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水性  作者: 天ヶ森雀
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楽園の罅

「だから! その件に関しては一切関知しないと申し上げたでしょう!?」

 廊下に人影がないのを確認しつつ、いつものように彼の部屋に向かった私は、玄関の中から彼が珍しく激昂する声を聞いて立ちすくむ。

 中に、誰かいるのだろうか。

 今まで人が訪ねてきた事は一度もない。奥まった入り口が分かりにくいせいだろうか、セールスや新聞の勧誘さえ来なかった。

 ドアを開けようかどうしようか、ノブを見つめながら迷う。もし中に人がいたら、私は自分のことを何と自己紹介すればいいのだろう? 友達? 親戚の子?

 今日は帰ろう、そう決めて身を翻した時、中からドアが開いてスーツ姿の女の人が出てきた。

「また改めて参りますから」

「来なくていい!」

 言い合うようにしながら出てきた彼女は、私の姿を認めていぶかしげな顔をする。しかしその興味はあっさり消え、彼女は私を追い越すとかつかつとヒールの音を高く響かせて、建物の出口へと走っていった。

 唐突に訪れた静寂に、私は呆然として立ち竦む。

「高橋さん、これ―――!」

 A4サイズくらいの茶封筒を手に、七青が顔を出し、私の姿を認めた。

「ひろか―――」

「あの、…今日は帰ったほうが…」

「どうして? ちょうどよかった。客も帰ったところだし」

 七青は先ほどの怒声などなかった様に、いつものおだやかな笑みを浮かべる。

「手土産にって持ってこられたプリンが山ほどあるんだ。食べきれないから手伝って」

 あまり無理強いをしない彼にしては少し強引な誘いだった。その瞳はどこか縋る様にも見えて断れなくなる。

「プリンは嫌い?」

「…ううん、好き」

 私はおとなしく彼について部屋の中へと入っていった。



 コンビニやスーパーで売っているのと違い、綺麗なガラスの器に入った高級そうなプリンは、カラメルソースがほろ苦い。

「ごめん、無理に引き止めて…」

 スプーンと一緒にそれを差し出しながら、自分は食べずに七青は壁にもたれて膝を抱く。

「美味しいよ? 七青は食べないの?」

「うん……」

 歯切れの悪い喋り方は、彼を実際の年齢より幼く見せる。まるで私より年下の男の子の様だった。

 私は黄色くて柔らかいひとかけらを、スプーンに掬って彼の口元に運んだ。

 彼はされるがまま、その塊りを口の中に含んで飲み込む。

 私はもう一度プリンを口元に運ぶ。彼はもう一口飲み込んで、柔らかく微笑んだ。

「美味しい」

「よかった」

 どこか弱々しい笑顔に、それでもホッとして肩の力が抜けていくのを感じた。

「ひろか」

「何?」

「ありがとう」

「…なんで?」

 元々は彼のプリンだ。お礼を言われる様なことはない。けれどその事ではなかったらしい。

「君がいてくれてよかった」

「………」

 本当に病人のような彼の傷付いた気配に、胸が詰まって何も言えなくなる。

「こっちに来てくれる?」

 既に彼の目の前にいる。どうすればよいのかわからずプリンをお盆の上に置いた私を、彼は無言で抱き寄せる。

 気が付けば彼の腕の中にいた。

 胸に当たる耳に、彼の少し早い鼓動が響く。

「…だいじょうぶ?」

 できるだけ驚かさないように、小さい声で囁く。彼は「うん」とやはり蚊の鳴くような声で答えた。

「ごめん……」

 抱きしめられた頭の上で、泣きそうな声が聞こえる。

「なんで?」

 バカの一つ覚えみたいに同じ言葉を繰り返す。―――なんで謝るの?

「…キスしていい?」

 おかしな七青。今まで訊いた事なんかないのに。訊かれたことが恥ずかしくて、つい声が小さくなる。

「いいよ」

 顎が持ち上げられ、彼の唇が降りてきた。

 熱が触れる。

 薄い唇が私のそれに重なり、ついばむように何度も擦り合わされる。

 やがて、息ができずに苦しくなって、開いた私のそこに彼の舌が潜りこんだ。

「!」

 ほろ苦いカラメル味の濡れた粘膜が歯をなぞり、私の舌を捕らえる。

 それまでの触れるだけのキスしか知らなかった私は、初めて知る生々しい感触に怯え、溺れた。

 思わず逃げようとしたが、小さな体は彼の腕にしっかり抑え込まれて動かない。

 怖い。

 初めてそう思った。

「~~~~~~っ!」

 彼の胸の上で、我知らず握りこんだ拳に力が入る。

 が、ある一点で体の芯がびくりと震え、全身の力が抜けていった。

 荒い息を弾ませながら、彼の唇がゆっくり離れていく。私は背骨を失くしたかのようにぐったりと彼にもたれかかった。

「ひろか…」

 くぐもった七青の声が聞こえる。けれど私にはまだ返事をする余裕がない。自分の体の変化に理解が追い付かない。

「ごめん……」

 やはり泣きそうにかすれた声が頭上で響く。

 何で謝るの? 七青はちゃんと断ったし、私は拒絶しなかった。それだけの事だ。―――それだけの事の筈だ。それなのに、どうして―――?


 そのキスの本当の意味を知るほど、さすがに私は大人ではなかった。

 今なら分かるけど、あの頃には分からなかった。

 けれど、だからこそ私は彼の傍にいられたのかもしれないとも思う。


「七青…」

 まだ力の入らぬ身体で、声を絞り出す。

「何?」

「さっきの人…」

「…ああ、弁護士さん」

 弁護士?

 問う様に見上げた瞳に気付いたのだろう。彼は小さく苦笑しながら説明してくれる。

「僕の…父親だった人の使い。たまに思い出したようにやってくるんだ。父は…とっくに母と離婚して、もう別の家族と幸せに暮らしてるから、放っておいてくれていいんだけどね」

「……おかあさんは?」

「死んだ。からもういない」

 彼の声は淡々としていて、哀しそうでも辛そうでもなかったから、それがよけいに悲しかった。

 私は両手を伸ばして彼のシャツをぎゅっとつかむ。

「それで…病気になっちゃったの…?」

「違うよ、それは関係ないんだ。単に僕が―――」

 言いかけて、言葉が止まる。どこまで話してよいものか迷っているのだろう。しかし結局彼は、詳しい事は何一つ話してくれなかった。

「単に僕が誰とも会いたくなくて、ひとりになりたかっただけ。ひろか、君と会うまではね」

「………そう」

 つまり…病気と言うのは比喩的表現なのだろう。けれど、彼の内側には暗闇の形をした激しい奔流があって、彼を傷付けたり苦しめたりしているのだ。それだけは何となく分かった。

 だから、彼の言葉を喜んでいいのか悲しんでいいのかよく分からない。

「七青」

 何を言ってよいか分からず、名前だけを呼んでみる。

「ん?」

 既に彼はいつも通りだった。いつもの穏やかで優しい声。

 少し安心して、私は彼の胸の中で丸くなる。

「だいじょうぶ?」

 結局それしか言えない自分が情けなかった。

「うん」

 彼の大きな手が私の頭を撫でている。


 彼の傍にいたかった。

 けれど―――

 胸の奥に、彼の対する小さな恐怖が生まれたのも、この時からだった。


 私たち以外誰もいなかったこの楽園に、突然現れたその闖入者の投げた小石は、水面に大きな波紋を広げ、やがて水底へと沈んでいったのだった。



※罅=ひび

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