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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第三章 知りたい君の“Nonfiction”
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Karte-16 当たり前の日々

挿絵(By みてみん)



 飽きが来るほど眼下の街をおおっていた雪も、ようやく少し解けて消え始めてきた。

 あの上を歩いたなら、きっと雪と水の入り雑じった妙な感触があるんだろうなぁ。そう思いはしても、外出許可がそもそも出るはずもないから、その日も俺は窓の外をぼんやりと眺めるばかりだ。

 いつまでこうしてここから、雪景色に埋まった街並みを見ていられるんだろう。


「ドリルを解く手、止まってるよ?」

 後ろから愛の声がして、はっと我に返った。

 いけないいけない、この時間帯は真面目にやるって決めたんだったよ。床に落ちていたドリルをあわてて拾い上げて、俺はまたシャープペンシルを握る。冷たい金属の感覚が、ボクを放り出すからこんなに冷たいんだよ、なんて笑っている気がする。

 なんつって。実際に笑っているのは、愛だ。

「気が散りやすいんだねー」

「……散りやすいも何も、俺、勉強嫌いだし」

「でもお母さんと約束したんでしょ?」

「だから嫌なんじゃん、余計にさ……」

 ぶつくさ言いながらだとシャープペンシルを持つのが苦にならないのは、なぜだろう。

 愛はまた本を読み始めたみたいだった。俺も愛もそれっきり沈黙したまま、それぞれのすることに意識を向けながら昼食までの時間を過ごした。

 病室の空気がこんなにのどかだったことは、きっと今まで一度もなかったに違いなかった。


 愛の抱く『真実』を俺が受け入れて、共にこの七○五号室で生活していく心を確かめあったあの日から、もう数日が経っていた。







 あれ以来、俺たちの日常は以前とはまるで逆転していた。

 愛は危険な状態でこそないけれど、まだ病状は安定してはいない。そういう身体で夜更かしをするのは、やっぱり身体に悪そうだ。

 そう考えたのか、愛はそれまでの夜光型から日中型に生活スタイルをがらりと転換した。つまり、朝は俺と同じ七時に起きて、夜は消灯時間には眠りにつく、ごく普通の生活を送るようになったわけだ。

 俺にとっても愛にとっても、このスタイルの変化の影響は大きかった。

 なんせ、毎朝あれだけ眠そうだった愛が、ぱっちりと目を開いて室田おばさんを迎えるようになったんだ。室田おばさんの感激っぷりときたら、そりゃあもうすごかった。

──「ちゃんと起きられるじゃないのー! やったわねっ! さぁたんと食べなさい!」

 よっぽど嬉しかったのか、室田おばさんは愛に頬擦りまでする始末。愛は申し訳なさそうに俺に笑いかけていたなぁ。今までのことを話した方がいいかな、それとも秘密で通した方がいいかな。さっそく朝飯を残しながら、ひそひそ声でそう相談された。少食の原因は眠気じゃない、っていう愛の言い分はどうやら本当みたいだった。

 喜んでいたのは室田おばさんばかりじゃない。ようやく血圧や脈拍がまともな数値になったって、俺たちの朝のチェックをする看護師さんも喜んでいたっけ。

 朝はきちんと起きて、午前中はそれぞれ診察や治療を受け、その後は俺はドリル、愛は読書に勤しみつつ、昼ご飯を食べる。そうしたら午後は基本、自由時間だ。もっとも俺のところには以前と同じで、毎日のように面会人がやって来るんだけど。

 今まで一度も、愛が面会時間帯に目を覚ましていたことはなかったからな。初めて目にする俺の隣人を見て、母さんも山田たちも少なからず戸惑っていた。でも、母さんはともかく、山田たちはなんだか羨ましそうだった。

