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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第四章 君と涙と“Valediction”
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Karte-26 もう、嫌だよ。


 病状が悪化して五日が経った頃には、あんまりにも苦しい状態が続きすぎるために放射線治療が実施できなくなってしまった。下手に機械の中で動き回ると、陽子が思ってもみない場所に命中して副作用を起こしてしまう危険性があるから。

 これで、俺の脳腫瘍の進行を食い止められるのは抗がん剤だけになったわけだ。

 時間──いや、まともな意識のある限りスマホを開いて、俺はかつてのように色んな人の闘病日誌を読んだ。外科手術、抗がん剤、放射線治療、化学療法、抗浮腫療法、免疫療法遺伝子療法温熱療法……。ありとあらゆる治療法を選択している人を見た。

 どれかひとつくらい、誰もが助かる奇蹟の万能治療法みたいなものがあるんじゃないか。そういうのを、必死に探したんだ。余命一ヶ月を告げられて一度は絶望したとは言ったって、何も抵抗しないまま死ぬなんて嫌だったから。

 だけど現実には、そんなものはなかった。ブログの一番新しい記事のタイトルは、大抵どれも同じようなものだった。『○○は永眠いたしました』……って。

 そうこうしているうちに激痛が頭へ走って、スマホを放り出して悶える……。そんな流れを一体もう何度、繰り返しただろう。




 死。

 本当はずっとそばに落ちていたはずの、たった一文字のくせにやたら重たい深さを持った言葉が、ようやく俺の目の前に現実味を持って姿を現し始めてきていた。







「移動するのも一苦労だろう。二人とも同じ病室だから、僕から出向いた方がいいかもしれないね」

 そう言った伏見先生は、その次の日から言葉通りに病室へと来るようになった。

 今日もそうだ。カルテや何やらをいっぱいに抱えて七三四病室を訪れた先生は、愛の様子を診終えると俺の方へとやって来た。

 先生の大きな白衣がひるがえって、向こうのベッドに眠る愛の姿が見えた。最近の愛はもう、昼夜を問わず意識を失ったようにぐったりと目を閉じているばっかりだ。目を開けているタイミングがあるとすれば、それは苦しそうにしている時と、先生の質問に答える時だけ。


 先生は淡々と質問を重ねていく。俺もその質問に、淡々と答える。

「頭、どうかな」

「……ぼんやり、してます」

「そうか……。喉はどうだ。息苦しくないか」

「まあまあ……」

「昨日の面会中と比べたら?」

「今の方がずっと……マシ、です」

「分かった。ありがとう」

 声の応酬に合わせるように、カルテの上を鉛筆が元気に走ってる。ああ……俺はもう、走ることも歩くこともできなくなったんだったな……。なんて思ったその時、鉛筆が不意にぴたりと止まった。

「…………」

 書き終わったらしい。だけど先生は黙ったまま、欄の埋まったカルテから鉛筆を浮かそうとしなかった。

「先生」

 問いかけると、意識がふっと戻ってきたみたいに先生は声を搾り出す。

「あ、ああ……。すまないね、ちょっとぼうっとしてた」

「先生も脳腫瘍、なんじゃない、ですか」

「まさか。患者さんから空気中を渡って転移するほど、脳腫瘍は強い生き物(・・・)じゃないさ」

 分かってますよそんなの。ただの冗談なのに。

 そう、と先生は呟いた。

「病理学の上では、腫瘍は新生物と同じ……。ああ見えても一応、腫瘍は生き物なんだ。しかも、本当はちっぽけで、無力で、自力では一秒も生きていけないほど、か弱い生き物なんだ。それがどうして、こんなに人間を苦しめるんだろうね……」

