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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第四章 君と涙と“Valediction”
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Karte-31 自分らしさって。



 目を醒ましたのは、夕方だった。どうやら俺はずっと、意識を失っていたらしい。

 深刻な意識障害。──俺のような末期ガンの患者にとってそれは、頭蓋内圧亢進症状が最終段階に入ってきたことを意味する。しかも、先生が言うには意識障害を起こしていた間、俺は足や手に痙攣まで起こしていたらしい。

 今だって意識は呆けたままだ。痛みも、苦しさも、こうなってしまうとそんなに苦痛には感じなくなってくる。こんなんじゃ俺、自分が死んだことにも気付かないんじゃないかな。冗談めかして言ってみたけど、先生も、松山さんも、ちっとも笑ってくれなかった。きっと声が掠れすぎて聴こえなかったんだと思った。

 午前中からずっと来ている母さんは、今は別室で待機しているんだそうだ。どうしてそんなことをしてるんですか、なんて聞き返そうとした俺の目を、伏見先生は真っ直ぐに見つめてきた。

「実は、提案があるんだ」

「……何、ですか」

「新たな治療方法を試してみようと思う」

 なんで、今さら。もう俺はこんな状態なのに。

 息苦しくて口には出せなかったけれど、俺の気持ちは先生に伝わったみたいだった。俺の隣に椅子を置いて腰掛けている先生の背中は、丸い。

「抗がん剤治療への悪影響や副作用といったものは、一切懸念する必要がない。極めて安全な治療法だそうだ。今、アメリカの著名な医師が来日しているんだが、その彼に執刀を頼もうと思っている」

「何を、するんですか」

「端的に言えば、君の免疫力を大幅に引き上げる」

 なんだ、何かと思えば免疫治療か……。前にも説明があったから、もう俺にはそれ以上の話は必要ないや。そう思って、小さく頷いた。


 先生が以前、ガンは小さな生物だと言っていた。ガンは元々、人の細胞が悪性に変異したものが極度に増殖・肥大したもの。そいつらの及ぼす影響がやがて病変として現れることで、ガンは病気になる(・・・・・)んだ。

 でも、だからってガン細胞の発生が異常なわけじゃない。普通に暮らせている健常者であっても、ガン細胞は一日あたり数千個以上も体内で生み出されている。それでも多くの人がガンにならないのは、そうして生まれたガン細胞を体内の免疫が片っ端から殺傷していくからだ。つまり免疫力が正常なら、ガン細胞の増殖は抑えられるし、病気にだってかからない。

 逆に言えばガン患者の場合は、その免疫力が何らかの原因で低下していることが多い。別の病気に罹患していたり、栄養が不足していたり、或いはストレスを溜め込んでいると、免疫は弱ってしまってガン細胞の増殖を抑えきれなくなる。ガンや脳腫瘍で言う免疫治療っていうのは、免疫機能を持つ白血球──とりわけNK(ナチュラルキラー)細胞の刺激や絶対数の増加を通して、ガン細胞に対抗する力を人為的に強化する治療方法なんだ。他にも自然免疫を高めたり、ガン抗体を直接投与したり、漢方薬のような東洋医術を応用したりと、免疫治療の幅はめちゃくちゃ広い。

 それだけ聞けば、免疫治療はとっても効果的に聞こえるんだ。それだけ聞けば。


「……でも、先生」

 少しして息が落ち着いたところで、俺は尋ねた。

「免疫治療は確実性も即効性もないって、先生、言ってたじゃない、ですか……。こんなに進行、した状態で、しかも外部の、人を呼んでまで、やった方が……いいんですか」

「よくないと思ったら提案しないよ。お母様とお父様には既に、具体的な方法から費用に至るまで説明を終えてある」

「それ、で……?」

「判断は全て友慈くんに任せる、とおっしゃった」

 ベッド越しに響く先生の声も、くたびれたように錆び付いて聞こえた。それでもやっぱり、俺とは違う。錆の内側にはしゃんと芯が通っているから。

「その医師によれば、今後、友慈くんが余命を越えて生存する確率は五十パーセントに上るそうだ。そればかりか腫瘍を消滅させられる可能性もある。覚えてるかい、友慈くん。余命は五十パーセントの確率で患者が死ぬ期間のことだったろう。余命を信じられるなら、同じ数字を示しているこの治療のことも信じられないかな」

