Karte-24 病室への復帰
冬将軍の振るう猛威は、ますます厳しく、ますます強くなっていっていた。
昨日からもう三月に入ったのに、東京の街をびっしりと覆い尽くした雪はちっとも消えることがない。山地を乗り越えてやってきた寒気に冷やされて、窓の外はいつまで経っても銀世界のままだ。天気予報が言うには、まだ当分、こんな感じの状況が続くらしい。
……俺にはもう、関係ないけどさ。
だって、俺は二度と外には出ないし、出られないんだから。
暖房機がガンガンと沸かしてくれる温もりの海に浸りながら、この病院の中で命を燃やし尽くすんだもんな……。
俺が七○五病室に戻ったのは、一時帰宅の次の日。三月二日のことだった。
結局のところ俺、向こうには一泊二日しかしなかったわけだ。しかも友達を呼ぶこともなかったし、読みたい漫画とかやりたいゲームをこっちに持ってきたわけでもなかったし。ついでに、愛にと思って買いに行ったあのキーホルダーも、家に置いてきちゃったし。
院内ですれ違った看護師さんに何度も問われたよ。もっと長く滞在してるんじゃなかったのか、って。そのたびに俺は少し考えて、それからこう答えてきた。
──『家にいる意味、なくなったんです』
病室には、愛がいた。いつものようにベッドに潜り込んで、いつものように本を読んでいたみたい。
ドアを開けて中に入ってきた俺を見て、愛はあれって声を上げた。
「お帰り! ……帰ってくるの、早いね」
「うん」
それだけ答えて、俺もベッドに寝そべった。
外はもう夕方だ。明るい部屋の光景が窓に映って、俺をここまで連れてきてくれた松山さんの顔が、景色を眺めようとした俺の視界に嫌でも入ってきた。実際、嫌だった。
「……また、来るわね」
松山さんはいつもの張りを欠いた声を俺の背中にかけて、それから静かに、病室を出ていった。
俺や松山さんの様子がおかしいことに、愛は意外にもすぐに気付いたみたいだった。……って、当たり前か。松山さんとも俺とも、もうけっこう長い付き合いになるもんな。
「どうしたの。友慈、なんか変だよ」
尋ねる声が聞こえた。本を枕元に伏せた愛が、ベッドから身体を起こしてるのが見えた。
何でもないよ。うん、何でもない。俺は黙って、首を横に振って見せる。
「何かあったの?」
愛は重ねて尋ねてくる。だから、何もなかったんだってば……。
「愛は知らなくていいことだから、気にしないで」
わざと突き放したような言い方になったけど、俺は窓の外をじっと見つめたままそう言い切った。愛に関心を持ってほしくなかったのは、事実だったから。
なのに愛は、そんな俺の気持ちを汲んではくれなかった。
「知らなくていいって……。どうして今さらそんなこと言うの? 今の友慈、やっぱり変だよ」
「変でも何でもいいよ、放っておいて」
「友慈らしくもないこと言わないでよ……。私、ただ友慈が心配なだけなのに」
「だから、何も心配するようなことはないんだって言ってるだろ!」
声が大きくなる。昨日の夜の父さんにそっくりだなって、口にしながら思った。悔しくなった。
愛も負けてなかった。
「心配したくなっちゃうような姿してるから心配しちゃうんじゃん! ねぇ、本当に何もなかったの? そんなことないでしょ、何かあったんでしょ!? 私、気になったまんまじゃ眠れないよ! 安心できないよ……!」
窓に映り込む愛の表情は、怒っているっていうより、悲しそうだった。
愛の気持ち、俺にだって分かる。痛いほど分かるよ。自分が愛にあんな態度を取られたらって思うと、想像なんて何も難しくないから。
だけど、だけど……。
見つめ続けていたガラスが、不意にふわりと漂ってきた熱気で白く曇って、そこに幻灯機みたいに映し出されたのは──まだ頭の中に刻み込まれたばかりの、冷え切った記憶の断片だった。
◆
俺には、余命があったらしい。
余命。つまり、あとどのくらい自分は生きられるのかっていう推定値のこと。厳密には生存期間中央値といって、同じような状況に置かれた患者の半分が命を落とすまでの期間を表しているらしい。
ガンに限らず、あらゆる病気にはそれぞれの症状や合併症に応じて、このレベルの患者ならこのくらいの期間で半分が死ぬっていうデータがあるんだそうだ。もちろん絶対に死なない病気もあるし、逆にほぼ必ず死ぬ病気──つまり難病も存在する。んで、俺の患った脳腫瘍は、普通はその難病に分類されるんだ。
脳腫瘍の場合、余命の判断の基準になるのは進行の度合い、転移の度合い、それから治療の効果がどれだけ出ているか。そういうのを考え合わせた結果、俺には伏見先生から余命が与えられていたらしいんだ。
それも、たった一ヶ月という、果てしなく短い余命が。
昨日の夜、母さんと父さんを問い詰めた。そうしたら、やっと二人は全てを話してくれた。
