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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第二章 君の不思議な“Sensation”
13/48

Karte-10 おかえり。




「──くん? 友慈くん?」


 遠くから、俺を呼ぶ声がする。

 水の中から顔を上げるように、はっと俺は目を醒ました。手術着を身につけ、マスクで口元をおおった医師が、俺のことを覗き込んでいた。誰かと思ったら伏見先生か。服装がいつもの白衣じゃなかったから、一瞬分からなかったよ。

 口元は見えなくても声色で分かる。先生は、微笑んでいた。

「手術成功だ。おめでとう、友慈くん」

「本当ですか!?」

 俺は歓声を上げた。とたん、頭痛らしい何かがズガンと落ちてきて、顔をしかめる。

「おっと、急に動いちゃダメだぞ。傷口が開くかもしれない」

「そんなぁ」

 情けない声だったけど、表情は笑っていたような気がする。部屋に詰めている人たちにくすくす笑いされながらも、胸の奥から湧き上がってくる喜びはちっとも止まらない。

 だって! これで俺、脳腫瘍を克服したんだぞ! ほとんど苦しむこともなく、つらい思いも経験せずに!

 これを喜べなかったら俺、何を喜べばいいのか分からないよ。笑みを隠しきれない俺は、ふと、そこが手術室ではないのに気付いた。あれ、ここ、どこだ?

「他の手術の予定があったもので、ICUに移動してもらっているんだ」

 先生が間髪入れずに付け加えてくれた。先生の後ろからひょっこり顔を出した松山さんが、付け加える。

「術後の検査もあるからね、悪いけど明日まではここにいてもらうことになるわ」

「あ、だから病室じゃないんですか」

「安心して。ここにもお見舞いの人は来られるから」

 母さんが安堵で表情を崩しながら部屋に入ってくる様が、すぐに頭に浮かんだ。ああ、このあとはこのあとで、大変そうだな……。


「その、手術……ありがとうございました」

 俺に背を向けて手袋を外す伏見先生に、俺はそっと、声をかけた。

 先生は振り返ったけれど、一言を口にしただけだった。

「感謝は、検査結果が出てからお願いするよ」




 術後すぐには麻酔が切れない。完全に感覚が戻ってきた頃には、もう壁の時計は午後七時を回っていた。

 何やら色々な薬を投与するために、俺の身体には何本もの点滴の管が刺されている。すごいや、なんだか人造人間に生まれ変わったような気分だ。視覚も触覚も違和感を声高に叫ぶ中で、俺はICUで孤独な一晩を過ごすことになった。

 酸素吸入はどうにもやりづらいし、機械はどれもやかましいし、とてもじゃないけど快適とは言い難かった。ああ、眠り慣れたあの七○五号室に戻りたいって、いったい何度思ったことか。

「けど、なぁ……」

 マスクの中で、俺はため息をついた。


 俺は忘れてなんていなかった。

 手術中に見たあの夢の痕跡が、俺の記憶回路にはあまりにも克明に焼き付いていたんだ。

 あのドアを開けたら、中は真っ暗なんじゃないか。俺を出迎えるのは野塩さんじゃなくて、野塩さんのような姿をした何かなんじゃないか。

 唇を奪われた瞬間の、ぞっとするほど黒々としていた野塩さんの瞳を、俺はもう金輪際忘れられそうにない。情けない、なんて言わないでほしい。俺だって驚いたんだ。何かに驚嘆している間、人のココロは恐怖に対してひどく無防備になるんだと思う。


 どうして俺は、あんな夢を見たんだろう。

 何だかんだであの光の正体も分からないまま、あの夢はあそこで途切れてしまった。

 なぜ、俺だったんだ。俺はあの時、野塩さんに選ばれたのか?

 理由を言っていたような気もするけど、その辺りはよく思い出せない。いや、そもそもあの夢そのものを、切れ端さえも思い出したくないんだけどさ。


 ……ああ、くそ。身体がかゆいったらありゃしない。

 俺は横になったまま上着の前を開けて、差し入れた手でかゆい場所をがりがりと掻いた。掻きながら、バカバカしいって呟いてみた。

 あんなことが現実であってたまるか。だいたい何だよ、人間が光るなんて。出来の悪い都市伝説じゃあるまいし。科学的な説明も何もつかないなら、信じるに値せず。よって怖がる必要もなし!