「何だよ友慈、お前ずっとあんなかわいい子と一つ屋根の下で暮らしてたのか?」

 最初なんて、そう小声で問い詰められた。

 一つ屋根の下って……。いや、確かにその通りだけどさ、その言い方もうちょっとどうにかしてほしいです。声大きいです。

「お前、俺たちを差し置いて一足早くリア充になる気じゃないよな?」

「許さねーぞ。末長く爆ぜろ」

「俺も声とか、かけてみよっかな」

「好きにしてくれ……」

 嘆息して、俺は漫画に目を落とした。冷たくあしらう言い方になったのは、頬にあやうく浮かびかけた火照りを誤魔化すためでもあったりして。

 しかも後で聞いたら、俺たちの会話は愛にすべて聞こえていたらしい。ほら、やっぱりだ……。恥ずかしくて俺が頭を抱えたのは、言うまでもない。


 そんなこんなで午後は過ぎて、日は西に落ちていく。

 あれほど退屈で退屈で仕方なかった日中が、飛ぶように過ぎるようになった。慣れないな、って独り言を口にしたら、私もだよって愛もうなずいていた。

 特別感はないけど、背徳感もない。そう考えたら、なんだか気楽になったような気がする。


 松山さんは母さんに、俺とともに脱走事件を起こしたのが隣の愛だったことを話さないでいてくれた。母さんは愛とも何度か言葉を交わして、やんちゃな子と同室でごめんね、なんて言っては頭を下げていた。やんちゃにしてないし、大人しくしてるし。そう口を尖らせつつも、それだけで済んだことが俺にはとにかく喜ばしかった。

 それと、あんな事件を起こしたからか、俺の病院内での知名度はものの数日で一気に急上昇していた。暇になって他のフロアをぶらつくと、それまで見も知りもしなかった人たちに声をかけられるようになった。『院内散歩もほどほどにしなさいねー』とか、『手、空いてるの? ちょっと荷物運びを手伝ってよ』とか。二つ目の方の台詞を口にした看護師さん、相手は患者だぞって先輩に怒られてたなぁ。いや、手伝ってあげてもよかったんだけど。暇だったし。

 それから、愛の持っているあのカメラを、俺は時々借りていじってみることにした。風景も撮ったけれど、同じくらい人も撮った。そうだろうと思ってはいたけれど、そこに写るのはいつも、ぼんやりと光を身にまとう人間たちの姿だった。調子に乗ってパシャパシャ撮り続けて、松山さんに不審そうな目で見られたりもしたっけな。

 “生きる力”の強さに応じて、人が輝く。高い空で光る星たちのように。愛には秘密で、俺はそんな営みを撮ることのできるこのカメラを『ハレーションカメラ』と呼ぶことに決めていた。


 天井が崩れたあの日から一変した俺たちの日常は、むしろ前よりもっと楽しくて、色んな刺激に満ちたものになっていったんだ。

 もう死ぬのかもしれないなんて、あの時は本気で考えたりしたのに。人生、何が起こるか分からないもんだなって思う。

 このまま何事もなく、のんびりと病院暮らしを続けていけたら、楽なのにな。




 そしてもう一つ、俺には決定的な変化があった。

 放射線治療が開始されたことだ。


 俺と母さんが呼ばれて訪れた診察室で、伏見先生はMRIの写真をめくっていた。

 MRIの時はCT画像と違っていつもカラー出力されていることに気づいてから、最近はけっこう言われないでも判別がつくようになってきた。被曝しない分、MRIの方が頻繁に使われるしなぁ。

 俺のそんな思考を読んだみたいに、先生は俺を見て笑った。

「これだけたくさん撮ってきたんだ、そろそろCTやMRIにも慣れてきたんじゃないか?」

「アイツはキライです」

 そう即答したら、アイツ呼ばわりするんじゃないの、って後ろから母さんに叩かれた。別にいいじゃん、だってアイツ人間じゃないんだし……。

 けど、そこから先はそんなふわふわした話じゃない。引き締められた先生の顔を目にしたら、息がすうっと腹の下の方へと落ち込んでいくのが分かった。

「……脳内に残存する問題のガンは、かなり内部にあります。前頭葉と呼ばれる部位です」

 写真にペンで赤い円を描きながら、先生は説明する。

「ガン細胞の転移は通常、血管やリンパ管を通してなされます。友慈くんの場合、転移したガンは手術で取り除いた腫瘍のあったあたりの脳血管の付近で増殖しているようです。部位が部位ですから、手術で取り出すのはリスクがやや大きいと思われます」

「じゃあ、どうしたら……」

「脳外科の他の医師とも相談しまして、提案の方針を決定しました。放射線治療を行いましょう」

 俺も母さんも、あっさりと口にされたその単語に、ごくんと息を呑んでいた。

 放射線治療。先生によればそれは、電磁波や粒子線を体内に照射することでガン細胞を直接痛め付けて、成長を押し止めたり、小さくさせるという治療方法なんだそうだ。手術で身体を切り開く必要がない上、最新の機器を使えば副作用も最小限で済むんだという。

