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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第三章 知りたい君の“Nonfiction”
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Karte-22 一時帰宅へ




 俺はそれからの数日を、ただ治療のことだけを意識するのに専念した。

 そうせざるを得なかった事情もある。監督からは結局、『もう決まったことだから』って連絡しか来なかったからだ。

 俺はただ一言、分かりました、とだけ返した。たったその六文字で少し気持ちが軽くなったように感じて、そう感じてしまう自分はちょっと、悲しかった。

 でも、もういいんだ。そんなことに構ってもいられないんだから。




 今回は時間がない。撮影したPETの結果は、病院内の設備で簡単に印刷したものを使うことになった。前回三日もかかっていたのは、より精度の高いものを求めて印刷を外部発注していたからだ。

 そしてその結果、俺の脳腫瘍が異常な速度で拡大していることは、いよいよ明白になった。

 伏見先生が言うには、問題の脳腫瘍があるのは前頭葉のうちのやや右側で、これは最初にできた頭頂葉とは異なる部分にあたるらしい。ちなみに前頭葉は認知や判断をつかさどる、人間の脳の中でも特に重要な部分なんだそうだ。おまけに膠芽腫が一番できやすい場所でもあるんだとか。

「除去したものの残存ではない。完全に別物だと、これで言い切ることができるでしょう」

 きっぱりそう言った先生は、ただ、と声を落とした。

「今回はかなり進行が早い上、場所も場所なので、手術での除去は厳しいかもしれません。今まで放射線治療を続けてきていますが、抗がん剤治療も追加で始めてみるべきだと思います」

 先生にとっても前例のない事態みたいだった。声もどこか頼りなくて、母さんは俺を差し置いておろおろしている。今回ばかりは俺も若干、そうだったかな。

 先生はそんな場の雰囲気を和らげるように、わざとらしい高い声を出した。

「しかし、展望は暗いとは言えないでしょう。腫瘍の拡大がこれだけの勢いで進行しているにしては、友慈くんの病状は極めて良好です」

「確かに、結局あれから一度も、頭痛は起きてないし……」

 俺も応じた。実際、俺自身も不思議に思っていたところだったんだ。進んでいるのに痛みがないって、どういうことなんだろう。

 うーんと唸りながら、先生はPETの写真をめくる。

「……分からないな。ただ、病気の治療には予想のできない事態は付き物だよ。分からないなりに、何とかしていこう」

「抗がん剤、ってことですか」

「ああ」

 テレビで聞き慣れたその響きに、俺の喉はごくんと鳴っていた。


 ついに、抗がん剤か……。

 廊下を歩きながら、何となくその名前を頭の中で繰り返した。

 放射線治療は知らなかった俺だけど、抗がん剤なら多少は知ってる。薬でガン細胞を治すやつだ。その代わり、かなり見た目に関わるレベルの副作用が起きることもある。俺の今まで受けてきた他の治療と比べると、ちょっぴりリスキーな選択肢だ。

 愛は抗がん剤、やったことあるのかな。あるなら今度聞いてみよう。抗がん剤を飲むと、どんな風になるのか。そしたら気持ちも少しは楽になるかもしれないし。

 上の空で歩いていた俺と母さんと松山さんは、いつしか病室の前に着いていた。張っていた気が緩んで、ふああ、とあくびをした俺に、後ろから母さんがぽつりと声をかけてきた。

「……ねえ、友慈」

「ん?」

「一度、家に帰ってくる気はない?」

 ……俺は咄嗟に振り向いていた。

 いま何て言った? 俺、家に帰れるの? そんなの初耳だぞ⁉

「昨日だったかしら、伏見先生がそうおっしゃってたのよ。もしこのまま友慈の容体が安定し続けるようなら、一時帰宅の許可もできます。これから先はできなくなるかもしれませんから──って」

「帰りたい、帰りたい!」

 俺は賛成した。ためらう理由なんてあるはずがなかった。

 だってそれってつまり、家で普通に遊んだり、普通の食事を摂れたりするってことだろ? 治療が長期化して、これから少しずつ症状が現れてくるんなら、その前のせっかくのチャンスをフイにしたくなんてないよ!