 なーんだ、それだけのことじゃん。あははっと笑った俺は、その声がひどく錆び付いて聞こえたことよりも先に、つい今しがたかゆいと言って掻いたばっかりの場所のことを思い出した。

 左胸の下部。考えてみたら、そこはあの夢の中で野塩さんが顔を近付けた場所と、よく似ている。


「……ま、まさか……あはは」

 笑いながらも不安に駈られて、スマホのライトを点灯する。そしてその場所を、照射してみた。

 今度こそ完全に、俺は言葉を口にできなくなった。


 友達にすらほとんど見せてもらったことのない、唇の形をしたアザ──キスマークが、そこに不気味な紫色を伴って浮かび上がっていた。







 眠っている、というより意識を無理やり落とされている間でも、手術っていうのはやっぱり体力を使うらしい。気付いた時には朝だった。

 あいにく、窓なんてICUにはない。見上げた時計が朝七時半を示していて、ああ、朝が来たんだなと脳の片隅で思った。

 午前中は何もかもが流れるように進んだ。伏見先生が入ってきて容態を聞き、検査のために血が抜かれて俺は悲鳴を上げかけ、酸素や薬のいくつかが停止された。解放感にひたっている間もなく俺はまたもCTスキャンとMRIにかけられて、朝は食べさせてもらえなかった食事を摂り、──そこでようやく、落ち着いた。

 松山さんに伴われて俺と母さんが先生の部屋に向かったのは、十三時過ぎのことだったと思う。ここまでの移動はほとんど車イスだった。松山さんが言うには、普通はベッドもろとも移動するらしい。自分の健康さを褒め称えてあげたいよ。


「朝と比べて、身体の調子はどう?」

「いい感じですよー。いやもう俺、ほんと気分いいんで!」

 俺のそんな元気のいい返答を聞きながら、伏見先生はカルテやら書類の束に目を通す。そして、写真を取り出して俺たちに見せてくれた。

「さきほど撮ったMRIの画像です。そしてこれが、一週間前の同箇所になります」

 並べられた二枚のうち、今日撮った方の一枚からは、以前に腫瘍と説明されたモノが消えていた。

 まだ結論が述べられたわけでもないのに、母さんが大きな大きな息を吐いた。もっとも、先生の口から出た言葉は、俺たちの予想を裏切ったりはしなかったんだけど。

「手術は成功です。お疲れさまでした」

 母さんに向かってそう言った先生は、俺には別の言葉を選んでくれた。

「よく頑張ったね。術後にこれだけ元気でいられている患者さんも珍しい。友慈くんの日頃の生活が良かったんだ、おめでとう」

 俺と母さんは、顔を見合わせた。この喜びを共有できる人は、この場では母さんしかいない。

「やったわね……!」

「うん……!」

 先生がいなかったら、年甲斐もなく抱き合っていたかもしれない。

 そうだよ俺。これでもう、俺の未来を邪魔するものは取り除かれたんだ。また部活に戻って、またかつてのように頑張って、そんでもって都大会に出るんだ!




 その瞬間、俺の脳裏を誰かの影がちらついて、すぐに消えていった。

 それが野塩さんの横顔だったと気付いたのと、表情を引き締めた先生が口を開いたのは、ほとんど同時に近かった。


「──ただ、いいことばかりではありません」

 その言い方に不安を覚えた俺に、先生は質問を投げ掛けた。

「友慈くん、本当に自覚症状は一切何もないんだったね。今もないか?」

「え、あ、はい」

「こちらの写真を見てください」

 そう言った先生の手には、さっきとはほぼ同じ場所を写したらしい二枚の画像がある。何だ、これ?

