水の底
その日を境に、私達は急速に親密さを増していった。彼への呼びかけも『お兄さん』から名前へと変わる。
「七つの青と書いて、ななおと読むんだ」
初めの頃に訊いていた、それが彼の名前だった。
七青は万が一の不在の時の為に、鍵の隠し場所を教えてくれた。私はいつでも彼の部屋に入れるようになった。もっとも彼が部屋にいない時など殆どなかったのだが。
そして、彼の部屋の中での私の定位置は、彼の膝の上になった。
他愛ない話が尽きると、彼は私を膝の上に乗せ、私のうなじに顔をうずめたり、髪の毛を撫でたりする。私はくすぐったがって身を捩ったが、彼の膝の上から逃げる事はなかった。そこは、私にとって今まで以上に居心地のいい場所だったのだ。
彼は、小さい頃から鍵っ子で聞き分けの良い子供だった私が、初めて甘えた他人だった。
◇ ◇ ◇
その日は珍しく雨が降っていた。ねっとりと絡みつく様な蒸した空気の中を、私は泳ぐようにしてやってきていた。部屋に入った途端、部屋の中は相変わらず涼しくて気持ちいい。
傘の水けをきって、私は魚たちの楽園へと滑りこんだ。
雨の音がいつにも増して、私たちを外界から遮断していく。
「この部屋って、海の底みたい」
七青の膝に頭を乗せて、私はそう呟いた。
「海?」
「うん。青い魚が多いせいかなあ。静かで、深い、海の底」
「ほとんど淡水魚なのに?」
そう言って彼はくすくす笑う。
「やっぱり海だよ。だって川みたいに流れてないもの」
それ以上に、彼の名前が海を連想させていたのかもしれない。七つの海。七つの青。そう言えば、教えてもらった写真集のタイトルもそんな名前じゃなかっただろうか。
『Seven Blue』
「…なるほど」
七青はそう答えながら、私の髪を撫で続けた。心地よい手の動きが、とろりと眠気を誘っていく。
「ずうっと…、こうしていられるといいのになあ」
「ひろか…?」
「こんな風に、青い青い海の底で、魚みたいに漂っていられたらいいのに」
それは何の気なしに漏れた、邪気のない言葉だった。
「そんな事、言っちゃ駄目だよ」
けれど静かな、と言うよりどこか感情を抑えた口調で彼は言い放った。珍しく強い言い方に、私はびっくりして聞き返す。
「どうして?」
「僕がいけない人になっちゃうから」
「いけない人?」
「いけない事をする人」
そう言った七青の瞳は、眼鏡の奥で妖しく揺らめいた。
「七青は、いけない人になんかなんないよ」
私は身を起こして怒った様に言い返す。
「少なくとも…ひろかが嫌がる事はしないもん」
「…そうだね」
幼い反駁に相槌を打ちながら、彼は眼鏡を外して私の顔をじっと見つめた。肩に置かれた手が微熱を帯びる。言葉のシーソーがいつの間に傾いたのか、私は気付かなかった。
「でも、嫌がらない事ならしてもいいのかな」
「え…?」
「ひろか、僕は病気だからいけない人にもなれるんだよ」
そう言うと、もう片方の手を私の頬にあて、ゆっくりと顔を近付ける。予期せぬ彼の行動に、私は金縛りにあったように動けなくなった。彼の唇が触れた時、身体の芯が震えるのを感じたが、それが恐怖からなのか、それとも悦びからなのかはよく分からなかった。
彼の肩越しに水槽の『金竜』と目が合った気がする。
そのまま、私の思考はゆっくりと停止し、深い水底へと沈んでいった。
深く青い海の底に、奇妙な熱が立ち上る。
七青はゆっくりと顔を離すと、表情の読めない顔で問いかけた。
「…嫌だった?」
数センチしか離れていない彼の顔をまともに見ることができずに、私は顔を伏せてしまう。何とか沈みこんだ思考を浮上させ、首を横に振った。
「…びっくり、したけど――」
「うん…」
「…嫌じゃ、ないよ」
「うん」
それは思考の結果というよりも、暗い、本能に近い部分だったと思う。
実際、私は彼がしようとしていた事に気付かないほど幼くはなかったが、なぜか拒絶しようとも思わなかった。もし、私が拒否していたら、彼は私を解放していただろう。
(いけないことなのかな、やっぱり―――)
善悪の基準がぼやけてはっきりしないのは、私が子供だからだろうか。彼にはちゃんと分かっているのだろうか。私の中の思考も五感も現実味を失い、すべてあやふやだった。まるで、水底にいるかの様に、輪郭がぼやけていた。
「ひろか――」
七青の声に、私は顔を上げる。
「僕の事が、好き――?」
その問いにならはっきりと答えられると思った。
「好き、だよ」
何故か声が掠れてしまう。彼は底の見えない不思議な瞳をまっすぐ私に向けて言った。
「僕から逃げていいよ」
私は逃げなかった。
七青の顔が再び近付いた時、私は大人しく目を閉じた。心の奥底にある水面に、波紋が広がっていくのを感じる。
海の底は静かで、色とりどりの魚たちだけが私達を黙って見ていた。
◇ ◇ ◇
その後も、私は七青の部屋に通い続けた。ただ、心の奥底に後ろめたさが加わり、私を更に用心深くさせる。『秘密』である事が、私の唯一の救いになっていった。
誰にも知られちゃいけない。
分かっていたのはそれだけだ。
青い海の底で、私は七青に抱かれて眠るようになった。
彼は私の肌に触れたが、私が嫌がるような事は決してしなかった。
綺麗な魚を眺めるように、私は彼を観察する。
細くて長い指、繊細そうな顎の輪郭、癖のある伸びすぎた前髪が額に落ちる。この部屋にも似た、深い海のような瞳は、時折臆病そうな優しさを覗かせ、やがて沈んでいった。
現実との幻想の境が消えたこの部屋で、私はずっとまどろんでいたかった。
私は、彼が好きだった。