「…………」

「治療の用意は明後日にでも終了するだろう。ただ、君自身の限界も近い。決断できるのは今日だけだそうだ。僕もつい昨日、提案を受けたばっかりだったんだが……」

 分かってます。先生が本気でいるのはもう分かりました。カルテを握る先生の手に皺の筋を何本も見つけて、俺、思わずそう声をかけたくなった。

 分かったからもう、そんな風に希望を煽る言い方なんてしないでよ。期待するだけして、その期待が外れたらどうするんだよ。俺は死ぬからいいけど、期待が絶望に代わって悲しいのは遺された母さんや、父さんや、先生たちじゃないか。

 確実に治ることのない方法なら、もっと早くに試したかったよ……。

 唇を噛んだ俺を、先生はじっと見ている。目線を交わすのが怖くて、俯いた。先生も下に向かって、息を吐き出した。俺が返事をしたものと受け取ったらしかった。

「……分かった。急な提案で面食らわせてしまって、すまなかったね。この話は、なかったことにしてほしい」

 “なかったことにしてほしい”の部分が、とりわけ胸に深く刺さって、心地のいい痛みに俺は顔を歪めた。可能性を握り潰す痛みって、息苦しさに似てるなぁ……。

 それきり、病室にはまた、心電図の放つ同期音が淡々と響くばかりの時間が訪れた。


 治療しても無駄、か……。考えてみれば俺、そういう目で治療の是非を考えたのは初めてかもしれないな。

 外科手術は確かに効果があったはずだ。だって、今の俺が抱えてる腫瘍は、そもそも最初の主要とは種類から何から別物なんだもの。放射線治療は俺が苦しくてのた打つようになっちゃったから、実施が難しくなって中断しただけ。抗がん剤治療を始めた時だって、無駄かどうかなんてことは考えもしなかった。僅かな可能性でも縋りたい気持ちが、あの頃はまだ、あったんだよな。

 愛も同じ気持ちにならなかったのかな。自分の病状が“生きる力”に左右されてしまうことを知っていたなら、愛だって虚しくなる瞬間はきっとあったはずなんだ。いくら色んな治療を試そうとも意味がないのかもしれない、ってさ。

 ガンや脳腫瘍の治療法には、本当にたくさんの種類がある。それはつまり、ガンに人間が悩まされ、何とかして対抗しようとしてきた試行錯誤の歴史の痕跡でもあって、同時にそれだけガンが難病であることの証でもあるんだろうな。愛はどのくらいの方法を試したんだろう。今にして思えば俺、愛と治療の話をしたことってほとんどなかったっけ。


「愛……。どうしてるかな……」

 気付いたら、そう呟いていた。

 先生がまた、俺を見る。そう言えば、俺が昨日の夜に清戸さんに制止されたことを、先生は当然のように把握していた。けど、とうとう怒ってはくれなかった。

「必死に、治療に取り組んでるよ」

「……そうですか」

「前より遥かに精力的だ。あれから症状は悪化する一方なのに、諦めない。あの子は、強い子だ……」

 俺と比較してるんだろうか。そうと分かっても、不思議と腹が立たなかった。事実だからか。

 そうだよ。治療は無駄って考えるのは、諦めるのと何も変わらない。もしくは──現実から目を背けて、逃げようとしてるのと変わらない。


 なんだよ、愛。お前なんてちっとも弱くなんかないじゃんか。何が『ちょっと斜めの位置に立って、惑わされないようにするの』だよ。その気になれば真正面から立ち向かえるじゃんか。

 何が愛をそんなに駆り立てたっていうんだ。あれか、俺が自殺しようとしたからか。自分の身は自分で守るしかないって、いよいよ覚悟を決められたのかな。

 だとしたら俺の存在も、あながち無駄にはならなかったってこと?