 その時、先生がちらりと愛のことを一瞥したのを、俺は見逃さなかった。


 ちっぽけで、無力で、自力では一秒も生きていけないほど、か弱い生き物……。


 先生もきっと、愛の“能力”のことは聞かされているんだろう。だけど俺と違って、先生は医師だ。あんな荒唐無稽な話、素直に信じたりするんだろうか。

 自分の体験を通じてあの話を受け入れた俺が、今まさに愛の言うところの“生きる力を失った状態”にあるんだってこと。話したら、先生は信じてくれるんだろうか。

 それでもまだ、余命は無意味だとか諦めたら終わりだとか、そんなことを言うんだろうか。

 俺の苦しみも、悩みも、想いも、誰にも伝えられないまま、俺は死んでいくのかな……。


「……実はここ一週間で、七病棟は大変なことになっているんだ」

 先生が唐突に、口を開いた。顔は伏せられていて、表情が見えない。

「直近の二日間だけでも、八人の患者さんが発作や重篤化を引き起こした。中にはICUに運び込まれて、緊急手術を行っている方もいる。南でも北でも、看護師の人たちはてんてこ舞いだ」

「……そんなの、偶然に決まってる、じゃないですか」

「僕だって偶然だと思いたい」

 先生の声は苦かった。少し顔が持ち上がって、悔しそうに歪むその口元が覗いた。

「友慈くん。君の脳腫瘍は今、二週間前に僕が余命の検討を行った時の状態とは比べ物にならないくらいの大きさにまで成長している。正直に言って予想外の速度だった。こうなるまでの二週間の間に、もっと打てる手があったのかもしれない、もっと他にやり方があったのかもしれない……。悔やんでも、悔やみきれないよ」

「今さらそんなこと、言われても」

 トゲだらけの言葉だと分かっていながら、俺はそう返事した。ざらざらだ、俺の声。聞いてて心地が悪いよ。

「……そうだな」

 先生も、うなだれた。

 直後だった。天井の館内放送にプツッと音が入ったかと思うと、焦燥感に押されて早口になったような呼び出しの声がかかった。

 『伏見豊医師、伏見豊医師、館内にいらっしゃいましたら至急七病棟七四一号室までお越しください。繰り返します──』

 先生が、呼び出し?

 顔を上げた先生と目が合ったのと、背後のドアから看護師さんが駆け込んできたのは、ほとんど同時の出来事だった。看護師さんが叫んだ。

「先生、担当なさっている七四一(ヨンイチ)の方が!」

「分かった、今行く。下宿先生は院内にいるか」

「先ほどから六病棟の診察室にいらっしゃいます!」

「手が空いているとのことだったら、至急ここへ呼んでくれ。友慈くんにあと二、三、聞いてほしいことがある。それを伝えなければ」

 分かりました、と看護師さんは病室を飛び出していく。先生も立ち上がって、持ってきていたカバンの中からカルテの束を引っ張り出した。ばさばさと紙がめくられていく音に廊下の喧騒が重なって、病室の中は久々に、賑やかになった。


 先生。

 俺のことなんて、もういいですから。俺、どうせもう、死ぬんですから。

 俺のことなんかに構ってないで、早くその危篤の患者さんの所に行ってやってくださいよ。

 頑張ってくれてるのは分かってますけど、その気持ちだけでもう、十分なんですよ──。


 よっぽど俺、そう言いたかった。訴えたかった。

 だけど返ってくる反応も簡単に想像できてしまって、ついに口にすることができなかった。




 なぁ、愛。


 俺もう、限界だよ。


 このまま死ぬまで、たくさんの先生や看護師さんの手間になって、父さんや母さんや部活のやつらを心配させ続けるなんて。

 もう、嫌だよ────。







 深夜。

 スマホの時計が二十二時を示したのと同時に、俺は起き上がった。


 朝になればまた、あの忌々しい頭痛が襲ってくるだろう。今は不思議と落ち着いていて、吐き気もなければ腹痛もないし、背中に走るあの痛みも少ない。この時間帯は俺にとって一番、楽だ。

