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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第三章 知りたい君の“Nonfiction”
22/48

karte-19 愛するということ、守るということ






「友慈はさ、知らないことは何でもかんでも知りたいって思う?」

 話し終えた愛は、まだ聞く姿勢を解除していなかった俺に問いかけた。

 俺はどきりとした。まるでその言葉が、『愛を守りたい』っていう題目の下に愛の事情を聞き出そうとしてきた俺の姿勢を、暗に批判しているようだったから。

「お、俺は思うけど。だって何も知らなかったら、何もできないじゃん」

「そっか……。友慈はやっぱり、強いんだね」

「強い?」

「私は弱いから、知らなくてもいいなって思っちゃう」

 愛はまばたきをした。ひらりと揺れた長い睫毛が、羽根を閉じて縮こまる鳥のように見えた。

「私にも昔はお父さんがいたし、友達もきっといたんだと思う。でも、今はどっちもいない。いたんだってことを知ってしまったら最後、失ってしまったことを私はずっと悲しむことになっちゃうと思う。それはすごく、つらいことだと思う」

「ああ……」

「昔のことなんて知りたくないし、知らなくてもいい。たとえ家族がいなくたって、今の私にはお父さん代わりのお医者さんがいて、お母さん代わりの看護師さんたちがいる。私にはそれだけで、十分すぎる幸せ。──今は隣に、友慈もいるしね」

 そうか、と思った。愛は現実を受け入れられるほど自分が強いと思えなかったから、あえて知ろうとしないことで今まで弱い自分を守ってきたんだ。

「友慈も、友慈のお母さんも、私にとっては『友達』でも『家族』でもない、でもとっても大切でかけがえのない人」

 うつむいたまま歌うように口ずさんだ愛は、ぽつりと付け加えた。

「『(なんじ)、自らの(ごと)く、汝の隣人を愛せよ』──」

 その言葉は、さっきの。

「どういう意味なの、それ」

 俺が思わず聞くと、愛はきょとんとした。

「そのまんまだよ。自分を愛するように、あなたの隣にいる人を愛しなさい。そういう意味」

 言ってから顔を赤くする。

「あ、その、えっと、愛するっていうのは恋愛的なアレじゃなくてね……?」

「あ、ああ……」

 俺も何となくそうだろうとは思ってたけど、つられて顔が火照り始めた。なんだか俺たち、毎回こうなってないか?

「……元はね、新訳聖書の言葉なんだって。私はキリスト教を信じてるわけじゃないけど、本を読んでる時に偶然その言葉を見つけて、とってもいい言葉だなって一目惚れしちゃった。記憶を失って、最初から隣人だけを周りに配置された状態で人生を再スタートさせられた私には、きっとお似合いの言葉なんだと思うんだ」

「…………」

「愛ってね、誰かにあげたらちゃんと返ってくるものだと思うの。だから、私の方から誰かを愛することができれば、今まで誰にも愛してもらえなかった私のことも、誰かが大切に思ってくれるかなって思って。でもそんなの図々しいって神様は思ったんだね。今まで隣にいた人はみんな、私を好きになってくれなかった」

 うなだれた愛は、でも、と言って顔を上げた。

「今は隣に、友慈がいる。友慈のお母さんがいる。病院の人たちがいる。みんながいて、笑ってる。愛されている実感がなくても、それを見るだけで私も心がぽかぽかして、明日も頑張ろうって思える。そのことに、気づいたの」

「俺たち、が……?」

「うん。何だかね、この病院にいる人たち全員が、私の家族みたいに思えてくるんだ。苦しい時は助けてくれて、悲しい時は寄り添ってくれて、そこにいるだけで私の心も温かくなる……そんな、大きな大きな、だけどありふれたごく普通の家族みたいに」


 『汝、自らの如く、汝の隣人を愛せよ』。

 思えば俺、この言葉を最初にあの新書で目にした時からずっと、違和感を感じていた。

 この言葉には目的がない。つまり、そうすることで自分はどうなるのかが、何も書かれていないんだ。だから、隣人を愛することのメリットが何なのか、俺にはよく分からなかった。……もっとも『汝』の意味も分かってはいなかったんだけど。

