわりと赤く染まって、視線がまた、空へと向かう。
「今、隣にいる人と、少しでも長く一緒にいたいなって思うよ」
「……そっか」
「うん」
そう返事をし返してから、愛が少し、むっとしたような顔付きになった。私は言ったんだから友慈のも教えてよ──。静寂のうちに、そう問われている気がする。わざと無視して、首に提げたカメラを空へ向けた。レンズを通して見える世界の映像を、二人で覗き込んだ。
頬に感じる吐息が暖かくて、たったそれだけのことが嬉しくて、嬉しくて、今は愛のことを見ていたくなかった。
明るい星の周りって、ふんわりと明るくなる。明るすぎる光が感光層に何度も反射して、周りまで明るくなってしまう。それが、“Halation”だ。
もしも、遥かな空の上から地上を見下ろして写真を撮ったなら。無数の人影が光を放つ“地球”という星空の中で、“生きる理由”という名のエネルギーを手に入れた愛と俺の姿は。
きっと今日も、明日も、とびきり明るくぽかぽか燃えて、光り輝いている。
『君と俺が、生きるわけ。』本編は、これをもって完結です。
お読みいただき、ありがとうございました。そして、お疲れさまでした。
本編完結後には以下のようなコンテンツをご用意しています!
【登場人物紹介】……三月十八日午前六時更新。全キャラクターの確認をしていただけます。
【小ネタ解説】……三月十八日午後十一時更新。舞台やキャラクターの由来などの裏話、覗いてみませんか。
【登場医療用語解説・参考文献一覧】……三月十九日午前六時更新。「あの言葉の意味が分からない!」「もっと知りたい!」と思っていただけた方のために。
【あとがき】……三月十九日午後十一時更新。スペシャルサンクスも添えています。読んでくださった方への、感謝を。
【Epilogue】……三月二十日午前五時更新。本作Prologueの公開が2016/03/20 05:19でした。
本作『君と俺が、生きるわけ。』の完結を、最後まで温かい目で見守っていただけると嬉しいです。




