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水性  作者: 天ヶ森雀
2/6

秘密

 彼の家は、木造二階建ての洋館風のアパートだった。

 白いペンキで塗られた下見張の壁や突き出た入り口が風雨に晒されて、それでも尚壮健そうなその建物は、古いと言うよりレトロなイメージを醸し出している。

 入り口は道路から少し奥まった場所にあり、大きな欅の木が両側に2本、枝を広げて影を作っている。森に入ってゆくような雰囲気は、私に隠れ家の印象を抱かせた。


 私の臆した様子に気付いたのか、彼は、見かけほどボロくはないんだよ、と笑った。一人暮らしなんだ、とも言った。

 空調をかけて締め切っているのか、はたまた平日の日中だから仕事に出かけているのか、他の住人の気配は全くない。

 彼の部屋は1階の一番奥で、玄関は板張りの廊下を抜けたところにあった。

 表札はない。

 建物の入り口にあった、彼が郵便物を取り出した郵便受けにも、部屋番号の表示があるだけで住人の名前などを示す表示はほとんどなかった。他のメールボックスもほぼ同様である。今時、住人の性別や名前といった個人情報が分かる表示は出さないのが普通なのかもしれない。けれどどこか隠し事めいた印象を受けるのも確かである。

 無邪気について来てしまった事に、多少の不安と後悔を覚えて不意に足がすくみそうになった。

 良かったのだろうか、彼が本当にいい人だと言い切れるのだろうか。そう言えばまだ、名前も聞いていない。

 彼の笑顔が不透明なものに思え始め、目の前の背中を思わず凝視する。濃紺のTシャツに、汗染みが黒っぽくできていた。左の肩に背負ったデイパックには、図書館で借りたやはり魚の本が入っている。全部英語の、学術書の様な厚い本だった。

 膨れそうになる不安を無理やり頭の隅に追いやって、私は足を進める。ほんの僅かながら、彼と彼の部屋に棲む魚達への好奇心の方が勝っていた。


「どうぞ」

 彼に促されて入った部屋は、窓の全てに木製のブラインドが下ろされていて薄暗く、けれど空調が効いていてひんやりとした空気が流れていた。照りつける真夏の太陽が世界の主と化していた外と、驚くほど対照的である。

 陽光を遮断して尚この部屋を明るくしていたのは、壁を埋め尽くす沢山の水槽に設置された、水槽用の青白い蛍光灯だった。

「う・わ――――…」

 古いアパートにしては広めの真四角な部屋の壁の垂直にあたる二面に、それぞれの魚に合わせた水槽がタイルモザイクの様に組み合わさって並んでおり、中には色とりどり、大小様々な魚達がその身を揺らめかせていた。