「問題の脳腫瘍は切除できましたが、実は再検査を行った際に、厄介な問題が新たに見つかりました。こちらは先ほどと同じ頭部の画像なのですが、お分かりになりますか? この部分……」

 先生は赤ペンで、写真の上にクルクルと円を描いて見せる。俺も母さんもぽかんとしながら、そこを覗き込んだ。

 ……小さくて黒い何かが、ぼんやり──それこそ俺が切除してもらった腫瘍よりも遥かにぼんやりとだけど、確かに写っている。


 先生、まさか、これ。


「詳しい検査の結果を待たなければなりませんが、恐らく……転移でしょう」

 先生の声は重かった。俺はいっぺんに天国から地獄まで落ちた気分になった。

「これも、手術なさるんですか?」

「いえ。少々厄介な場所に生じていまして、恐らく手術では厳しいかと。放射線治療を検討しています」

「そ、それはその、被曝とかは大丈夫なんでしょうか……?」

「医療用ですから、人体への影響は抑えるように設計されています。その点はご安心を」

 頭上で母さんと先生の交わす会話を、俺はぼんやりと聞いていた。

 放射線って、何の話だろう?

「詳しい話は、明日以降にしましょう」

 せっかく聞こうと思ったのに、先生は話を終えてしまった。

「そういったわけで、また各種の検査を受けていただかなければなりませんし、術後の経過観察はどちらにせよ必要です。今夜以降も最低限、一週間近くは入院していただく必要があるでしょう」

 なんだ、どっちにしろ俺はまだ囚われの身なのか。


 喜び三割、がっかり七割の気持ちで、俺たちは先生の部屋を退出したのだった。

 予定では喜び九割のはずだったんだけどな……。俺と母さんは立ち止まって、顔を見合わせた。どちらも、同じ顔だった。




 俺の状態はすこぶる安定していた。

 その日のうちにほとんどの点滴は外されて、俺は一気に寝やすくなった。術後の脳にも特に異常は見られないらしくて、次の日には俺に松山さんから部屋の移動を言い渡された。

 普通の患者さんよりはだいぶ早いけれど、また七病棟の病室へ戻りましょうか──って。

 本当は、大手を振って賛成したわけじゃないんだ。でも、殺風景なICUにいつまでも寝転がり続けているのもいい加減飽き飽きしてきていた俺は、すぐに首を縦に振った。

 ICUを出て七病棟へ向かう俺に、通りがかりの看護師さんや職員の人たちは一様に優しい目を向けてきた。なんだか卒業式を迎えた三年生みたいな扱いだ。念のためと乗せられた車イスに揺られつつ、俺はさすがにちょっと恥ずかしくなって、じっと下を睨んでいたっけ。

 そしてそれは、顔を上げたらあの夢と同じ景色が見えるということを、無理やり忘れるためでもあった。


 夢だ。

 あれはただの夢だ。

 きっと麻酔のせいで、俺は悪夢を見ていたんだ。

 病室に着くまでの少しの時間、俺はそうやって何度も何度も懸命に、自分に言い聞かせた。それが証拠に、すれ違う人たちは一人も光ってなんかいない。ってか、そもそも人間が光なんて放ってたまるかよ。そんなことができるんなら、エジソンも電球なんか発明したりしなかっただろ。

 そんな俺を、松山さんは不審なものでも見るような目付きで観察していた。

「……さっきから、どうしたの?」

 エレベーターの前で唐突に問われて、俺は妙に焦った。別に、と答えた。

「いやー、久しぶりに七病棟(こっち)戻って来たなって思ったんで……」

「そうね」

 うなずく松山さんの声は、穏やかだった。

 そう言えば、一度も聞かなかったな。自分の受け持つ患者が大手術に挑む時って、看護師の人はどう思うんだろう。人並みに心配したり不安に思ったりしてくれるんだろうか。

 そりゃ、家族ほどとまでは言わないけど。松山さんが母さんみたいになったら俺、さすがにちょっと困る……。

 結局、聞くチャンスが訪れるよりも前に、俺の眼前には七○五号室のドアがやって来てしまっていた。


 問題の野塩さんはぐっすり寝ていた。耳を澄ますとカーテンに囲われたベッドの方から、規則正しい微かな寝息が聞こえてきている。

 それ以前に病室にはちゃんと明るく蛍光灯が光っていたし、ベッドに移動する俺の介助のために隣には松山さんもいた。

 俺のあらゆる心配は、完全に杞憂に終わったわけだ。

 そうと分かったとたんに眠気が襲ってきて、俺はそこから記憶がない。だって病室のベッド、こんなに柔らかくて快適なんだもの。それに引き換えICUときたら、ベッドは冷たいし固いし、風景はただただ無機質だし……。

