Karte-17 訪問者
「おじいさまから連絡があったわ。今日、来るそうよ」
松山さんが愛にそう話しかけていたのは、あの天井崩落の事故から一週間以上が経過した、ぽかぽかと暖かい昼下がりのことだった。
ドリルを開きながら、うつらうつらと俺は呑気に舟を漕いでいたところだった。松山さんの声で目を醒ましてよだれを拭うと、俺はちらっと横目で愛を窺う。何だろう。
ベッド脇の松山さんに見下ろされた愛は、そうですか、って細い声で答えていた。うつむきながら、その右手で布団の端を握りしめながら。
およそ俺が気軽に介入していい雰囲気だとは思えなかった。でも気になるものは気になるから、黙ってドリルに目を落としながらも、俺は話を耳で捉えようとし続けた。
「また居留守、使う気なのね」
「だって……」
「今回は以前とは違うのかも知れないわよ。実はね、あなたがあの事故に巻き込まれた時に連絡を取って、事の次第と容体だけは説明してあったの。ほら、それを聞いて心配になったのかもしれないじゃない?」
「そんなはずないです。たかがあのくらいで、あの人たちが心配になんてなるわけない……。松山さんだって、本心では分かってるくせに」
「……とにかく、そういうことよ。向き合うか向き合わないかは、あなたに任せるわ」
終始、二人の会話は低くて聞き取りにくかった。
松山さんが病室を出ていったのと同時に、愛はばさっと布団をかぶった。いつも読んでいたあの文庫本は、枕の下に押し込まれてしまった。
「もう寝るの?」
そう俺が尋ねると、愛はいつもの愛らしくもない声色で返事を寄越す。
「お願い。晩ご飯まで絶対に、私を起こさないで。私は昼ご飯の時からずっと、寝てることになってるから」
「なんで?」
「眠いから」
「……い、いいけど」
そうとしか返せなくて頷くと、それきり愛のベッドからは寝息しか聴こえてこなくなった。
どうやら居留守っていうのは、寝ていることにして誰かの面会をやり過ごす、という意味らしい。
今まで誰も愛の面会に来た人がいないのを、俺は何となく思い返していた。
おじいさん、って松山さんは言っていたっけ。それは恐らく、愛の血の繋がった祖父のことなんだろう。
そうか。さては愛のやつ、おじいさんが俺の母さんみたいな剣幕で病室に飛び込んできて激怒するのが怖くて、ああして狸寝入りに励んでるんだな。
なんだ、可愛いなぁ。だったら俺だけでも、その一部始終を見届けてやろうっと。こみ上げかけた可笑しさは必死に噛み砕いて、俺は俺でドリルを解くふりを続けることにした。
どこか釈然としない気持ちは、まだ天井の辺りをふわふわと漂っていたけれど。
それから一時間も経った頃だろうか。病室のスライドドアが、不意に開かれた。
ドリルに飽きて放り出した俺は、ちょうど新刊の漫画を読んでいたところだった。虚を衝かれてドアを見遣ると、そこにはコートを着た背の高い老人が立っていた。
その立派な髭と鋭い目付き、全身から放たれるトゲみたいな威厳に、思わず見とれてしまった。けど、じいさんはそもそも俺の存在に気付いていなかったみたいだ。ゆっくりとベッドに歩み寄ったじいさんは、傍らにカバンをそっと置くと、ベッドで眠る愛の顔を覗き込んだ。
付き添いに来たらしい看護師さんが、病室の入口のところで所在なげに突っ立っている。向こうから見たら、俺もそうだったかもしれない。
人が四人もいて、廊下からはたくさんの音が流れ込んできていたはずなのに、そうと思えないほどに病室は深い静寂に包まれていた。その静寂は冷たい実感を伴って、俺の腕を不気味に粟立たせた。
静寂の源はたぶん、じいさんが愛に向かって注ぎ込んでいた、感情の見えない視線だったと思う。
「小賢しい小娘め。まだ、生きておったのか」
じいさんは表情を何も変えないまま、口だけを動かしてそうつぶやいた。
「ふん、忌々しいほど肌色がよいわ……。いったいどこまで悪運が良かったら、いったいどこまで我が家の血を穢し続けたら、お前は気が済むのだ」
愛は、答えない。
本当は起きているのか、それとも本当に寝ているのか、俺の距離からでは何とも分かりかねた。
怖い。何だ、このじいさん。こいつは愛の何なんだ。俺の母さんとも松山さんとも全く違った意味で、このじいさんは、怖い。
俺はそーっと漫画に目を戻した。この病室の風景の一部になって、あのじいさんの意識に捉えられないようにしようとした。したつもりだったのに、すっと振り返ったじいさんは迷いもなく、俺のことを見つめてきた。
「…………」
