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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第五章 君は明日の“Direction”
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Karte-35 始まりの場所へ





「よく来たね」

 名前を呼ばれて診察室の扉を開けると、椅子に腰掛けていた伏見先生は俺を見て笑みを浮かべた。

 うん。やっぱり先生の顔色、一年前と比べたら何倍もよくなってるよね。看護師さんに勧められて、俺も椅子に座る。椅子が右側にあると存在に全く気付けないから、やっぱり不便で仕方ない。

「卒業式はどうだったかい」

「どうって、うーん……。特に何も」

「義務教育課程を修了するというのは、僕なんかはなかなか感慨深いものだと思うがな」

「先生が年だからじゃないんですか」

 失礼な、と先生は笑う。義務教育がどうとか、そういうのとは違う意味で感慨深かったのは事実だったけど、先生には何となく伝わっているような気がして、口には出さなかった。

 代わりに呟いた。

「この病院からも、早く卒業できたらいいんですけどね」

「そうだね。それが一番だ」

 先生も頷いていた。その手が、壁に貼ってあった写真に伸びる。それがCTスキャンの画像だと、今の俺ならすぐに気付ける。これって進歩なんだろうか。先生の口が開くのを眺めながら、そんなことを思う俺。

「経過に関しては順調と言うか、何も変わっていないね。腫瘍の再発は認められない」

 よかった……。その一言をもらえるたびに、心の底から脱力しそうになる。

 ほっとしているのは先生も同じみたいで、独り言が少し、早口になった。

「僕もそれなりの人数の患者さんを見てきたし、色々な症例を聞いているけれど、友慈くんのように脳腫瘍そのものが寛解する事例というのはなかなか見たことがない。大人でさえ難しいことを、君は立派に成し遂げたんだ。……うん、すごいことだ」

「後遺症が残らなければ、もっとよかったのにな……」

「それについては、僕たちも申し訳ないと思ってる」

 やめてくださいよと俺は制止した。いいじゃん、だって生きてるんだから。いくら視界が欠けてたって、とりあえず生きることはできるんだから。

 一言で『右側が見えない』と言っても、俺の場合は右目が機能してないわけじゃない。立体視だってできる。ただ、そうして得られた映像を頭の中で再生する時に、必ず右側の部分が真っ暗になってしまうんだ。例えるなら、ビデオカメラで映像を撮ることはできても、それを見るための画面が半分だけ割れてしまっているような感じ。初めのうちは視野の欠損みたいで怖かったけど、慣れっていうのはすごいもんで、しばらく経つと見えないことにも違和感を覚えなくなる。正常に認識できない右側の映像を、左側の映像を元にして脳が勝手に補完してくれるようになるんだ。

 もっとも、補完にはやっぱり限界があって、突然右側から現れたものまで補完して『見る』ことはできない。それに、確かにそこにあるはずの自分の手や身体が視界から消え失せてしまうと、とたんに言い得ないほどの恐怖に襲われることが、今でもある。

 そんな時、思うんだ。異常を訴えている時くらい、身体を大事にしてあげようって。

「俺、この身体にいくつも後遺障害を抱えるようになって、なんか色々と慎重になったような気がするんです」

 俺は後頭部を掻きながら、膝を見つめた。「無理に道路を渡ったりとか、ぎりぎりになってバスに駆け込んだりとか、前はよくやってたけど、今はそういうことをやるのが危ないなって思えるようになって……。右側がよく見えなくなって、かえって自分の身体を大切にできるようになったような」

「……そうか。それなら、いいんだけどね」

 先生も俺みたいに、膝に目線を落とした。

 少しばかりの沈黙が診察室を飲み込む。小さな窓から日の光が燦々と差し込んで、部屋の中の空気はまるで午後の教室みたいだ。あぁ、眠い。ここが病室だったなら、すぐにでもベッドで昼寝できるのにな。

