Karte-36 自信なんて、持てないけれど。
今から十五年前、両親の不倫の結果として愛はこの世に生を受け、誕生した。
このあたりの経緯は、前に愛本人から教わったこととほとんど同じだ。愛の父親──野塩仁さんは結局、不倫相手の女の人に呆気なく見捨てられ、かと言って許嫁と改めて結婚するわけにもいかず、男手ひとつで愛を育てることになる。それでも育児休暇を器用に使いこなして、お父さんは何とかお金を稼ぎながら愛を育て続けた。やがて小学生になった愛は清瀬市内の市立第一小学校に進学、それなりに楽しく過ごしていたのだという。
たぶん、お父さんは愛に対して引け目というか、罪悪感を覚えていたんじゃないだろうか。自分の不倫のせいで、愛は不幸な運命の下に生まれ落ちてしまった。一度も再婚しようとしなかったのは、愛が母親っていう存在に抵抗感を持っていたからなのかもしれない。──もちろん、本人が口を利けなくなってしまった今となっては、そんなのは憶測に過ぎないわけなんだけどさ。
そう。お父さんは交通事故に遭い、意識を失った。愛は同じ交通事故で、たった一人の肉親と大切な記憶を、いっぺんに失った。
飲酒運転だったそうだ──。愛が十一歳の時、連れ立って公園に遊びに行った帰りに、赤信号を無視して突っ込んできた乗用車に横断歩道上で撥ねられた。二人は頭を強く打ち、病室の空きの都合で別々の病院に搬送された。
以来、お父さんは現在も意識を回復しないまま、その病院で植物状態にある。
同程度のダメージを脳に負った愛も、初めは同じように永遠に目覚めないだろうと思われた。──ところがそこで、奇跡が起きた。
「愛ちゃんはアスファルトに頭の左側を打ち付けて、損傷を受けた左脳は完全に沈黙していたそうだ。普通、そうなったら人は助からない。よくて重度の後遺障害、悪ければ──死に至る」
「でも、愛はそんな重度の障害を負ってるようには……」
「そこがあの子の不思議なところで、すごいところなんだ」
先生は木の枝を拾い上げて、地面に脳の絵を描いた。それから、左側をぐしゃぐしゃと線で描き消して、右側へと矢印を引っ張った。
「人間の脳は、ごく稀に『機能代償』という現象を起こすことがある。損傷を受けて細胞が死んでしまった時、その部分が受け持っていた機能を脳の別の部分が肩代わりするようになるんだ。言い方を替えると、死んだ仲間の分を脳細胞たちが補完するわけだ」
脳っていうのは、ごく単純に言うと、信号を発信したり伝達したり受け取る機関の集合体だ。発信や受信を担当する物質が、伝達の機関によってどの順番で配列されているか──それによって脳の各部位は別々の機能を持つようになる。そいつは年を取るごとに伝達ルートをどんどん増やし、機能を成長させていくんだ。
ところが、一度でも死んでしまったら最後、脳の機能は復活しない。部位が丸ごと死んでしまった場合、それが人体の活動に与える影響の重大さはとても図り知れない……。
そんな時、ごく稀に発生するのが『機能代償』だ。機能の欠損に気付いた脳が、それまで全く別の用途に使われていた場所の配列の一部を繋ぎ換えて、失われた機能を肩代わりしてしまうんだ。普通なら考えられないような奇跡を起こす力と、可能性が、人間の脳には備えられていることになる。
「近年、ようやく少しばかりメカニズムが判明してきたばかりで、機能代償によって脳の中が具体的にどう変化していくのか、僕たちも詳しくは分かっていないんだが……。現にその過程で、愛ちゃんはそれまでの全生活史の記憶を忘却してしまった。まさに人体の神秘とも言うべき奇跡には違いないんだけれど、残念ながら機能代償は完全なものでも、確実なものでもない」
哀しそうに眉を下げた先生の目が、不意に俺のお腹を見た。
「な、何ですか」
思わず身をよじって俺が抵抗すると、はは、と先生は穏やかに笑った。「看護助手の人たちからしっかり報告を受けていたよ。愛ちゃんと同室だった頃、よく愛ちゃんの残したご飯を食べてあげていたんだろ」
「あ、あれはその、愛があんまり食べないって言うから!」
顔が赤くなるのを感じながら、必死に弁明する俺。ああ、そういや室田おばさん、俺がこっそり食べてたことを手術中に突き止めてたんだよなぁ……。
先生が頷いた。
「実は、愛ちゃんの食事量が少ないのも、あの子の脳の事情で多少なりとも説明はできる」