本当は俺の余命は二度告げられていた。一度目は、俺の脳腫瘍が完全に確定して、手術を行おうと俺たちが合意した日。詳しく手術の説明をすると言って母さんを連れ出した先生は、説明の前に余命の話をしたんだそうだ。
あの時点ですでに先生は、俺の脳腫瘍が転移を始めている可能性に気付いていたみたいだ。転移を起こし始めたら普通、もうその患者は助からないらしい。ただ、転移が同じ脳内であったことと、転移が一ヶ所だけで済んでいることを考えると、あんまり確定的な余命とは言い難かった。そこで先生は、そのことを詳しく語った上で、確定的でない以上は無理に話しても仕方がない、お子さんに伝えるかどうかをお任せしたい──そう、言ったんだ。
そして二度目は、転移した腫瘍の方が急成長を始めた頃。同じく先生は確証が持てないからと、伝えるかどうかを母さんに委ねたそうだ。それは、脳腫瘍の成長の早さが普通ではなかったばっかりに、何が起きているのか先生にも掴みづらかったから。……少なくとも先生本人は、俺にそう話していた。
一度目に告げられた余命は半年。二度目のものは一ヶ月。そして結局、そのどちらも母さんは、俺に話そうとはしなかった。
「お母さん、怖かったの……っ」
昨日、母さんは泣きながら俺に向かって訴えていたっけ。
「あんたが部活のことを諦めてないのも、友達と楽しそうにしてるのも、お母さん、知ってたから……。余命なんか伝えたせいであんたが気落ちして、それで生きることに夢を見出だせなくなったら……。それが、怖かった……からっ」
父さんは父さんで、じっと机を睨んでるばっかりだった。横一文字に結ばれた唇からは明るい桃色は抜け落ちて、代わりに苦しそうな色がありありと浮かんでいた。リビングの空気はもう、最悪の一言に尽きた。
母さんと父さんは、俺に余命を伝えるのかどうかでずっと議論を続けていたんだ。父さんは『友慈には知る権利がある』といって、話すことを主張し続けた。母さんは余命を知った後の俺のことを心配して、話さない方がいい、話したくないって言い続けていたんだそうだ。俺が毎日、愛と病院でのんびり暮らしていた間に……。
初めはそんなの嘘だと思った。だって病室を訪れている時の母さん、あんなに普通な態度で愛と接してたじゃないか。苦悶の様子なんて浮かべてなかったじゃないか、って。
けど、何度も何度も土下座して詫びようとする父さんと母さんを見ていたら、そんな気持ちはいつしか俺の心からきれいに剥がれ落ちていった。
そうだよ。
そんなことはどうでもいいんだよ。
いつ知ろうが、秘匿されてたことに驚こうが、腹を立てようが、目の前に横たわっている現実は何も変わらないんだもの。
俺の余命がたったの一ヶ月である事実には、何の揺らぎも生まれないんだもの。
信じたくない事実を投げつけられて、受け止めきることのできなかった俺は、次の日──つまり今朝早くに体調を崩した。何かあったら病院戻るように言われていたから、大事を取って俺はまたこの東都病院へと車で帰ってきた。
もちろん、真っ先に先生のところに行って説明を求めたよ。先生も謝った。頭を深々と下げて何回も謝りながら、でも、としきりに強調した。
「聞いてくれ。余命なんていうのは、本来なら全く当てになるような代物じゃないんだ。しょせんはあんなもの、過去の類例から計算で導かれるものに過ぎない。その証拠に、余命を宣告することは医者の義務ではないことになっているんだ。しかも今回の友慈くんに限っては、普通の例に照らすのが適切なのか分からない状態が続いている……。僕自身、色んな患者さんを看てきた経験から君の余命を考えてみたけど、未だにその数字が正しいとは思えないんだ。医者として恥じるべきことではあるんだが……」
うん、分かってます。分かってますからもう、それ以上そういう話はしないでください。そんな風に口を挟みたい気分だった。余命が如何に信用ならないかっていう話、家で父さんからも聞いてたからな。
いくら先生の口から説明を受けたって、信じる気になんてなれなかった。だって半分の人が命を落とす期間なんだろ? その半分に俺が入っていない保証を、いったい誰がしてくれるっていうの? ましてや俺、普通よりも脳腫瘍の成長速度が早いんじゃなかったの?
そう質問したら、先生はもう、何も答えてくれなくなった。
俺、いつの間にか信じていたのかもしれない。
余命が告げられないっていうことは、きっとまだそこまで悪化しているわけじゃないんだろうって。
このまま治療を続けば、いつか必ず快方に向かう日が来るんだって。脳腫瘍を克服して、病院を出て、楽しい日々を取り戻せる日が来るんだって。
何の証拠もなしに、そんな淡い期待を抱いていたんだ。
それがどうだ、実際はちゃんと余命が告げられていただなんて。しかも、たった一ヶ月で半分の患者が死ぬようなレベルにまで進行していただなんて。
はは……。
こんな笑える話、今まで畑が貸してくれたどんな漫画にも載ってなかったのに。




