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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第四章 君と涙と“Valediction”
36/48

Karte-33 天国の門前で





「……じ……? ゆうじ……?」


 俺のことを呼ぶ声がする。


「友慈……?」


 頭が重い。息が苦しい。包み込むような倦怠感のせいで、身体が動かない。


「…………」


 それに、寒い。

 空調の効いていたはずの病室の、何倍も寒い。


「…………友慈」


 ここは……どこ?


 俺は怖々と、目を開けた。

 空が見えた。白い粉を一面に撒いたような星空に、壁のような漆黒の板が四方からせり上がっていた。ちらちらと舞う純白の光は、雪……?

 横たわる俺の脇に、ランタンの光が仄かに揺らめいている。目が潤んでいて、景色がよく見えない。腕を持ち上げてぐいと目元に宛がうと、少し視界がクリアになった。

 嘘だろ。視野の欠損が、なくなってる……。

 唖然とした俺の顔を、誰かが不意に覗き込んだ。




 愛だった。




「……あ……」

 名前を呼ぼうとして、俺は呻き声を上げた。それしか上げられなかった。

 紛れもなく、愛だった。見覚えのないコートを病院服の上に纏った愛は、喫驚の表情を隠せずにいる俺を見て、くす、と笑った。

「……久しぶりだね、友慈」

 聞き慣れた愛の声だった。しかも、友慈と呼んでくれた。“竹丘くん”ではなくて。

 俺、声、出ない。ふとした瞬間に意識がまた飛びそうだ。身体中に拘束具が埋め込まれてるみたいだ。いつもの夢なら、すっと身体が動くのに……。

「いいよ。友慈はそこで、寝転んでていいから」

 俺の苦悶を見越したように、愛は俺の隣に膝をついて座るとそう言った。本当にこれ、夢なのか。そのくらいリアルな姿。口から漏れる白い息が、俺の上でふわりと舞って消えていく。

「ここ、覚えてる?」

 愛は空を見上げた。

「友慈と一緒に通った、あの小屋だよ。ここ、本当は外気舎って言うんだってね。友慈よりずっと長く通ってたのに、私も知らなかった」

 そうか。なんか既視感があるなって思ってたけど、ここ、外気舎なのか……。

 外気舎は確か、再建工事の真っ只中だったような気がする。そこまで再現してるなんて、ほんとリアルな夢だな……。俺は何だか嬉しくなった。

 夢でもいいから、愛に会えた。

 でも、せっかく夢なんだったら、現実の俺を傷めつける痛みや苦しみまで、丁寧に再現してくれる必要なんてなかったのにな……。今の俺には口を無理に歪めて、笑いのような何かを形作るのが精一杯だ。

 そんな俺に、愛の表情は曇り、そしてまた晴れた。

「待ってて」

 言うが早いか愛は俺のお腹に手を当てて、そっと目を閉じる。

 一秒、二秒、三秒……。どうしてだろう、時間が経つにつれて痛みや苦しさが薄まっていく。頭の中を靄のように漂っていた倦怠感が、消えていく……。

「あ……愛……?」

 いま、俺に何をしたの……?

「効いてる?」

「うん……」

「よかった」

 愛はとびきりの笑顔で微笑んでいた。さっきよりも無理をして笑っているように見えるのは、俺の気のせいか。

 まだ事情が分からないけど、やっぱりこれは夢なんだな。愛の顔をしゃんと見ることができて、改めてそう思った。だって、俺を遠ざけて独りの戦いを選んだはずの愛が、ここにいるんだもの。病棟から遥かに離れているはずの外気舎に、また二人きりでいるんだもの。夢でなきゃ説明のつかないことが、こんなにたくさん……。

