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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第二章 君の不思議な“Sensation”
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Karte-12 事故



 バキッ。メキッ。

 不穏な音が頭上から降ってきたのに、俺たちは一瞬、気付くのが遅れた。

「なんだ?」

 上を見た俺は、何が起きているのかを理解することができなかった。

 入り口付近の天井の板が、大きくたわんでいた。経年劣化にしては不自然すぎるそのたわみが、ミシリミシリと音を立てながら段々と激しくなっていく。

 まずい。

 直感が叫んでも、すぐには身体は動き出せない。そして、雪をめいっぱい乗せた屋根の落下加速度は、俺たちの動き出す時のそれを大きく上回っていた。

 

 屋根が、凄まじい音を立てて俺の背後から崩れ落ちた。

「うわあああっ!」

 膝から下を挟まれた俺は動けなくなって、勢いよく地面に引き倒された。()ったい……!!

 野塩さんの顔は真っ青になった。カメラを放り出して、彼女は俺のところへしゃがみ込む。

「だっ、大丈夫!?」

「野塩さん後ろッ!!」

 俺が怒鳴った時には遅かった。続いて倒壊した残りの屋根が、そして壁の一部が、けたたましい木材の断末魔を伴って野塩さんの背中に襲いかかった。野塩さんは俺の目の前で呆気なく押し潰されて、苦しそうに悲鳴を上げた。

 くそ、これしきの瓦礫……!

 俺は抜け出そうと必死でもがいた。でも、屋根の残骸の上に山盛りになった雪の重みが、どうしてもそれを許してくれない。

「動ける……か?」

 痛みに耐えながら声を投げかけると、野塩さんは胸まで埋まりながら懸命に俺を見て、首を振る。

「ううん……私も、全然……っ」

 そうだろうと思った。野塩さんは俺よりずっと華奢で弱いのに、その背中にのし掛かるおもりは俺よりも大きいんだ。できるはずがなかった。

 どうして突然、崩れた?

 いや、考えるまでもないか……。俺たちを嘲笑うように白く輝く積雪を、俺は睨んだ。こんな古ぼけた小屋のことだ、長年の劣化で四十センチの積雪には耐えられなくなっていたんだろう……。

 後悔先に立たず。日本人なら誰でも知っているあのことわざが、頭の奥で点滅していた。

 どうしよう……。もしも、救助が来なかったら。

 俺たちはこのまま、よくても凍傷は逃れられないだろう。悪くすれば、凍死だ。しかもよりにもよって、病院の目と鼻の先で。

 そんなの、嫌だ……!