 宿題や課題に追われる外の世界に比べれば、やっぱり病院の中の生活って楽だし、楽しいよ。症状さえなければ、いつまでも快適な病院生活に甘んじていたいくらい。時折とっても懐かしくなるんだ。松山さんに怒られて、室田おばさんにスキンシップされて、愛と一緒に笑っていられた、平穏だった頃の入院生活が。




「──あの」


 俺は顔を上げた。

 切り出すタイミングは今だと思った。先生も俺の声色の変化を感じ取ったのか、目線が空中でぴたりと一致した。

「なんだい」

「そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか。先生も、松山さんも、今まで誰に聞いても答えてくれなかったじゃないですか」

 診察室の空気が、少し色を変えたように感じる。

 先生自身は気付かなかっただろうけど、俺には見えてたよ。先生が白衣の周りに帯びている薄白色の光が、今、俺の言葉を聞いた瞬間に確かに揺らいだのが。

「──愛の容態(こと)、教えてください」

 そこに俺は、だめ押しの言葉を重ねる。

 先生の表情は一瞬のうちに強張って、僅かに青ざめて、それから元のように柔らかくなった。その口から、そうだねと声がこぼれ落ちた。

「入院中も定期検診中も、一度も話していなかったね」

「俺、前に清戸さんから聞きました。『教えないでほしいと本人から要望が来ている』って。だから先生たちも教えてくれないんだろうなって、俺、今日までずっと、我慢してきたんです」

 訴えながら、自殺未遂を起こした後の日々が脳裏を過っていく。気付いたら俺、太ももに指を立てていた。指先の触れる感覚が、もう限界だって叫んでいた。

「もう一年も経つんですよ。ほんの少し、せめて生死だけでもいいから、教えてくれたっていいじゃないですか……」

 俯いた俺の頭の上に、ぽん、と軽い衝撃が乗っかる。

 先生の手だった。

「……悪かったね」

「教えてくれるんですか」

「実は、僕もそろそろ機会を見つけて、君に話すべきことを話したいと思っていたところだった」

 そろそろ、って。それじゃ先生も、最初からいつか俺に事情を話す気でいたってこと?

 先生が立ち上がる。窓を開けて手をかざして、そんなに寒くないな、なんて独り言を言ってる。瞬間、吹き込んだ外の風が冷たくて、俺は思わず身をすくめた。三月は春の入り口だって言うけどさ、やっぱりまだまだ寒いよ……。

「先生?」

 尋ねると、先生は振り返った。

「ちょっと今から、外を歩かないか」




    ◆




 野塩愛という一人の女の子が、俺と離れた後にどういう経緯を送ったのか。俺は今日に至るまで何も聞かされていない。

 ううん、違う。誰に聞いても惚けるばかりで、まるで答えてくれなかった。伏見先生や松山さんのような病院関係者はもちろんのこと、母さんに聞いても、山田たちに聞いても。

 あの手術直前の夢以来ずっと、俺には愛の力が乗り移ったかのように“生きる力”が見えるようになってしまっている。今だって自分が光を帯びているのが分かる。だとしたら愛は、まさか……。ICUの中で何度も怖くなったけど、症状が回復を見せてきて七○五号室に戻った時、俺の名札の隣には変わらず『野塩愛』の名前が入っていた。愛はこの病室に所属したままなんだ、と思った。ますます訳が分からなくなって、騙されているみたいで泣きたくなって、そんな時──いつか清戸さんの口にしていたことを思い出した。

 愛に関することは箝口令が敷かれているんだ。それも、他でもない本人の希望で。

 そうと分かれば、かえって安心した気がしたよ。リハビリ生活が半分を過ぎる頃には、もう俺も愛のことを追求するのを諦めていた。

 その代わり、信じた。

 手術の直前に愛は約束してくれた。必ず良くなって、また隣に戻ってきてくれる──って。少なくともこのままいけば、俺は愛との約束を守れそうだ。健常者ではなくなってしまったけど、再会した時に抱き止められる腕さえあれば、それで十分じゃないかって。

