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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第四章 君と涙と“Valediction”
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Karte-28 生き延びる痛み




「嫌ああああああああ────!!」


 愛の金切り声が、耳を打った。

 力を失った俺は、床に倒れ込んだ。カンと甲高い音を立てて床に跳ねたシャープペンシルは、どこかへ転がっていって見えなくなった。ああ……もう心なしか、頭もぼうっとしてきたよ……。

 がくんと俺の横に膝から崩れ落ちた愛は、俺の身体に取りすがった。そうして、うつ伏せに倒れた俺のことをぐるんと引っくり返して仰向けにした。目と目が合って、俺は視線を流すことができなくなってしまった。

 涙でぐちゃぐちゃになった愛の顔を見るのは、これでもう、何度目だろう。何度見ても、つらくて目を背けたくなるのは変わんないな……。

 俺の意識が飛びかけてるのに、愛は気付いてたんだろう。首が落ちそうになるほど強く肩を揺すりながら、愛は懸命に声をかける。

「そんな、そんなぁ……! やだよ友慈! しっかりしてっ……!」

 ぽたんと涙が俺の頬に跳ねて、そしたら首の痛みが少し、和らいだような気がした。

 愛ったら、本当に取り乱してるんだな。スタッフステーションに通報して看護師さんを呼ぶことさえ、ちっとも思い付かないなんて……。必死に呼び掛ければまだ間に合う、なんて思ってるのかな。

 絶望と悲嘆と、それから焦り。そこに涙まで加わってめちゃめちゃになった愛の表情が、こんな状況でも俺には可愛かった。すごく可愛かった。何としても助けてあげたいって、思いたかった。

 だけど、もう無理だ。首からどくどくと溢れ出した血の海は、もう……愛の足元にまで及んでいるから。

 どうすることもできないって、本当のところ、愛も分かっているのかもしれない。それでも愛はまだ、俺へ呼び掛け続けようとしている。

「ひくっ……こんなの、こんなのあんまりだよ……っ! お願いだから逝かないで、友慈いぃ……! うっ……あ……ぁ……」

 泣きじゃくる愛の顔に、俺はよろよろと手を伸ばした。

 伸ばしながら、驚いた。まだ俺に、こんなことのできる力が残っていたなんて……。

 派手に返り血を浴びた手のひらは真っ赤に染まっていて、そんな手で触れた愛の頬には、真っ赤な俺の手形ができた。愛が、肩を跳ね上げた。


 ……せっかく目の前に、愛がいるんだ。

 せっかく、チャンスができたんだ。

 だからどうしても、言いたかった。どうせこのまま命の灯が消えるんだとしても……だからこそ、言いたかったことがあった。


「俺、さ、」

 愛の頬から手を離して、俺はへにゃっと笑った。こうやって寝ていると、血が流れ出していく感覚、怖いくらいはっきり分かるんだな……。

「お前のこと、好きだった」

 愛の顔が、歪んだ。

「勇気が出なくて、チャンスもなくて、いままで、言えなかったけど。俺……いつの間にか、愛のこと、すきになってた。まもってあげたかった。だから……だから、おれ……」

 その時、ふっと意識が遠くなりかけた。力が入らなくなって倒れた腕を見て、愛はまた俺の身体を揺らそうとする。

「うっ、うう、ゆう……じぃ……」

 もう全く声になってない。愛の口からこぼれて落ちるのは、嗚咽ばかりだ。

 ああ、おかげでちょっとだけ目、醒めたよ……。そう言ってあげたかったけど、同時に俺、勘づいてもいた。もう限界そのものが近付いているんだって。

 血の流れを感じていれば、そんなのは自然と分かるんだ。

 まだ、ある。『好きだった』以外に、言いたいこと。いや──言わなきゃいけないことが。だからどうか神様、それを言い終えることができるまで、俺の意識を保ってください……。


 愛。

 覚えてるか。覚えていてくれてるよな。

 俺とお前と二人で病院を抜け出して、深夜の外気舎に遊びに行ったこと。

 色んな話をして、色んな遊びをして、色んな写真を撮ったこと。

 痛い目にも遭った。苦しい目にも遭った。だけど愛と一緒なら、俺、病院生活も悪くないって思えたんだよ。

 愛が隣にいてくれたから、今日まで頑張って脳腫瘍と戦ってこられたんだよ。

 愛がそこにいて笑ってくれていたから、俺、大切な誰かを想う気持ちを、知ることができたんだよ……。


 だから。


「あい」


 俺は最後の力を振り絞って、もう一度だけ笑顔を浮かべた。

 なぁ、愛。俺、ちゃんと笑えてるかな。




「ありが……とう……」




 そこでついに全身から力が消えた。俺の首は放物線を描くように落ちて、もう、動かすことができなくなった。


 愛が泣き叫んだ。最後まで活動を続けてくれた目と耳が、俺に覆い被さるようにして泣く愛の姿と声を、鮮明に映し出してくれた。

 背後のドアが勢いよく開いて、中へ入ろうとしてきた看護師さんが悲鳴を上げた。通報装置の発するけたたましいサイレンが鳴り響く中、何人もの看護師や医師が足音も憚らずに駆け付けてきて、俺はすぐさまストレッチャーに載せられた。