 その気持ちを核にして、ありったけの力を込めても、やっぱり残骸から抜け出すことは叶わなくて。

 五分も経った頃には俺も野塩さんもついに諦めて、動かなくなった。




 降り積もった柔らかな雪が、音を消す。

 病院の敷地内とは言ったって、ここは町中だ。でも俺の耳に届くのは、あちらこちらでぱらぱらとこぼれ落ちる粉雪の音だけ。

 雪よりうず高く積もった静寂は、俺たちの心を冷やして、不安にして、嫌でも不吉な予感を芽生えさせた。


 野塩さんが、ぽつりと小さな声で言った。

「……ごめんね」

「……え?」

 俺の返事も、かすれて小さくなっていた。

 上半身の半分近くまで雪に埋もれながら、野塩さんはくすんと鼻を鳴らした。その頬をつうと伝っていく涙が、月の光を受けて輝いていた。

「私が、こんな場所に連れてこなかったら、こんなことにはならなかったのに……」

 口を開くたびに涙の量は増えた。押し潰された時に両手を前に投げ出していたから、野塩さんはそれを拭うこともできないでいる。

「……そんなこと、ないよ。俺だって乗り気だったんだ」

 俺は答えてから、そうだよな、と自分にも問いかけた。

 あの病室が嫌だ、ここに来たい。そう思ったからこそ俺は、野塩さんを止めなかったんだ。野塩さん一人が責任を負うなんて間違ってる。

 でも、今回の責任は重すぎた。その責任はそのまま、俺たちの命に関わっているんだから。

「せっかく竹丘くん、手術、成功させたのに……。私のせいで竹丘くんが身体を悪くしたら……私、わたし……」

 泣きじゃくる野塩さんを優しく抱きしめてやれる言葉を、俺は何一つ、思い付けなかった。




 けれど、その弱々しくて痛ましい姿を目にしたことが、俺の中の何かを、確かに変えた。




──俺、野塩さんのことを、贔屓目に見すぎていたのかもしれない。


 かじかんで赤くなった自分の手を、俺はじっと見つめた。今、霜焼けになったこの手は痛覚までも失って、まるで自分のものではないかのように感じられていた。痛みに馴れたんだな、と思った。

 そうだよ、経験則でゲームの腕が上がるのと同じなんだ。人は痛みに馴れられる。たくさん経験すればそれだけ、痛みや苦しみを耐えられるようになるだろう。陸上の練習を始めた時の、まだ小学生だった頃の俺だってそうだった。転んで転んで泣きまくって、それでも必死に食らいついたんだ。あの時たくさん転んだからこそ、今はもう道を走ることが怖くないんだ。

 でも、痛みに馴れた今でもなお、転んで怪我をするのはやっぱり怖い。その瞬間の恐怖に馴れることにだけは、痛みに馴れるのとは比較にならないほどの、並大抵でない経験が要るんだろう。

 野塩さんだって、きっとそうだ。何度危篤に陥ったって、馴れることなんかできっこない。苦しみの中に、痛みの中に、自分の命が今にも転げ落ちていくような恐怖には……。


 だから、俺と野塩さんは今、同じ場所に立っている。

 お互いが隣にいるのに気づけないまま、独りぼっちで立っているんだ。




 慟哭する野塩さんの腕が、だらんと目の前に投げ出されている。

 俺はそれを見て、そっと、自分の手を伸ばした。触覚さえ消え失せていたはずの手先が、野塩さんの冷えた手を確実に握ったのを感じた。

 外の面は冷えていても、じんわりと中は温かい。涙を流したまま俺を見上げた野塩さんに、俺はぎこちなく微笑んだ。笑顔を浮かべてさえいれば、こみ上げてくる何かを耐えられる気がして。

「……大丈夫だよ」

 野塩さんからの返事はない。俺はもう一度、言った。

「大丈夫だよ。……こうやっていれば、片方だけが冷たくなんてならないよ」

 どうせお互い自業自得なんだ。こんな程度で死ぬなら、死んでしまえ。その時はもれなく二人とも一緒だ。

 それが許されないのなら、生き延びてやるんだ。雪の下に埋もれてしまいそうなわずかな温もりを、こうして手の中で享有しながら。

「……うん……」

 野塩さんは、うなずいた。

 跳ねた涙が雪の上に落ちて、雪は小さくへこんだ。その光景がゆらり歪んで、その段になってようやく俺も、俺が泣いているんだと気付かされた。あーあ、これでも俺、頑張ってこらえていたつもりだったのにな……。




 そこから先の記憶は、意識が朦朧とし始めていたせいか、はっきりとはしていない。

 時間の感覚がなくなって、しばらくした頃だったかな。どこか遠くの方から、懐中電灯らしき明かりが接近してきた。

 何人もの人に話しかけられて、そのあと自動車が雪を蹴散らしながら何台も駆け付けてきたのを覚えてる。

 その辺りで、俺は完全に気を失ったようだった。









 般若。

 夜叉。

 閻魔。

 憤怒の権化のような存在をどれだけ並べ立てても、俺たちの前に仁王立ちになった松山さんの様子を表すには、まるで足りそうにはなかった。


「──それで、何? 院内があんまりにもつまらなかったから、こっそり抜け出していたということなのね。無断で病院の建物から出てはいけない約束を、ちゃんと知っていながら」

「はい……」

「信じられないわ。小学生の方がもっときちんと約束を守るくらいよ。恥ずかしいとか思ったりしないわけ?」

「すみませんでした……」

「誰も謝れなんて言ってないのだけど。私はさっき、『恥ずかしいと思うかどうか』って聞いたのよ」

「思います……」

「今この場で思っても意味がないの、分かってるのよね。あと一日早く思っただけでも、宿直の看護師や医師に迷惑をかけることにはならなかったのよ。反省だけで済むなんて、ゆめゆめ思わないことね」