 魚にあわせて水草も揺れている。そのゆったりした動きは、私を幻想の世界へと誘っていった。


「すごーい…」

「気に入った?」

「うん! すっごくきれい!」

 私の感嘆に、彼はいたく満足したようだった。

 メダカくらいのサイズで、けれどいろんな色をした魚の群れを指差し、私は聞いた。

「あれって、ネオンテトラだよね?」

「そう、赤と青のがね。下のほうにいる赤っぽいのはカージナルテトラ、黒いラインが入ってるのがペンギンテトラ」

「ペンギン?」

「白地に黒ってのがそれっぽいからじゃないかな」

「この上のほうにいるピンクは? 白い斑点のある…」

「それはパールグーラミイ。点々が真珠をちりばめたみたいでしょ?」

「うん、きれーい」

 それまで写真でしか見た事のなかったものたちを、間近で見ることで私はとても興奮していた。不安や後悔なんて、とっくに地球の裏側まで飛び去っていた。

 次々と繰り出される質問や歓声に、彼は嫌な顔ひとつ見せず丁寧に答えてくれる。

 時間だけがあっという間に過ぎていった。


「…ひろかちゃん?」

 一通りの興奮が去った後、私は放心した様にその場に座り込んでいた。板張りの床と生成りのクッションが触れる足に心地いい。

「どうしたの?」

 台所から麦茶の入ったコップを持って出てきた彼は、私の急な変化に少し驚いたような声を出した。

「思ってもみなかったの。あの…頭の中では知ってたんだけどね、けど…本当にこんな綺麗な生き物がいるんだなって…」

 ゆっくりと、自分の中にある言葉を捜して紡ぐ。正確に、一片の齟齬もなく伝わるように。

「すごいね。本当に…うそみたい…」

 一見矛盾した私の言葉に、彼は何も言わない。何も言わず、黙ってコップを私の前に差し出すと、私が麦茶を飲むのをじっと見守っていた。

 コップに口をつけると、身体の中に麦茶が染み渡り、熱く火照った身体を優しく潤していく。

 大きく息を吐いて見上げると、彼の目が優しく水面のように揺らめいていて、彼が私の言葉を正確に受け止めてくれた事がなぜかはっきり伝わってきた。

 何故だか信じられないほど、とても満ち足りた気分だった。




「今日は本当にありがとう」

「どういたしまして。満足して貰えて嬉しいよ」

「私も嬉しかった。あの、…あのね」

「何?」

 しばらく躊躇ったあと、思い切って切り出す。

「また…来ちゃだめかな」

 一瞬、彼の瞳に微妙な影が走る。気に触ったかと私は慌てて言い訳の言葉を探した。

「ごめんなさい! 図々しいかなって思ったんだけど…あの、もし…お兄さんが嫌じゃなければって…」

「別に嫌なわけじゃないんだ。ひろかちゃんがうちの連中をそこまで気に入ってくれて嬉しいよ」

「本当?」

「うん。ただ…」

 彼はそう言って瞳を宙に泳がせる。再び微妙な影を見た様な気がするのは気のせいだろうか。

 しばらく逡巡した後、彼はようやく口を開いた。

「秘密にしてくれたら来ても良いよ」

「秘密?」

「この部屋の事、僕の事、ひろかちゃんがここに来るのを誰にも言わないって約束できるなら、来てもいいよ」

 彼の言葉の真意が分からず混乱する私に、畳み掛ける様に問いかける。はじめは両親に断るようにとさえ言ったのに。

「約束できる?」

「できる、けど…なんで? なんで秘密にするの?」

「えーと、つまりね、僕はこの部屋を気に入った人にしか見せたくないんだ。ひろかちゃんはとてもいい子だから来ても全然構わないんだけど、それ以外の人に興味を持たれて来られるのは困る。だから…僕の言おうとしてる事、わかるかな…」

「わかる…と思う」

 確かに学校友達とかに話せば、興味をもって一緒に行きたいと言いだすかもしれない。人数が多ければそれこそこの魚たちの特別な世界を壊しかねないだろう。両親は…やはり何かを心配して止めるかもしれない。それも嫌だ。

 私の曖昧な返事に、彼は咎めるでもなく静観している。

 分かる様な気はしたが、小さな不安が残ったのも事実だった。それでも、大きな誘惑には抗えなかった。彼と、彼の魚たちと。

「お兄さんとひろかだけの秘密だね?」

「そう、お父さんやお母さんにも…できれば言わないでほしい。約束できる?」

 彼が望むのは秘密を共有する事。

「言わない。大丈夫。ひろかん家、お父さんもお母さんも仕事で遅いし、ばれないように出来ると思う。…絶対、秘密にする」

 彼の真剣な瞳が眼鏡の奥から私を覗き込み、緊張した空気が流れる。不意に、私は彼が綺麗な顔立ちをしている事に気が付いた。

 ふと、怖いくらいだったまなざしが溶けて、優しくなる。


「いい子だね、ひろかちゃん」

 脳の一部が溶けて、何か柔かいものに変わる様な錯覚。

 それが共犯者として受け入れられた、彼からの言葉だった。


 私は大きな秘密を抱えて家路についたのだった。

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