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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第四章 君と涙と“Valediction”
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Karte-29 諦観に溺れて




 痛みとか、苦しみとか、ガンの転移と進行に従ってどんどん加えられていったものにも、今は少し……慣れた気がする。

 ガン患者の末路の大半は、ガンそのものからもたらされた別の症状で死に至るんだそうだ。臓器不全や出血、栄養失調で全身が衰弱する悪液質、それから免疫力の低下による肺炎や敗血症の併発。痛みや苦しみの中に溺れながら死んでいく患者もいれば、感覚や記憶を失って静かに死んでいく患者もいる。そう──脳腫瘍にメモリーをやられて死んでいった、かつての愛の同室患者さんみたいに。

 死んでもいい。いいけどせめて、痛くない死に方をしたいな……。自殺が未遂に終わってから俺、いつもそう願うようになった。首にシャープペンシルを突き刺した時の痛みは、あんなに覚悟を固めていたはずの俺をもこんなに臆病にしてしまうくらい、ものすごかったんだ。よくあんなことをできたよなって、今では思う。


 そんな俺にも、ついに観念しなきゃならない時が来たみたいだ。

 あの自殺未遂の翌日あたりから、俺の病状はさらに悪化が進んでいっていた。今も時々、身体の一部が麻痺したみたいになったり、目の奥が痛くなって視界が真っ白になったり、吐き気や痰で喉を詰まらせそうになる。

 そして────。




「──ここ何日か、呼吸困難の症状が見られると言っていたね」


 伏見先生から、俺はそう尋ねられた。今は午後だ。午前中のうちに撮ってきた胸部レントゲンの写真が、先生の手元には置かれている。

「……はい」

 俺は頷いて、小さな声で答えた。大きな声で話そうとすると、途端に息が苦しくなるんだ。まるで喉が一晩のうちにでめちゃくちゃ狭くなったみたい。昨日の夜なんて、それで息が止まりかけたんだもん……。

 先生はそんな俺の反応に、やはりか、と呟いた。それから俺と、俺のベッドの脇で話を聞いていた母さんに、写真を見せてくれた。

「肺炎です。ここのところの急激な症状悪化で免疫力が下がって、何らかの原因菌に院内感染したんでしょう。放置していると、命に関わります」

「…………」

 もう、新しい病名や症状を聞かされることに何の抵抗も抱かなくなってしまった俺と母さんは、お互いの顔を見てため息をつくばかりだった。俺の身体はいったい今、いくつの疾病を抱えているんだろう……。

 治療には抗生物質を使うと、先生は説明した。ただし、抗生物質は菌ごとに別々の種類になってしまうから、投与のためにはまず原因菌の種類を突き止めなきゃいけないんだという。

「肺の中の状況を知らなければならない。後で喀痰培養検査を受けてもらうよ」

 カルテをめくりながら、坦坦と先生はそう口にする。

 気付いたら俺は、呟いていた。

「……受けるのは、確定、なんですね」

「僕は医者だよ」

「分かってます」

 そうだよ、分かってるんだ。先生が俺の病気に、本気で取り組もうとしてくれてることくらい。

 だけど、もう、俺は……。

 唇を噛んだ俺のことを、先生も、母さんも、見もしなかった。先生はカルテを脇に抱えて、立ち上がった。

「なるべく早く治療を始められるよう、僕の方でも尽力する。一緒に頑張ろう」

「……もう、何でも、いいですよ」

 掠れた俺の言葉を聞いた先生のため息が、耳に痛かった。


 先生が病室を出ていった直後。それまで黙っていた母さんが、怒ったような声を上げた。

「あんた」

「……うん」

「“もう何でもいい”って、どういう意味よ」

 母さんの声、震えてる。

 俺は黙っていた。答えたい気持ちにもならなかったし、何て答えれば正解なのかも分からなかったから。

「何でもいいって、お医者様に向かってそんな言い方はないじゃない……。伏見先生はあんたのこと、一生懸命に考えてくれているのよ」

 そんな正論、聞きたくない。

「あんたが暗い気持ちになってるのは分かるわ。死にたくなるくらい後ろ向きになっちゃうのだって、分かる。でも、でも……」

「…………」

「……あんたはどう思ってるの。この先、どうやって生きていきたいのか」

「……何も、思わないよ」

 聞かれたから、そう答えた。母さんの求めていることでないのは知っているけど、この投げ遣りな気持ちを他のどんな言葉に置き換えてやればいいのか、見当もつかなかった。

「何も思わない。だって、わざわざ苦労して、生きていかなきゃいけない理由なんて、何一つ……思い付かないんだもん」

 天井を見つめながら口にした言葉たちは、最後には飛び出していく力を失って、俺の口の中へと落ちてきた。

 母さんは何かを叫ぼうとした。一瞬、大きく大きく開かれた口が、そのまま重力に従って閉じていく。それと同じスピードで、母さんは俯いた。そうよね、というか細い声が、病室の空気を少し震わせた。

「……そうよね。ごめんね」

「…………」

 どうして謝るの。母さんは何も悪くなんてないだろ。そう突っかかろうとした矢先、母さんはすがるような目付きで俺のことを見つめてきた。

「でも分かって。これだけは分かってよ。あんたにいくら生きる理由がなくたって、お母さんたちにはある。あんたに“生きてほしい理由”があるんだよ。だからそんな簡単に、命を放り出すようなことは言わないで」

 母さんに、生きてほしい理由が。俺はその言葉を、頭の中で反芻した。

 そんなの当たり前じゃんか。俺だってそうだよ。親しい人に死なれたらつらいのは、誰だっておんなじだ。それとも俺が誰からも必要なくなれば、死んだって構わないっていうの?

