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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第三章 知りたい君の“Nonfiction”
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Karte-21 再びの夢





 その夜、夢を見た。


 ふっと意識が地面に舞い降りた時、俺はまた、あの手術の時の夢と同じ場所に立っていた。

 まただ、と思った。こっちの時間も今は夜らしく、人影はまばらにしかない。でも、廊下の向こうのスタッフステーションで時折出入りする人たちの周囲は、あの白い光に包まれていた。今さら見間違えるはずもなかった。

 どうしてこのタイミングで……。途方に暮れかけた俺は、いや、と背筋を伸ばした。俺はもう、何をしたら怖い目に遭うのかちゃんと知ってるんだから。

 学習したからな。七○五号室に入ればきっと、あの愛まがいの何かが控えているに違いない。いつまでこの夢の中にいるのか分からないけど、大人しく今の俺の病室──七三四号室で休んでいよう。そう思った俺は、誰もいない廊下を七三四号室の方を目指して進み始めた。


 懐かしいな……。

 愛と外気舎へ頻繁に遊びに行っていた頃は、こんな風景が当たり前だったっけ。

 しんとしていて、空調は効いているのにひんやりと肌に冷たい空気を湛えた、夜の病棟の廊下。愛が前で俺が後ろで、警備員を慎重に回避しながらエネルギーセンター経由で扉を開けたんだ。外へ出ることは自由の象徴であると同時に、俺たちが元気であることの証左でもあったんだった。

 今の俺に、そんな元気はないよ。脳腫瘍は変だっていうし、愛には変な感情を抱いちゃうし、山田たちとは変な関係になっちまったし……。まるで『変』化のかたまりだ。こんなに気持ちが鬱いだことって、今まで一度でもあっただろうか。

 はぁ……。

 嘆息した俺は、七三四号室のドアを開けた。何気なく。


 そこに、ヤツはいた。

「あ、見ーつけた」

 暗闇から唐突に聞こえた愛の声に、俺は自分が完全に油断していたことを思い知らされた。いや、もう後の祭りだ。今さら思い知ったって何の役にも立たないよ。

「なんで突っ立ってるの? おいでよ」

 俺は逃げようとしたけど、ヤツに手を掴まれてあっさり抵抗は失敗した。

 ヤツの握る力と引く力は、人間のそれと比較になるレベルじゃない。あわれ、俺はぐいぐいと中に引っ張り込まれ、無慈悲な音を立てて眼前でドアが閉まった。

 俺は真っ暗な部屋に、真っ黒なヤツに閉じ込められた。


「あれー、ずいぶん光が弱くなってる……」

 ヤツはさも意外そうに、俺をじろじろと見回した。愛と寸分違わないその容姿は、闇よりも暗く感じるほど光が見えなかった。前と同じだった。

 くそ。もう、どうにでもなれ。まさか夢の中で死ぬような目にはならないだろう。早々に諦観を抱いた俺は、ヤツの為すままにそこに棒立ちになっていた。

 しばらく関心高そうに俺を眺めていたヤツは、そっか、とばかりにポンと手を打つ。

「気を許しちゃったんだね。そんで私が竹丘くんに移っちゃったから、こんなに弱くなってるわけかぁ」

 何を言っているのか分からないのは、前回と何も変わらないか……。いや、でも俺のことを『友慈』とは呼ばないあたり、やっぱりこいつは愛とは別の何かなんだろう。

 いいか、俺。こいつの発した一字一句、見せた一挙手一投足、ぜんぶきちんと覚えておけよ。

 そう肝に命じた瞬間、ずいとヤツは俺の眼前に顔を寄せた。底が見えないほど漆黒に沈んだ瞳が俺を捉えて、その凍てついた刷毛で心臓を撫でた。

 ひっ、と引きつった声が出た。ダメだ、怖い。こんなのを直視していたら俺が狂う。覚えてなんて、いられないよ……。

 口をぱくぱくさせる俺に向かって、愛の姿をしたヤツは首を小さくかしげ、言った。

「気を許したなら、仕方ないよね」

「…………?」

「ね。私とひとつになろう」


 ひとつになろう、って……。

 おい、まさかそっちの意味じゃないよな。

 そうでない僅かな可能性に期待をかけたけれど、案の定だった。ヤツは俺を抱き締め、腰を──もしくは股をすり付けてきた。そして、絶句したままの俺から一歩離れると、ヤツはパジャマの前ボタンをひとつ、ふたつと外してゆく。

 なまじ愛の身体をしている分、その姿には中途半端に愛の幻像が重なって、俺の恐怖とは裏腹にそれはひどく艶かしかった。言い換えると、エロかった。やめろ、それ以上は脱ぐな。そんな思いも虚しく、すべてを脱ぎ去ってしまったヤツはやおらに俺の服にまで手を伸ばす。

「!」

 嫌だ、嫌だ!!