「……え?」
「脳は全体重の僅か二パーセントを占めるのみにも拘わらず、エネルギーの消費割合は消費量全体の二割近くに上るんだ。愛ちゃんや友慈くんのような入院患者の場合、相対的に見て運動に必要なエネルギーや、恐らく臓器にかかる負荷も小さいから、消費割合はさらに大きくなるだろう。その消費量のうち半分が、左脳が機能を停止している状態では必要なくなるわけだ。つまり、エネルギーの絶対的な必要量は低下しているはずなんだよ」
「だから少しの量で十分、ってことですか」
「恐らくは、そうなんだと思う」
脳ってそんなに大食いなんだな。驚いたけど、すぐに納得がいった気になれた。パソコンだって電気をたくさん食うし、頭を使うのって疲れるもんなぁ。
「右脳が両方の機能を兼ね備えている以上、右脳そのもののエネルギー消費は増えているはずではあるが、ね」
木の枝を置いた先生は、ついでにそっと一呼吸を置いて、話の続きに取りかかった。
「──ところが、右脳だけが機能して身体を支えている状況は、実はとても危険でもある。右脳しか機能していない状態で、もしも今度は右脳に損傷を負ってしまったら……」
「今度こそ、補ってくれる部分がなくなる?」
「そうなるだろう。そしてあの子は、その不運を引き当ててしまった」
左脳に損傷を受けて失った部分を、機能代償という奇跡をもって回復した愛は、ついに記憶が戻らないまま病院を退院した。
当然、父方の実家では孫娘の愛やその父親のことを良く思っていない。向こうからしたら、お父さんはせっかく決めてあげた許嫁を蹴り、面目を踏みにじった存在。そしてその不倫の結果として生まれたのが愛だから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないよな……。結局、実家の意向で愛にはお父さんの入院先を伝えないことになり、愛はすぐさま武蔵野市内の児童福祉施設に放り込まれた。愛やお父さんにかかっているお金の支払いは実家持ちだけど、その原資は二人を轢いた車の運転手に払わせた賠償金なんだとか。
そしてそれから一年後、愛にまとわる死神は第二の鎌を振り下ろした。──右脳の脳腫瘍だった。よりにもよって、右脳の。
余命は一年半と告げられ、愛は東都病院に入院した。それでも初めのうちは他の入院患者たちといつも仲良く打ち解けていて、苦しみなんて何も抱えていないように見えたんだという。
様子が変わったのは、余命の迫った一年後からだった。愛の同室患者たちが、次々に容態を悪化させて死亡するようになったんだ。急性骨髄性白血病だった中年の男性、腎臓ガンだった初老の男性、インスリン依存型糖尿病に罹患していた小さな女の子、そして敗血症の高齢女性──。彼らはみんな、死去する前に決まって愛のいる七○五号室からの転室を希望した上、その理由はいたって不可解なものばかりだった。『あの子が夢の中で襲ってくる』『あの子に寿命を吸われている気がする』という具合に。それとは引き換えに、愛は症状の悪化と回復の間を行き来しながら寿命を伸ばし続け、ついには看護師さんたちの間でも七○五号室に『あの病室は何かがおかしい』という噂が立つに至る。
それでも、愛の同室患者は必ず死ぬなんていう証拠が発見されるはずもなく、七○五号室には新たな患者が送り込まれてきた。──それが、俺だった。
当時、愛は同室だった患者が死ぬと途端に症状が悪化し、ある程度まで回復したところで新規の同室患者がやって来る、というサイクルを繰り返していた。俺と愛が初めて会ったのは、まさに愛が数日間の苦痛を乗り切って、本来の病室に戻ってきた直後のことだったんだ。
愛が頻繁に夜間に出歩いていたことは、看護師さんたちも周知の事実だった。実際、愛は三回ほど巡回中の警備員に捕まって、そのたびに大目玉を食らっていたらしい。その時、愛はこう言い放ったんだそうだ。
『夜に勝手に出歩いたって、誰にも迷惑なんかかけないのに……』
もしかしたらその頃には、愛も薄々気付いていたのかもしれない。自分が他人から“生きる力”を奪って生き延びてきたことに。
