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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第三章 知りたい君の“Nonfiction”
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Karte-20 病状悪化




 異変が起こったのは、まさにその翌朝のことだった。


 強い頭痛がする。

「…………?」

 起き上がった俺は、ベッドについていた手を後頭部にあてがった。頭が痛い。頭の内側から、圧迫されているような感覚がある。

「ふああ」

 その時、隣で目を覚ました愛が、俺を見て声をかけてきた。

「おはよう……どうしたの、友慈」

「分かんねえ。頭が、ちょっと」

 告白する日の一言目がこれとか、情けないな……。軽く凹みながら愛を一瞥した瞬間、痛みが増した。それまでのものなんか比較にならないくらい、ずきずきと痛みだしたんだ。

「あっ……!」

 俺は呻いた。愛の顔に、危機感の影が差したのが見えた。

 経験のない痛みだった。いや、経験はあった。同じ場所が同じように痛んだだけなら、俺が入院する前にも小さいのがあった。ただ今回は、痛みの度合いがケタ違いに上なんだ。

 痛い、痛い、痛い……!

「どんな風に痛い?」

 いつしか愛はベッドを降りて、点滴のスタンドを引きずりながら俺のそばまで来ていた。俺は押さえたところを示して、答える。

「中から、何か強い力に押されてるみたいなんだ……」

 愛の目が見開かれた。

 え、ちょっと、どういう意味だよ。俺からそう聞くより前に、愛は通報ボタンに手を伸ばそうとしている!

「待てって!」

 俺は叫んでそれを止めた。危なかった、すんでのところで愛の通報を押し留められたよ。

「大丈夫だって、ただの頭痛だよ! 少し時間を置きさえすればじきに──痛っ!」

 自分の声が脳にガンガン響いて、俺は両手で頭を押さえた。痛いというより、怖い。俺の声ってこんなに低くて、ひび割れていたか?

 ううんと首を振った愛の目は、真剣そのものだ。

「ダメ! 通報しないと!」

「でも……!」

 俺はなおも訴えようとした。

 ダメだ。通報なんてしちゃダメなんだ。通報して俺が別室へ移動になれば、告白することもできなくなるんだ……っ!

 だけど、なおも抵抗しようとした俺の前で、固く目を閉じた愛はついにボタンを押してしまった。

 鳴り響く警報音に打ちのめされて、俺は絶望的な気持ちになった。でも、本当に絶望していたのは愛だったのかもしれない。けたたましいサイレンを背中に受けながら再び愛が開いた目は、鳥肌が立つほどに、怖かった。


「早朝、中から圧迫されたような頭痛を患部に感じる──」

 愛は震える声で、俺に説いた。

「私も同じ病気を罹患してるから分かるよ。それ、かなり末期の、脳腫瘍の症状なんだよ」




 哺乳類の脳は、頭蓋骨の中にすべて収まりきるようにできている。その圧力は一定ではなくて、だいたい朝は高くて、夜になるにつれて下がっていく。

 当たり前ながら頭蓋骨っていうのは固い。脳を守るためにあるんだもの、固くなけりゃ意味がない。だけど、それはつまり、中の容積は決して容易に変化したりしないってことでもある。そしてそれは、本来そこにあるはずのない腫瘍ができてしまったガン患者であっても、同じことなんだ。

 成長するにつれて肥大化したガンは、末期にまで成長すると脳を圧迫するようになる。その結果、特に脳内の圧力が高まる早朝になると、内側からの強い痛みが生じることがある。正式名称は『頭蓋内圧亢進(こうしん)症状』──放っておくと嘔吐したり、癲癇(てんかん)の症状を起こしたりするようになる。

 それこそが、俺の感じた頭痛の正体だった。


 ストレッチャーに載せられた俺が運び込まれたのは、いつか愛が二度ほど監禁されたことのある、あの七三四号室だった。当直の下宿先生がすぐに駆け付けてきて、伏見先生が来るまで俺の様子を診、痛み止めを処方してくれた。

 俺のために駆け足で来てくれたんだろう。汗だくで病室に到着した伏見先生は、下宿先生と俺、搬送してくれた看護師さん、それから同じくついさっき来たばかりの松山さんを前にして、小さな声でつぶやいた。