 でも愛の言うことを聞いて、少しその真理に手が届いた。愛は俺たち『隣人』を、本当に心から愛しているんだ。そんでもって、俺たちが感じている幸せや喜びや楽しみ──言い換えれば“生きる力”を、自分自身の“生きる力”に取り入れているんだ。それが結果的に自分を長生きさせて、自分を愛することに繋がるんだと分かっているから。……そう、『自らの如く』。


「ごめんね。勝手に家族扱いしちゃって。私は本当の家族なんかじゃないのに」

 黙っていた俺に、愛は控えめな声で謝った。

 どのくらい本気で謝っているんだろう。部屋が明るすぎるせいで表情が読めなかったから、俺は確認の意味も込めて答えてやった。

「愛が治るんなら何でもするって言ったじゃん。気にすんなよ、そんなの」

「うん。友慈は優しいから、そう言ってくれる」

 布団の中でもぞもぞしながらそうつぶやくと、愛は膝をぎゅっと抱え込む。

「友慈は、今まで私が出会ってきたどの『隣人』さんよりも、優しくて、私を気にかけてくれて、心配してくれて、何より……隣にいることを嫌がらないでくれる」

 俺は泡を食ったように窓の外を見た。

 あ、愛は膝を見つめてたから、バレてなんかいないし。断じてないし。暖かな日の光に頬がいっそう熱くなるのを感じながら、でも少し、嬉しくなった。

「ねぇ」

 背中に、愛の声がかかった。

「信じても、いいんだよね。友慈のこと」

 俺はガラス越しに答えた。

「……俺に、もっともっと愛の色んなこと、教えてくれるんなら、いいよ」

 ちょっと震え気味の、情けない声だったかな。愛は後ろで数秒考えていたみたいだったけど、ぽつりと尋ねてきた。窓に映っている顔が赤い。嫌な予感がした。

「……カラダ、とか?」

「……い、いや、そうは言ってないけど」

「……そういえば前に、キスの話もしてたよね」

「あっ……あれはもう忘れろってば! 違うんだよ! あれはただ、俺が言う順番を間違えただけで……!」

「…………」

「そこで沈黙しないでよ、怖いよ! いや本当、別に、俺……」

「いいよ、教えてあげても」

「!?」

「私も友慈も、元気になったらね」

 驚きで目を見張った俺に、いたずらっぽく笑って見せる愛は、順調に俺の心に揺さぶりをかける術を身につけていっているようだった。

 それからふっと笑みを消し去って、柔らかな声で、言った。

「ありがとう。……友慈」




 俺が無許可で愛の本を持ち出したことは、しばらく秘密にしておこう。

 いつも残すくせに、晩ご飯は何かなー、なんて無邪気な独り言を口にしながら身体を伸ばしている愛を横目に見つつ、俺はそう決めたのだった。

 脳腫瘍のことなんて、今さら話し出す気にもなれなかった。







 その日は何だか寝付けなくて、消灯時間を過ぎても俺はだらだらと起き続けていた。

 暗い中では漫画も読めない。相変わらず監督からの返事の来ないスマホを意味もなくタップしたり、背景画像を替えてみたり、あるいはウィジェットの位置を変更したりしていたら、時計の針は十一時を回っていた。

 ったく、こういう時に限って、時間の進むのは遅く感じるんだから。俺が走ってる間に遅くなってくれよっていつも思う。そうしたら同じ時間が経つ間に、もっともっと、隣の選手より長い距離を進めるのに。たとえ一歩でもいいんだ、前に進みたいんだよ。


 目が痛くなってきたのを合図に、俺はスマホを机にことんと置いた。

 しんとした病室。廊下は明るいけど、音は何も響いてこない。外の世界はまだまだやかましいのに、病院の中だけはまるで異世界のように生活が違う。その異世界に産み落とされ、今でも囚われ続けている孤独なお姫さまに、俺は忍び足で近寄ってみた。