一台の一眼レフカメラと、児童福祉施設から持ち込んだ一冊の文庫本。私物はたったのそれだけだ。今までの常識とは何かが違う、けれど何が違うのか分からない謎の患者の同室患者として俺が宛がわれたのには、まだ検査入院で罹患の有無すら確定していない俺なら大丈夫だろう、っていう思惑でもあったのかもしれないと勘繰ってしまいたくなる。或いは伏見先生が担当になった時点で、そうだったのか。
「──先生は、愛の“能力”のこと、知ってたんですか」
俺は膝を抱え込みながら尋ねた。白衣の先生は空を見上げて、うん、と頷いてみせた。
「科学的根拠を著しく欠いているとは言え、愛ちゃんの周りで起きていることは明らかに異常だったからね……。診察の時、何かを言おうとしていたのを見て、話したいことは何でも話すように言ったことがあるんだ」
「じゃあ、先生も聞いたんですよね。愛があらゆる人間の“生きる力”を見ることができて、その……奪えることを」
ため息が宙を舞って、吹き寄せた春風に浚われていく。
先生は外気舎の壁へと目を移していた。立ち上がり、そっと壁に寄り掛かって、先生は腕を組む。
「友慈くんは、どう思う。あの子の力は本物かどうか」
現に俺には今、俺自身や先生の身体を包み込む光が見えているわけで、俺はすぐに応じた。ちょっとばかり、尻窄みになった。
「俺は本物だと思いますけど……」
「僕も近頃は本物だと考えるようになってきた。いや、違うかな。説明がつく現象だと思えるようになった」
思わず顔を上げたよ。
それじゃあ、あの能力には根拠があるってことなの? もしくは俺みたいに、先生にも経験があるとか?
「オーラという言葉を聞いたことがあるだろう。オカルト用語の一つで、簡単に言うと人間などの物体から常に発散され、その周囲を取り巻いているエネルギー場のようなものだとされている。霊媒師を始めとして、そのオーラが見えると主張している人は、それなりにたくさんいるんだ」
先生は、変に平らな声でそう語った。その言葉に目が丸くなった。まさにそれ、愛が見ていたものそのものじゃん。
「でも、それってあくまでもオカルト用語でしかないんじゃ」
「うん。オーラの存在は科学的には証明されていない。ただ、それと極めて類似する現象を捉える感覚が、実際に存在しているかもしれないんだよ」
先生はまだ、空を睨んでいる。
「共感覚──そういう名前で呼ばれている。ごく一部の人々だけが持っている、通常は備わっていないはずの色々な感覚のことだそうだ。その要因やメカニズムは未だに闇の中なんだが、例えば文字に勝手に色がついて見えたり、音を聴いていると色が見えたりする人の実在が確認されている。ある意味では第六感に近いものだろうね。そしてその中に、人間の性格や姿に色を感じる共感覚の存在可能性が指摘されているんだ。──愛ちゃんの持つ“生きる力の視覚化”に、どことなく近いと思わないか」
断定はできないけどねと付け加えて、先生は腕組みを解いた。先生も自分の説に自信はないんだな……。そう思いつつ、俺は俺で膝を抱え続ける。
感覚を司るのは目や耳のような感覚器官だけど、そこから得られた情報を処理して『こう感じる』って理解するのは脳の役目。感覚器官そのものに異常がなくても感覚がおかしくなってしまうことがあるのは、脳の側に異常があるからだ。
そうか。愛は交通事故で左脳を損傷して、その機能を代償する過程で右脳の中身を書き換えた。しかもその後、その右脳に脳腫瘍ができて、脳に直接的に影響を及ぼすようになってしまった。脳の中で何かが起きて、それまで存在しなかった感覚が突然に開花する機会が、愛には今まで何回もあったんだ。
だとしたら、あの光が見えている俺だって──。
どくんと胸が鳴った。認識のできない右側に何もないか急に気になって、右腕を恐る恐る横に伸ばして、空を掴んで安心した。
先生は地面に視線を下ろしていた。
「“生きる力”を科学的に定義することは難しい。ただ、以前にも話したことがあったと思うが、感情が少なからぬ影響を病状に与えているのは間違いのないことなんだ。友慈くん、免疫療法がなぜ有効なのかを説明したことがあっただろう」
うん。確か……免疫細胞は唯一、ガン細胞の増殖に対抗できる人体の仕組みだから、免疫を強くしてやれば放射線やクスリを使わずにガンを撃退できる、っていう。
「その免疫に大きく関与しているのが、自律神経だ。自律神経には交感神経と副交感神経という二種類がある。交感神経というのは全身の活動を高める神経で、副交感神経は身体を回復させる神経なんだ。前者には血圧や血糖を上げたりする働きが、後者には免疫機能を正常にする働きがある」
