Karte-37 遺された証
ここで話は、俺の自殺未遂の直後に遡る。
俺が目の前で命を絶とうとするのを止められなかった愛のその後の様子を、いつか先生は『大変な精神磨耗を起こしている』と表現していたっけ。
事実、愛はほとんど廃人のようになってしまっていた。まるで等身大の人形のように、食事も口に運ばず、指示されないと動くこともせず、焦点の合わない虚ろな視線をいつも足元に沈めたまま。──そうかと思うと時折、唐突に涙を溢れさせて、微かな嗚咽を漏らしながら静かに泣いた。泣いている間だけは理性が戻ってきているようで、そのタイミングはまるで定まっていなかったそうだ。意識を取り戻しては泣いて、また茫然自失として、それを延々と繰り返していた。あの時、愛は人としての正常な制御が完全に、壊れるところまで壊れてしまっていたんだ。
ところが数日が経過した後、愛は急に自我を取り戻した。
『お願いがあるんです』
病室を訪れた伏見先生や松山さんに、愛はそう言って懇願したという。その内容は二つだった。
一つは、架空の手術をでっち上げて、それを俺に『受けさせて』ほしいということ。
そしてもう一つは、その架空の手術の前日に、外気舎の中で俺と二人きりにしてほしいということ。
突然意識が回復した理由を、愛はこう説明していたらしい。『私の名前を呼ぶ、友慈の声が聞こえた』──って。日付を聞かされて驚いた。その日はちょうど、俺が夢の中で昔の愛が嘆く様を見せられて、後悔に打ちのめされたあの日だった。
普通ならそんな意味の分からない願い、聞き届けられるどころか理解すらされないはずだ。けれど先生と松山さんは、応じた。すぐに俺の両親に連絡を取って、他の看護師さんや医師と打ち合わせに入った──。
「愛ちゃんが架空の手術と言ったのは、そんなに急に手術の計画を立案できるわけがないと考えたからだろうと思う。ただ、その時点で僕自身も、他に取りうる対策がないか必死に検討している最中だった。友慈くんに説明した手術のプランは、実はその時までにある程度、固まっていたんだ」
先生は俯いたまま話し続けた。「愛ちゃんからの提案を受けた時、これなら可能性があるかもしれないと思った。すぐに手術計画の立案に取り掛かったよ。だから安心してほしい。君に手術を行ったのは、本当だ」
「で、でもそれじゃあ、説明の時に先生が言ってた『アメリカの大学院のM先生』っていうのは」
「僕自身のことなんだ、あれは。前に僕の過去のこと、話したことがあっただろう。手術が間に合わずに患者さんが命を落とした後、僕は三年間外国に渡って医学を学び直した。その時にお世話になったのが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の医学大学院だったんだ」
そんな、嘘だ。あの時の口調じゃ、別人のことを言っているようにしか聞こえなかったのに!