「部活への復帰を考えますと、手術は身体への負担がどうしても大きくなりますし、抗がん剤治療は往々にして長引きがちです。残存する脳腫瘍の大きさはさほどでもないので、放射線治療を一ヶ月間程度続ければ効果はたいへん高いと思います。このあたりについては、後ほどもう少し詳細な説明を致します」

 先生の説明は丁寧で、俺にも何となく放射線治療のイメージが掴めてきた。けど心配性の母さんは、相変わらず先生に質問をぶつけまくっている。

「で、でも、放射線って身体に悪いんじゃ……」

「ええ。患部以外に放射線が命中してしまった場合、その部分は機能不全を起こしてしまうので副作用が生じてしまいます。しかし我が東都病院の放射線治療設備は最新鋭ですので、照射は極めて正確ですよ」

「ほ、他にはないんですか? そんな放射線とか抗がん剤とかに頼らないような……」

「免疫治療を選択される方もいらっしゃいます。免疫力を向上させて、病気に対抗するんです。ただ、免疫力というものは不安定ですし、確立されている治療方法ではないので成功する保証は決して高くはありません」

「…………」

 ついに母さんは黙り込んだ。質問しすぎて聞くことがなくなったらしい。

「俺、やってみたいです。放射線治療」

 仕方ないから、俺から立候補してやった。

 だって害もないんだし、なんだか面白そうだし。だいたい母さんは悩みすぎなんだよ。決める時はスパッと決めた方が、後悔しなくて済むじゃん。

「……分かりました」

 ついに母さんも折れて、俺の放射線治療が始まることになった。


 放射線治療は、外来棟に隣接して建っている放射線科棟で行われる。そう、入院初日に俺が迷い込んだ、あの『如何にも』って感じのエリアだ。

 放射線治療には専門の医師が当てられていて、伏見先生は治療に当たらないし、そもそもこの棟では外部との人の往来もあんまり多くない。中はいつもしんとしていて、壁に貼られた『関係者以外立入禁止』の文字が、そこが特別な空間であることを否応なしに強調してくれる。

 どこにどの方向から、どのくらいの線量を照射するか。事前に立てられた治療計画に則って、放射線治療は行われる。俺が受けるのは『陽子線治療』と呼ばれるもので、二十分間のガンへの陽子照射を一日一回、週四回繰り返して、一ヶ月で治療終了になる予定になってる。

 ガンの観察の時にやったPET──陽電子放出(ポジトロン)断層撮影でも用いているものだけど、そもそも“陽子”というのは『荷電重粒子線』の一種で、一定の深さ以上には進まないことと、特定の深さで最も強く作用するという二つの特徴があるんだそうだ。つまりガンの病巣を狙い撃ちするには最適なわけで、治療時にはサイクロトロンという加速器から陽子を発生させ、ガン病巣に狙いを定めて照射する……。

 ──うん。まぁ、放射線科の人からはそんなような説明を受けた気がする。難しいことはいいから、早く治療してほしかった。俺なんて最初、陽子を「陽子(ようこ)」って読んでたぞ。誰だよそいつ。

 それに、そんなことより俺にとって一大事だったのは、その陽子を照射する装置が、ベッドを丸ごとおおってしまうほど大きなドーナツ型の機械だったことだ。俺の大嫌いなあの機械に、そこはかとなく似ている。

「げ、MRIみたい……」

 思わず口にしたら、看護師さんに笑われた。

 しょ、しょうがないだろ! もっとこう……工場で働くロボットみたいなSF的な姿を想像してたんだから! 一気にワクワク感が消し飛んだけど、俺から立候補した手前もあって引き下がるわけにはいかなくて、俺は我慢してベッドに寝転んだ。