「…………」

「そんな態度で入院されたら、私たちだってたまらないわけ。だって治療の甲斐がないじゃない。勝手な行動で勝手に病状を悪くされたら、私たちからすれば大迷惑なのよ。そんな患者、本当なら東都病院(ここ)に置いておきたくないわ。荷物をまとめさせて蹴り出したいくらいよ」

「……はい……」


 朝を迎えた時、俺と野塩さんはいつもの病室にいた。二人揃って寝かされながら不安に怯えていたところに、ドアが壊れそうな音を立てて松山さんは入ってきた。その時の表情は、思い返すだけでも心臓が弱りそうになるほど怖かった。向こう一か月以上は忘れられそうにない……。

 以来かれこれ一時間、俺たちは松山さんの尋問を受け続けた。なまじ静かに圧し殺された声だけに、その恐ろしさはいっそう高まった。途中で救急担当の医師の先生からもきついお叱りがあったけど、正直、俺からしてみればその恐怖は松山さんの数分の一にも満たなかったと思う。

 松山さんは俺たちが発見された経緯も話してくれた。どうも、術後経過観察のために夕方に俺のもとを訪れた看護師さんが、大事な資料を俺たちの病室に忘れていたらしい。深夜に気付いて探しに入ったら患者がおらず、館内の捜索中に警備員がエネルギーセンターのドアが開いているのを発見。慌てて招集された捜索隊が、俺たちが雪上に残していった足跡を辿ったところ、小屋の残骸に埋もれて息も絶え絶えになっていた俺たちを見つけたんだそうだ。

 俺の記憶に残っていた声は、捜索隊の中にいた看護助手の公野さんのものだったらしい。すぐさま院内のトラックが出動して、俺たちは重機で除いた瓦礫の下から救い出された。そして、トラックで病棟に担ぎ込まれ、待機していた医師の人たちに迎えられてICUで手当てを施され、今こうして、ここで生きている。

 俺たちが病院に大変な迷惑をかけてしまったことを、松山さんは頻りに強調した。その後ろにぞろぞろと集まった見覚えのない険しい顔ぶれが、その事実をさらに明らかにしてくれた。

 情けなくて、申し訳なくて、俺も野塩さんもただただ平伏して謝るばかりだった。


 ……説教が止んだ時には、時計の長針は軽く二周はしていたと思う。

 松山さんは俺に、今日の検査は午後に行うと通告していった。ちょうど今日は伏見先生が休みの日で、別の先生に代わってもらう都合が午後にしかつかなかったかららしい。

「…………」

 急にがらんどうになった病室は、ドアの外から漏れ聞こえてくる廊下の喧騒に比べて、ひどく静かだった。

 静寂を壊してしまってはいけないように感じて、俺はただ沈黙を保っていた。隣のベッドからも、特に話しかける声は聞こえてこない。

 あの時まるで氷みたいだった俺の手は、今はもう指の先端まで温もりを取り戻して、布団の上で所在なげに転がっている。それを動かしながら、俺はひそかにため息をついた。

 最後の最後で俺は運が強かったんだな。そう思った。ifが雪のように高く重なった山の上で、この命はようやく、拍動を続けているんだ。


「ごほ、ごほ……」

 野塩さんが、さっきからずっと小さな咳を繰り返している。

 俺はふと、野塩さんを見た。野塩さんは口元にあてがった手を、長い髪に隠れた目で見ているところだった。その手に載っているものの色は、鮮やかな……赤。

 血?

