Karte-32 藻掻きと望み
アメリカ合衆国のトップレベル校の一つ・カリフォルニア大学ロサンゼルス校の医学大学院に勤務するM先生が、俺の治療を担当するのだという。名前は本人希望で伏せられていると、伏見先生は話していた。
なぜ、そんなすごいところの先生が俺に関心を持ってくれたんだろう。ともかく信じるしかないから、俺は言われた通りに治療の準備に入った。
治療は二段階だ。まず、開頭手術で脳腫瘍の内部に注射を打ち、腫瘍細胞の免疫への攻撃を妨害する特殊なガン抗体を投入。これによって最重要目標の脳腫瘍の進行を大幅に送らせ、その間に免疫チェックポイント阻害剤の投与で転移したガンを迎撃する。免疫には効果を抑制されてしまう“チェックポイント”と呼ばれる機能があって、この機能を妨害することで免疫を活性化させるのが目的だ。それ以外のものも含めて数パターンの免疫療法を複合させ、抗がん剤治療と平行して行う。免疫治療の問題点の一つだった即効性と確実性を、開頭手術と抗がん剤との併用で克服する作戦なんだそうだ。
もっとも説明を受けた俺自身、もう意識があんまりはっきりしていない有り様で、正直に言って何がどう効果的なのかさっぱり分からなかった。俺にとっては目の前で起こっていることの方が怖いんだ。視界が急に変な形に狭まった時は、心底ぞっとした。ついに来たかと思った。視野の欠損──専門用語では、そう呼ばれるみたいだ。
手術の準備が始まった。脳腫瘍の正確な情報を最低限でも手に入れるために、症状の落ち着いている時間帯を狙ってCTスキャンが撮影された。心電図と動脈血酸素飽和度を測定するベッドサイドモニターの数値確認は、以前よりもさらに高頻度になった。視力・視野の検査や、副腎皮質ホルモン剤の投与も行われた。最初の手術でも投与されたこの副腎皮質ホルモン──別名ステロイドは、炎症を抑えたり糖分の代謝や調節を担っている、手術時には欠かせないと言われる物質なんだとか。
刻一刻と悪化の一途を辿る病状を上手くやり過ごしながら、必要な準備をこなす。俺も大変かもしれないけど、細心の注意を払わなきゃならない周りの人たちはもっと大変だったに違いない。
大変と言えば、母さんもそうだ。自殺未遂の日以来、母さんは滞在していられる限りの時間、この病院にいてくれるようになったそうだ。もちろん、何かがあればすぐに駆け付けられるように。最初からこうすべきだったんだと、母さんは涙ぐみながら言っていた。父さんも極力会社の休みを取って、この病院に来てくれている。
母さんと父さん以外の人の面会は許可されなかった。けど、進展があったことを母さんは部活の監督に話したらしい。監督や先輩たち、そして同学年のみんなは、頑張れって伝えてくださいと母さんに申し出てくれたって聞いた。
どうしてかな……。治療をすると決めた瞬間、世界が変わった気がした。
いや、違う。何も変わってなどいなかった。
俺を取り巻く世界はまだこんなにも、生きることを一度は放棄した俺に優しくしてくれていたんだ。
◆
三月十八日、午前八時。いよいよ治療の第一段階、俺にとっては二度目の開頭手術が行われる。
その十八日を前日に控えた、十七日の夕方。最終確認と称して母さんと俺は、伏見先生の話を聞いていた。
「準備は済みました」
先生はきっぱりと言い切った。先生のこういうところ、俺は好き。
「あとは天命を待ちましょう。手術に当たっては僕が共に執刀を行いますので、ご安心を」
「私たちにできるのは、信じることだけね……」
母さんも穏やかな口調で呟いた。
思い出すなぁ、前の手術の時の母さん。受ける本人の俺よりおろおろしてさ……。
「変わった……ね」
細い声でそう言うと、母さんは照れたように笑った。
「大事な息子が命のやり取りをするのに、母親がしっかりしていないでどうするのよ」
よく言うよ。ってか、命のやり取りって何だよ。俺がヤクザか何かみたいじゃないか。
「現時点での調子は良好です。よほどのことがなければこのまま明日、手術を断行します。──いいね、友慈くん」
「はい」
俺は首を縦に振った。たったこれだけの動作も、今は苦しい。実は今朝から左目も三分の一くらい、視野がなくなっているんだ。二人がいてくれなかったら発狂していたかもしれない。目に見える形で自分の身体が壊れていくのを感じるのは、そのくらい、恐い……。
だけど、その欠けた視野で眺める限り、母さんも、先生も、微笑んでいる。