 布団を口元までかぶって、愛はぐっすり眠りについていた。幸せな夢でも見てるのか、その面持ちはこれ以上ないほど嬉しそうだった。

 そっと手を延ばしてみる。慌てて引っ込めて、様子を見る。愛が起きそうにないのを確認して、もう一度伸ばした手で優しく、その黒髪に触れてみる。手の中でさらさらと軽やかに踊る髪。愛が小さく口を開けて、俺はまたしても素早く手を引っ込めた。


「…………しあわ……せ……」


 今にも消え入りそうな声で寝言を口にした愛は、そのまままた夢の世界へと落ちていったようだった。


 嘆息した俺は、ベッド脇に腰を下ろした。

 それから、愛を見た。

 愛に注ぐ視線の意味、ここ一週間だけでもかなり変わったな……。そしてそれはつまり、俺が愛に向ける意識が変わったということでもあるんだ。

 いや、違う。本当の気持ちに、俺自身が気付いてしまったっていうこと。




 愛を守りたい。この手で守ってやりたい。

 なぁ、俺。そんなのは嘘だろ。

 欺瞞だろ。

 本当はお前、心の中では分かっているんだろ。


 俺はただ、愛のことが好きになったんだって……。




 誰も見ていないのに照れ臭くなって、俺は床に目を落とした。滑り止めにワックスが塗装された床はたちまちスクリーンと化して、愛の姿を次々に映し出した。

 暗闇の中、慣れない外気舎への道をおっかなびっくり歩く俺を何度も振り返って、早くおいでよ! って笑った愛。

 一つの画面や一つの漫画を一緒に覗き込んだ拍子に額をぶつけて、痛いって涙目で笑っていた愛。

手術への緊張からギクシャクしまくりだった俺の所作を笑いながら、落ち着きなよ、そうすれば手術なんか怖くないよって優しく言ってくれた愛。

 思い返せば愛はいつも、俺の隣で笑っていた。愛から笑顔が消えた時は、あいつが体調を崩す前触れだった。愛の言っていた“生きる力”と、そういう現象がまるで無関係だなんて、俺にはとても思えない。

 だったら愛には笑っていてほしい。あの笑顔に、俺の心は揺れたんだ。いつまでもいつまでも笑っていて、そうして病気なんか封じ込めたままでいてほしい。そのためになら俺は、何だってできるような気がするんだ。

 それがきっと俺なりの、『愛する』ってことだと思うんだ。


「たはは……」

 照れ笑いが自然と声に出た。いま廊下に出たら、恋心がバレバレになってしまう気もする。

 いても立ってもいられなくて、俺は病室の中をうろうろし始めた。

 不思議な縁だよなぁ。小学校以来もう何年も、自他共に認めるほどに出逢いの運のなかった俺が、まさか入院中に好きな子に出逢うなんて。あ、いや、まだ愛が受け入れてくれると決まったわけじゃないけどさ。

 うん。伝えよう、この気持ち。

 明日、目を醒ましている愛の前で、この胸の想いの丈を告白するんだ。

 コクった経験なんてあるはずもないし、ノウハウもない。けど、そんな小手先のテクニックを使うなんて俺らしくないや。真っ向から愛を見つめて、真っ向から口にする。それで気持ちが伝わらないなら、どんな手段を使ったって伝わりゃしないよ。

 よし、決めた!


 闇の中に沈むように置いてあるあのカメラを、俺は手に取った。

 それから愛に向けて、ぱしゃり、とシャッターを切った。そこに写った愛の身体からは、わずかながらも白い光が放たれていた。

 俺が告白したら、もっと明るくなってくれるかな。手を握ったりして触れ合いを重ねていけば、もっともっと……。

 恥ずかしい妄想は、ぱしゃり、とカメラの上げた乾いた音で遮断された。しまった、つい適当にシャッターを押していたらしい。

 余計な画像は消そうと思って、俺はアルバムを読み込ませた。俺が誤って撮ったのは、俺自身の腕だ。消そうとしてゴミ箱ボタンに指を伸ばして──ふと抱いた違和感は見過ごしたことにして──ボタンを、押した。




 以前よりも少し、俺の身体の放つ光が弱まっていたように感じたのは、気のせいでしかないはずだった。




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