 と、鼻の頭に雪が落ちてきて、俺は思わず顔をしかめた。愛がふふっと笑う。

「友慈、可愛い」

「……どこが、だよ」

 まだ声は掠れたままだ。どこがと聞かれた愛はきょとんとした後、首を少し傾げてみせる。

「友慈の仕草」

 俺からすれば、愛のその仕草の方が可愛いんだけどな。ああ、まだ俺は愛への想い、忘れずに済んでいたみたい。

 変なの、と呟いた愛は、可笑しそうに口を丸く曲げて、また高い空を見上げた。

 今も雪は落ちてきている。

 それはまるで、あの空で輝く星たちが、俺と愛のいる場所まで降りてこようとしているみたいで、凄く、凄く、綺麗だった。

 『あの高い空で星が輝くみたいに、広い広い地球の中で、私たちの命もぽかぽか燃えて、光っているんだと思うの』──いつかの愛の言葉が、風景の中に重なって、それから融けて、消えていった。


 夢で会えたのは、嬉しいけど。

 俺には分からない。愛の前でどう振る舞えばいいのか、分からない。

 愛は俺の手術のことも、きっと知らないんだろうし。それに何より俺は、あの自殺未遂の夜に愛の心を引き裂いたままだ。

 そうだよ。俺、謝ろうとしてたんだった。これから死ぬんだろうが生きるんだろうが、謝らなければきっと悔いが残るもんな。俺にも、愛にも……。

 でも、いざ口を開きたくても、ニコニコしながら俺を見下ろすばかりの愛を前にした途端、謝罪の言葉も弁解の言葉も頭から吹き飛んでいく。後に残るのは虚無感ばかりだ。そうだった、夢の中で伝えたって、現実に伝わったことにはならないのにな……。


「ごめんね。いきなりこんなところにいて、びっくりしたでしょ」

 愛が口を開いた。

「せっかく外気舎(ここ)にいるんだもん、思い出話でもしよっか。友慈、覚えてる? 初めての夜、ここで二人で自己紹介を交わしたこと」

「……うん」

 思えばもう、あれから一ヶ月半もの時間が経ってるんだ。

「あの頃の私たち、まだお互いの距離感も分かってなくて、おっかなびっくり触れ合ってる感じだったよね。懐かしいなぁ」

 愛の声は甘い。口を飛び出た瞬間、ランタンの光に照らされてすぐに霧散する愛の吐息は、愛の身体がまだ温かいことの何よりの証左だ。

「色んなこと、したよね。ゲームもしたし、写真も撮ったし、他愛のない話で盛り上がったし……」

「……楽しかった」

「うん。楽しかった。私の人生で一番、楽しい時間だったかもしれない」

 でもさ、と愛は声色を変えた。笑顔は浮かべたまま。

「“一番”があったら、あとは落ちるだけなんだね」

 愛は今、笑ってるわけじゃない──。確信めいた思いがした。笑ってるんじゃない。笑ってるような顔を作って、繕ってるんだと。

外気舎(ここ)が崩れ落ちた時も、二人して仲良く巻き込まれたよね。私、あの時はあのまま本当に、死んじゃうのかなって思ったよ」

「…………」

「私ね。あの時からずっと、思ってたことがあるんだ。発作を起こすたびに私は友慈に助けてもらって、壁に潰された時も励ましてもらって、友慈からはいっぱいいっぱい、色んなものを受け取ってきたのに、私は友慈に何もしてあげられてないなって」

「そんな、こと」

「そんなことあるよ。友慈が余命を隠されてたことを知って傷付いてた時、自殺を図ろうとした時……。私、何もしてあげられなかった。友慈のそばに突っ立ってるだけで、支えてあげられなかった」

 “自殺”の語が、とりわけ大きな衝撃を抱えて、俺の心臓を突き抜けていく。

 バカ、何してんだよ俺。あの自殺のことで謝らなきゃいけないのは俺の方なのに、なんで俺が謝られてるんだよ! 焦りに背中を蹴飛ばされて、俺は話に割り込もうと上半身を起こした。