「母さんは──」

 勝手だよ、と続けようとした俺の声を、母さんは母さんの声で強引に遮った。

「愛ちゃんだってそうよ。あの子だって、きっとあんたに死なれたいなんて思ってない……。先生から聞いたわ、あの子はあんたの自殺を必死に押し止めようとしてたみたいじゃないの」

 刹那、愛があの晩に叫んでいた言葉が、項垂れた俺の脳天をがつんと殴った。

 母さんの言う通りだ。『だけど私、やっぱり友慈には死なれたくないよ。余命がどんなに短くても、友慈には生きること、諦めてほしくない』──確かに愛は、そう言っていたんだから。


 ずるいよ。卑怯だよ。

 そこで愛の名前を出すのは、ずるい。


 母さんは何も知らないんだよ。俺と愛の間を結んでいた、あの特別な関係のことを。だからそんなことが言えるんだ。

 愛が元気でいられたのは、俺の“生きる力”を受け取っていたからだ。俺の生き甲斐は、そうやってでも愛のことを守ってあげられることだった。そんな循環の上に俺たちの関係は保たれていたし、俺が愛を守ってあげられなくなったからこそ、今、その関係は根底から崩壊してしまっていて。

 俺、愛に一度も、俺のことをどう思ってるのかって聞けなかった。唯一それらしいことを聞いたのは自殺の間際だったし、愛は“俺に生きていてほしい理由”を答えられなかった。仮にそこに何か理由があったとしても、それはいざという時に口にできない程度のモノでしかないってことなんだろうし。

 それとも、虫の息になって愛の存在を感じることさえ叶わなくなった俺にも、まだ、愛は生きてほしいと願うのか?


「……母さんはさ、“生きる力”って存在すると思う?」

 俺は母さんから目を背けたまま、掠れた声で尋ねた。

「“生きる力”……?」

 母さんの声も掠れていた。

「分からないけど、あるんじゃないかしら。前向きに生きようとする気持ち、みたいな……」

「その“生きる力”が、目に見える人がいるんだよ。誰とは……言わないけどさ」

 俺は目を細める。ちょうど向かいのベッドに、いつか同室だった時の愛がぼうと映る。愛は血まみれで、涙まみれで、俺のことを見ている気がする。

「その人に言われた。俺、もう、そういう力がないんだって。病状が悪くなっていくのと反比例するみたいに、“生きる力”はどんどん、失われていってるんだよ、俺」

「あんた……」

「もう、駄目なんだよ。手遅れ……なんだよ」

 大声でだめ押しをした途端、一気に呼吸が苦しくなって俺は噎せた。母さんが慌てて駆け寄ってきて、背中を拳で叩こうとする。

「友慈!?」

「ごほっ、げほ……っ!」

 ひゅうひゅうと風を切るように鳴く喉が、痛い。ああ、この感覚って、なんか溺れた時に似てるよな……。目の前が真っ暗だってのも含めて、すっごく似てるよなぁ……。

 涙目で喘ぐ俺を一瞥した母さんが、廊下に駆け出して行くのが見えた。

「看護師さん! うちの子が──っ!」

 廊下を人が走る音がする。看護師さん、こっちに来ているみたいだ。

 そうだよな。苦しんでる人がそこにいたら、普通はまず医者とか看護師を呼ぶんだよな。愛の奴ったら、血に染まった俺の身体を抱き締めて泣き叫ぶばっかりで、看護師を呼ぼうとする素振りなんてまるで見せなかったよな。これが子供と大人の違い、ってやつなのかな……。

 ふわりと宙に浮き上がっては現実に引き戻されることを無限に繰り返す意識の中で、駆け付けた看護師さんの介抱を受けながら、俺はまた、泣いていた。


 人間って、この世にはたくさんいる。でも、その数だけ“生きる理由”があるのかと言えば、そんなことはないんだと思う。

 生きる理由がないと社会に見なされて殺されることになっている人は、何のために生きる?

 誰にも認識すらしてもらえないまま、生まれ落ちたその日のうちに駅のロッカーに捨てられた赤ん坊は、いったい何のために生きる?

 理由なんかなくても人間は生きていくよ。だけど、そんな人間に、きっと現実の社会は冷たい。誰も庇ってくれないし、誰も優しくしてくれない。

 俺がこのまま余命の日まで生き残ったって、それは同じことなんだろうと思う。

 ねぇ、母さん。生きる理由があるって言うなら教えてよ。俺はいつまでこんなことを繰り返していればいい? いつまで頑張ればいい? 無駄だと分かっていながら、どこまで足掻こうとすればいいの?

 どんなに懸命に病気を治そうとしたって、失ったチャンスは戻っては来ないのに。一度壊れてしまった愛との関係はもう、戻りはしないのに。

 俺がどんなに愛のことを守れなくなったって、力になってあげられなくたって。俺の愛への想いは、まだ、消えないのに……。


 症状が出てしまった俺の前には、面会謝絶の鉄格子がどしんと下ろされた。結局、俺が何一つとして前向きなことを口にしないまま、母さんはとぼとぼと病室を後にしていった。ずきんと走った胸の痛みは、病気のものなのか心のものなのか、もう俺には区別もつかなかった。意識さえ朦朧としていることが多いんだもの。そんなもの、どっちだって良かったけど。

 痛みや苦しみに気を失ったように、夜の帳に身を沈めながら眠りに落ちた、その晩。




 夢を見た。







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