 ガンと俺の闘いの、第二ラウンドのゴングが、ようやく鳴り響いたわけだ。




 その日の夕方、母さんたちが面会を終えて病室を出ていった後で、俺は放射線治療が始まったことを愛に話した。

 読みかけの本を胸に抱えたまま、愛は俺の話に耳を傾けていた。それが終わると一言、いや二言か、口にした。

「どうだった? あのマシン、面白いでしょ?」

「今週中に嫌いになれそう」

 そう言うと思ったんだー、って愛は笑った。愛のことだ、放射線治療もとっくに経験済みなんだろうな。

 読まれていたのが悔しくて、俺は逆に聞き返した。

「お前はああいうの、苦手になんないの?」

 愛、と下の名前で呼ぶのは、やっぱりまだ恥ずかしいんだ。なんだかんだでいつも、『お前』呼びで誤魔化してしまう。むしろ愛の方が、名前呼びに抵抗をあんまり示さないように見える。どうしてだろう。

「私は友慈がMRIを好きになれないのも、あんまり理解できないけどな」

 ぱたんと本を膝の上に伏せて、愛は体育座りになった。その腕から伸びる点滴の管はまだ、外すことを許されていないらしい。

「なんか、身体が機械に飲み込まれていく感覚って面白くない?」

「どこがだよ。俺なんて毎回、息が詰まりそうになるよ」

「クジラに食べられたらこんな風になるのかなー、とか想像しながら入ってみたらいいんじゃない? そしたら可笑しくなって、閉塞感で困ることはなくなるよ」

「でもそれ、笑った拍子に動いたら怒られない?」

「あ、それもそうか」

 俺はため息をついた。MRI嫌いの克服のいいアイデアでも、持ってるのかと思ったのに。

 ま、嫌いでも何でも、受けるって俺はもう決めたんだ。だいたい放射線治療なんて、一回たったの四十分間、しかもそれが週にたったの四回だけだ。陸上部のきつい練習に比べたら、こんなのに耐えるのは何でもない。……はず。


「でも偉いね、友慈は」

 愛はうっとりとした目付きで、本の拍子を撫でながらそう言った。

「何が?」

「文句は色々言うけど、嫌いなMRIも放射線治療もちゃんと逃げずに受けるじゃない。だから、偉いなって」

「…………」

「私なんて、ご飯と向き合うことからいつも逃げてるのに」

 なんだ、自覚はあるのか。

 ちなみに夕食は未だに、俺が少し手伝ってやっている。俺も以前と違ってそこまで食事! 食事! って感じではないから、どちらかというと慈善事業のつもりなんだけど。

「友慈は何事も真正面から向き合って、正々堂々と乗り越えていくようなタイプなんだね」

「そんなんじゃないよ」

 急にかゆくなって、俺は頭をがりがりと掻いた。

「俺にはそれしか、思い付かないから」

「でもそういうの、カッコいいと思う」

 やめろってば、そんなに言われたら嫌でも照れるだろ……。そう口にすることがもう既に照れ臭くて、俺はベッドに寝転んで蛍光灯を見上げる。愛の声だけが、壁と床を伝って耳に潜り込んできた。

「私も頑張って、向き合わなきゃな。私の周囲にも、環境にも状況にも、それから、私自身にも」

「うん……」

「頑張ろうね、一緒に」

 てへ、とはにかむ声までは、俺の耳には入らなかった。

 でもきっと、愛はそうしているだろうな。そう確信を抱けたのがどうしてか、俺には分からない。


 この笑顔を、この穏やかな日常を、何があってもこの手から落とさないために、俺はガンと闘うんだ。

 そして、受け入れたんだ。俺自身の身に起こった、不可思議な現象を。そして、愛がその胸の奥に隠してきた、不可思議な秘密も。

 俺の知らない過去や記憶を、愛は他にもたくさん抱えているだろう。いつの日かそこにまで手を伸ばして、知ることができたなら。いや、知りたい。

 それを知って初めて俺は、愛の隣で、愛を支えながら生きていく資格を得られるような気がする。

 少しして室田おばさんが、楽しそうに配膳台を押しながら夕餉を運んできた。目の前に置かれたお盆を戦戦(せんせん)兢兢(きょうきょう)と眺める愛も、まるで肉親みたいに愛を可愛がる室田おばさんも、それを横でこうして眺めながらご飯にありつく俺も。一ヶ月前はまるで異世界でしかなかったその光景は、今やそこに存在することになんの疑問も持たないような、当たり前の日々の欠片(かけら)へと変わってきた。


 何日、何週間、いや一年以上の年月が流れて、俺がこの場所からいなくなったとしても、ずっとこんな日々が続いていてほしい。

 そう、願った。






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