「愛──」

 すると愛が、肩を押して戻そうとした。

 びっくりした。愛の手、冷たい。生きてることを疑いたくなるほど冷たい。いくら夢だからって、こんなに……。

「友慈は今は、聞き役。ねっ」

 俺をまた寝かしてしまうと、唇に人差し指を立てて愛は微笑んだ。眉が少し、引きつっていた。愛らしくもない強引さに、俺はまた、戸惑うばかりだった。

「……友慈には、謝らなきゃいけないことがあるの。私、友慈が自殺しようとしてからずっと、友慈と距離を置こうとしてた。大切な人が目の前で死のうとするのを止められなくて、私、すごくすごく、ショックだったから……。心もぐちゃぐちゃだったし、何をする気力も浮かばなくて、こんなんじゃ友慈の隣にいられないって思った。だから、遠ざけるしかなかった。ごめん、ごめんね」

 そんな……。そんな言い方、しないでよ。それじゃ愛が悪いみたいじゃんか。

 ランタンの光に揺れる愛の目元が、不自然に歪んでいた。それでも愛は、微笑むことをやめようとしない。

「だから、私、ひとりぼっちで夜を過ごしながら、ずっと考えてた。私の素直な気持ちって、どんな姿かたちをしてたんだろうって」

「すがた……かたち?」

「友慈のこと、どう思ってたのかなぁって言うこと。そしたらね、考えるまでもなく、すぐに分かっちゃうんだってことに気付いた」

 どういうこと……?

「初めて会った時、私が友慈に抱いていたのは好奇心と、怖さだった。どうせまた、前の人たちみたいに仲良くなることもできないまま、前の人たちみたいにここを離れて行っちゃうんだろうな……って思って」

 俺も、そうだろうなと思ってた。話を遮りたくなかったから声には出さなかったけど、俺は頷いて先を促す。

「でも、友慈は私のことを嫌わないでくれた。見捨てないでくれた。雪の下に埋もれそうな私の手、いつか握ってくれたよね。誰にも受け入れてもらえなかった私の秘密、受け止めてくれたよね。私、忘れてないよ」

「俺……無我夢中だったから……」

「その無我夢中が、嬉しかったんだよ」

 見てよ、と愛は壁を指差した。あの夜、愛に向かって倒れてきた木製の壁が、今は降り積もった雪の中にしんとして立っている。

 こうして寝転びながら見ると、壁は大きい。大きいことは、安心に繋がっている気がする。──かつてここで寝泊まりしていた傷痍軍人の人たちも、同じ感想を抱いていたんだろうか。

 こんこん、と愛は壁をノックした。

「この壁を見ると、友慈の優しさを思い出せるの。ここはね、私にとっては、怖い記憶と優しい記憶が手を繋いで並んでいる場所なんだよ」

「そっか……」

「七○五号室も、ここも、どこもかしこも。友慈と一緒に通った場所には、今も優しい記憶が漂ってる。私にとって友慈は、優しくしてくれる人。こんな私でも、大切に思ってくれる人。……これからもずっとずっと、一緒にいてほしい人」


 え、と俺は思わず問い返しそうになった。愛の顔が紅潮しているのを見て、驚きがさらに加速した。

 え。ちょっと、待って。

 ずっとずっと一緒にいてほしい人、って。

 いま身体を起こしたら、愛は怒るかな。それでもいいから近くで見たい。今の言葉の意味、聞かせてほしい……。

 そう思って腹に力を入れようとした瞬間。愛の頬で、何かが光った。


「──でもね、そこで私、現実に引き戻された。友慈が自殺を図って、私がそれを止められなかった、冷たい現実に」

「愛……」

「考えてみれば私、非力な上に、他人から“生きる力”を奪って生き延びてるような人間だった。そんな私が友慈と一緒にいることを願った結果が、今なんだなって……。結局、私は誰も幸せにできなかったの。家族のいない私に優しくしてくれた人たちに、私は仇を返すことしかできなかった……。みんなを不幸せにすることしか……できなかった」

