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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第二章 君の不思議な“Sensation”
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Karte-08 隣人の異変






 異変が起きたのは、その次の日のことだった。


 入院生活が始まって以来、毎朝俺はワンセグでテレビを観るようにしていた。それ以前から、『ニュースくらいは見ておくといい』という父さんの言葉に従って、毎日きちんと観る習慣があったから。どうだ俺、偉いだろ。

 室田さんが運んできた朝食を食べながら、片耳だけイヤホンを装着してニュースを聴く。ちょうど、青白い顔の気象予報士が天気図の前に立ったところだった。すぐ隣に映っている雲のマークみたいに青白かった。

『関東地方の上空に非常に湿った空気が流れ込んでいる影響で、雪は最大で四日間降り続けると見込まれています。東京都心でも二十センチ、それ以外の関東南部では四十センチの積雪が見られる場合があります』

 うわ、そりゃたいそうな雪だな。それだけ降ったら、都心は交通麻痺どころの騒ぎじゃ済まなさそう。二十三区から距離を置いているこの清瀬(まち)なんて、いったいいくら降ることか。電車で都心に通勤してる父さんのげんなりした顔が、今にもまぶたに浮かびそうだよ。

「積雪四十センチだって。すごくない?」

 俺は何気なく、野塩さんに話しかけた。


 ……野塩さんの様子がおかしかった。

 げほげほと激しい咳をしながら、野塩さんは目にいっぱい涙をためていたんだ。配膳を受け取った時は安静にしていたのに。

「……どうしたの」

 俺の問いに野塩さんは答えなかった。いや、違う。答えられないんだ。その息苦しさのせいで。

 今まで見たことのない野塩さんの容体に、俺の脳内でにわかに警報音が響き渡った。

「大丈夫かよ、おい!」

 俺はベッドに駆け寄った。野塩さんは涙ぐんだ瞳で俺を見つめ、その指がしきりに動いている。

 何を求めてるんだ、あれは。答えはすぐに見つかった。ベッドの脇に設置されている、スタッフステーションへの通報装置だ。

「待ってろ! 俺が押すから!」

 言うが早いか俺はボタンを掴んで、深くまで押し込んだ。病室をブザー音が駆け巡ったかと思うと、すぐに松山さんたちが駆け込んで来た。


 “ごめんね”。

 ストレッチャーに乗せられ、駆けつけた他の看護師さんたちに囲まれながら病室を後にする直前。野塩さんの動かした口が、そう言っていたように見えた。


 病室にただ独り取り残された俺は、しばらくそのまま、呆然としていた。




 野塩さんが起こしたのは、別に発作でも何でもなかったらしかった。同じ病気を患う人にはよくある症状だと、昼過ぎに病室を訪れた松山さんは俺に語ってくれた。

「気にしなくていいのよ。今は少し、落ち着きを取り戻したみたいだからね」

 そうは言うけど、俺の胸のざわめきは収まらないままだ。

 だって、今まであんなに苦しそうにするところ、野塩さんは一度も見せてこなかったのに。そう訴えると松山さんは、無理もないわね、と言ってうつむいた。

 そうか。俺、野塩さんにはこれからもずっと症状がないままだって、無意識のうちに決め付けていたんだろうな……。

「今はどこにいるんですか?」

「一時的にICUに移動したけど、今は病棟北区にある別の病室に移ってるわ。危険な状態が続くうちは、私たちや医師の先生方の目の届く近くに置いておかなきゃいけないの」

「そう……ですか」

「少なくとも今夜は、友慈くん一人になるかしらね」

 松山さんはそう言い残して、カルテを持って病室を出ていった。

 “病棟北区”っていうのは、病棟のエリアの名称だ。この七病棟は管理運営上、南北の二つのエリアに分けられていて、俺のこの病室は病棟南区にある。病棟北区と病棟南区では担当するスタッフステーションも、看護師さんの面子も違うと聞いたことがある。

 つまり俺と野塩さんは、本当に文字通り隔離されてしまったことになる。


 俺、一人か……。初めての経験だな……。

 今までずっと、隣には野塩さんが当たり前のようにいたんだもの。存在感が薄かったとは言え、野塩さんの消え失せた病室は俺独りには広すぎて、その日は何だか落ち着かなかった。ふとした瞬間、部屋の隅で何かが動いたような気がしたり、あるいは蛍光灯の光の揺れが変に気になったりして。