「あんたが決断してくれて、お母さん、本当に嬉しかったよ」
母さんは声を震わせながら、布団の下の俺の手を握り締めた。布団から伝わる温もりが、今はもう、気持ちよかった。
「どうせ死ぬんだから──あんたは前、生きるのを諦める理由をそう語ってた。でも今は同じ言葉を、治療を受ける理由にしてくれてる。あんたは立派に、前を向いたんだね……」
やめろよ母さん、俺、そんな立派なんじゃないよ。いつもの俺に戻ろうとした結果、こうなっただけなんだから。もっともいくらそう思っても、声が出ないことには伝わらないわけで。俺は曖昧に笑ってみせた。
笑いながら、思い返していた。
前回、手術を受けたのが二月十七日。あれからもう一ヶ月が経過しようとしているんだ。そして一ヶ月と言えば──前回の手術直後に俺に下された余命の、期限。
この治療が不発に終われば、俺はもう、駄目なんだろう。
目を見開いていたかった。母さんの顔を、それから伏見先生の顔を、もっとよく見ておきたい。最悪の結果が立ちはだかっているのだとしても、そうしておけば少し……少しくらい、俺もちゃんと向き合える気がして。
時計を見た先生が、そろそろ引き上げましょう、と口にした。ああっ、余計なことを……。
「友慈くんはもう休んだ方がいい。手術は体力を使うからね」
「また、明日ね」
口々に言いながら、母さんと先生は病室を出ていってしまおうとする。
ま、待ってよ。俺まだそこまで心の準備が整ってないよ。そう訴えようとしても、口をつくのは咳込む声ばかりだ。
俺がこんなに焦るのは、最近の俺が朝は意識を失っているばっかりだから。これが人生最後のチャンスになるか、それとも重病人としての最後のチャンスで済むかどうかは、まだ誰にも分からないのに……。
そんな俺の願いも、ついに届くことはなくて。
「それじゃ、また明日……ね」
母さんは最後にそう告げて、でも後ろ髪を引かれるみたいに何度も俺のことを振り返りながら、先生に伴われて病室を後にしてしまったのだった。
もう、何度目だろう。
ひとりぼっちの病室。
誰の声も聞こえない孤独。
真っ暗闇の中で、ひたすら脈を打ち続ける心電図の同期音。
電気が消える時間が来ても、俺はじっと天井を見つめていた。そうしているとそこに、じわりと黒い染みのような紋様が浮かび上がった。紋様はくねりながら自在に形を変えて、少しずつ、少しずつ大きくなっていく。
俺にはその姿は、懸命に生きようともがいている何かのように見えた。まだ本当の姿を見たことのない、『寄生主』のはずの俺のことを内側から蝕もうとしている『新生物』は、もしかすると、あんな姿をしているんだろうか。
或いは……ついさっきまでの俺も、あんな感じだったのかもしれないよな。生きる意味も、理由も見当たらないのに、ただ意地だけで命と向き合って、それを繋いでいく……。
明日、俺は死ぬのかな。
それとも、生きるのかな。
俺……怖かった。この期に及んでまだ、怖かった。
外気舎が崩れ落ちたあの時、考えていたことが思い出された。人は転んだ痛みには馴れられるけれど、転んで怪我をする瞬間の恐怖に馴れることはできない──。ましてや俺なんて、手術はまだ二回目に過ぎないのに。
失敗とか、あるのかな。
死ぬ瞬間って、痛いかな……。
こんな時、隣に愛がいてくれたら。『手術なんて夢を見てるようなものだから怖くないよ』なんて、よく分からない──でも的確に本質を突いたアドバイス、してくれたのかな。
愛には、言いたいこと、伝えたかったこと、まだたくさんあったのに。自分でチャンスを手放しておいて後悔しながら、でももう何もかも届かないまま、俺は手術に向かう。
やっぱり手術、怖いよ。決断するのは簡単だったけど、すごく……怖い。こんなんだから俺、ヤツに魅入られて、付け入れられるんだな……。
それに、生き延びることができたとしたって。
俺は何を目標に生きればいい?
部活の夢も、愛も失って、今の俺に残されてるものって……何だろう?
俺、誰になればいい? 何を“生きる理由”にすればいい? 誰と共に、生きていけばいい……?
「…………」
機械の呻く声と、ざわめきにも似た静寂に包まれた孤独な病室の中で、気付いたらまた……涙を流していた。
刹那。
ふっ、と誰かがロウソクの火を吹き消したように、辺りの風景が暗転して。
突き落とされたみたいな重力感が、俺をどこかへ連れ去った。