 よっしゃ、帰ったら遊ぼう。読みかけで放置してある漫画も読もう!

「あら、そんなに嬉しいの」

 母さん、驚いてる。これだから健常者は困るんだよ。“普通の日々”を送れる当たり前の幸せが、母さんには分からないんだ。

「嬉しいに決まってんじゃん。いつ帰れるの?明日?」

「明日かしらね……。決まったら教えてくださいって、先生はおっしゃってたから」

「私からお伝えしておきましょうか」

 松山さんが横から名乗り出てくれた。

「手続きや経過観察もあるので、明日以降にはなると思いますが」

「お願いします!」

 母さんの声を遮って、俺から頼み込んでおいた。




 久しぶりの、我が家か……。楽しみだなぁ。

 その日はわくわくする気持ちが高ぶって仕方なかった。おかげで配膳に来た鴇田さんに怪しまれた。何があったの、って。

「家に帰れるかもしれないんですよ、俺!」

「あら。良かったじゃない」

 鴇田さんはくすりと微笑んだ。それからふと、小声でつぶやいた。

「寂しくなるわね」

「なんでですか?」

「だって竹丘くんは、北区の病棟の元気印よ?」

 そっか、と思った。基本的に重篤患者しかいない北区では、俺みたいなのは珍しいんだろうしな……。

「でも、患者さんが元気になってくれる方が私たちも嬉しいわ。楽しんでくるのよ」

 俺のテンションが少し下がったのを敏感に感じ取ってか、鴇田さんは優しくそう声をかけて、病室を立ち去っていった。

 ふふん、かえって俺が奮い立っているだなんて思いもしないだろうな。鴇田さんには悪いけど、北区になんて戻ってくるもんか。帰宅で“生きる力”を充填して、一気にガンを解決してやるんだ。それができなくても、少しくらい進行は遅くなってくれるだろう。

 愛に話してあげたいなぁ。自分で決めたっていうのに、同室でないことが今さらのように悔やまれて、俺は隣のベッドを見た。そこに愛の姿をしたアレが浮かび上がりそうで、慌ててそいつを頭から蹴り飛ばした。違う、お前じゃない。お前のことなんて好きじゃない。


 けど、結果的にこの願いは、すぐに叶うことになった。




 翌日。朝からCTスキャンやら何やら色んな検査を受けた結果、俺には伏見先生から外出の許可が下った。

 期間は最大二泊三日。今日の午後からだ。その間、定時になったら必ず飲むようにって、白い封筒に入れられた薬も渡された。

 昼頃に病院を訪れた母さんと一緒に、俺は外出中の注意事項の説明も受けた。過度に激しい運動は控えること、調子が悪いと感じたらすぐに通報し、病院に戻ること。その他、細々としたルール。

 気分が乗っていると長ったらしい説明もスイスイ頭に入って、俺は元気よく返事をした。元気がよすぎて、ちゃんと聞いたんでしょうね、って母さんに怒られた。

「いいね。自分はまだ患者なんだっていうことだけは、くれぐれも忘れないようにするんだよ」

 それだけでいいから、と念を押すように先生は繰り返していたっけ。患者であることさえ忘れなければ、自覚的に行動できるだろう。そういう信頼でもあったんだろうか。だとしたら、嬉しいな。