 でもって、そのことは周りにも気付かれていた。見舞いにやって来た母さんに、あんた今日は変よ、なんて直球ど真ん中の指摘をされたくらいだ。

「なんだよ、変って」

「何かしら……。落とし物が見つからなくて気が漫ろ、って感じに見えるわね」

 なるほど、母さんの言う通りだと思った。


 ふとした瞬間に何気なく声をかけられる存在って。

 一度その姿が消えてしまうと、こんなにも心にぽっかりと穴が空いてしまうものなんだな。




 夜になっても、俺はまるで寝付けずにいた。

「…………」

 ジッパーのように口は閉じたまま、だけど眠気なんてものはまったく生じなくて、こまねいた手でずっとスマホをいじっていた。でも、さっきから何のゲームをやっても集中できないし、どんなページも大学教授の書いた論文みたいな文字の塊にしか見えなかった。

 野塩さんがいたなら、またあの小屋へ遊びに行けるのにな……。さすがにまだ俺は、いつどこを警備員が巡回しているのかを把握してない。迂闊に動き回ったらあっという間にお縄頂戴だ、そんなの嫌だよ。

 それでも身体はうずうずと言うことを聞かなくて、ついに俺は立ち上がった。

 ま、『トイレに行く』って名目なら、この辺りのフロアを歩き回るくらいはできるだろ。それでいいから動きたい。スリッパを履き、スライドドアを引き開けると、俺は廊下に出た。

 前を野塩さんが歩いているような感覚は、そこでもまだ鮮明に残っていた。


 東都病院の七病棟は、上から見ると直角二等辺三角形の形をしている。俺たちの病室があるのは一番長い辺の端の方で、同じ辺の真ん中あたりにはスタッフステーションが控えていて、一本の長い廊下で繋がっている。

 そう言えばスタッフステーション、一度もちゃんと見たことがなかったな。トイレに行くフリでもして、前を通ってみようか。寝起きでぼんやりした風を装って、俺は廊下の先で明るく電気を灯すスタッフステーションの方へと歩いた。光に吸い寄せられる夜行性の昆虫みたいだ、俺。

 東都病院には救急対応の部署はあるけど、それはもっぱら外来棟や病棟の低層階で対応するもので、七病棟くらいの距離になると夜間は動きがない。つまり、看護師さんや助手さんも、その多くがすでに帰宅している。スタッフステーションからはまばらに声は聞こえてきていたものの、その声量も大したことはない。

 仕事が少ない夜勤の看護師さんって、どんな話をしているんだろう?

 興味がそそられた。俺は壁づたいにスタッフステーションに歩み寄って、聞こえてくる会話の盗み聞きを企んだ。


「──それでね、病棟北区の助手のコウノさんに聞いたのよ。例のサンヨンの子の様子」

「どうだって?」

「快方に向かっているのかどうかは分からないみたいね。ただ、やっぱりついこの前までのひどい病状に比べれば俄然マシみたいよ」

「そうなの……。久々だものね、あの子の発症」

「一週間前にマルゴに移動したのが、久しぶりだったって言うものねぇ」

「うちの室田さん、喜んでたわよね。『あの子は世話がかかるから好きなのよ!』って」

「うん、すっごくあの人らしいわ」

「これでまた不安定なサイクルに入ったら、病棟北区の人に仕事を奪われるって嘆きそうね」

「有り得るわねぇ。あの人は思ってることが分かりやすいから」


 ……そこまで聞いたところで、俺は少し、考えた。


 コウノ、っていう名前が挙がっていた。俺の知る『コウノ』と言えば、最近よく話すようになった病棟北区の看護助手さん──公野さんだ。

 サンヨンっていうのは、この階にある病室の番号から七百を引いたものに違いない。その証拠に、あの人たちの会話には『マルゴ』も登場した。七○五号室は、まさにこの病室だ。