 うん。それなら、いいんだ。せっかく一ヶ月も一緒にいて、崩れ落ちた外気舎からも一緒に生還したんだもんな。他人にも話せないような愛の秘密、俺と享有してくれたんだもんな。愛が前を向くきっかけになれたんなら、俺も犬死にじゃないってことだよな。


 でも、ちょっと、悔しいな。

 あんなにか弱かった愛が、今も懸命にガンと戦ってるのに。

 あんなに強そうにしてたはずの俺は今、逃げようとしてるんだもんな……。




 と。ふとしたように先生が、松山さんを振り返った。

「少し、席を外してもらえるかな」

 それまで突っ立っているばかりだった松山さんは、こくんと首肯すると無言で病室を出ていった。それを目で見送った先生は、俺には決して目線を戻さないまま、今度は俺に声をかける。

「昔話、聞いてもらえるかい」

「……昔話?」

「僕がまだ、新米医師だった頃の話さ」

 先生は目を細めた。心電図のうねりが、ちょっぴり速くなったように見えた。

「以前、僕は西東京の方の病院に勤めていてね。まだ勤続年数も短い若輩者だった僕が、夜間当直医を任された時のことだった。深夜に急患が来た」

 急患っていうのは、救急患者の略だ。俺も何度か本物を見たことがある。何より、自殺を図った夜の俺自身もその急患だったし。

 その時、先生の肩が少し大きく見えて、──それから少し小さくなった。

「八十六歳のお婆さんだった。脳腫瘍の放置が原因で、搬送時には意識不明の重体だったんだ。緊急手術が必要なのは誰の目にも明らかだったのに、深夜の院内には医師も看護師も足りなかった。呼ぶにしたって時間がかかることを考えると、脳外科の手術に対応できるのは僕だけだった」

「それで、したんですか」

「延命措置を続けて、もっと高度で確かな腕のある先輩脳外科医の到着を待つか。それとも独力ででも摘出手術に挑むか──。判断を委ねられた僕が選んだのは、後者だった」

 先生は感情が顔に出やすい。その後どうなったのか、先生の顔を見ていれば鈍い俺でも悟れる。

 果たして、先生は苦い吐息をふっと漏らした。

「幸いにも手術中のミスはなかった。僕に決定的に足りなかったのは迅速さだったんだ。……結局、手術が間に合わずに、お婆さんは命を落としてしまった」

「…………」

「お婆さんは危篤だったし、延命が適切に行われたとしても効果があったかどうかは疑わしい。とは言え、事実は事実。どう考えても僕の判断ミスだったんだ。僕は弾劾を受け、手術について一から勉強し直すように言われた。三年間の時間をかけて、海外の高度医療機関で技術を叩き込んだよ。

帰国した僕を待ち受けていたのは、お婆さんの孫の男の子だった。彼はお婆さんと同じ脳腫瘍で、あの病院に入院していたんだ。しかも前任の担当医から、彼にの家族が離散してしまっていたこと、お婆さんが唯一の頼れる親類だったことを聞かされた。お婆さんの手術から、四年の歳月が経っていた」


 家族のいない、男の子……。

 その姿に俺が思わず愛のことを重ねてしまったのは、きっと偶然ではなかったと思う。

 だって、先生も同じように、愛のいたベッドの方を見つめていたから。


「僕は四年前、ただ単にお婆さんの命を救えなかったばかりでなく、男の子の大切な存在を奪ってしまっていたのか──。ひどく罪悪感に苛まれたものだった。だから、僕にとって彼の治療に当たることは、彼への贖罪でもあったんだよ。あらゆる手段を検討した結果、周囲からは反対もあったけれど、僕はお婆さんの時と同じように外科手術での対処に臨んだ」