 振り回した手がヤツの身体をすうっと透過して、俺は泣きたくなった。丸裸にされるまでに、一分とかからなかったと思う。ああ、いざっていう時のために院内での服は脱ぎやすいものにしろって言われていたけど、まさかこんな形で裏目に出るとは……。

 つう、と口の端から(よだれ)を垂らしながら、ヤツは俺をベッドに押し倒し、四つん這いになって上からまたがった。そこまで大きくない胸が、痩せて肉付きのよくない腹が、それより下が、そして俺の下半身がぜんぶ丸見えで、俺は懸命に目を閉じた。それしか俺にはできなかった。

「大丈夫だよ、竹丘くん。私、きっと気持ちよくさせてあげるから」

 淫乱そのものの表情で、ヤツは俺ににじり寄る。そして、色気たっぷりの猫なで声で、誘惑する。怖いはずなのに元気に反応してしまう身体を、俺は思いきり指でつねった。痛覚は、なかった。

「色んなことが起きてさ、疲れたでしょ? 私と一緒に気持ちよくなろうよ。そしたら余計な煩わしい悩みになんて、苦しめられなくなるんだよ」

「や……め……」

「えぇ、いいじゃないー。ね、私のカラダのこと、私のヒミツのこと、なーんでも教えてあ、げ、る、か、ら♪」

「…………!」

 俺はますます固く目を閉じた。それ以上ヤツの声を聞いたら、姿を見たら、もう二度と愛を直視できない。計り知れないその恐怖に耐えるには、必死で見ないようにするしかなかったんだ。

 刹那、何かと何かが触れ合い、腐臭にも似た臭いを撒きながらゆっくりと包み込まれていくような感覚がして。ぬるりとした触感が、心底気持ち悪くて。

 俺の意識はその辺りで、沈むようにどこかへと落ちていった。


 ああ。

 今度は俺、どこへ堕ちるんだろう……。






「────はっ!?」


 俺はベッドに起き上がっていた。

 急いで周辺を確認する。誰もいない。俺はしかりと部屋着を着ているし、俺の身体が光っていることも、ない。

「…………」

 安堵のため息が、口からどっと溢れ出した。だけどそれはすぐに安堵の色を失って、落胆へと変わっていった。

 ここももう、安全じゃないんだな……。底の見えない絶望感に浸りながら、俺は膝を抱えて体育座りになった。すると自然に、涙が目元を伝っていった。

 どうして俺は、あんな目に遭わなきゃいけないんだろう。なぁ、俺が悪かったのか。悪かったんならそう教えろよ、教えてくれよ。何でもするからもう、勘弁してくれよ……。

 今はこの病室にいるのも怖い。目を拭った俺は、立ち上がってスリッパを履いた。そうだ、向かいのトイレに行って、それから適当に談話室で時間を潰そう。談話室なら目の前にスタッフステーションがある。誰か他人がいさえすれば、怖さも多少は薄れてくれるよ。