「……ついに、来たか」

「ええ」

 松山さんとの間には、もう意思疏通が取れているようだった。

 待ってください、ついにって何ですか。何のことですか。そう聞きたくなった俺は、伏見先生が唇を噛みしめたのを見て、その気をなくしてしまった。先生らしくもない、感情を昂らせているような表情だった。

 下宿先生から経過報告を受けると、伏見先生は俺のそばに座った。松山さんが横からそっと、カルテを差し入れる。

「痛み、今はどうだい」

「かなりマシになってきました。一時間前とか、かなり酷かったんですけど」

 時計を見上げた俺は、そう答えた。時刻は八時。痛み止めが効いたのか、もう転げ回るほどの疼痛はない。

「そうか……。痛めた場所と深さ、正確に教えてくれ。つらいとは思うが、あとでMRIも撮ってきてもらうよ」

「俺、末期なんですか」

 カルテに目を走らせていた伏見先生は、その目をつと上げて、ぽつりとこぼした俺を見た。

「愛が──いえ、野塩さんが言ってました。末期の脳腫瘍の症状だって」

「脳内転移が見られた時点で、君の脳腫瘍は間違いなく末期だった」

 にべもなく先生は言い放つ。ただ無愛想なだけでは、なかったみたいだけど。

「いいね、勘違いしたらいけないよ。末期と危篤は別物だ。手の施しようがあるかどうかは検査しなければ分からないけれど、今から自分がもう死ぬんだなんて決めつけてはダメだぞ」

「あれだけ短時間で痛みが収まったんだ。まだ十分すぎるほど、見込みはあるよ」

 下宿先生もそう続けてくれた。確認を求めて流れた視線の先で、看護師さんたちもうなずいた。

 そうなの、かな……。

 安堵できたようなできなかったような、宙ぶらりんの気持ちで、俺は自分の症状を説明した。先生は看護師さんたちにてきぱきと指示を飛ばしながら、俺の話をきちんと聞いてくれた。その頃にはもう、朝方の痛みは痕跡も残さずに消え失せていて、説明するのには少し苦労したっけ。

 二月二十八日。入院から二十三日目にして初めて、俺は二人部屋に隔離された。




 あーあ。

 これでもう完全に、愛に気持ちを伝える機会は失われちゃったな……。


 孤独になった病室を見回して、俺は盛大にため息を漏らした。

 ここ二人部屋は、四人部屋とは事情がかなり異なっている。入院した時、入院生活ガイダンスを施してくれた松山さんに聞いたことだけど、この東都病院には特別料金制の個室部屋、通常入院用の四人部屋、それから緊急対処や経過観察用の二人部屋があるらしい。この部屋はそもそも最初から、一時的にでも危険な状態に陥ったりした患者を収容するための病室なんだそうだ。四人部屋には見られなかった医療機器がたくさん置かれていて、非常時にはここで簡易な治療もできるようになっている。廊下を隔てたすぐ向かいには、各フロアに一つの診察室と治療室も設置されている。

 俺、これから毎日、ここで朝の頭痛に耐える生活を送ることになるのかな……。こんなところに何日もいたら気が滅入りそうだよ。というかもうすでに若干、滅入ってるよ。

 愛と同室に復帰して、しばらくはいつものような日々を送ることに重点を置いて、告白するとしたらそれからだな。長いスパンの計画になりそうだ。

 同じフロアとは言え、壁を何枚も隔てて離れてしまった愛のことを思いながら、俺は病気のことはなるべく考えないように、意識の外に置くように努めることにした。







 愛じゃなくて俺が七三四号室に隔離されたことに、少なからず衝撃を受けたらしい人は多かった。

 七三四号室は七病棟北区にある。以前いた七○五号室とは管轄するスタッフステーションが違うから、対応に当たる看護師さんも違う。ただしプライマリーナースの松山さんだけは、例外的に俺の担当であり続ける。