俺は完璧に騙されていたってことなのか……? 真っ先にそう感じたけど、先生の横顔を眺めながら、そうではないような気がしてきた。先生がそんなことをするのに、悪意があるはずがないと思った。
「嘘をついていたわけではない。でも、騙そうとしていたのは事実だ。許してほしい……。あれは、君に否定的な感情を持たせないためだったんだ」
先生の声が苦しかった。
「中には僕のような医者もいるけれど、あの医学大学院は紛れもなく先端医療のエースと呼べる存在だ。僕ではないかのような言い方をしてあの名前を出せば、君も安心してくれるだろうと思った。事前に親御さんに説明をした時、親御さんも了承してくださった。生きる理由を見失ってしまった友慈くんを前に向かせることができるなら、何でもしてほしい──そう、おっしゃった」
「父さんと、母さんまで……」
「伝えられる限りすべての関係者、それから友慈くんに接触するおそれのある人物に、厳重な口封じをした。一つは、執刀医が僕であるということ。もう一つは、愛ちゃんが関与しているということ」
愛が架空の手術をしてもらうように言ったことには、それなりの意味と理由があった。その意味は、もう片方の依頼の中身に関係してくる。
俺と話す機会を手術の直前に設けることで、愛は俺を絶望の淵から強引に引き揚げようとしていたんだ。ずっと言えずにいた本当の想いを告げ、今までの感謝を告げ、自分の持つ“生きる力”を俺へと逆流させるように送り込めたら、直後の手術はきっと成功すると俺に思い込ませ、それによって症状の回復と前向きな感情の復活を期することができる──。実際に愛は先生に対して、そういう説明をしたんだという。
先生がその計画に賛同したのは、免疫機能を強制的に強化する先生自身の治療のプランに対して、大きな相乗効果が期待できたからだった。免疫チェックポイント阻害剤を投与して免疫の機能を高める治療方法は、すでに理論的にも技術的にも確立されている。もともと運動部員の俺には一定程度の体力があるから、免疫力が回復すれば持ち前の体力でガン細胞を撃退できる公算が大きいと判断されていたわけだ。
そして、愛の言う“生きる力”の実在を、先生は最後に信じたんだ。
俺は手術を了承して、病院総出で俺に『誤解』をさせるための計画が練られた。いつか俺たちを救いに来てくれたトラックを使って、外気舎に一番近い第一病棟の扉からの経路を圧雪し、ストレッチャーが通過できるようにした。低すぎる気温のことを考えて、暖房器具が使えるように電線を仮復旧させた。どちらが体調を崩しても即座に対応できるように、伏見先生や松山さん自身が最寄りの空き病室で待機していた。愛は俺と会っていた間、院内に通報するボタンをポケットの中に持たされていたそうだ。
そこまで無茶な計画を実行に移したのは、まさに異例中の異例に他ならない。けれど実現に奔走する伏見先生たちに異を唱える人はいなかった。伺いを立てに行くと、院長も『絶対安全確保』を条件に許可を出してくれたという。
もう二度と自分勝手に振る舞ったりしない、きっと約束するから、お願いだから友慈のことを助けてあげてください──。
愛の懇願は確かに伏見先生を、この病院を衝き動かした。その結果はもう、言うまでもないよな。裏で繰り広げられていた出来事をとうとう何も知らないまま、愛との再会を誓った俺は手術を無事に受け、目を疑うような勢いで快方に向かい、いくつかの障害を身体に刻みながらも脳腫瘍を寛解させた。愛の願った通りの未来が、叶ったんだ。
「そう……だったんですか……」
気が付いた時、俺は、失意の言葉をぽつりと溢していた。
失意であって、失望じゃなかった。真実を知らされなかったことに文句なんてなかった。
悔しいけど。そりゃ、悔しいけどさ……。だけど事情を知ったら最後、たぶん俺は今みたいに回復することはなかっただろうとも思うから。母さんが俺に余命を聞かせたがらなかったのだって、きっと同じことだと思う。
──『私は弱いから、知らなくてもいいなって思っちゃう』