 そこまで言ってしまうと、愛はまた笑った。

 違う。こんなのを笑うなんて呼べない。だって愛、笑いながら泣いてるんだもの。もうさっきからずっと、泣いてるんだもの。

「当たり前だよね……。生まれた瞬間からみんなのお荷物だった私に、誰かを幸せになんかしてあげられるはずなかったのに……。私、自惚れてたんだね」

「…………」

「あれ、おかしいな……。私、本当はもっと違うこと話すつもりで、この場所に友慈を呼んだつもりだったのに……。こんな情けない話、するはずじゃなかったのになぁ……」

 俺も何だか泣きたくなってきた。愛の苦しさが分かってしまう気持ちと、まだ混乱したままの気持ちが、心の中でひどく競ってるんだ。お願いだよ愛、そんなに泣かないでよ。愛が悲しそうにしてると、俺だって……。

 雪が激しくなる。白っぽくなった視界の中へ、周りの壁は今にも上から溶け込んでいってしまいそうだった。愛の顔も、俺の身体も、よく見えない。また潤み始めた目元を拭って、俺は目を凝らそうとした。

 瞬間、口に出しかけていた言葉が、何もかもいっぺんに吹き飛んだ。


 愛の身体が、白くぼんやりと光って見える。

 俺もだ。──いや、俺の方はほとんど何も光ってない。いつかハレーションカメラを介して覗いた腕のように、俺は真っ暗だ……。


 愛。

 まさか、これ。

 差し伸べようとした手を、愛は両の手でふんわりと包んだ。

 そこにまた、一粒の涙が弾けて消えた。




「『お前のこと、好きだった』」


 いつか俺が口にした言葉を、愛はそのまま柔らかい吐息に包んで声に出した。

「そう、言ってくれたよね」

 うん、言ったよ……。不意に込み上げそうになる苦しさをこらえて、俺は頷いた。額が冷たい空気を押し退ける感覚が、以前よりもずっとはっきりと身に染みた。

 ああ、あんな状況だったのに覚えていてくれたんだ、あの言葉……。感慨に浸りかけている俺を愛はじっと見つめて、それから二、三度とまばたきをして。

 桃色の唇を開いた。

「私もだよ」


 『私にとって友慈は、優しくしてくれる人。こんな私でも、大切に思ってくれる人。……これからもずっとずっと、一緒にいてほしい人』──その瞬間、さっき愛の口にしたあの言葉が、頭の中で強烈に甦った。

 その上に、さらに別の言葉が重なった。

「私も友慈のこと、好きだよ。大好き」

 刹那、瞳に映る愛の姿が、前より遥かに鮮明になった。涙を人差し指で拭った愛の顔はひどく上気していて、──俺があんなにも好きだったあの笑みが、口の端から額に至るまで戻ってきている。

 俺は結局、上半身を起こしてしまっていた。愛からのアクションは、なかった。


 嘘なんかじゃ、ない?

 聞き間違えでもないの?

 だって愛は、俺のことを……。そこまで考えたところで、俺はまたしても思い出した。そこから先に続く答えを、俺は何も知らないこと。そうだよ、恋愛的な意味で愛が俺のことをどう思ってくれているのかを、俺はまだ一度も聞いたことがなかったんだった。

 それでもまだ、すんなりと受け止めるのは怖くて、自信がなくて。

 俺は聞き返した。

「いつ……から?」

「ずっと。ずうっと」

 そんな……。それじゃ、俺が気づけなかっただけなのか。

「本当…………?」

「本当、だもん」

 愛は照れていた、と思う。


「はは……」


 俺、笑ってた。口元だけで、笑っていた。

 今の今まで気付かなかったよ。俺と愛、両想いになれたんだ。俺の精一杯の、一世一代のこの想い、愛は受け入れてくれていたんだ。

 どうしようもなく嬉しかったから、笑った。笑みが口元より先に広がれなかったのは……切なかった、から。

「嬉しいけどさ」

 俺は呻いた。愛の表情が、ゆらりと揺れたように見えた。

「これ、夢なんだもんな……。目が覚めて現実に引き戻されたら、俺、やっぱり愛に怖がられてるんだよな。遠ざけられてるんだよな……。なんか余計に、切ないよ」

 ああ、くそ。気持ちを言葉に置き換えたら、よけいに感情が昂って……。膨らんだ目尻から押し出されたように、一粒の涙が流れ落ちていった。

 しょうがないじゃん……。愛と両想いでいられるのは、この夢から覚めるまでのほんの僅かな時間だけなんだから……。その僅かな時間が刻一刻と過ぎていくのが、胸を打ち鳴らす鼓動の響きの中に感じられて、苦しい。