 だとしたらあの人たちはちょうど、野塩さんのことを話しているんだ。


 もっと話を聞いてみたい。盗み聞きを再開しようと、壁に身体をつけたとたん。

「あら?」

 スタッフステーションから顔を出した看護師さんに、あっさり見つかった。しまった! ……いや俺、別に何も悪いことはしてないけど。

「どうしたの?」

「あ……えっと、ちょっとそこのトイレに……」

 あらかじめ用意してあった嘘を、俺は奥の方にあるトイレを指差しながら垂れた。看護師さんは信じてくれたらしく、

「そう?」

 と言ったきりで、立ち去る俺を見送ってくれた。

 ああ、危なかった……。心臓が止まったかと思ったよ、一瞬。トイレに入って深呼吸をひとつしたら、張り詰めた緊張が少しほぐれて、代わりに病院独特のつんとした匂いが鼻を包んだ。


 俺が入院する直前の直前まで、野塩さんはずっと、ひどい病状のままだったのか。

 今朝の苦しむ野塩さんが、まぶたの裏にフラッシュバックした。何かを訴えかけるかのような、あの必死な眼差しが、ベッドの上で懸命に俺を見つめていたっけ。

 気づくと俺は、拳を握りしめていた。洗面台の向こうの鏡に立ちすくむ俺は、唇をぎゅっと噛みしめていた。

 “可哀想に”。

 今の気持ちに言葉をつけるのなら、ありきたりだけどそんな言葉がふさわしいんだろうか。


 スタッフステーションの前を通り抜けようとした時、さっきの看護師さんたちはまだ話し込んでいた。話題は世間話に移っていたけど、俺を見た片方の人が呼び止めてきた。

「なんですか」

「君、もしかして、野塩愛ちゃんの同室の子じゃない?」

「そ……そうですけど……」

 ななな、なんで知ってるんだ? 俺ってそんなに有名人なのか? ──思わず警戒して尋ね返した俺に、違うのよって看護師さんは笑う。

「有名人なのは愛ちゃんよ」

「七病棟勤務の人は全員知ってるわよねぇ」

 もう一人の看護師さんまでもがそう言った。ねー、と二人は顔を見合わせる。

 ま、あれだけ院内の裏事情に詳しいんだ。きっと過去に何度も出歩いて捕まったんだろうな……。そう思っていたのに、理由はまるで違うところにあった。

「あの子ね、もう長いこと、この七病棟にいるのよ」

「あ、それなら俺、一年以上って聞きました」

「それどころじゃないわね。実際は一年半以上──いえ、二年近くになるかしら。それだけの間をずっとこの病院で、たった一人で過ごしてるの。症状の悪化と改善を無限に繰り返しながら、ね」

「に、二年間もですか……!?」

「二年前に告げられた余命なんて、とうの昔に過ぎ去ってるらしいわよ? 『余命破りの野塩愛』って、外科でも知らない人はいないって聞いたこともあるくらい」

 どうやら俺が知っていたよりも、野塩さんの今日までの病歴は強烈らしい。

 俺は恐る恐る、肝心のことを聞いた。

「あの、そもそも俺、野塩さんが何を患っているのか知らないんですけど……」

「あら。本人から聞かなかったの? 他の同室の患者さんには話していたって聞いたのに」

 苦笑した後、ごく当然の摂理でも語るかのように、看護師さんがさらっと口にした病名は。




「あなたと同じ脳腫瘍よ。──全身に転移しているけどね」









 結局、再びこの七○五号室に野塩さんが姿を表したのは、彼女が移動していった三日後のことだった。

 昼頃、コンコンとドアがノックされて、松山さんに付き添われた野塩さんが入ってきた。ちょうど漫画を読みながら笑うのをこらえているところだった俺は、顔にたまってしまった笑いをそのまま野塩さんに向ける羽目になった。

「おー、終わったの?」

 野塩さんは無言でこくんとうなずいた。その後ろから、松山さんが付け加える。

「容態が落ち着いたのよ。で、先生の判断で戻ることになったの」

 そうか、無事に危機は乗り越えられたんだな……。

 ほっとした。もう、あんな苦しみ方をする野塩さんは見たくない。俺がどうこうするような話じゃないけどさ。っていうか今更だけど何なんだよ、“終わった”って。

「…………」

 野塩さんは黙ったまま、ベッドに横になる。あとでまた来るからね、とだけ言いおいて、松山さんも病室を出ていった。


 気まずい空気が、一瞬のうちに病室に流れ込んだ。

 俺は漫画を傍らに置いたまま、寝転がってじっとしていた。野塩さんも同じ姿勢のようだったけど、眠ってはいなさそうだ。

 普段ならこの時間は、いつもぐっすり眠りこけているのにな。そう思って浮かびかけた苦笑いさえ、口の端から流れ落ちていく。まるで初めて会ったあの日の夜みたいだ。言いたいことも聞きたいこともあるのに、話を切り出すタイミングがなかなか見つからないんだよな……。