愛の言葉が記憶の片隅で光っている。そうだよな。愛と同じくらい、下手をしたらそれ以上に、俺だって弱かったんだな。今まで俺がそのことを自覚していなかっただけで。
「……怖くなかったんですか。そんな無茶、やって」
声を投げ掛けると、先生の目が遠くなった。「怖かったよ。今だから言えることだが、一連の計画が成功しなかったら何らかの形で責任を取る覚悟でいた。……それに僕自身、愛ちゃんの提案に乗りはしたけれど、不安要素がなかったわけではないから」
「不安要素……?」
「愛ちゃん本人が言っていたことでもある」
地面にしゃがんだ先生が、木の枝で二つの人間を描く。そして、それぞれの周りに円を作って、一方の円からもう一方へと矢印を伸ばしていく。
「自分は今まで“生きる力”を誰かからもらって生き延びてきた。結果、その誰かは必ず命を落としてきた。もしも友慈くんに“生きる力”を注ぎ込むことができるなら、その時は自分も同じように死んでしまうのではないか──とね」
「…………」
「僕の側にも医師としての不安があった。友慈くんが助かったと知った愛ちゃんが安心して、そのまま脱力してしまわないかという心配だ。『安堵死』という言葉がある。正確には医療用語ではないんだけれど、病気や怪我の悪化で死の淵に立っている患者さんが、危機を脱して心が落ち着いた途端に息を引き取ってしまう事例は、古今東西あちこちで確認されているんだよ」
愛なら、やりかねない──。
一瞬、心からそう思ってしまった。心臓に冷たい血液が流れ込んだような痛みが走って、それで俺にも少し、当時の先生が感じていた不安の影が掴めたように思った。
先生は地面に描いた絵に手のひらをかざして、そっと払い消した。消しながら、唇を噛んでいるのが見えた。
「結局、僕らの誇っていた最先端の近代医学は、君の身体を蝕む腫瘍との戦いに、あと一歩のところで及ばなかった。その残りの一歩を補うために、僕は十四歳の少女の命を借り受けてしまった。友慈くんが命を取り止め、こうして退院していった今でも、あれでよかったのかと自問したくなる時がある。……本来、こんなことを患者さんに言うべきではないんだけれど、ね……」
分かってますよ、それくらい。だって、何もかも話してほしいって頼んだのは、俺なんだから。
そのついでに、教えてほしいよ。
あの『夢』の向こうで、愛はいったい、どうなったのか。
「──そうして手術は行われた。その後、麻酔の効果もあって一週間にわたり眠り続けた友慈くんは、目を醒ますと信じられないような勢いで回復していったわけだ」
先生は続けた。地べたに落ちていた視線が、いつの間にか俺のそれと交差していた。
「愛……は」
「半年間、意識不明の状態に陥った」
俺は絶句した。
半年間……。俺が退院した時点で、まだ愛は意識を回復させていなかったんだ。そうか、だから先生も松山さんも、いくら質問しても愛の容態のことを……。
先生の声にも、震えが混じる。
「まさに恐れていたことが起きたんだ。友慈くんが再び眠りについた直後、我々が大急ぎで駆け付けたところで、愛ちゃんは倒れ込むように意識を喪失した。原因は脳幹出血だった。手術の効かない疾患で、下手をすれば脳に重大な影響が生じる可能性すらあった」
「可能性があったってことは、最終的に間に合ったってことですよね」
「……そうだね。生命維持には、だが」
不安を振り払いたくて口にした疑問が、ブーメランのように返ってきて身体に深々と突き刺さった。
「半年後、愛ちゃんは意識を取り戻し、今も生きている。驚くべきことに、愛ちゃんの身体でも奇跡が起きてね……。脳内の出血で損傷を上塗りされたにも拘わらず、あの子の脳腫瘍も寛解した。今、愛ちゃんは全身に転移していたガンをことごとく克服して、以前の友慈くんのようにリハビリに励んでいる」
俺は消え入りそうな声で、そうですか、と答えた。
おかしいな……。愛は約束を守って生き延びたっていうのに、ちっとも喜ぶ気持ちが起こらないよ……。喜ぶ前に聞かなければならない話が、まだ、残ってるせいだ。
だけど俺、聞きたくない。尋ねたくないよ。
「愛が回復して、リハビリの段階に入っている間、俺だって何度もこの病院に来てるのに……。って、ことは」