 てへ、と愛は小さな笑い声を上げた。

「そうだよ。これは、夢」

 そうして膝を折ったかと思うと、俺の両脇に腕を伸ばして。視線の高さが、ぐっと近くなって。

「誰が何と言ったって、夢なんだもん」

 コートの袖から覗くその細い腕に、力を込めた。


 俺は、愛に力一杯、抱き締められていた。


 あれ。変だな……。

 確かに夢なんだよな。

 なのにどうして、背中に食い込むほどに強い力を感じるんだろう。

 夢の中では何も感じないはずなのに。だってそうだろ、前に夢の中で頬をつねった時、痛みなんて……。

 今は紛れもなく、感じられる。押し当てられた胸の膨らみも、しがみつくように絡められた腕の存在も、耳元で荒くなっていく彼女の息遣いも。粉雪の舞う空の上へ、ふわり、二人分の息が作った雲が浮かんで、どこか遠くへ遠くへ昇っていくのが見えた。

 生まれて初めて抱き締められた。母さんや父さん以外の、血の繋がっていない誰かに。ふっと気を緩めた瞬間、気張って保っていたはずの意識が簡単に吹き飛んでしまいそうになるほど、愛の身体は温かかった。

「愛…………」

「ね、夢でしょ」

 愛の声はまた、震えていた。

「ぜんぶ、夢だよ。だけどこれだけは信じてほしいな。友慈が私への気持ちを忘れないでいてくれる限り、私のこの想いも永遠に、本物であり続けるんだってこと。神様に誓って、永遠なんだってこと……」

 愛はまた、泣いていた。


 ごめん、愛。

 分かったよ。

 信じる。

 愛がそこまでして伝えてくれようとした想いを、疑ったり、信じないで捨てることなんか、俺には……できないよ。


 ああもう、こういう時に限って、頭が真っ白で何も言葉が浮かばないんだから……。くすんくすんと鼻を鳴らす愛の身体に、俺がそうされたようにそっと腕を回して、俺は必死に考えた。

 今、俺の胸の中を満たしているこの感情を、どんな言葉ならきちんと言い表すことができるかな、って。

 そうしたら見つかった。ほんの単純な、たった平仮名五文字の言葉で、俺の心を置き換えられることに気づいたんだ。

 舞い降りてきた冷気が、俺たちの間に僅かに生じていた空間を埋めていく。その冷気に舌を晒したら、気のせいか声の通りが良くなったように思えて、俺は小さく口を開けた。

「愛」

 うん、と愛が聞き返してくれる。

 『大好き』よりもよっぽどありふれているはずなのに、口に出すのって難しいなぁ……。一拍、二拍、自然と間が空いて、愛がもう一度、尋ねる。

「……友慈?」

「ありがとう」

 ああ、やっと言えた。

 言った途端に思い出した。これ、俺が自殺したあの夜に、最後に会いに投げかけた言葉だったんだってこと。


 ありがとう。

 これ以上に、俺が愛にかけるのに相応しい言葉なんて、きっと一つもないと思った。

 ありがとうを言わなきゃいけないのは、俺の方だよ。同じ病室の仲間として、俺を受け入れてくれてありがとう。一緒に過ごしてくれて、気を許してくれてありがとう。頼ってくれて、俺の頼りになってくれて、ありがとう。あんな滅茶苦茶なタイミングで口にした告白の言葉と想いを、忘れないでいてくれてありがとう。