 診察室を出た俺たちは、松山さんに連れ添われてエレベーターの方へ向かおうとした。母さんの乗ってきた車に乗るために、駐車場に向かうんだ。

 そしてそこで偶然にも、車椅子に乗った愛に出会った。

「あっ」

 先に愛と母さんが気付いて、俺は口をぽかんと開けている愛を見ることになった。あ、この表情も、可愛い。

「お出掛けするの?」

 自分に聞かれていると分かるまでに、一秒かかった。うん、と俺はうなずく。

「許可が出てさ、これから家に二泊するんだ」

「えー、いいなぁ!」

 愛の声も弾んでいて、ほんのり俺も安心した。良かったよ、愛に『行かないで』とか言われなくて。そしたら俺、困っちゃうよ? ……うん、やめよう。都合のいい妄想は。

「お土産とか、要る? お菓子だったら買って来られるよ」

「うーん……、欲しいけど私、食べられないかもしれない」

「じゃあキーホルダーとかは?」

「いいの!? 私、可愛いキーホルダーとか集めるの好きだったんだ!」

 はしゃぐ愛の声が、さっきからインフレを起こしまくっている。むしろ今の愛をキーホルダーにして、スマホに取り付けたい。

「愛ちゃん、調子はどうなの?」

 ぼうっとしている俺の横から、母さんが尋ねた。愛は嬉しそうに応じる。

「最近は調子がいいんです。明日にはまた四人部屋に戻ってもいいって、先生が言ってました」

「あら。友慈、あんた負けてられないわね」

 何がだよ。あ、病状の話か。

 そうだなぁ。俺も早く、愛と隣になれるあの七○五病室に戻りたいな。あるいはさっさと脳腫瘍を治癒させて、毎日、愛のお見舞いに来てやりたい。

 そろそろ行くわよ、と母さんに急かされて、俺は愛を見つめた。愛も俺を見ていた。そして、天使みたいな笑みをいっぱいに浮かべて、言った。

「病室で、待ってるね」

 うんと言いたかったのに、うまく声が出なかった。代わりに大きく、うなずいておいた。


 まだ雪が融けきれずに残っている広い駐車場に出ると、懐かしい我が家の軽自動車がちょこんと鎮座していた。茶色の車体が陽光をきらりと反射して、早く早く、って俺を誘っている。

「…………」

 俺は訳もなく、後ろを振り返った。病棟、外来棟、管理棟にエネルギーセンター。大小さまざまの東都病院の建物群が、ところどころを白い雪に囲まれながら、どっしりとそこに建っていた。

 こんな風に全体を見るのは、先生に外へ連れ出されたあの日以来だったな。船みたいだって思ったのが、もう遠い昔のことのように思えるよ。

 感慨深くなっているうちにエンジンがかかって、母さんが乗るように促す。

 ドアをバタンとしめると、車は発進した。途端、母さんが独り言のように語りかけてきた。

「……あんた、さ」

「ん?」

「あの子のこと、好きでしょ」

 !!!!

 なんてド直球な質問なんだ!

 そんなことを聞かれるだなって全く予想していなかった俺は、咄嗟に何も言い返すことができなかった。駐車場を出ようとする車の車窓を、精一杯睨み付けるだけだ。

 図星みたいねって母さんは笑う。ちくしょう、情けないな俺……。

「……うん、実は」

 長いことかかって、やっと俺は肯定した。

「やっぱりねぇ。そうだろうとは思ってたのよ」

「い、いつから?」

「いつからかしら。なんとなーく、そうじゃないかって思い始めたの。あの様子だと愛ちゃんも気付いてるんじゃないかしら、あんたの想いに」

「…………」

「いい子じゃない。お母さんも応援してるわよ」

 うるさい、余計なお世話だ。

 確かに今にして思えば、けっこうバレバレだったのかもしれないや……。前の景色が見えなくなるくらい、俺は助手席で小さくなった。それから母さんを見上げて、ふと尋ねた。一応、聞いておきたいなと思ったんだ。

「なんで分かったんだよ」

 母さんはハンドルを切って、信号を右へ曲がった。そして直進区間に入ると、ふふ、と口元を歪めた。

「──親はね、大切な子どものことは、何でも知ってるものなのよ」

「なにそれ、怖い」

「そういうものなの」

 だめ押しまでされて、渋々ながら俺は黙ることにした。


 ハンドルを両手で握りしめる母さんの横顔は、微笑んでいるようにも、何かを耐えているようにも見えた。




 東京都清瀬市は、二十三区の西一帯に広がる多摩地域の北端に近い場所に、埼玉県に向かって突き出すようにして位置している、人口七万人の小さな町だ。

 大きな産業はない。市街のほとんどは住宅や畑、それに緑で構成されていて、斜めに市域に入ってきた西武鉄道池袋線と志木街道とが市の真ん中で直交する。それより西の地域には、俺たちの入院している東都病院をはじめ数多くの病院や医療施設が集中的に建ち並んでいて、そのエリアは特に『病院街』と呼ばれたりする。