「責任を持って、僕の口から話すよ」
先生の声が優しくて、泣きそうになった。
立ち上がった先生は新病棟の方を眺めた。夜中に見ると、あの病棟はまるで宏漠と広がる海の上に浮かぶ大きな船みたいに見えるんだ。そんなの、先生は知らないよね。だって覚えているのは俺と、愛だけだもの。
覚えているのは……。
「愛ちゃんは今もまだ、あの七階で暮らしている。ほとんどすべてが、以前のように戻った」
ゆっくりにも、或いは早口にも感じる早さで、先生は告げた。
「ただし、脳幹出血で脳内にダメージを受けたことが原因だろう……。あの子には今、部分的な記憶の欠落が見られる。より具体的に言うと、友慈くんに関するすべての記憶が欠落している。“生きる力”のことも、今まで自分が辿ってきた病歴や同室患者のことも覚えているのに、去年の二月から三月にかけて自分が誰と同室だったのか──その間、どんなことをしていたのか──あたかも初めから何もなかったかのように、愛ちゃんの記憶からはそこだけが消え失せてしまった」
その時、またしても強い風が吹き荒れて。
飛ばされた桜の花びらが、俺と先生の目の前の空を勢いよく舞った。
花びらは抵抗しない。風に置き去りにされた花びらたちは、ひらひらと地面に降りてくる。そして、視界の右側に入ってしまえば、もう俺の目では見ることができない。
こういう時、気付かされるんだ。ああ、俺の身体って、こんな不便になっちゃったんだなぁって。この命の燃え尽きるタイムリミットが先延ばしになるのと引き換えに、俺、色んなものを失ったんだな……って。
今日、そのリストに新しい一人が加えられる危険を承知で、ここに来たはずだった。
そうじゃなかった。失われてなんかいなかった。ただ、今までの日々の履歴の中に堆く積み上がっていたものが、残らずリセットされてしまっただけだ。
悲しめない。だけど、喜べないや。
今、この場所で、俺はどんな顔をしたらいいんだろう。どんな想いを抱えて、家に帰ればいいんだろう。いつものように母さんに『今日も異常なかった』って伝えて、それから何をしたらいいんだろう。
つい今しがたまで当たり前のように弁えていたはずのものが、ちっとも、見えないよ。
俺も伏見先生も、それからずいぶん長い間、黙っていた気がする。先生が遠慮がちな声で、言った。
「渡したいものがあるんだが、いいかな」
俺は立ち上がって、先生のところに歩いて行こうとした。ああ、立ち眩みがひどいや。立ち眩みするのは貧血の証拠なんだっけ。あんなに食事量が少なかったくせに、愛が貧血になってるところは見たことなかったなぁ。やっぱりそれって先生の言うように、摂るべき栄養の絶対量が人一倍少なかったからなんだろうな……。
先生に手を掴まれた。
「大丈夫かい。今、倒れそうになっていたけど……」
「平気です」
俺はうなだれたまま、首を無理やり縦に振った。
そこに、見覚えのあるデジタル一眼レフカメラが差し出されて、心臓が止まったかと錯覚しそうになった。
「これって……、愛の」
ああ、と先生は頷く。差し出されたそれを、俺は両手で受け取った。ずっしりと重たい、懐かしい冷たさが、手のひらにのし掛かった。間違えるはずもない、あの“ハレーションカメラ”だ。
「友慈くんの手術の前日、愛ちゃんから託されたんだ。友慈くんが山を越えたら渡してほしい、と言われていた。いつか私が元気になって、そのカメラを受け取りに行くから──と」
「…………」
黙っていると、冷たさがいっそう肌に凍みた。
俺に愛のことを話してから渡そうと思ってたんだろうな、先生……。だったらもっと早く、こうやって問い詰めていればよかった。そうしたらこいつも先生を苦しめ続けずに済んだのに。俺も愛のことを偲ぶ時間、もっと長く取れたのに。
「あの」
聞きたくなって、口を開いた。唇も舌先も乾いて痛かった。
「このカメラのこと、先生は」
「聞いているよ。仕組みは分からないけれど、僕にも、見える」
「……そうですか」
今度こそ、何も言うことがなくなってしまった。