 こんな俺のこと、好きになってくれて、ありがとう。

 そして、伝えようとしてくれて、ありがとう。

 愛。もう言わなくたって分かってるよ。これは愛が作ってくれた、現実そっくりな夢なんだよな。俺が本物だって信じれば、ここで起きたことはぜんぶ、本物になるんだよな。

 だったら俺は信じるよ。だって、愛を好きになった自分の心のこと、俺は信じられるから。


 俺は愛のことを、愛は俺のことを抱き締めたまま、俺たちは降り続く粉雪の中でしばらく動かなかった。

 何の音も聞こえなかった。あれ、もしかしてまた、感覚の欠損が始まったのかな……。不安を覚えた刹那、耳元で愛の声がした。

「私の今の気持ち、分かる?」

「……“泣きたい”?」

「ずるいよ、その答え」

 鼻を啜った愛が、笑う。当たりだったみたいだ。母親にしがみつく子どもみたいに、愛は俺を締め付ける腕の力を強くした。

「嬉しいよ。すごく。すっごく」

「そっか……」

「私たち、カレカノになれたのかな」

「なれたんじゃ、ないかな」

 確証はないけどそう答えた。だって俺、この年になって脳腫瘍を患うまで、恋愛経験なんて何もなかったもん……。

 だけど、こうやって死の瀬戸際で、天国の門前で恋が叶うのなら、灰色の十四年間も悪くなかったのかもしれない。

 少しずつ感情が前向きになっていくのが感じられてきて、俺も愛に引けを取らないくらい、嬉しかった。それに釣られるように、どうしてかな。身体もぽかぽかと芯の方から温まっていくような感触がする。

 くすっ、と愛が笑った。俺も真似して、笑ってみた。前みたいに自然な笑い方ができた気がして、それがまた嬉しくて。

「好きだよ、友慈」

「好きだよ、愛」

 小声で囁きあって、また笑った。


 と。

 愛は俺の言葉が合図だったかのように、俺に絡めていた腕を離してしまった。


「あ…………」

 慌てた俺の声は、周囲を取り巻く漆黒の壁に吸い込まれて、消えた。それとも吸い込んだのは壁じゃなくて、宙を舞い落ちる雪のつぼみだったかもしれない。

 冷気が一気に周りを取り囲んで、そうだ、と思い出す。寒いわけだよな。俺たち、こんな真夜中に屋根のない場所にいるんだもんな。いつか同じ環境に身を置いた時なんて、凍傷や凍死さえ覚悟したくらいだし……。

 その静かな寒さの中で、相変わらず膝立ちの姿勢のまま、愛は俺のことを見つめている。俺は思わず、聞いた。

「寒くないの?」

「うん。私は、大丈夫」

 嘘つけ。声が震えてるぞ。もう一度と思って俺が腕を伸ばすと、愛はそこから一歩、引いた。

 なんで……?


 暗闇の中に浮かび上がった愛の笑顔には、一筋か二筋、夜の色をした影が差していた。


「聞いたよ。友慈、手術を受ける気になってくれたんだってね」

 あんまり唐突だったから、初めは何の話か分からなかった。うん、と首を縦に振った。

 そっか。愛も先生から聞いてたんだな。余命の期限を前にして、俺が腹をくくったこと。

「私ね、ほっとしたんだよ。友慈がまだ生きることを諦めないでいてくれるんだな、って思ったから」

「母さんみたいなこと……言うんだな」

「友慈は私の大切な人だもん」

 さらっと口にした愛は、だからね、と言葉を繋げた。その時になって、気付いた。愛の声が心なしか少し掠れて、聞き取りづらくなっていることに。

「私も頑張ることにしたよ。今まで私、ずっと受け身のままだった。私が治ったって誰にも喜ばれないと思ってたし、病気を治すのを頑張る理由なんて、どこにもなかった。だけど今は、友慈がいる。友慈と二人で元気になって、一緒に外の世界へ出てみたい──だから私、頑張ろうって思えたの」

 そっか……。伏見先生の言葉を懐かしく思いながら、俺は頷いたけれど。

「でもね」

 愛が口にしたのは、逆接の接続詞だった。

「冷静になるまでもなく、思い出したんだ。友慈も、私も、ボロボロなんだってこと……。ずっと怖くて言えなかったけど、私も元は友慈と同じ、脳腫瘍だった。それが今は身体のあちこちに広がって、痛いの。苦しいの。今まで誤魔化しながらやり過ごして来られた苦痛が、どっと押し寄せてきて……」