「…………」

 ああもう、ダメだ……。

 嘆息した俺は、窓の方を向いた。そこにも野塩さんの身体が映って、俺を追い詰める。

 窓の外は三日前から降り始めた雪で、遠くまで真っ白だ。そのせいか、よけいに病室の中はしんとして、空調の作動音がかえって不気味なくらいだった。


 一分もした頃、野塩さんがぽつりと言った。

「……その、ごめんね」

「何が?」

 今度こそはするりと言葉が出て、それだけで安心する。

「びっくりしたでしょ。突然、あんなに苦しがったりして」

 俺は身体を戻して、野塩さんの方を見た。彼女は首もとまで布団をかぶって、今はじっと天井を見ていた。

 うん……さすがにそれは否定できないや。でも、こうして思い返してみても、あれはほんの一瞬の出来事でしかなくて、むしろ俺を戸惑わせたのはそのあと──この病室に、一人きりになったこと。

「気にすんなって」

 だから俺は、わざと声を明るくした。で、野塩さんの目付きがまだ変わらないのを見て、もう少しそれを継続することにした。

「それでさ、今の調子はどうなの?」

「苦しさはもうないの。でも何だかな、身体中からチカラが抜けちゃって」

「じゃあさすがに外へは行けないな」

 野塩さんの顔に、不意に赤みが差した。笑いを噛み殺しているらしい。

「竹丘くん、もうすぐ手術なんでしょ? どっちにしろやめた方がいいよ」

「うるさいなぁ。野塩さんがいなくなってから、毎晩ヒマでヒマで仕方なかったんだぞ?」

 これは本当だ。なかなか眠れずに夜通しスマホを眺めたり本や漫画を読んだりして、二回くらい看護師さんに目玉を食らったっけ。日勤の松山さんが院内にいなかったのは、俺にとっては大いなる救いだった。あの人は怖い。冗談にならないほど怖い。

「手術前だからって別に体調崩すわけじゃないしさ、俺は遊びにいきたいけどなー」

「さすがに今日は行けないよ。私、ついて行けなくなっちゃう」

「おんぶする?」

「んー、それはちょっとイヤかも」

「なんでだよ、俺だから?」

「松山さんだったら許せる!」

「何だよその差別ー」

 俺たちの間に久々の笑い声が飛び交った。自然に話せるいつも通りの関係が、ドアを開けてそっと病室に戻って来ているみたいだった。




 内心、俺がひそかに安堵していたのは、言うまでもない。


 ──「あなたと同じ脳腫瘍よ。──全身に転移しているけどね」


 あの時、看護助手さんに廊下で教わった病名は、今でも克明に記憶に残っていた。

 ガンは手術で取り除くことで一時的には解決する病気だ。でも、再発のリスクも同時に高い。たぶん野塩さんは何度も何度も再発や転移を繰り返していて、そのたびに手術をしながら生き長らえてきたんだろう……。インターネットで脳腫瘍に関する記事を読み漁りながら、俺はそういう風に結論付けた。自分が脳腫瘍だって発覚した時は、調べる気になるどころか興味の一片も湧かなかったのに。

 ここに戻って来たということは、野塩さんの苦しみもある程度の収まりを見せたということなんだろう。なら、苦しかった時間を忘れられるくらい、今は野塩さんを楽しい気持ちにしてやろう。同室の俺にはそれしかできないけれど、きっとそれは大切なことのはずだから。


 結局、その日は大人しく寝ることにして、俺たちは病室の中だけで夜を過ごした。のんびりと話をしたり、或いはゲームをしたり。

 俺にとっても久々に楽しいと思えた時間を、外の世界に降り積もる雪たちが照らしていった。




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