最高に居心地の悪い時間が刻一刻と過ぎていくのが、胸の鼓動の奥に感じられる。このカメラ、どうしよう……。ぶら下がった長い紐を手に取って、とりあえず首から提げてみる。
愛はいつもこのカメラ、どういう持ち方をしていただろう。外気舎の窓を開け放って空を見上げながら、どういう構え方をしていたっけ。
あれ……。
ほんの一年前のことなのに、あんなに愛が好きだったはずなのに、なんで俺、たったそれだけのことがすんなりと思い起こせないんだろ……。思い出せるのはただ、あの頃と変わらないこの質感だけ……。
だめだ。何を考えようとしても、自然とベクトルが愛の方へ向かおうとする。
風が桜の花びらを頬に叩き付けて、意識が少し鮮明に戻った。岩の塊のような頭を持ち上げると、先生と目が合った。それまで唇を固く結んでいた先生が一瞬のうちに口角を上げて誤魔化したのを、俺、見逃せなかった。
「今まで色々と、すまなかった。それと……最後まで聞き届けてくれて、ありがとう」
先生は微笑もうとしていた。
「今日の検診の内容はみんな終わっているから、もう院内に残っていなくても大丈夫だよ。──友慈くんはこのあと、どうしたい?」
どうしようかな……。
「ここへ来る前に、鞄は医局内の僕の机に運んでもらってある。取りに来たくなったら受付で僕を呼び出してくれれば構わない」
「ひとりに、なりたいです」
ほとんど勝手に、口が喋っていた。笑えるくらい会話が噛み合ってない。笑えるなら笑いたいよ、くそ。
そうか、と先生は呟いた。
「それなら……僕は先に、院内に戻っているよ」
そう言いながらもなかなか踵が返らなくて、何度も繰り返し俺の方を振り返りながら、伏見先生は外気舎の前をとぼとぼと立ち去っていった。
俺はその背中を見送った。陽の光を正面に受けて眩しい白衣の肩は、ひどく落ちていたような。
ごめんなさい。
先生の姿が建物の向こうに消えた時、なんでかな、そんな独り言が口をついて出た。
外気舎の前の踏み石に、また腰掛けた。
座り直したせいか、石の冷たさが制服を透過して突き刺さる。かつて外気舎に通っていた頃はいつも靴で踏み越えていて、冷たさなんて感じることのなかった場所。
さっきのように膝を抱えて体育座りの姿勢を作った俺は、膝と身体の間にカメラを押し込んだ。愛が大切な人と記憶を失う瞬間を、そのレンズでしっかりと見てきたはずのカメラに、今の俺は言い得るような感想を抱くことができない。不幸とか、可哀想とか、そのへんの地面に無限に転がっているような言葉でこの重さを表現できるとは思えなかったし、愛もきっと喜んでくれないだろうなって思う。
愛がこのカメラのことを覚えてるなら、返しに行くべきなんだろうな。
だって、このカメラはもう、昔の愛に与えられた使命を果たすことができないんだもんな。
だけど、こいつを手放したら最後、俺自身も愛のことを忘れ去ってしまうような気がして、怖いよ。
愛の忘却の事実を口にした瞬間の先生の目付きが、網膜に焼き付いて離れない。先生自身には何の咎もないのに、捩じ込まれた責め苦に必死に耐えているような目付きだった。たとえ誰も悪くなくたって、ミスが少しもなくたって、目を覆いたくなるような悲劇はいくらでも起こるんだ。そんな時、巻き込まれた人は誰を恨めばいい? ──そんな疑問を呈したところで答えなんか見つかりっこないって知っていて、先生はしきりに唇を噛んでいたのかな。眼前の俺から真っ先に恨まれることを、或いは予想していて。
信用ないなぁ。
俺、そんなことしないよ。
自分の命の恩人を憎めるほど、俺、人として欠けていないよ。欠けていないって信じていたいよ……。
愛。
もう俺のこと、覚えていないんだね。
あんな楽しくてつらい日々を送ったこと、覚えていないんだね。
でもって、今は前を向いてリハビリを頑張ってるんだよな。それってつまりさ、愛には前を向くことができているってことなんだよな。
それならそれで、いいんだ。
