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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第二章 君の不思議な“Sensation”
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Karte-09 手術と、夢





 俺の手術の時は、着々と近付いて来ていた。


 『神経膠腫(グリオーマ)』。──それが、俺の頭を侵す脳腫瘍の正体らしい。

「友慈くんが抱えるのは、その中でも星細胞腫と呼ばれる、ごく一般的なタイプのものです。かつ、他の部位から転移したものでない『原発性脳腫瘍』に当たります」

 野塩さんが同室復帰する二日前に、俺と母さんは二人して伏見先生の説明を受けた。病人本人がきちんと説明を受けて理解し、その同意のもとで医師が手術を行うことは、インフォームド・コンセントっていう大切な手順らしい。俺にはよく分からない。っていうか英語はキライだ。

「やや悪性の星細胞腫である可能性があります。推定される大きさは四十ミリほどで、脳の内部に染み込むように広がっているのが確認できました。危険度を示すグレードは、恐らく3かと思います」

 図を次々に見せながら、伏見先生は丁寧に解説してくれた。けど、俺はどうにも理解しきれていないし、母さんは母さんでほとんどパニックだった。

「つっつまり息子は大丈夫なんでしょうか? 本当に大丈夫なんですか?」

「母さん……。それ聞くの、もう四回目……」

「グレード3は手術後も何らかの処置が必要になる可能性のある度合いです。しかし、どれほどそれが必要となるかは、手術を行ってから経過を見るしかありません」

 伏見先生はあくまでも冷静に、疑問に答えてくれる。

「これだけの大きさの場合ですので、手術は頭部を切開しての直接摘出となります」

「先生、それって俺、痛いですか」

「痛かったら手術にならないじゃないか。大丈夫だよ、全身麻酔を行う。手術は五時間程度で終わると思うけれど、その間ずっと友慈くんは眠ったままだ」

 あー、そうなのか。それなら俺は何も気にすることはないや。

 一気に気楽になった俺とは引き換えに、母さんはこれでもかとばかりに質問をぶつけていたっけ。

「執刀は、どなたが?」

「あ、伏見先生ご自身なんですか! ……あの、失礼かもしれませんけど、今までの執刀の経験は……?」

「ええと、まだよく分かっていないんですけど、つまりどこをどう切って何を取り出すんでしょうか……」

 俺は質問の合間に苦笑してみせた。伏見先生も笑い返したけれど、そこに苦味は見受けられなかったような気がする。先生もこういうの、慣れてるんだろうな。


 手術の前準備が開始された。

 まず、頭部断層撮影が再び実施され、俺はあの嫌いなMRIとまたも対面する羽目になった。翌日には午前中に七回ものホルモン負荷検査が行われて、そのたびに注射器で血を抜かれた。次の日からは副腎皮質ホルモンが、一日二回ずつ注射されるようになった。

 蓄尿というのもある。要は、一日の尿をぜんぶ溜め込んで、その排泄量を調べるというものだ。トイレと比べるとしている時の気分は数倍悪くて、二回もすると俺はそいつを嫌いになれた。

 色々と身体をいじり回したせいなのか、それとも他に理由があるのか、とにかく俺への入浴許可は下りなくなった。出歩かないからいいでしょって母さんは言っていたけど、そういう問題じゃないんだよな……。汚れとか何とかが身体にまとわりついているような気がして、不快感が日に日に増していく。

 おまけに、野塩さんが病室に戻って来て元気な顔を見せたおかげで、安心した俺はとたんに緊張し始めた。

 テレビドラマの中でしか見たことのない脳外科の手術が、他でもなく俺の頭で行われるんだ。緊張しない方が本来はおかしいわけで、俺はたちまちガタガタになってしまった。具体的には、箸を握る手が不器用に震えて床に箸を落としたり、漫画のページがうまくめくれなくなったり、スマホの文字入力を間違えまくった。ギャグマンガの主人公かよ、俺……。

「何してるのー」

 野塩さんはそのたびに楽しそうに笑って、それでようやく俺も落ち着きを取り戻す。そして少しだけ、ほっとしたもんだった。

 それを何回繰り返したことか。野塩さんに笑われるのはまだいいけど、室田おばさんや山田たちに笑われるのは嫌だ。ああ、恥ずかしいからさっさと手術日になってくれ、なんて本気で思ったりしたっけ。


 そしてそんな気持ちでいると、手術の時はあっという間にやって来る。






 二月十七日、水曜日。午前八時。

 ついにその時が来た。




 朝から何も食べさせてもらえないまま、俺はいつもの服から青色の手術着に着替えさせられた。前が簡単に開く仕組みになっていて、中には何も着ていないから、さらに緊張が増す。