 そうか……だから愛は、夜中に起きる習慣を身に付けていたんだな。愛も俺と同じ、脳腫瘍の患者だったんだもんな。

 たくさんのチューブに繋がれたまま、隣のベッドに横たわっている愛。オレンジ色の常夜灯が照らすその顔は、昼間に見せる苦しそうな表情とは違って、安らかだった。なぜか少し、ほっとした。

 愛。俺さ、こんな風に病気が本格化するようになってきて初めて、愛の気持ちに少しだけ手が届くようになったよ。なのに全然、喜べないんだ。どうしてもっと早く悟れなかったんだって、自分を責めるばっかりなんだ……。

「…………」

 黙って愛の寝顔を見つめること、三分。俺はようやく、動き出した。

 まず、腕に刺さっていた点適用の針を、思い切って引き抜いた。くそ、痛いっ……! 思わず顔をしかめたけど、ずきずきする腕を押さえながら、針の付いたチューブをベッドの上に放り出す。もう、俺には必要ない。

 それからよろよろと歩いて、病室の隅の机に置いてあった貴重品入れに手を伸ばした。俺の記憶が確かなら、母さんがここに入れていたはずだ。そう思って引き開けると、探し物はすぐに見つかった。

 ちゃりん、と冷えた音を立てたのは、愛のために買ってやったキーホルダー。それをそっと、愛の枕元に伏せて置いた。

 これでいい。これでもう、やることは何もない。

「……じゃあ、な」

 耳に囁いた俺は、ドアを開いた。


 二十二時。

 ここに入院した初日、俺が勇んで院内探検に出発した、記念すべき時間。

 あの一ヶ月前と同じように、俺は足を引きずりながら廊下へ出た。看護師さんの姿はない。しめた、やっぱり俺は幸運だった。

 ストレッチャーに運ばれながらだと、あんなに短く感じる距離なのに。どうか、どうか看護師さんも警備員も見回りに来ませんように。そう祈りながら歩くこと、四分。俺は七○五号室の前にたどり着いていた。

 取っ手に手をかけると、呆気なくドアは開いた。

 懐かしい四人部屋の景色だ……。まだ俺たちが入居していることになっているから、荷物も、服も、本や筆記用具も、何もかもがここに置かれたままになっている。正面の窓からは白くぼんやりした光が差し込んで、闇に包まれたこの病室の中をやわらかに照らし出している。まるで俺と愛だけがどこか別の時間に取り残されて、それ以外は何も変わらないまま、時を刻んでいるみたいに。

 迷うことなく筆記用具を取りに行った俺は、中からシャープペンシルを取り出した。ああ、ペン先が銀色に輝いて、すっごく綺麗だ……。




 このくらい先が尖っていて、鋭くて、頑丈なものだったら。

 俺の皮膚くらい、簡単に貫いてくれるよな。

 思っていたよりも恐怖はなかった。俺は順手で握ったシャープペンシルを、そっと首元に当てた。


 どうせ、あと一ヶ月──それどころか二週間もすれば、五十パーセントの確率で死ぬ命なんだ。今この場で終わらせたって、未来は何も変わったりしない。

 苦しみの中でなんて、死にたくない。せめて自分の気持ちに従って死にたいよ。それくらいの自由、あったっていいじゃないか。

 俺は本気だった。だからこそ、延命用の点滴を引き抜いて、愛に渡すものを渡して、ここまで懸命に歩いてきたんだ。

 こんなどうしようもない終わり方の人生でも、俺、楽しかった。部活のみんなと騒ぐのも、陸上のトラックの上を走りながら風を感じるのも、この入院生活でさえ──楽しかったんだ。

 その楽しかった人生の最後の瞬間が、納得のいかないものでありたくなかった。




 さよなら。

 父さん、母さん。


 さよなら、愛。


 さよなら、みんな。




 固く目をつぶった俺は、シャープペンシルを喉めがけて突き刺そうとした。






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