「愛……?」

「当たり前だよね、だって私も友慈も末期ガンの、しかもとびきり重篤の患者なんだもん。もしかしたら、万に一つくらい有り得ちゃうのかもしれない。私か友慈のどちらかが助からなくて、私たち、これで離れ離れになっちゃうのかもしれない……って」

 おい、待てよ。やめろよ。そんな想像をするのには、幾らなんでも──。そう叫びたくて、でも叫べなかった。同じような想像を俺もしたことがあったのを、思い出してしまった。

「……だからって、どうしたんだよ」

 俺は尋ねた。乾燥した冬の空気のせいか、口がカラカラに乾いて、尋ねるのが恐ろしかった。

 愛はここに至っても、あの微笑みを崩してはいなかった。

「私の“生きる力”を、ありったけ友慈に流し込んでみた」

 えっ……。

 まさか、と思った。それじゃ最初に意識が戻った直後、俺の身体から痛みが消えたのは。さっきから身体がぽかぽかと温かいのは。

「考えてみたら簡単なことだったね。私が他の誰かから“生きる力”を貰えるなら、それを私が誰かにあげることだってできるはずだもん。ましてや、その相手は友慈なんだから。さっきから寒さとか痛み、そんなに感じてないでしょ?」

 愛の言う通りだった。愛は微笑んでこそいるけれど、その額には目に見えないほどの汗が浮かんでいる。まるで、朝の疼痛に懸命に耐えている俺みたいに……。

 ──なんてことをしやがったんだ!

「バカっ……!」

 俺は愛に掴みかかるようにして、その小さな身体を抱き締めた。痛々しいほどの鼓動が、生命のタイムリミットを告げるカウントダウンが、胸をじかに伝って俺の心に響き渡る。自分の腕と愛の腕が重なって見えて、明らかに明るい光を放っていたのはやっぱり、俺の方だ──。

「どうやって!? どうやったら俺も、それを……!」

「心配、しないで」

 愛はそれでも笑みを崩さない。ああ、もういい。頼むから無理なんてしないで。そうやって無理に笑うたび、いのちが削られていくのかもしれないんだぞ……っ。

「私は、大丈夫。だって私は、あの“余命破りの野塩愛”だよ……?」

 愛はそう言って、俺をそっとまた、寝かせる。そうして覆い被さるように、両手をついて俺の顔を覗き込んだ。

「今までだって私、色んな人の“生きる力”をもらって、生き続けてきた。だから今度も、大丈夫。意地でも生き延びて、手術を乗り越えた友慈の隣にまた、戻ってきてみせるから」

 俺は泣きたくなった。素直な気持ちで愛の言葉を受け止めようとすればするほど、その言葉は愛の前に立ち塞がる残酷な運命の裏打ちのようにしか聞こえなかったんだ。それとも、そんな風に聞こえる俺の方がねじ曲がってるのか。悔しい。なんでかな、悔しいよ……。

「友慈は、強いから。“生きる力”があれば必ず、手術を乗り切れる。私が保証するよ。……だから、友慈も、信じてほしいな。私たち、ぜったいに良くなって、また、会えるん、だって」

 愛の声が、徐々に途切れ途切れになっていく。

 そして堰が決壊するのも、愛の方が早かったみたいだった。目頭で膨らんだ水滴が、みるみるうちに丸く大きくなって、ぴちょんと俺の頬で跳ねた。

「愛…………」

 精一杯の思いを込めて、俺は愛を睨み付けた。溢れた涙が耳を掠めて、俺の顔を駆け降りていく。

「そんなことのために……っ。俺、そんなことしないでも、ちゃんと前、向いて……」

「仕方、ないもん。百パーセントの確実なんて、ないんだから」

 その『百パーセントの確実』に身を委ねておいて、どの口が言うつもりだよ……。そんなことをして、もし俺だけが助かったりしたら、俺、いったいどうしたら……。

 そんな俺の無言の叫びを、愛は知っていた。

「私だけは、百パーセント、あるんだよ。でなきゃ、今ここに私、生きていないんだから」

 畳み掛けるように言った愛は、少しずつ顔に滲み始めていた苦痛の色を、満面の笑みで一気にぐしゃりと踏み潰した。

 その顔が不意に、近付いて。

 愛の柔らかな桃色の唇に、俺は自分の唇に触れられていた。

 じんわりと広がった無味の感触が、身体中に通電したような痺れを伝播させていくのが感じられた。次いで、甘い香りと共に唇の間に触れた舌先が、寒さで固まりつつあった俺の舌をそっと融かして、ほぐしていく。