「大丈夫だからね。きっと、大丈夫」

 面会に来た母さんは、なんだかそればっかり繰り返していた。いや、むしろそれ俺のセリフだよ。大丈夫だからね、母さん。

 九時を回る前、伏見先生も病室を訪れた。この人が今日、俺の手術の執刀を担当する。行きましょうと言われた俺たちは、病室を後にした。目指すは病棟二階の手術室だ。

 病室を出る前、ちらりと俺は野塩さんのベッドを見た。俺の家族が見舞いに来ていたからか、野塩さんは寝息を立てて眠っている。昨日の夜、手術なんて夢を見てるようなものだから怖くないよ、なんていう怪しげなアドバイスを受けたばかりだ。

 夢、か……。

 経験者ゆえの言葉なんだろうなと思いつつ、語るだけの体験をしてきたであろう野塩さんの過去をまた哀れに思いつつ。そうこうしているうちに、階下へ向かうエレベーターのドアは閉まっていた。


 俺の手術って、やっぱり大変なんだろうか。エレベーターに乗りながら、ふと疑問が湧いてきた。

 説明を聞いた限りでは、俺の脳腫瘍は脳みそにへばりついているわけじゃない。それどころか、食い込んでいることになる。素人丸出しの俺からしたら、それってつまりは二種類のスライムが絡まりあっているようなもんで、それを取り外すなんてとても困難に思えるんだ。

 というようなことを話すと、伏見先生はちょっと笑った。そして、言った。

「そういう困難を実現するのが、脳外科医だよ」

 その言葉で、ひとまず納得することにした。

 ひんやりと冷たい空気のただよう手術室が、じきに目の前に広がった。機器の並ぶ中に置かれた手術台に、俺は寝かされる。その背中の硬さに顔をしかめると、伏見先生はいつしかどこかへ消えていて、代わりに俺と似たような色の服を着た医師が立っていた。麻酔担当の先生だ。

 たくさんの看護師や医師が、横たわる俺を見守っている。


 さあ、来い。

 俺は拳を握った。

 でも、そのあと麻酔がすぐに効き始めて、俺の意識はどこかへ吸い込まれるように落ちていった。







 ──気が付くと俺は、病院の中を歩いていた。


 歩いていた?

 いや、それとは違う。俺の視界はゆっくりとした速度で、前に向かって滑っていたんだ。車イスか何かに乗せられていたら、こんな動きになるんだろうか?

 背後の窓から眩しい日の光が差し込んでいたから、今が日中であることはすぐに分かった。でも、院内の電気はついていない。そしてそれには何も違和感を抱かないかのように、廊下を人々が行き交っている。

 不自然な現象に気付いたのは、少し経った時だった。


 人間が、輝いているんだ。

 人柄が素晴らしいって意味じゃない。文字通りだ。俺のそばを歩き去る人も、遠くの廊下を通過する人も、みんなみんな、白くぼんやりした光を放っていたんだ。

「…………⁉」

 驚いた声を上げたかったのに、声が出ない。視界を下にして、今の自分を見ることすらできない。

 どうなってるんだ。何が起きているんだ。怖いと感じる間もなく、言い様のない恐怖で、肌がぞわりと総毛立った。


 待てよ、俺。

 冷静になれ。

 そうすれば事情が分かるかもしれない。


 俺は深呼吸をひとつして、飲み込んだ酸素を目に振り向けた。思考力がはっきりする代わりに、勢いで飛び出した恐怖心はわずかに引っ込んだ。

 廊下が暗くて、人間が輝いている。落ち着いてみると不自然なのはそれだけだった。あとは普段と何ら変わりのない、東都病院の病棟の景色だ。エレベーターの脇を通過した時、七階と書いてあったのも見えた。もちろんエレベーターは正常に作動していて、人間が乗り降りしている。

 なんだ、それだけじゃん。少し落ち着いた心を撫で下ろして、俺は目を細める。

 よく観察していると、人々の光の強さには違いがあった。白衣を着た人は総じて光が強かったような気がする。反対に弱く見えたのが患者で、よろよろと廊下を歩くじいさんなんかは、もはや光が不安定に点滅している有り様だ。見舞いに来ている家族の人も色々で、明るい人もいれば暗い人もいる。表情の明暗と光の強さに、関連はあまりなさそうだった。

 これはもしや、何かの度合い? だとしたらそれは、何だ……?

 そこまですぐには分からないか。ちょっと笑った俺は、ふと自分の足元を見た。暗い廊下のなかで、俺の足元だけが局所的に明るくなっていた。うわ、いつの間にか俺も光っていたんだ。

 ま、医師の人だって光っているんだし、たぶん悪いものじゃないだろ。

 楽観的な気持ちのまま、まだ俺は進み続けている。


 その時、視界を過ぎ去りかけた病室の番号が、妙にはっきりと意識に残った。慌ててちょっと振り返って、番号を確かめてみる。

 『七○五号室』

 そう書いてあった。

 あれ、ここ俺の病室じゃないか。止まれと意識したら動きが止まって、俺は行き過ぎたドアまで戻った。間違いない、そこは俺がついさっきまでいたあの病室だった。

 名札のところに俺の名前はない。代わりにそこには、野塩さんの名札だけが付けられている。

 変だな、俺はいない設定になってるのか?