 次に起きたのは、夕食だった。


「ありゃまあ、珍しく友慈くんまで寝てるの?」

 懐かしい室田おばさんの声で、俺は目を覚ました。ああ、時計が揺れて見える。今は七時くらいか。

 俺を見下ろす室田おばさんが、俺の前にとんとトレーを置いた。

「術後だからね、柔らかめのメニューよー」

 柔らかめか……。消化のいいものの方が身体にはいいってことなんだろうけど、その配慮、俺にはあんまり嬉しくないよ。おかゆや野菜の煮物、それに魚をつぶしたらしい団子。目の前のメニューに、ひそかに俺はため息を吹き掛けた。ああ、普通の夕食が食いたい。

「あの、俺──」

「ちなみに愛ちゃんは通常メニューだからね。いい、食べちゃダメよ?」

 室田おばさんは、何やら意味ありげな笑みを浮かべている。

 俺は凍り付いた。

 ……まさか、バレたのか。俺がほとんど毎回のように、食べきれない野塩さんの夕食を横からつまんでいたの。

「友慈くんがここを離れている間、あの子ったら一度も完食しなくてねー。それで昨日、聞いちゃったのよー」

 なんてこった!

 さーっと顔が青ざめていく感覚が、俺を襲った。すると向こうの方から、野塩さんの声が。

「……竹丘、くん?」

 たった今起きたばかりかのような声がしたかと思うと、隣のベッドからのそりと野塩さんが上半身を見せた。寝ぼけ眼が俺を見て、室田おばさんを見て、それから配膳台を見て──俺みたいに青ざめた。

「相変わらずよく寝てるわねぇ。はい、晩ご飯よー」

 室田おばさんは嬉々として野塩さんの方へと配膳台を引っ張っていく。トレーが机にどんと置かれる様子を、怯えたように野塩さんは目を真ん丸にして見つめていた。

「あう……ちょっと多いかも……です……」

「なに言ってるのよぉ、愛ちゃんはまだ成長期なんだからね? このくらいが普通よ、普通!」

「でも……」

「ちゃんと食べたら、誉めてあげるからねー」

 室田おばさんは野塩さんの口にしようとした台詞を片っ端から遮って、オホホ笑いしながら病室を出ていった。

 がらがらがら、とその後ろに配膳台が続く。その姿を見送る野塩さんの顔の引きつり方は尋常じゃなかった。俺のいない間にいったい何をしたんだ、室田おばさん……。




 ドアに向かって嘆息した野塩さんが、ゆっくりと俺の方に顔を向けるまでの間は、俺にはまるでスローモーションのように思えた。


「──よかった」

 野塩さんは、笑っていた。あの優しい笑顔で。

「ちゃんと手術、終わったんだね」

「あ、当たり前だろ」

 なぜか気持ちが高ぶって、俺の返事はつっけんどんなものになった。そんな俺の様子が可笑しかったのか、野塩さんはくすっと笑みをベッドに落とす。

「何だよ」

「ううん。手術前の緊張してた竹丘くんの変な挙動、思い出しちゃって」

「や、やめろって! あれは俺も忘れたいんだよ!」

「面白かったなー。検査から帰ってきてドアをくぐった途端に、私のベッドの縁に膝をガンって」

「だからーっ!!」

 ここが教室で野塩さんがクラスメートなら、掴みかかっているところかもしれない。もちろん、本気じゃなく。

 真っ赤になった俺を見ながらひとしきり笑い終えた野塩さんは、俺を改めて見据えて、それから言った。

「おかえりなさい。手術、お疲れさま」


 伏見先生には悪いけれど、その野塩さんの言葉の方がずっとずっと、俺にとっては温かかった。





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