 よろよろとした足取りでトイレに向かい、用を足す。それから、談話室に向かった。


 談話室の電気は落ちていて、背後のスタッフステーションからの黄色い灯りが、並んだソファーや机を照らしていた。

「おや、起きてるの?」

 宿直の看護師さんが、通りかかった俺を見て声をかけてきた。北区に一人しかいない男性の看護師、清戸(きよと)さんだ。

 はい、とうなずいた。

「眠れなくて」

「困ったね……。ホットミルクくらいなら、SS(ここ)でも用意できるが」

「いえ、大丈夫です。その代わり……少しでいいんで、そこにいてもいいですか」

「談話室?」

「そうです」

 人目がある方が安心するんです、なんて口にしたら子供扱いされそうで嫌だから、黙っておく。

 ま、いいだろう。清戸さんはそう口にして、ぱちんと電気をつけてくれた。優しいなぁ。

「……ありがとうございます」

「あまり遅くまではダメだからね。今が一時半だから──そうだな、二時までには寝るように」

「分かりました」

 それだけあれば心も落ち着くだろう。

「それから──」

 まだ何かを言おうとした清戸さんは、不意に左を見た。

「おや、君もか?」

 なんだ、他にも起きてきた人がいたのか。そのくらいの感覚で、俺は清戸さんと同じ方を見た。


 そこにいたのが愛だと知っていたら、俺、振り向かなかったかもしれない。

 そう。点滴のスタンドをお供に連れた愛が、薄暗い廊下に立っていたんだ。

「友慈……?」

「あ、愛!?」

 面食らった俺の声は盛大に跳ね上がって、清戸さんに目で怒られた。愛はがらがらとスタンドを押しながらやって来て、清戸さんに申し出る。

「なんだかちっとも寝付けないんです」

「ホットミルク、要るかい?」

 どんだけこの人はホットミルクを推すんだ……。なんて苦々しい気持ちを指先でもてあそんでいたら、愛は首肯した。マジか。

「いただきます」

 待ってて、と言い置いた清戸さんは、駆け足でスタッフステーションの中に戻る。その姿を目で追っていたら、愛に肩を叩かれた。

「友慈も眠れない?」

「……ああ」

 しかも原因は他でもなく、愛の姿をしたアレのせいだ。

 同室を断った手前もあるし、愛の顔を直視したくなくて、俺はまだ清戸さんを見つめながら返事をした。愛はちょっとだけ笑って、応える。

「なんだ、一緒だね」

「うん……」

 愛の態度はびっくりするほど普段通りで、だからなのかな。何かしら言葉を返すごとに、罪悪感が俺の背中をざらざらした舌で舐めていく。

「友慈ももらいなよ、ホットミルク」

「お前まで勧めるのかよ」

「知らないの? あれって本当によく眠れるようになるんだよ」

 そうなのか……。

 眠れるなら、その方がいいなぁ。やっぱり俺の分もください、と言うつもりで清戸さんを再び見ると、清戸さんは既にカップをふたつ持ってきていた。何だこの人、心でも読めるのか。


 カップはスタッフステーションのものだからというので、俺たちは談話室で二人、ホットミルクをすすった。

 談話室には正面に大きな窓がある。この病院で一番高い七階からの夜景は、ぶっちゃけ東都病院の敷地内しか見えなくてつまらない。けど、眼下に幾つも並んで肩を寄せる建物群にはどれもまだ煌々と灯りが輝いていて、院内ではまだたくさんの人が働いていることを暗に見せてくれている。愛と二人きりで、夜景を眺める。やっぱりどこか懐かしかった。

 ホットミルクは温かい。温度は熱いものの、牛乳独特の柔らかな舌触りとまろやかな味が、その熱をふんわりと包んで適温に感じさせてくれるんだ。

「なんか、安心するな……」

 カップを両手で握りながら独り言を言うと、愛もこくんと首を振った。正面のガラスに、二人の姿が仲良く並んで映っていた。眠そうだ。

「安心すると、眠くなるよね」

「なんでだろうな。ただ温まってるだけのミルクなのに」

「私は、赤ちゃんとかの頃に戻った気分になるからだと思うな」

「赤ちゃん?」

「うん。ほんのちっちゃな、可愛い赤ちゃん」

 愛は膝の上に手を置いて、目を落とす。

「ホットミルクって、温かさから言っても母乳に近いものだと思うの。母乳を飲んでた頃の赤ちゃんって、いつも必ず誰かが見守ってくれていて、安心の中に浸っていられたじゃない。ホットミルクを飲むと、その時の安心感を思い出したりするんじゃないかなーって」

 なるほどなぁ。確かに小さかった頃はまだ俺たち、今こうして抱えているような不安とはまるで無縁の世界で、安寧にくるまれて生きていたっけ。

 ふーっ、と愛は穏やかな息を吐いた。その横顔にふと、俺は訊いた。

「愛はどうして、眠れないの?」

「なんでだろ」

 愛は小声で言うと、微笑む。

「友慈がいなかったからかな」

「え……」

「私だけ隔離されてた頃も、毎日ここにこうやって来てたもん」

 呆気に取られた俺の隣で、うーん、と伸びをする愛。膨らんだパジャマの胸元から中が見えそうになって、俺は慌てて目を背けた。何だよ俺、ヘタレだな。ヤツの裸はもうばっちり見たってのに。