 思わず俺は身を起こした。よく聞けば野塩さんの息の間には、『コヒュー、コヒュー』と、風のような微かな音が流れている。

「おい、それ……」

 ベッドから身を乗り出して、俺はその手を指差した。俺を勢いよく振り向いた野塩さんは、すぐにその手を布団の陰に隠してしまう。

「……何でもない」

 その声がもうすでに、苦しそうだ。

「何でもないわけないだろ」

 俺は声を荒くした。

「あんなことがあった後なんだぞ、本当に体調を崩してたらどうすんだよ。ってか、血が出てる時点でもうやばいだろ!」

「だからだよ!」

 野塩さんも叫んだ。濡れた瞳の灯す決意は、俺にはないものだった。

「あんなことがあった後に体調を崩したなんて言ったら、私、都合のいいヤツだって思われるに決まってる……。そんなの、イヤだ」

「そりゃそうかもしれないけどさ、血は洒落じゃ済まされないって……!」

「残念だけど、もう思われてるから」

 俺も野塩さんもドアを見た。松山さんが再び、そこに立っていた。あれ、いつの間に……。

「今までだってずっとそうだったでしょ。何か問題を起こすたびに、あなた決まって体調を崩してたわよね」

「え……、あ……」

「大事を取って様子を見るわ。待っていなさい、空いてる病室がないかを調べてもらうから」

 有無を言わせず、松山さんはてきぱきと看護助手さんたちに指示を出して、自分も他の看護師さんと共に野塩さんをどこかへ連れていってしまった。その頃にはもう隠すのを諦めていたのか、野塩さんは激しい咳をしながら顔を歪めていたっけ。

 俺の手術が決まった次の日と同じように、俺はこの広い病室で一人きりにされた。なぜかその時、背中を這うようにして不安が高まったのを、俺ははっきりと覚えている。


 実際には、松山さんが野塩さんの異常に気づいたのは経験則からではなかったらしい。

病室(ここ)を通りかかった時に、友慈くんの声が聞こえたの」

 昼食の時、室田おばさんと連れ立って病室を訪れた松山さんは、窓の外を見ながらそう言った。室田おばさんは居心地が悪そうに小さくなっている。さすがに看護師さんの前では、いつもの勢いは展開できないみたいだ。

「俺の……ですか」

「そう。おかげであの子の発症にも気づけたのよ」

 だからお礼を言っておくわ。そう続けた松山さんの顔からは、説教の時のような恐ろしさはもう、抜け落ちていた。

「友慈くんの言う通りよ。あんなことがあったんだもの、身体がどうなっているかなんて分かったものじゃないわ。せっかく助けた命を、私たちの手の中で弱らせるわけにはいかない」

「そのためにも、ちゃんとお昼は食べなさい、ねっ」

 トレーを置いた室田おばさんが、いつものような笑顔を振り撒いてくれた。どうしてだろう、病室の空気がほんの少し、いつもの匂いに戻ったような気がする。

 今朝から何度も看護師さんがここを訪れて、俺の調子を調べてくれている。それによれば、俺の身体はあの寒さの中でも風邪ひとつ引かなかったようで、熱も脈も血圧も正常値を示しているらしい。俺を診てくれた当直医の下宿(したじゅく)先生も、信じがたいって呟いていたっけな。

 今ここでこうやって生きていられているばかりか、容態が悪くなることすらなかった俺の身体に、俺は改めて感謝した。それから、感謝すべき相手は他にもいるということを、再認識した。

「ありがとうございました」

 松山さんに、室田おばさんに、俺は告げた。涙が浮かびそうになって、下を向きながらになってしまったけど。

「助けてくれて、本当に、ありがとうございました」

 何とか、言い切れた。


 振り返った松山さんの顔に浮かんでいたのは、苦笑いだった。……あれ、てっきり俺、当然よって怒られるかと思ったのに。

「いいのよ、もう。ともかく友慈くんは、元気そうでよかった」

 うんうんと室田おばさんはうなずいていたけど、松山さんの苦笑の理由はそこではなかったみただ。松山さんは続けて言った。

「……それに、私たちがこれ以上に何も叱らなくても、友慈くんにはもう一度カミナリを落とされる機会が巡ってくるでしょう? さぞかし特大のカミナリだろうから、心しておいた方がいいわよ」


 俺がたちどころに真っ青になったのは、言うまでもない。

 救出され、手当てをされて説教され、目が回るほどの忙しなさにまみれていたあまり、俺はその瞬間まで完璧に忘れていたんだ。


 ……そう、母さんの存在を。






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