 食事の配膳をしてくれたのは、北区スタッフステーション所属の鴇田(ほうだ)さんだった。南区の室田おばさんと役割は同じみたいだ、道理で仲が良かったんだなぁ。室田おばさんほどの賑やかさはないけれど、鴇田さんもいい人だってのを俺は前からちゃんと知ってる。その日も、元気を無くしていた俺に向かって、いたずらっぽく笑っていたっけ。

(いく)ちゃんが寂しがってるわよー。早く向こうに戻ってあげなさい」

 侑っていうのが室田おばさんの名前だ。ちなみに二人とも、俺の見立てではたぶん五十代。

「やっぱり、分かるんですか?」

「当たり前じゃないのよー。侑ちゃんは南区SS(スタッフステーション)の元気のバロメーターだからね、笑顔がなくなったら寂しがってるなって分かるの」

 そりゃ分かりやすいな、信号機みたいだ。だけど言われてみれば確かに、愛がいなくなっている間のおばさんも、笑顔をあんまり浮かべていなかったような気がする。あの人の中で、俺は愛と同じように扱われているんだな。そう思ったらちょっと、顔が綻んだ。


 その綻んだ顔を潰してくれたのも、俺を心配していた人たちだった。昼過ぎに見舞いに来てくれた母さんと、部活の山田たちだ。

 母さんはまだいい。心配性なのはいつものことだから、多少オーバーに心配されたくらいじゃ俺はもう動じない。でも山田たちは、事情が違う。


「お前ら、もう聞いたかよ」

 俺の容態を聞いて安心した様子の三人に、俺は下を向きながら尋ねた。

「何を?」

「俺がリレーメンバーから外されること」

 何それ、と母さんが反応した。三人は居心地悪そうにお互いの顔を見合わせる。中西が遠慮がちな声で、俺の問いに答えた。

「知ってるよ」

「俺、もう少しで何とかするからさ、メンバーから外さないように監督にお願いしてもらえないか。俺も監督に連絡してるんだけど、返信も寄越(よこ)してくれないんだ」

 ほら、と証拠にSNSの画面も見せた。

「け、けど」

「頼むよ……。先輩たちは高校受験で忙しそうだし、他にやり方がないんだよ」

 食い下がる俺は、三人からはどんな風に見えたんだろう。今までこんな風に懇願したことなんて、いや下手に立とうとしたことなんて、思えば一度もなかった。

 母さんは俺たちの後ろで、じっと成り行きを見守っている。(しば)しの静寂を破ったのは、中西じゃなくて山田だった。

「怒らないでほしいんだけどさ。そのメンバー交代、俺たちが頼んだんだ」

 言っている意味が分からなかった。

「だってお前、仮初(かりそ)めにも末期ガンだろ。部活部活とか言ってられる状態じゃ、ないんだろ……。どうせ練習期間も短いしさ、思いきってメンバーから外した方がお前も治療に専念できるだろうと思ってさ」

「勝手なことすんなよ!」

 怒らないでほしいと言われたのに、俺は結局そう怒鳴ってしまった。山田たちの瞳に、怯えの光が走った。

「また走れるって思ってたから俺、今まで入院生活に耐えてきたんだよ! だいたい、俺がいなくてあのリレーチームが上位大会になんて行けるもんか! お前らは何も分かってないんだよっ!」

「分かってるから提案したんだよ。俺らだって、伊達に二年もお前の友達やってねえよ」

 低い声で反論したのは、中西だ。

「冷静になれよ友慈。こうして症状まで出ちまった以上、もう軽い軽いなんて言ってらんないだろ。一晩寝て、ゆっくり考えてみろって。きちんと病気に向き合わなきゃ、下手するとお前──」

