さかなたち
いつしか、その部屋は私のお気に入りの場所になった。
秘密という言葉の響きは、甘い誘惑を伴って私をその部屋へと向かわせる。
実際、そこはとても綺麗で居心地のいい場所だった。ひしめく水槽の魚達が幻想的な雰囲気をかもしだしているのは当然ながら、その水槽の配置が部屋に圧迫感や違和感を与えない事は、彼のセンスの良さを窺わせる。すべてがあるべき場所にある、といった感じは私をとても落ち着かせるものだった。
やがて、夏休みに入ると私は彼の部屋に入り浸るようになった。
いつ私が訪れても、彼の態度は変わる事無く穏やかで優しかった。
彼の部屋へ行くと、何をするともなく魚たちを眺め、何気ない話をし、時々水槽の掃除等を手伝って過ごす。
彼の話を聞くのは大好きだった。
彼は魚に関しては驚くほど博識で、その内容は魚たちの名前の由来から始まって、原産地の話、学術的な生態系、果てはその魚にまつわる民間伝承にまで及んだ。
「この『過背金竜』は、アジアアロワナの仲間でね…」
部屋の中にいる、ひときわ大きな銀色の魚を指差して、彼は言った。
「アロワナって古代魚の一種だよね?」
「そう、良く覚えてたね。こいつには古い言い伝えがあって、昔、天の竜が人間の娘を娶る時こいつを迎えにやったんだって。娘はこの魚の背に乗って天へ嫁いだ…」
耳に心地良い彼の声が響く。
「でもこのこ、80センチくらいしかないよ?」
バカ正直に、私は人が載れる大きさでない事を指摘する。当たり前だ。只の伝承なんだからと彼は言いう事も出来たが、そうは言わなかった。
「うん、昔話だからね。娘が乗ったのはもっと大きかったんだと思う」
「ふうん…」
目の前の金の魚が、娘を乗せて天に昇るところを想像してみる。ゆるゆると背びれや尾ひれをはためかせて空を泳ぐその姿は、とても綺麗だった。
「そろそろこいつの餌の時間なんだけど…」
「うん」
「一緒に見てて平気?」
「? 何で?」
「こいつ、生餌だよ?」
―――いきえ?
一瞬、彼が何を言ったのか分からなかった。
「こいつ、生きた金魚を食べるんだ。だから…」
彼はそう言うと少し意地悪な笑みを浮かべた。
「見ないほうがいいと思うよ?」
なるほど、そう言う事か。生きた餌を食べさせる魚がいる事は知っていた。もちろん実際に見た事はなかったけど。
「…平気だよ。ひろかも見る」
少しムキになって私は言った。
彼は少し意外そうな顔をしたが、止めようともしなかった。
餌用の金魚を隣の水槽から網で掬うと、そのままアロワナの水槽へ投げ入れる。慌てて逃げる金魚の倍の速さでアロワナは食いつき、あっという間に平らげた。
私は目をそらす事無く、それをじっと見ていた。
「――意外」
「何が?」
「女の子って、こういうの苦手かと思ってた」
「…見て気持ちのいいものではないと思うんだけど…」
「うん?」
「魚だって食べないと死んじゃうんでしょう?」
「そうだね」
「だったら平気。当たり前のことだもの」
「……えらいね、ひろかちゃんは」
彼の言葉にびっくりして振り返る。
「偉いなんて、どうして? 初めて言われたよ」
「そうなの?」
彼は意外そうに答えた。
「変わってる、とはよく言われるけど…」
「――ああ、そうかもね」
彼は納得したように頷く。その言い方は言葉通りの意味しかなく、決して他意を感じさせものだったので、私は落ち着いて話を続ける事が出来た。
「学校の友達とか…お母さん達にもよく言われるよ。『お前は変わった子だ』って。別に嫌な言い方じゃないからいいんだけどね。『何を考えているのかよく分からない』とか…」
「そう…」
少し同情的な色合いがその瞳に混ざるのを見て、私は些か慌てて言い繕う。
「でもね、便利な事もあるの。昔から一人で遊ぶのが多い子供だったから、…ここに来ている事もばれにくいと思うの」
「………」
「便利でしょう?」
いたずらっぽく笑った私の頭を、彼の大きな手がくしゃりと撫でた。
「ひろかちゃんはいい子だよ。人より感受性が強くて異質な印象を与えるのかもしれないけど…。それに、思ったより早熟なのかもしれない」
「………?」
『早熟』の意味がよく分からない。それに小柄な外見からか、私は実年齢より下に見られることが多かった。
「でも、優しいよね」
私の困惑に気付かず、彼は言葉を続ける。
「何でそう思うの?」