 俺の家があるのは、西武線の清瀬駅を挟んで病院のちょうど反対側だ。都会らしい大きなビルもなく、騒音や排ガスとも無縁ののんびりした地域で、俺は生まれ育った。


 空けていたのは一ヶ月足らずとは言え、久々に目にする俺の家はどこか、外見もとぼけたように古びて見えた。

「うーんっ」

 思いっきり伸びをする。車庫から出てきた母さんが、ドアを開けてくれた。嗅ぎ馴れた家の香りが、玄関先にまでふわりと広がってくった。

「やっぱ、落ち着くなぁ」

 笑うと、母さんも笑った。

「そんなに病院の空気、苦手だったの」

「苦手じゃないんだけど、あんまり慣れたくはねーなー」

「そうね。短いに越したことはないわ。お母さんもあんたを産む時は長めに入院したんだけど、最後まで病室は好きになれなくてね」

 俺だってそうかもしれないな、と思った。七○五号室に思い入れがあるのは、あくまでもそこに愛がいるから。それ以上でも、それ以下でもない。

 そうだ、それで思い出した。愛には何を買って行ってやろうかな。

「母さん、あとで駅前に買い物に行っていい?」

 えー、と母さんは露骨に嫌な顔をする。当たり前か。

「まだ帰ってきたばっかりじゃないの。それに病人なんだから、大人しくしてなさい」

()いては事をし損ずるんだよ」

「はいはい」

 軽くあしらわれた俺は、憮然としながら家に入ったのだった。結局、このあと駅前まで母さんに車で連れていってもらったけど。


 やっぱり病院生活のせいなんだろうか。部屋に散らばったままの漫画を読むのにも、やりかけで放り出されたままのゲームを再開するのにも、こんなに楽しく、生き生きと取り組めるなんて。

 もう何度も何度も読み明かした挙げ句、厭きて本棚の奥に仕舞い込んだはずの本。友達と一緒に描き始めたはいいけど、途中でつまらなくなって埃の下に埋まっていた自作漫画。そんな、普通に暮らしているだけならカンタンに忘れ去れるようなものが、今の俺には懐かしくて、いとおしかった。

 夢中になって眺めていると、気付けば時間は信じられないような速度で進んでいく。夕方、買い物のついでに父さんを清瀬駅で迎えて、三人で車で帰った。忙しいサラリーマンの父さんは、なかなか見舞いにも来れはしないから、会うのはこれまた久方ぶりだ。

「元気そうで良かった」

 出会い頭の一言目にそう言うと、父さんはあの大きな手で頭をぽんぽんと叩いてくれた。こうされるのが無性に嬉しかった頃のことを、ふと、ぼんやりと思い返したっけ。

 駅直結のデパートで買ったキーホルダーはこっそりポケットに封印して、父さんと母さんと三人で、家路を目指した。ちなみに買ったのは、サザンカの真っ赤な花びらをモチーフにしたやつだ。俺は可愛いと思ったんだけど、愛は喜んでくれるかな。

 夕食前にふと思い付いて、山田たちに一時帰宅していることを伝えておくことにした。そりゃ腹は立つけど、あいつらだって友達だし、俺のことを心配してくれていたからああいう手段に踏み切ったんだろうし、畑の漫画も借りっぱなしだから関係を悪くはしたくないし。そう割り切れるほど落ち着いている自分がいることに驚きながら、メッセージを送信した。

 あ、しまった。借りてた漫画をみんな、七○五号室に忘れてきちゃったな……。





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