 持ち上げられた一瞬、ぼろ雑巾みたいになった愛の姿が目に入った。愛は血まみれで、涙まみれで、真っ暗な瞳を床に向けて見開いたまま、呆然と座り込んでいた。

 俺を見下ろす看護師さんたちの目付きは、真剣だった。俺を載せたストレッチャーは暗い廊下をものすごい速度で運ばれて、エレベーターで下の階へと降りていく。ドアの開いた場所にも何人かが待機していて、バケツリレーみたいに俺は引き渡された。

 運び込まれた部屋の名前が見えたあたりで、ようやく俺の意識は途切れ、どこかへゆっくりと沈んでいった。







 俺は、どうして生きているんだろう。


 小さい頃、そんな疑問をもてあそんだことがあった。

 あれは小学校五年生くらいの頃だったかな。走るのが好きだった俺が陸上クラブに入って、練習に打ち込み始めた頃のことだった気がする。

 練習終わりに学校のグラウンドに大の字になって寝転びながら、俺はいつも空を見上げていた。そうするのが好きだったんだ。視界いっぱいに広がる澄み渡った空の色は、本当にどこまでも透き通って、きれいだったから。

 ただの衛星都市とは言ったって、清瀬はそれなりに大きい街だ。どこを見ても建物が建ってるし、木が生えてるし、遠くを見れば隣街の高層ビルや都心の街並みや、あるいは遥か彼方の秩父の山並みを望むことができる。だから、何もない場所を見たいと思ったら、それこそ空を見上げるしかなくってさ。


 どうしてだったんだろう。何もない空を見上げているといつも、だんだんと俺の胸の中には不安の気持ちが生まれていった。


 あの空の下では、世界中がひとつに繋がっている。

 社会の授業で習った。世界では一日に何万人もの人が生まれて、何万人もの人が死んでいくんだって。

 万っていう単位の計り知れない大きさが、あの頃の俺には恐かった。

 あの大きな大きな空は、いつだって俺たちのことを見下ろしている。人間は世界に何十億もいるんだ、きっと一人ひとりなんて大したサイズにも見えないんだろうな。──それなら、あの空は俺たちが毎日何万人も死んでいくのを見て、どんな風に想うんだろう。悲しいとか、痛ましいとか、そんな当たり前の人間らしい感情が、どこまでもからっぽなあの空には本当にあるんだろうか。

 俺たち一人ひとりの命なんて、あの空から見れば、何の価値もないんじゃないか。


 休憩を終えるといつも、俺は走った。

 速く、速く、誰よりも速く走ろうとした。

 そうすればあの大きな空からも、俺のことが少しくらいは大きく見えるかもしれない。生きている価値があるって、思ってくれるかもしれない。

 あの頃、俺の背中を一番強く押してくれていたのは多分、欲望じゃない。──恐怖と焦燥感だった。




 この星に集うたくさんの人間は、何に生かされているんだろう。

 何が俺たちを産み出して、生かして、そして殺すんだろう。

 生きる価値があると決めるのは、誰なんだろう。

 俺たちが今、こうしてこの場所に立って息をしていられるのは、何のおかげなんだろう。


 宏漠と続く青空の下、無限に湧き続けるばかりの疑問と恐怖にたった一人で脅えていた、あの日から。

 難しいことを考えるのをやめた俺は、バカみたいに前向きに生きることで、何かを忘れようと懸命に努めてきたような気がする。







 結局、俺は死ねなかった。


 ストレッチャーに載せる前の段階で応急止血が行われ、ICUに大急ぎで運び込まれた俺には、すぐに輸血が開始された。

 俺が切ったのは、静脈──それも顔の一部の血液が集まる外頸静脈っていう血管だった。そしてその傷から流出した血液量は、どうやら俺が思っていたほど多くはなかったみたいだ。放っておいたら死んだかもしれないけど、適切な止血が何とか間に合ったおかげで、俺の命は救われてしまった。俺がシャープペンシルを突き刺したのが血圧の高い動脈や、脳に繋がっていて血液量の多い内頸静脈だったら、まず助からなかっただろう──先生には、そう言われた。

 深夜の出来事だっただけに、病院内で手の空いていた医師や看護師をことごとくかき集めての対応だったらしい。処置を終え、俺がICUから七病棟に戻されたのは、あの自殺決行日の三日後だった。そしてその日の夕方、ようやく俺は目を醒ました。