彼の言葉が理解できず、私は少し混乱して訊ねた。
「ひろかちゃんは僕の事、何も聞かないでしょ」
「それは―――」
私は口ごもった。
「何となく、聞かないほうがいいかなって……」
「うん。でも、どう考えたって変わってるのは僕の方が上でしょう。だって、思わない? 一日中部屋にいて魚相手に過ごしている。おまけに小学生の女の子を連れ込んで、秘密を共有させている。ただのひきこもりにしたって、他人が聞いたら絶対怪しいよね。一歩間違えれば犯罪者扱いだ」
そう言って、彼は悪戯っぽく笑った。
「それは―――」
正直、疑問に思わないわけではなかった。彼が何者なのか。たとえば何で生計を立てているのか。怖くて聞けなかっただけだ。聞いたらこの部屋に来られなくなる気がした。
彼が言っている意味は分かる。
小学生の女の子が大人と呼ばれる歳の青年と密会している事は、一般的に照らし合わせれば充分危険を想起させる行為だと言う事は、いくら私が幼くても情報として知っていた。
だから尚更、彼の事を何も知らない方が、無邪気な子供の振りをして目をつぶっていられると思ったのかもしれない。
「聞いても…良かったの?」
「――どうかな」
彼は曖昧に笑った。
「外で…働いたりしてないよね」
たとえば夜のコンビニとか、自分が来ない時間に働いている可能性もあっただろうが、どうしてもそれは彼のイメージに繋がらない。どこか浮世離れした雰囲気のせいだろうか。
家族の気配すら全く感じさせなかった。まさかいない訳ではないだろうが、私の頭の中にそのイメージがうまく湧かない。
「バイトでね、専門誌の下訳をしてる」
「したやく?」
「えーと、外国の論文とかを雑誌に載せる時に、日本語に直すでしょう。その翻訳の下地作り、みたいなものかな」
「それで…英語の本とかよくみてたんだ」
部屋の隅に積んである本も、よく見れば半分は外国語だった。
「専門用語も多いからね。訳す時に語彙や知識が必要になる。大体はウチの大学の本で間に合うけど…たまに検索して蔵書があると、町の図書館も利用させてもらってる」
彼の言葉は、一生懸命分かりやすく教えてくれているものの、小学生には少し難しすぎた。
ウチの大学、と言うと、つまり…
「大学生なの?」
「そうだね。…元々は」
「今は?」
「休学して療養中なんだ。この意味わかる?」
私は少し考えてから肯いた。
「どこか悪いの?」
「…ここがね」
そう言って、親指で心臓の辺りを指差した。
「心が、病んでる」
「……うそぉ」
私は驚いて、彼を凝視した。
彼は微笑んだまま、私に問いかける。
「ひろかちゃん、僕の事怖くない?」
笑みを含んだその表情とは裏腹の、どこか儚げな匂いを私は敏感に嗅ぎ取っていた。今彼を、突き放しちゃいけない。何もかもが曖昧な中で、それだけは確信できる。
「よく、わかんない。よくわかんないけど、でも…」
私は泣きそうになった。けれど、泣かなかった。
彼の胸に額を押し付けて目を閉じる。
「早く、良くなると良いね」
彼の心臓の音が聞こえた。
とくんとくんとくん…
絶え間なく繰り返される命を生かすためのポンプ音。それは水槽の濾過を動かすための音にも似て、どこか無機質な響きに感じる。
なぜ病んでしまったのかとか、その理由は聞かなかった。聞かないほうがいい気もしたし、聞く必要もないと思った。
たとえそれがどんな病気だったとしても、彼は私にとってまともだったし、それで充分だったのだ。
私の動きを予想していなかったらしく、彼は途方に暮れた様に動かない。しかし、やがて私の肩に腕を回すと、私の身体をしっかりと抱きしめる。そして「ありがとう」と、囁くように呟いた。
その日の別れ際、私は彼に尋ねた。
「また、ここに来ても構わない?」
私が不用意に近付いてしまった事で、彼が身を翻してしまわないかと不安になったのだ。
彼は少し戸惑う様な口調で私に聞き返した。
「ひろかちゃん、この部屋が好き?」
「うん」
「僕の事は?」
「お兄さんも好き」
「本当に?」
「うん」
「本当に本当?」
子供のような彼の言い様に、少し可笑しくなる。これでは彼が子供のようだ。
「…だって綺麗だもの。この部屋も、お兄さんも。嘘なんかつかないよ」
「そう…」
彼は軽いため息を吐くと、いつもよりはにかんだ様な微笑みでこう言った。
「僕も、ひろかちゃんが来てくれると嬉しいよ」