「死ぬ、って言うのか」

 う、と中西は声を詰まらせた。さすがにその言葉だけは、簡単には口にできないみたいだった。

 裏切りは身内にいたってか……。まさに灯台下暗しだ。説得する気力も失われて、俺はただうなずいた。そうして、殺し文句だと分かっていながら、つぶやいた。

「もういいよ。……お前らには、がっかりだ」

 山田と中西の形相が変わったのを見た畑が、二人の背中を押して病室を出て行った。その配慮にだけは、心で感謝した。

 部屋の隅に佇んでいた母さんが、代わりに隣に座った。少しばかり話をしたけど、母さんは部活については一切何も言及しようとはしなかった。

 もしもされていたら、涙を隠せなかったかもしれない。







 MRIの結果は、恐れていた事態が現実になりつつあることをはっきりと眼前に示してくれた。

「術後の方は経過順調だね。問題は、新たに転移した方の脳腫瘍だ」

 診察室に俺と母さんを呼んだ伏見先生は、写真の一部を赤ペンでなぞった。

 前に先生が、大きくなっていると言っていた部位だった。

「比較するとすぐに分かることだけど、成長している。しかも普通ではない成長の仕方をしているんだ」

「速度、ですか」

「その通りだ。他の脳外科の先生方とも何度も話し合ってみたんだけど、どうにも何が起こっているのかがつかめない」

「べ、別の病気ということは、ないんですか……?」

「脳腫瘍には違いないでしょう。恐らくは先日手術で除去したのと同じ、神経膠腫(グリオーマ)。それも、この成長の速さと発生位置からすると、『膠芽腫』と呼ばれるタイプである可能性が高いです」

 母さんのため息が、診察室に重たく響き渡る。

「期待されているほど効果が上がっていない現状を考えれば、やはり治療方法も含めて再検討が必要かと思います。──負担をかけることになって悪いんだけど、友慈くんにはまた一通りの検査を受けてもらうことになるよ」

「分かりました」

 PETやMRA──核磁気共鳴脳血管撮影のことだろう。俺はまた、振り出しに戻ったわけか。

 山田や中西たちの強引な提案を受けるまでもなかった。自分の病に向き合わなければならない状況に、俺はもう追い込まれてしまっているんだ。


 ただ、と先生は言った。

「写真を見る限り、脳腫瘍の拡大は確かに異常ではありますが、まだそこまで大きくはありません。友慈くん、今のところ頭痛以外の自覚症状はないんだよね」

「ありません」

「通常ならば脳腫瘍は進行するにつれて、頭痛に始まり吐き気や視界のぶれ、病巣のある脳部位に関わる器官の能力低下、といった順に症状が現れます。友慈くんの場合は、まだ発症したとは言っても初期段階である可能性が高いです」

「俺、助かるんですか」

「助からないなんて言うと思うかい」

 先生は笑った。目は全く笑っていなかった。

 その日のうちにMRIを撮影することになった。一刻も早い方がいい、というのが理由だったけど、勘弁してほしいなと思った。朝に頭痛になってから、色んなことが起こりすぎたよ。もう俺、疲れたよ……。




 廊下で母さんと別れ、病室に戻った俺の前には、松山さんの姿をした最後の懸案事項が立ちはだかっていた。

「相談があるの。いいかしら」

「……何ですか」

 嫌な予感がぷんぷんして、俺は初めから訝しげに聞いた。その予感は、命中した。

「愛ちゃんのことなんだけどね。あの子も昼過ぎ、急に体調を崩したの。それで今、七四二号室に移して様子を診ている最中なんだけど、本人がここへの転室を希望していてね」

「……ここへ、ですか」

「七病棟そのものはそこまで混雑していなくて、特に二人部屋には空きが多いから、私たち看護師としてはどちらでも構わないのよ。どのみち私が担当させてもらっているしね。ただ、友慈くんの意向を聞かないことには、転室を許可するわけにはいかないから」

 どうかしら。中腰になって目線を合わせた松山さんは、俺に答えるように促した。

 ……そりゃ、一緒になれたら嬉しいよ。嬉しい、けどさ。

「断ってもらえますか」

 俺は首を横に振った。

 松山さんは驚いたようで、目をぱちくりさせる。俺は重ねて説明した。

「今はあんまり、愛に会いたくないんです」

 気持ちの整理がつかないから、とは言えなかった。この気持ちだけはまだ、誰の目にも触れないところで培養していたいから。俺のガンがどうなろうが、愛への気持ちは決して揺らいだりはしないんだ。

「……分かったわ。愛ちゃんには、適当に説明しておくから」

 俺の意思を汲み取ってくれたのか、松山さんはそう言ってきびすを返し、病室の外へと消えていった。






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