 疑問に思った時には俺はもう、ドアを開けと意識していた。スライドドアは音を立てずに開いて、広い四人部屋の病室が姿を現した。


 そこは、真っ暗だった。


 カーテンが閉め切られている。そこから漏れ出す日の光は、病室を照らすにはあまりに弱かった。もちろん蛍光灯も何もついていない。


 思わず言葉を失った俺の背後で、ドアがばたんと大きな音を跳ね上げて閉まった。

「…………!?」

 入ってはいけない場所に入ってしまった──咄嗟にそんな思いが明滅して、俺は回れ右をして病室を出ようとした。何なんだ、このうそ寒い空気は。雰囲気は。ここは確かに俺の病室なのに、俺の知っている七○五号室のような気がしない……。

 すると、左から聞き慣れた声がした。

「……竹丘くん?」

 野塩さんの声だ。

 そうか。病室内でドアの前に立って左を見れば、そこには野塩さんのベッドがあったはずだ。そこは今までと変わらないんだな。懐かしい人の声が聞こえたことで、俺は一気に安堵した。

 野塩さん?

 相変わらずしゃべれないので心で聞き返しながら、俺は回れ左を命じた。野塩さんのベッドはもこもこと膨らんでいて、その中から声がする。

「あれ……。私、寝ちゃってたみたい」

 よく言うよ、いつも昼間は寝てるだろ。

 苦笑いした俺の前で、野塩さんはもぞもぞと布団の中から抜け出してきた。


 俺の苦笑が引きつり、完全に消え去るまで、三秒とかかりはしなかった。




 そこにいたのは確かに、野塩さんだった。と、思う。

 確信が持てないのは、あまりに薄暗くて姿がよく見えなかったからだった。

 そうでなくても光の届きにくい、一番隅っこの奥まった病床。そこから起き上がった野塩さんの身体からは──何の光も、放たれてはいなかったんだ。




「──竹丘くんって、明るいんだね」

 身体を起こした野塩さんは、硬直した俺をじっと見つめた。

 いったい、なんで。廊下には色んな人がいたけど、真っ暗な人なんて一人もいなかったのに。あの光は何だったんだ? 野塩さんはどうして光っていないんだ?

「それだけ明るかったら、私のことも温めてくれられるよね?」

 意味深なセリフと共に野塩さんはベッドを下りて、立ち上がる。そしてそのまま、俺のもとまで歩いてきた。ぎゅっと握られた手が、異常なほどに冷たかった。

 全身に悪寒が走る。嫌だ、ここにいたくない。そう思っても、今度は身体が動かない。

「今までの人たちは、すぐに暗くなっちゃったけど。竹丘くんはそんなに簡単には暗くならないように見えるなぁ」

 値踏みするように俺を見回して、野塩さんはにんまりと笑った。やめて、頼むからやめて。どうかしてるよ、今の野塩さんは……。

 固く目を閉じた瞬間。何かが唇に触れて、それから柔らかくて無味な何かが口の中へと入ってきた。

「んぐ……!」

 逆らうこともできず、俺はその何かに好きなだけ口内をかき乱された。粘膜と粘膜が反応して、生温い液体が喉へ流れ落ちた。何だよ、これ……!

 くちゅ、くちゅ、くちゅ。

 頭蓋に響くその音は、今の俺にとってはただただ不快でしかない。同時に、身体から力が急に抜けて、意識が朦朧とし始める。こんな状態でさえなかったら、そのまま倒れ込んで眠りに落ちていたかもしれない。

 キス──それもディープキスをされたのだと気付くのに、少しの時間を要したのは、そのせいだ。


 満足げな笑みをたたえた野塩さんと俺の間を、蜘蛛の糸のような白い唾液が、つうと伝って繋いでいた。


「……ごめんね。私のこと、竹丘くんの身体に受け入れてもらった」


 野塩さんの声は、腹立たしくなるほど可愛くて、だからこそ不気味に思えて。

 言っていることは、ますます理解から程遠くなって。


「こうしないと私、生きていられないんだ」


 微塵の輝きもまとっていない、その姿に、笑顔に、確かな恐怖を覚えた刹那。

 何かに急激に引き付けられるように、俺の意識はそこから消し飛んだ。

 最後に目に入ったのは、俺の上着をはだけた野塩さんが胸を探って、そこに顔を押し当てようとした姿だった────。






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