俺、思うんだよ。愛の人生を一言で表せる言葉があるとすれば、それは『補完』なんだろうなって。母親の存在を父親で補完して、家族の存在を病院の人たちで補完して、失った記憶を今の日々で補完して、左脳を右脳で補完して、今まで向けてもらえなかった愛情を俺からの好意で補完して、“生きる力”の不足を他の誰かのそれで補完して、そうやって今日まで生きてきたんだろ。仕方、ないよな。どこの誰も何も、愛の落ち着きどころにはなってくれなかったんだもんな……。
でもさ、たとえ最後には補完の道具にしかなれなかったのだとしても、俺、嬉しいよ。
俺は脳腫瘍を克服した。愛も病気を克服して、またひとつ、欠けていた何かを補った。それでお互い幸せだよね。この先、俺が何を思ったところで愛には届かないし、それは愛のせいなんかじゃない。愛は少しも、悪くなんてないんだ。
だったら、愛が長生きできるなら、俺は幸せになれるんだ。あいつは今もこの世界のどこかでちゃんと息をしているんだなって、安心できるんだ。
なぜって。……俺はまだ愛のこと、好きだから。
誰よりも遠くて、誰よりも近い場所から、今も愛の幸いを願っていたいから。
「…………愛……っ」
ぽたり。
カメラに滴が落ちた。
いけない、塩水が精密機器を濡らしちゃったら大変だ。慌てて拭き取ろうとして、その腕が無意識に頬へ向かった。
バカ。
なんで泣いてんだよ、俺。
もっと喜べよ。
バカはお前だよ。こんな結末を喜べるもんか。喜んでるわけじゃないし、悲しがってるわけでもないよ。もっと中間の感情なんだよ。名前、分かんないけどさ……。
「愛」
カメラに向かってまた、呼び掛けた。画面にはいくつも滴の跳ねた跡がある。再生のボタンを押すと液晶に光が宿って、いつだったか二人で競いあって撮った星空の写真が、浮かんだ涙でふわりと霞んだ。
「愛、…………」
あとに続く言葉が思い付かなくて、その悔しさと切なさを代わりに全力で込めた腕で、俺はカメラを抱き締めた。
風が何かを叫んでいる。舞い飛ぶ木の葉や花びらが眩しくて、前が見えない。風からも花びらからも守ってくれる屋根や壁のある、元通りの姿を取り戻した外気舎の下で、それから長い間、カメラを抱き締めたまま俺は動かなかった。じっとしてさえいれば、そのうち寒さや暑さのように俺を取り巻く現実が勝手に身体の中に染み込んできて、そうすれば抵抗もなく受け入れられるような気がして。
そんなやり方でしか、受け入れられそうになくて。
ああ、そうか。
今の俺を表すのにぴったりの表現、思い付いた。
──寂しいんだ。俺……。
次に目を開けるまでに、どれほどの時間が沈黙しながら過ぎ去って行っただろう。
俺はゆっくりと瞼を抉じ開けた。少しではない勇気が必要だったけど、なんとか完遂した。右側を丸ごと失った光景が、だんだんと安定してきた焦点に馴染んだ。
同じくらいの時間をかけて、立ち上がってみる。振り返ると桜がきれいだった。外気舎のそばを離れると春風が強くて、その風に逆らうように俺は、桜に引き寄せられて歩いた。
枝の向こうから昼下がりの太陽が覗いている。無数の枝が空いっぱいに手を広げているような、この構図。愛が最初にこのカメラで撮って見せてくれたのは、ちょうど、この風景だったんだよな。
すごく、綺麗だ。
桜色で埋め尽くされた世界の中で、俺はカメラを空に向けた。
こうして写真を刻んでおけば、吹けば飛んでしまいそうな今の気持ちも、深く突き刺さりすぎて抜けそうにない昨日までの想いも、残しておけるんじゃないかと思った。
明日の自分をどう生きようとか、愛のことをどうやって忘れようとか、そんな難しいことはすぐには考えられないし、せめて今は素直に思い付いたことに従おうと思った。
なぁ、愛。これで合ってるんだよな。センスの問題なんじゃなくて、綺麗な景色を撮りたいと思うかどうか。そう、教えてくれたよな。
カメラを握る両手に力を込めて、俺は画面を見つめた。枝に隠れてちらちらと輝きの具合を変える太陽の光に、まるで一年前の俺のような不安定さを感じて、シャッターボタンに伸ばした指が震えて、それでもなんとかピントを合わせた。
瞬間、その光が押し潰されて消えてしまったように、両方の視界が唐突にブラックアウトした────。
「だーれだ?」