じいさんは何も言わない。俺は俺で見えないように歯を食い縛って、漫画を読み耽る能天気な男子中学生のふりを懸命に通す。ああ、中身がぜんぜん頭に入ってこないよ。全く面白く見えないよ。
そうやって二十秒くらいが経過した頃だったか。
じいさんはようやくきびすを返して、無言のまま病室を出ていったのだった。
ふーっ、と息を吐く声が、二人ぶん聞こえた。
やっぱり愛は起きていた。勢いよく身体を起こした愛は、思い切り伸びをひとつして、それからじいさんの出ていったドアをじっと見つめていた。そして、口を開いた。
「行っちゃった、か……」
かすれた声だった。
病室には元通りの柔らかな空気が充ち満ちて、思い通りに動かせるようになった腕で俺は漫画を伏せ置いた。途端、聞きたいことが頭の中で山と膨れ上がった。
「お前、聞いてた? あのじいさんの言ってたこと」
「うん。全部ね」
「血を穢すって、何のこと?」
「…………」
愛は俺を見ずに、ドアの方を向いたまま首を振った。固く閉じられたその唇は、話したくない、の意思表示か。
それでも聞きたかったから、俺は質問を重ねた。
「あれが、お前のじいさんなの?」
「うん」
愛もやっと答えてくれるようになった。
「仲、悪いのか?」
「うん。そんな感じ」
「親とも?」
「……そんな、感じ」
そっか。だから今まで、面会にも来なかったわけだ。
それにしたってひどくないか、と思った。いくら仲が悪くたって、血の通った孫娘だろ。死にかけたなんて聞いたら、すぐにでも来て心配するもんじゃないのか。それをあのじいさんは、一週間も間を置いてふらりと尋ねて来たと思ったら、愛のことを『小賢しい』『まだ生きておったのか』だなんて。
突然、愛が変に明るい声を上げた。
「ね、友慈。さっきから何の漫画読んでるの?」
「これ? 先週出たばっかりのやつだけど。部活の奴に貸してもらったんだ」
拍子抜けしつつ、表紙を見せてやる俺。今のは駄洒落じゃないからなって自分に言い聞かせたのと、愛の表情がぱっと輝いたのは、ほぼ同時だった。
「あー、いいなぁ。私も後で読んでいい?」
「いいけど、他の巻は読んだことあんの?」
「うん。そこの談話室にあったんだ。でもあそこ、新刊が入るまでにすっごく時間かかるから」
「分かった。ちょっと待ってて、いま読み終わるよ」
愛のわくわくしている顔が眩しくて、俺は急かされるようにページをめくり始めた。
さっき、じいさんに睨まれながら読んだ部分より先は、一度中身を捉え損なってしまったからかちっとも読み応えがなくなって、ぱらぱらと適当に通過していく。別にいいけど、と思った。
さっきの話題の継続を、愛は望まなかったんだ。どのみちこれ以上の追及ができそうにないことに、変わりはない。
この時、──というよりも、寝たふりを始めた時から今に至るまでずっと、愛が布団の中であのハレーションカメラを抱きしめていたことに、俺は最後まで気付くことはなかった。
◆
翌日、いつものように放射線治療を受け終えた俺は、看護師さんにそのままMRIを撮りに行くように言われた。
脳腫瘍の経過が調べたいらしい。渋々、言われた通りに俺はMRIを撮って来た。最近になって気付いたことだけど、目をつぶっているとMRIでも放射線治療でもけっこう耐えられるみたいだ。俺って閉所恐怖症なのかな。
そうしたら検査室を出たところで、ちょうどやって来た伏見先生にばったり会った。
「うん。手術をした箇所に関しては、至極順調だね」
画像を見ながら、椅子に深く腰かけた先生は淡々と言う。立ち話をするのもなんだから、っていう先生の誘い文句に乗って、俺は先生の部屋に招待されているところだった。
そういや、この先生が偉そうな態度を見せているところ、一度も見たことがないんだよな。立派な人だよな、なんて改めて感じてみる。
「俺の心がけがいいからですかね」
ふふんと鼻を鳴らす俺。口に出してから気が付いたけど、これ、規則を破って外に遊びに出て遭難した人間のセリフじゃないか……。
先生は苦笑した。そして、画像をそっと机に置いた。横に並べてあった俺のカルテが、ふわりと宙に浮かんだ。
「とは言え、調子がいいからと言って油断しちゃダメだぞ。前みたいに脱走したんでは、さすがに僕もかばってあげられなくなるしね」
「それは、分かってます」
「しかし、やっぱり君は丈夫だね。あんな寒さの中に何時間もいたというのに、あれっきり何も体調を崩さないなんて」
外気舎でのことを言っているらしかった。
そこは正直、俺も不思議ではあったんだけどな。そりゃ、それなりに厚着はしていったけど、凍傷にもならず風邪も引かず、あんな健康体のまま帰って来られたなんて。いくらなんでも俺、健康すぎじゃないか?
