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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第四章 君と涙と“Valediction”
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Interlude ──夢から醒めて













 初めて体調不良を覚える、その一日前の夜。

 俺は──夢を見ていた。


 その詳しい内容までも、今も俺は克明に記憶している。どうして覚えているのかは分からない。分からないけど、忘れられないんだ。

 夢の中で独り、まっさらな地面の上に俺は立っていた。不気味な雰囲気にまみれた風景。呆然と立ち尽くす俺の周囲を、数知れないほどたくさんの人間が行き交っていた。みんな、手元の手帳やスマートフォンを眺めたり、隣の人と話したりしながら、そして時にはぶつかり合いながら、俺の周りを自由に歩いていた。……そんな夢、だったかな。

 あの時。俺の心の中に侵食し、食い荒らし、居座って占領しようとした感情があった。

 肌に無数の針を突き刺したみたいな、或いは氷を押し付けられたような冷たい感覚に、それはひどく似ていた。あの正体は、たぶん、寂しさだ──。朝になって目を覚まして、そう結論付けた瞬間、激しい既視感に目が眩みそうになったっけ。

 その時はまさか、数日後に検査入院をする羽目になるだなんて、ましてや脳腫瘍に罹患しているだなんて、まるで想像できるはずもなかったけど。




 腫瘍には『新生物(Neoplasm(ネオプラズム))』という別の名称がある。……以前、そう伏見先生に教わった。

 こんな名前だから紛らわしいけれど、新生物っていう名前の意味は『新しい生物』じゃなく『新しく生まれた物』なんだ。俺みたいな脳腫瘍患者の場合は、頭の中に新しいものが生まれたっていうこと。新生物が生き物なのかどうかは、実ははっきりとは定まっていないらしい。自己増殖能力とか、エネルギー変換能力とか、生き物として認められるためには色んな条件をクリアしなければいけなくて、学者の間で意見がちっとも一致しないんだって聞いた。

 もしも仮に生き物だとしたら、新生物は『原核生物』に分類されるんだそうだ。原核生物っていうのは、他の生物と違って細胞の核に明確な輪郭がない生き物のことで、バクテリアとか細菌の仲間に当たる。……とかなんとか教科書には書いてあった気がする。理科の苦手な俺には調べても調べても、原核生物の特徴はとうとうよく分からなかったけど。

 たったひとつ誰にでも分かる違いがあるとすれば──原核生物には寿命がない、ということかもしれない。

 新生物、つまり腫瘍を構成しているのは、遺伝子が変異してしまって『ガン化』した普通の細胞たちだ。適切に培養すればガン細胞が無期限に生存することは、すでに色んな実験で証明されている。ガン化すると寿命が失われ、細胞は不死になるんだ。自己増殖を繰り返してどんどん仲間を増やしつつ、栄養が供給される限り永遠に生き続け、寄生している主を苦しめる。

 それが、腫瘍。

 それが新生物なんだ。

 ガンと闘うということは、その不死身の敵を相手にするということ。自分の目ですら見ることのできない場所で、自分の身体を痛め付けながら黙々と成長しようとする“何か”に、立ち向かうということ。

 だとすれば、俺たちがやっているのは殺し合いなのかもしれない。

 どっちが長く生き残るかを競った殺し合いに、俺たちは無意識のうちに、無抵抗のままに巻き込まれてしまっているんだろう。しかも相手は不死身で無限に増えるくせに、俺たちは寿命がある上に替えが効かないんだから。どう考えても分が悪いよ、こんなの。


 有史以来、人類は長い歴史の中で必死に工夫を積み重ねて、色んな病気を克服してきた。それでも二千年以上も昔から、腫瘍やガンで亡くなる人は跡を絶たない。腫瘍は言ってみれば、自分の身体の一部が不死身の怪物に化けて、少しずつ身体の中を食いながら成長していく病気だ。完全に防ぐこともできなければ、完全に食い止められる保証もないんだろう。

 つまり、いつ、どこが怪物に化けてもおかしくない危険を抱えながら、人間は生きていることになる。

 ……もっと言うと、それはガンに限った話じゃないのかもしれないよな。いつ怪我をしてもおかしくない。いつ取り返しのつかない失敗をしてもおかしくない。いつ飢えて死んでもおかしくない。どんなに安定した日々を送っていても、そういうリスクがゼロになることなんて本当は、ない。

 そして不幸にも、人間にはそのリスクをリスクと認識できるだけの頭がある。先行きの見えない明日が延々と繰り返されることに気付いているのに、だからって何をどうすることもできない。大地震の予測ができないのと、理屈はおんなじだ。

 脳腫瘍になって、本性を現した新生物との闘いに明け暮れて、俺、ようやく少し分かった気がしたよ。

 俺、夢で見た誰かのように崩れた地面に飲まれて、闇の中へと落ちていく寸前だったんだなって。思ってもみなかった場所から生じたアクシデントに嵌まって、身動きが取れなくなっていたんだなって。

 ついでに言えば、引き上げてくれる手を探すことも、助かる術を考えることも諦めて、ただ、断崖のへりに手をかけてぶら下がっているだけの状態だったんだな、って。


 そして、同じくらい危ない状態に陥っているくせに、それでも俺に手を伸ばしてくれようとした人がいたことを、俺はこれからも忘れないでいられるだろうか。






 ねぇ。

 こんな俺でも、何となく気持ちが分かるようになったよ。

 不死身って苦しいよな。だって、死にたくても死ねないんだもんな。栄養が与えられる限り生き続けてしまう──生き死にを自分で選ぶことのできない、新生物にもしも感情があったなら、そんなことを思うのかな。

 でも、それを誰にも知ってもらえない苦しみは、それよりももっともっと、ずっと大きいんだろうなって。

 独りぼっちでもがくことの怖さと、それから厳しさ。俺の見た夢に隅々まで滲んでいた、あの不気味な雰囲気と光景は、きっとそういうものの象徴だったんだ。そこらじゅうに転落の危険の潜んでいる、先の見えない、おまけに目的地も理想も設定されていない空間。あの夢は俺の未来をそれとなく見せてくれようとしていたのかもしれない。

 だとしたら、どこを歩けば安全か、どこを目指せばいいのか、独りでは決して見つけられない道を『一緒に探そう』と言ってくれたのは。




 殺し合い──ううん、もうこんな言い方はやめる。長生きの競争とでも呼ぼう。だって俺も、それから俺の身体に巣食った腫瘍も、がむしゃらに生き延びようとしていることには何の違いもないんだから。そういうの、生存本能って言うのかな。貪欲に生きようとしている方が、そうでないよりよっぽど生き物らしいよって思う。




 もしも、この長生きの競争を乗り切って、闇の中から這い上り地上に立つことができたなら、そこではどんな景色が見えるんだろう。

 たくさんの人が見えるはずだ。

 たくさんの道が見えるはずだ。

 示された道程はない。ナビゲーションもない。そこで試されているのは、『俺自身がどんな道を選ぼうとしているのか』なんだろうな。そうだよね、きっと。

 そしたら探しに行こう。いつか俺に手を伸ばしてくれて、独りぼっちの冷たい身体を温めてくれようとした、君の姿を。


 それが俺の、力強い、生きる理由(わけ)になると信じて。







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