 ああ。俺、キス──されたんだ。

 だったら、俺だって。痺れて動かなくなっていく身体を必死に叱咤して、俺も唇を押し付けた。キスの正しいやり方なんてまるで知らなかったのに、何をすればいいのかは不思議と分かっていく。

 ああ……何て言えばいいんだろう。

 あったかい。

 本物のキスは、俺があの日の夢に見たような怖いものでも、まして気持ち悪いものでもなくて。もっともっと温かくて、心地よくて、幸せな気分がどこからか流れ込んできて。

 愛が唇を離すまで、しんと静まり返った世界の中心で、俺と愛は初めてのそれを味わい続けた。


「約束だよ、友慈」

 愛は弱々しく、微笑んだ。

「いつか必ず元気な身体になって再会して、さっきのキスの続き、しようね」


 風に煽られて塔が傾くように、その瞬間、意識がゆっくりと暗闇の中へ沈み始めた。

 そんな。駄目だ。このままじゃ俺、また意識を失って……。さっきのキスで脱力しきっていた俺の身体は、ぐったりと土の上に横たわったまま、もうちっとも動いてくれようとはしない。

「嫌、だ」

 喘ぐように俺は喚いた。

「もし……俺が助からなかったら、これが、もう……」

「助かるよ。ぜったい、助かる」

「そんな……どうして……」

「私が、信じてるから」

 ぼやけていく視界が、愛の姿を捉えた。愛も俺と同じように、涙をこらえているみたいな顔をしながら、口の端だけで何とか表情を保っていた。

 信じてるから。

 その声が脳の内側で反響して、そうか、と思った。

 愛だって本当は、確証なんてないのかもしれないんだ。それでも俺の前では前を向くしかないから、精一杯の強がりを見せようとして……。

 だったら俺も、その強がりに応えなきゃ。そう思った。

 だって俺たち、そういう関係だったもんな。お互いでお互いを支えてる、補完しあって命を繋いでいく、特別な関係。

 よかった、表情筋だけはまだ緩んでいなかった。少しずつ痛みや苦しみが節々から蘇っていくのを感じながら、残された力を振り絞って、俺も笑った。きちんと笑えている自信を、今だけは持てると思った。

「愛」

 うん、と愛が言った。

「約束……だから、な」

 うん、と愛は言った。間違いなく。

「また、会う、約束……」

 ああ、もう無理だ。じわじわと浸透しつつある頭痛の海の中へ、意識が、溺れていく。

 せめて最後に何か、伝えたい。どうしよう。何がいいか、何だったら俺の気持ち、後悔をあとに残すことなく伝えられるか……。その時、ついさっき同じ悩みに出くわした時に導き出したあの答えが、もう一度頭の中を過った。


「ありがと、う────」




 俺は、多分、ちゃんと最後に伝えることができたんだろう。

 でなきゃ、最後の最後に目に焼き付いた愛の顔が、綻んでいるはずがない。

 涙が頬を叩く感覚が、最後の最後まで残っているはずがない。

 きっと大丈夫だ。こういう時、何だかんだ言って俺、陸上の大会でも手術でも、いつも何かをやり遂げてこられたもんな。そういう意味では俺、自分のことを確かに信じられるよ。

 そして、愛への想いの在処も、一度は見失いかけた存在そのものだって、同じように──信じていられる。






 激しく粉雪の舞う夜が、どこまでも無限に広がる静寂の中を、足を早めながら過ぎていった。




 それっきり。

 俺はもう、目を覚ますことはなかった。













──第五章に続きます。

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