とは言え、今こうして俺は元気にここにいるわけだし……。
「外気舎もつい昨日、やっと修復工事が始まったそうだよ。破れた天井を張り直して、壁も元通りに再建するそうだ」
「へー……。いつ頃、直るんですか」
「昨日の医師会ではそこまでは示されなかった。一応、あんなサイズでも歴史的建造物だし、一か月近くはかかるんじゃないかな」
先生の浮かべた笑いは、どこかいたずらっぽかった。
「友慈くんも愛ちゃんもきちんと回復したら、二人でまた遊びに行くといいよ。その頃には直っているだろう」
くそ、先生め。分かってて茶化してるな。俺はわざと無視して、下を見た。これじゃ返事してるようなもんかと途中で気づいたけど、今さら改めて「うん」とも「いいえ」とも言えそうになかった。
そんな俺の姿に、先生は何を思ったんだろう。先生は足を組んで、俺の脳を切り取った画像を眺めながらまた、俺に語りかける。
「──僕も、嬉しいよ。愛ちゃんと君が、同室でうまくいっていることは」
「な、なんでですか?」
思わず俺は聞き返した。ああ、これもきっと、先生が予想した通りの反応だったんだろうなぁ。
「これまであの子の同室患者さんは、一人残らず愛ちゃんとうまくいかなかったからね。一ヶ月も経つ前に全員、別室に移りたいって申し出たそうだ。でも友慈くんだけは、そうは思っていないだろう?」
いつか愛から聞いた話が、先生の声で再びよみがえった。
そうか、先生も心配してたんだな。先生は長いこと愛の治療を担当していたから、愛自身の性格だって把握しているに違いない。別室希望が相次いでしまうことは、先生にとっても意外で、心配な事柄だったんだろうな。
思うわけないじゃん、と俺は大きく首肯してやった。いくら大きく首を振っても、大袈裟だなんて思えなかった。
「それなら、いいんだ」
先生の目付きも少し、穏やかになった。
その後も簡単な問診をして、そこで俺はもう帰ることになるはずだった。
ちょっと待った、と後ろから先生が俺を呼び止めた。振り返ると先生は、二枚の画像を手にして、難しい顔をして見比べていた。
「いやに、早いな」
「早い?」
「これを見てくれないか」
先生はそう言って、二枚を机に並べた。ほとんど差のない、白と黒だけの写真だ。
なんだ、カラー表示こそされてないけど、これって俺がさっき撮ってきたばかりのMRIの画像じゃないか。そう思いかけた俺は、二枚がほんのわずかに異なっているのに気が付いた。
「左の辺りを見てみてくれ。これが、君がいま手術中の残存脳腫瘍だ」
「なんか、大きさが違くないですか」
二枚のうち右の方が、左のよりも大きく見えるんだ。
先生は頷いた。その表情は、硬い。
「僕もそう思う。ただ、この二枚……左は一週間前に撮ったものなんだ」
「え」
「三十分前に撮った方を見ていて、違和感を感じてね。こんなに大きかったか、って。それで比べてみたら、それが違和感ではなく事実であることが分かった」
ちょ、ちょっと待ってよ。つまり俺の脳腫瘍、まだ成長してんの!?
青くなった俺をなだめるように、先生は言葉を重ねる。
「放射線治療を始めてから、今日でまだたったの六日目だ。放射線治療に即効性はない。まだ治療の効果が完全に出ているとは言えないだろうから、成長していてもおかしくはないんだ」
「……そ、そうなんですか?」
「気になるのは、通常の成長にしても肥大化が早いな、ということ。目測だけど、六日間で直径が二割増しくらいになっているように見える」
先生自身もまだ、よく分かっていないみたいだ。うーんとあごを捻りながら、先生は俺に帰ってもいいよと促してくれた。
先生はああ言ってくれたけど、考えてみたら放射線治療そのものの効果がきちんと出ているのかどうかって、確かめようがないんだよな。並行して他に治療している場所があれば、そういう比較もできたのかもしれないけど……。
何て言えばいいのかな。何だか心が、モヤモヤする。
とりあえず愛に報告しよう。そう考えながら、俺は看護師さんに伴われて七階の病室を目指した。不安にされるだけされて、放り出された気分だった。