「?」

 愛は不思議そうだ。カップの側面をそわそわと撫でながら、ふとした風に尋ねてきた。

「そうだ聞き忘れてた。友慈は身体の調子、どう? 良くなった? あんまり良くなさそうだからって松山さんが言ってたから、ちょっと心配してたんだけど……」

 松山さんが昨日の午後『適当に伝える』と口にしていたのを、俺は思い出した。

「大丈夫だよ。今は、そんなに」

「そっか……。よかった」

「愛は?」

「今は落ち着いてるよ。つい二時間前とかまでは、吐き気もひどかったんだけど」

「そっか……」

 愛の受け売りみたいな俺の返事に、くすっと笑って愛は返してくれた。

 この話はやだな、気まずくなる。話題をよそに逸らしたくて、俺はホットミルクを勢いよく飲み干した。あーもったいない、なんて愛が抗議していたけど、聞かなかったことにしよう。

 それから深く座り直して、考えた。


 不安なのかもしれないな。俺は、きっと。

 その不安に乗じて、ヤツは俺の前に現れたに違いない。その証拠に俺、前に現れた時には、迫ってきていた手術に不安を感じていたんじゃないか。

 だとしたら、今度の不安は何だろう。

 自分のどうにもならないところで、自分の根幹に関わるモノが移り変わっていくことへの不安か。病状然り、部活然り、恋心……然り。


 ミルクのおかげで落ち着いたから、不安の正体を見抜けるようになった。うん、それだけでも大きな戦果だよ。愛と清戸さんには、お礼を言わなきゃいけないや。

 ふふ、と鼻だけで微笑した俺の肩に、愛がどさりと崩れてきた。

 何だ、突然。どぎまぎしながら横を見れば、愛はふらふらと身体を起こす。

「ごめん、ちょっと眠くなっちゃった……ふぁあ」

 ホットミルクの効きすぎだ。途端に俺の身体中の血管を、冷たい液体が流れ出す。

「お、おい、ここで寝たらまずいってば」

 肩を掴んで揺り動かすと、うーあーと呻きながら愛は揺れる。肩も吐息も、温かい。ヤツとは大違いだった。

 ああくそ、こういうところまでいちいち可愛いんだから……。

 そう思って頭をぶんと振った瞬間、その一瞬だけ俺は冷静になった。そして考えた。

 今なら抱けるかもしれない。この小さな肩を、華奢な身体を抱きしめて、耳元で一言だけ言えばいいんだ。好きだよ、って。

 ……あ────っ! 言えるわけないだろ! そんな恥ずかしいセリフ、シラフで言えるわけがない! ミルクなんか何杯飲んだって酔えないし!

 混乱しながらも何とか理性を保つ俺のもとに、清戸さんが駆け寄ってきた。

「大丈夫?」

「寝落ちそうです、こいつ」

「ありゃ……。仕方ない、私が連れていこう」

 さ、と清戸さんは愛の肩を抱いた。愛も無言でうなずいた。

 あんなにさりげなくなんて、俺にはできないや……。時間を追うごとにヘタレ度の増してゆく自分に嫌気が差して、俺も後ろを向いて自室に帰ろうとした。


「──友慈」


 呼び止めたのは、愛だった。

「不安になったら、真正面から向き合ったらダメだよ。ちょっと斜めの位置に立って、惑わされないようにするの」

 寝ぼけているとは思えないほどしっかりした声だった。振り返った俺を見て、愛は微笑んでいる。いつものように、ぐだーっと。

「そしたら、私みたいな弱い人間でも、現実に砕かれちゃったりしないで済むんだよ」




 愛と清戸さんが廊下の先に消えてからも、少しの間、俺はそこに立ち尽くしていた。


 まだやめておこう、告白するのは。そう思った。

 俺にはまだ、困っている愛のもとに駆けつけて、抱きしめてあげられる力はない。愛と気持ちを交わすっていうのは、そこまでの力量と覚悟を手に入れた前提の話じゃなきゃダメだ。

 俺にはその力量がほしい。そのヒントになるだけのことを、愛は今ここで教えてくれた。

 どのみちあんな夢のこと、愛には話せないよ。俺が(ヤツ)に犯されただなんて……。それこそお互い真っ赤になって、気まずくなるだけだし。今こうして思い出すだけで恥ずかしいし。




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