「じゃあ、副交感神経の働きがあんまり悪いと……」
「免疫が落ちて、身体は弱くなりやすくなる。そして、副交感神経よりも交感神経が優位になる条件として、強いストレスを感じる状態が続いていることが挙げられるんだ。対処しがたい脅威にさらされている時──つまり否定的な感情に陥っている時、人はストレスを感じ、そのストレスに抗おうと交感神経を活性化させる。友慈くんにも経験があるんじゃないか」
ああ、と思った。感情が病状を左右してしまうのは、そういう原理なんだ。それこそ、ほんのちょっとした風邪から、命に関わる重大疾病に至るまで。
「『自律神経を整えることができれば全ての疾病は治る』なんていう、ちょっと極端な学説もあるくらいでね」
先生は苦笑いして、それから顔を引き締めた。「“生きる力”のある、すなわち元気で活発な人と一緒に過ごしていれば、自然と楽しい気持ちになって副交感神経が活性化される。一方、相手は色々と振り回されることでストレスが生まれ、それが交感神経の優位に繋がることで免疫機能の低下に繋がる。……愛ちゃんの言うところの“生きる力の授受”は、こんな風にして説明することが可能だと思うんだ。もしもそれが真実なら、恐らくこれは愛ちゃんに限った話じゃない。世界中のあらゆる人間が、こういう“取引”を無意識のうちに行っていることになるだろう」
体育座りをしていると、不思議と気持ちが大人しくなる気がする。自然と守りに入っている姿勢のせいか、こうしていると耳に入ってくる話を素直に受け止めて、丁寧に噛み砕いて、理解しやすく整頓することができるようになる。
俺は膝から顔を上げて、少し先の地面を見つめた。まるで想像の及ばない、途方もない話を聞かされているのに、変に身近に感じてしまうのはどうしてだろう。
心の奥がじわりと熱い。
安心してるのかな、俺。そう思った。だって先生の説明が本当なら、愛は普通の人と少しも変わらない──ただ少しだけ、普通の人には見えないものが見えるだけの人間でしかないんだ。
愛は他人の命を使って生きるような、吸魂鬼なんかじゃなかったんだ。
強いて言うなら、一つだけ違いがあるかな。愛には俺の親や友達のような、いざという時に心の拠り所にできる人がいなかったということ。たった一人の肉親は昏睡から目覚めず、おまけに自分はその人のことを思い出すこともできない……。どう足掻いても泣き叫んでも孤独から逃れられなくて、だから愛は周りの人に依存しがちになってしまったのかもしれないよな。俺や、母さんや、他の同室患者たちや、病院で働く人たちに。
その営みが、関わってきた人たちの命を縮めていったのだとしたら、神様はいったいどれほど残酷な仕組みを作れば気が済むんだろう?
愛はそんな目に遭わなければ生かしてもらえないほど、大きな十字架を背負わされているっていうのか?
──“汝、自らの如く、汝の隣人を愛せよ。” 愛に教わったあの言葉が、今は重たく、冷たく、胸の奥で響いているのを感じる。
望まれない子として生まれ、母親が消え、父親が眠り、記憶も実家も人間関係も潰え、あまつさえ健康な身体も……。ただひたすらに何かを失い続けた十四年の歳月を越えて、病院の中で俺と出会った愛は、やがて俺がそうしたように、俺のことを大切に想うようになった。俺だけは愛の知る“生きる力”を受け入れてくれるって、期待してくれていた。その愛を俺は、突き放した。絶望の深さに目が眩んで、自暴自棄になって、愛のことをも見捨てようとしてしまった。
──そこまでが俺の知っている、愛と、俺との、心の交わりの世界。
「先生」
囁くように、俺は声をかけた。それまでしばらく沈黙を保っていた先生は、壁から背中を離して、俺のことを一瞥した。
「続き、話してください」
「……いいんだね」
「大丈夫です」
声が掠れていた。
先生はたぶん、話をここで意図的に一旦ストップさせてくれてたんだな。風に巻き上げられた砂ぼこりみたいに不穏に広がる予感の向こうに、その理由が何となく透けて見えているように思えて、俺はわざと力を込めて頷いた。それからつばを飲み込んで、身構えた。
それじゃあと先生は呟いて、二歩、三歩、前に歩み出た。
「続けようか」