 だから、あとはひたむきに愛を信じていればいいんだと思う。信じているしか、ないんだと思う。

 最初のうちはリハビリがちっとも進まなくて、歩くこともできない自分がたまらなく腹立たしくて、虚しかった。大会で活躍するみんなの背中を見つめるたび、俺はもうあのトラックに立つことができないんだって思って、独りで隠れて泣いた。ちっとも勉強の遅れを取り戻せなくて、視界の障害のために何度も交通事故寸前の危ない目に遭いかけて、時には身体の自由さえ失って……。絶望で目の前が真っ暗になることなんて、珍しくもなかった。

 それでも、いつか愛と再会したいから。

 一緒に乗り越えてきた日々は無駄じゃないって、確かめたいから。

 この胸の奥の想いは幻想なんかじゃないって、叫びたいから。

 ──そうやって決意を込めた拳を握っては、必死に前を向き続けてきたんだ。


 俺は知りたい。愛がどうなったのか、元気に回復しているのかどうか知りたい。……たとえ今すぐには会えなくても、生きているという事実は俺の前向きな感情を補強してくれるって信じてる。

 だけどそれが諸刃の剣であることも、本当は、分かっている。もしも愛が運命に抗えずに命を落としていたとしたら、信念の土台を失った俺はどうなってしまうんだろう。

 分からない。

 分からないけど、それでも真実の扉を叩かずにはいられなかった。




 先生が上着を取りに別室に行っている間に俺もコートを羽織った。行こうか、という先生の言葉に従って、一緒に診療棟を出る。未だに廊下を歩くたびに看護師さんたちから好奇の目を向けられるんだけど、俺ってどんだけ目立ってたの……。いや、目立ってたか。目立ってたよな。

 広い敷地内にはたくさんの木々が立っているけれど、そのほとんどは裸のままだ。新緑の季節はまだまだこれから。少しばかり寒々とした景色の中を、伏見先生と連れ立って歩く。

「こうして敷地内を歩くの、久しぶりじゃないか」

「たぶん久しぶりです。検診で来た時も、わざわざこっちまで自分で来たりはしなかったし」

「そうだろうね。それじゃ、修復完了後の外気舎を見るのも初めてか」

「ああー。確かに、そうかも」

「なかなか黒々とした外見で格好いいんだ、あれは。ただ、中は施錠されて入れなくなってしまったけどね」

「……やっぱ俺たちのせいですよね、それ」

「君たち以外に入る人はあまりいなかったから、いいんじゃないか?」

 先生は笑う。いっぺんに色んな表情が浮かんできて、俺は頭上に目線を逃がした。

 うわ、向こうにすごい数の桜が見える。満開になった桜の林の間に、遊歩道みたいなのが網目上に張り巡らされている。あんな空間があったのか。

「すごいだろう、あの区画」

 先生の声に頷いた。あれは以前、作業療法の一環で患者たちが植樹・整備を行った場所なんだと、先生は指差しながら教えてくれた。

「昔はこの道をリハビリにも使っていたそうだよ。外をうろうろと動き回っているだけでも運動になるし、身体が固くならずにすむし、気分転換にもなる。外気舎といい何といい、この病院は昔からそういうことを大切にしてきたのかもしれないね」

 なるほどなぁ……。

 遠くの桜並木から外した視線を、俺は手前に立つ黒い小屋へと移した。それが、再建された外気舎の建物だった。清瀬市の教育委員会によって新しく看板が設置されて、こうして昼間に見ると説明の中身がちゃんと読める。

 意外と大きくないなって、見上げながら思った。

 こうして外から見上げると天井の高さはそれなりにあるけれど、二人の患者が過ごす場所にしては床の面積が小さい気がする。仲の悪い患者が収容されたら大変だっただろうにな……。それとも重い病の苦しみに向き合うのが精一杯で、そんなことになんて構っていられなかったのかな。

 こうして脳腫瘍を経験した今でも、結核という病の厳しさは俺にはどうしてもまだ、ぴんと来ない。


 と、先生が背後で、言った。

「──やっぱり見るのは初めてかな」

「だと思いますけど……」

 なんでだろうな。確認の言葉をぶつけられると、人間って弱気になる気がする。それとも俺だけ?