 見慣れた七三四病室に寝ていることに驚いたのは、言うまでもないかな。

 たくさんの管や器具の繋がった身体が見えて、周囲で静かに作動しているいくつもの機械が見えて、その向こうには愛の寝ていたベッドがあった。

 そこに、愛の姿はなかった。そのことに気付いた瞬間、一気に現実世界へと引っ張り戻されたよ。自殺しようとしたあの夜のことが、何もかも思い返された。そうか、俺、死に損なったんだ……。すぐにそう悟った。

 死ねなかったことを悔いているうちに、看護師さんが俺の覚醒に気付いた。たちまち伏見先生や松山さんが、駆け込むみたいな勢いで病室へとやって来た。

 病院内での自殺未遂事件──それこそ夜間の脱走とは比較にならないくらい重大な事件を、俺は起こしてしまったんだ。怒られることを先読みした俺が謝罪しようとすると、松山さんはいきなり、泣き出してしまった。

 待ってください、どうして松山さんまで泣くんですか。そう尋ねた俺に、先生も松山さんも口を揃えて答えたんだ。自殺を図るほど俺が追い詰められてしまっていたことに、気付くことができなかった。取り返しのつかないことにならなくてよかった、申し訳なかった──って。


「我々は友慈くんのご両親から、友慈くんの大切な命をお預かりしているんだ。それなのに、君の心痛を和らげてやることができずに死なせてしまったら、我々はご両親に何と申し開きをすればいいのか分からない……。応急対応が間に合って、本当によかった……」


 俺の自殺未遂は、病院全体の会合の場でも話題になったらしい。プライマリーナースの松山さんや七病棟勤務の看護師さんたち、それから俺に関わっていた医師の人たちは、どうして未然に防げなかったんだろうと夜を徹して話し合ったんだそうだ。

 患者が自殺を図るっていうのは、そのくらい大きな出来事なんだ。

 知らなかったよ、そんなことになっていたなんて……。目元を拭う松山さんや、深々と頭を下げた先生を前にして、俺もなんだか泣きたくなった。どうしてだろう。間違いなく決断していたはずなのに、自殺しようとしたことを、ひどく悔いた。


 自殺未遂を境に、俺の扱いは大きく変わることになった。

 まず、カウンセリングの医師が新たにつくことになった。自殺しようとした理由、どうか聞かせてほしい。精神科の先生は何回も重ねてそう頼んできた。

 首に大きな損傷ができたことで、そっちの対処と経過観察もしなきゃいけないことになった。縫合の手術はもう終わっていたけれど、いつ、何がきっかけで傷口が開くか分からないからって。

 そして何よりも、一番に大きな変化があった。


「愛はどうしたんですか」

 恐る恐る尋ねた俺に、先生は言った。

「友慈くんの自殺未遂を、眼前で見ていたからだろう……。あの子は大変な精神磨耗を起こしている。大事を取って、今は別室に移動しているよ」

「……それは、先生の希望ですか?」

「本人からの申し出だ。移動するのが本当にいいのかどうか、僕も迷ったんだけれど……」

 そっか。これ以上、俺と一緒にいることを、愛は望まなかったんだな。

 分かりましたって答えたら、心の奥の何かがどろりと濁ったような感覚がした。先生や松山さんが病室を出ていったあとも、その感覚はいっこうに消えなかった。

 知らせを受けた母さんと父さんが面会時間ギリギリになってから飛び込んできたこととか、管轄が違うはずなのに病室に乱入した室田おばさんがきつく俺を抱き締めたこととか、その後もいろいろあったけど……。やっぱり誰一人として、俺が自殺しようとしたことを咎めてくれる人はいなかった。


 愛は別室になったのか。それなら、ちょうどいいや。

 だって、昂った感情のままに俺、あそこで愛に告白しちゃったんだもん。しかもそのまま死ぬこともなく、生き永らえてしまった。つまり別れの挨拶を告げたまま、隣に居座り続けているようなもんじゃないか。

 それに、自棄を起こして自殺を企てるようなヤツの告白なんて、きっと愛には受け入れられないだろうしさ……。

 いいんだ、これで。俺も伝えたいことを伝えられて肩の荷が下りたよ。愛がどこかの病室で元気にしているのなら、それで構わない。

 これで、いつか余命の期限が切れて俺が死んだとしても、この世に未練を残していくことはなくなったんだから。


 たった独りになった病室の中では、誰にも気兼ねする必要なんてなかった。俺は、泣いた。

 泣いたけど、悲しくはなかった。もちろん嬉しくもなかった。

 こんなにたくさんの機械に囲まれているのに、寂しかった。




 明日からはもう、生きていく理由も何もない。それでも俺は、生き続ける。

 何かの意志に従って、ただ黙々と延命措置を受け入れて、目的の失われたままのこの命で、生き続けるんだ。






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