「結果……は」

「今度こそ、失敗はしなかった」

 俺はほっと安堵の息をついた。自分のことでもないのに、どうしてこんなに気持ちが落ち着いたんだろう。疲労や苦労のしわを顔いっぱいに湛えていた先生が、その時、ほんの僅かだけど、表情を和らげたからかもしれない。

 先生は窓の外へと目をやった。首を動かすのも辛い俺には、窓の外の景色を見ることはできない。

「全快した彼が退院していったのを見届けた僕も、病院を去った。さすがに居づらくてね……。でも、当事受けた恩と経験、それから教訓を、僕は決して忘れはしないと誓った。今の病院に就職して、愛ちゃんという患者に向き合う中で、その思いはさらに強くなったように思うんだ。

やれることを全てやってからでなければ、悔やむ権利は僕らにはない。泣き言を言いたくなければ努力するしかない。それが僕の医者としての矜持で、意地でもある。命が自然と弱っていくものなのなら、それに抗う医者には相応の強さと覚悟が必要なんだろう。弱気になった患者さんを無理やり引き上げてでも、その命を救うのが僕ら医者の使命なんだ──僕は、そう考えている」

「…………先生」

「いいか。君はもう、悪運を使い果たしている」

 先生の肩は、やっぱり小さかった。小さく見えたけれど、少なくとも俺には、ちっとも弱そうには見えなかった。

「米国の統計では、十五歳未満の脳腫瘍患者の割合は十万人中、三人。小児の脳腫瘍は極めて稀有な病で、中でも君の患う膠芽腫はさらに稀有だ。その稀有な病を引き当てるのに、君の悪運はもう使い果たされていなければならないんだ。だからこれ以上、君は不運な目にはならないし、させないよ。是が非でも僕らはそれを食い止めてみせる。そのために、僕らはここにいる」

「…………」

「……そういう気持ちでいるんだということは、分かってほしい」

 俺は小さく頷いた。空気があまりに重たくて、身体を動かすのも大変だったから。そういうことにしておく。




 確かに、先生は逃げない。必要なことを口にするのを、先生は躊躇わない。それが大事なことなのだと分かっているからだ。どうにかできた可能性を背負ったまま後悔するのが、先生にとっては一番に酷なことだから。

 じゃあ、俺は?

 天井で眩しく光る蛍光灯を見上げ、俺は浅い息をした。深く吸おうとすると途端に苦しくなるのは、経験則で理解していた。

 俺らしい、俺なりの課題への向き合い方……。具体的に何だったか思い出せないけど、少なくとも、これだけは言えると思った。

 背中を見せて逃げるのは、俺の性には合ってない。

 何も考えず、ただがむしゃらに一本道を突き進むのが、本当の俺だったはずだ。

 なあ。そうじゃないのかよ、俺。恐怖から目を背けるために、俺は脇目も振らずに駆け抜けることを選んだんだっただろ。小学生で陸上を始めた時、検査入院や放射線治療の勧めを受け入れた時、愛の抱える真実を聞いた時──いつだってそうだったじゃないか。いったいどこの何が、俺をこんなにした?

 こんな臆病な俺、らしくないよ。


 ──そこまで考えた時には、もう俺の心は半分決まっていたようなものだった。

 先生に上手く乗せられただけなのかもしれない。それでも構うもんか、と思った。こういうのは結果論だもんね。だいたい先生だって、俺がまだ何も返事をしてないのに“断られた”って思ったんだから、どっこいどっこいなんだよ。

 先生、と呼ぶと、先生の虚ろな目に光が戻ってきた。その顔を確りと見据えて、俺は自分の決意のほどを示すことができただろうか。




「受けます」

 俺は言った。間違いなく言った。

「その治療、受けたいです。受けさせてください」







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