俺の声はちょっぴり小さくなった。先生の声は、変わっていなかった。

「壁だけの状態なら、一度、君は見ているんじゃないかと思うけれど」

 ……え?

 いつ? いつ見たっけ? 俺は入院から今日までの日々の記憶を掘り起こした。そんなはずはない、俺にとっての外気舎は夜に建っている姿と、昼間に潰れている姿の二つだけのはずだ。

 って言うか、なんで先生が俺の見たものを言い当てられるんだ?

「覚えていないかな」

 先生は壁に手を触れた。黒い色は陽の光を吸収してくれるって、理科の教科書には書いてある。そのせいか、先生の手付きもまるで丁寧で、優しく見える。

 俺は、ごくんとつばを飲んでいた。

「手術の前夜、君は夢を見ていたはずだ。愛ちゃんがすぐそばにいて、天井のない外気舎の中に横たわっている──そんな、現実離れした夢を見ていたんじゃないか」

 俺の身体を寒気が駆け抜けた。記憶と言葉がぴたりと一致した衝撃と、無関係のはずの先生にそれを言い当てられた衝撃が、ぶつかって電気のような痺れを生んでいた。

 確かにそうだ。そうだったよ。そうだけど先生、

「どこで、それを」

「ネタばらしをすると、君は夢を見ていたんじゃない。現実の世界で外気舎の中にいて、愛ちゃんと会っていたんだよ」

「えっ────」

「そうすることを提案したのは愛ちゃんだ。さらに言えばあの子は、ちょうど一年前の君の手術の決定に関わってもいる」

 先生は淡々とした口調のまま、けれど口にする言葉は片っ端から俺の常識を打ち砕いていこうとする。

 待って、待ってよ。さっきからちっとも理解が追い付かない。俺の知っていることと真逆の話ばかり並べられたって、そんなのすぐに整理できないよ……。

 俺はその場に立ち尽くしたまま、しばらく目を白黒させていた。愛が夢を? 手術を……? 強く吹き付けた春風が足元の砂を巻き上げて、俺と先生の間に薄い膜のような壁を作る。その壁の向こうで、先生は少しも笑ってはいなかった。嘘をついているようには、見えなかった。

「愛ちゃんの過去や身体のことを友慈くんがどこまで聞かされているのか、僕には分からない。だから改めて、今度こそ一から話そうと思う。以前から、本人からも頼まれていたんだ」

 先生の目から、ふっと緊張が消えた。「今の君にはあの子の真実を受け止める覚悟も、それから力もあるはずだと思っているよ。……聞いて、くれるかな」


 春風は止まない。袖口から潜り込んだ風が、不器用な手付きで肌を撫でる。はっきり言って寒い。寒気の原因はたぶん、風だけじゃないだろうと思う。

 でも、その冷たさはやがて静けさに変わって、混乱していた俺の心をそっと軟着陸させてくれる。

 去年、今と同じ場所で先生に覚悟を問われたことを、俺は思い出していた。今にして思えば、あの頃の俺には確かに覚悟がなかったのかもしれない。──ううん、違う。足りなかったのは覚悟じゃなくて、受け止められるだけの余裕か。

 だったら俺、こう言える。

「話してほしいです」

 先生を正面から見据えて、俺は訴えた。

「その代わり、約束してください。もう俺のことを誤魔化したりしないって。……俺、大丈夫だから。どんな事実を告げられたって、動じたりしませんから」

 分かってるよ。本当はそんな決意があるわけじゃないって。でも、その時は、その時だ。

 先生は首肯してくれた。

「約束だ」

 それから入り口の縁石の上に腰掛けて、手招きをしてくれた。長い話になるんだなって勘付いた俺は、素直に応じて隣に座ることにした。

 桜の花びらがゆったりと風に舞っている。ひとひら、ふたひら、地面に落ちた花びらを目で追ってから、先生は静かに口を開いた。


 それは愛の、そして俺が入院している間に起こったことの真実が、長い時間を経てようやく俺の目の前で扉を開いた瞬間だった。










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