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水性  作者: 天ヶ森雀
1/6

夏の日

 呆れるほど、真っ青な空だった。

 入道雲がその陽射しを割るように、あちこち広がっている。

 リゾート地の絵葉書の様な快晴だと言うのに、浜辺には私達以外誰もいない。もっとも観光地ではないし、夏とは言え平日の午後だから当然と言えば当然かもしれない。


 初めてにしては大胆に、私達は制服のまま学校を抜け出していた。

 波は穏やかで、心地好い風がスカートの裾やセーラー服の襟をはためかせている。目の前の男の子の、水飛沫が飛んで眼鏡を外そうとする仕草に、突然7年前の光景が甦った。


(そう言えば、彼もあの時眼鏡を外して―――)


「―――松井?」

 

 波の音と、彼が私を呼ぶ声が、遠い世界のものになっていった。


 ◇   ◇   ◇


 『彼』と初めて出会ったのは区立の図書館で、当時小学4年生だった私は平均より小柄だったと思う。

 陽射しを遮る為に下されたブラインド沿いの、大型本の並ぶ低い棚を凝視する。

 写真集のコーナーで、取ろうとした本に隣の人の手が重なり、慌てて別の本を取ろうとしたら、同じことを思ったらしいその人と再度ぶつかってしまった。

 その手が自分より大きな男性のものだった事が、私に怯えた顔をさせたらしい。

 困った様に笑顔を作り、「ごめんね」そう言って彼は何も取らずに去っていった。

 大人、と言ってもまだ若い、学生っぽい人だった。大学生くらいだろうか。

 彼が去った事にホッとすると同時に、罪悪感も湧いて出た。

(謝らせちゃった…)

 小さい身体を持つことは、時として相手を無意識に悪者にさせてしまう事がある。

(あのひとが悪かったわけじゃないのに…)

 たまたま、手に取ろうとした本が同じだっただけだ。

 抜き出そうとした本を目で探す。

 それは2冊とも、熱帯や亜熱帯の魚の大判の写真集だった。

(2冊あるんだから―――)

 そう思った途端、両方抜き出して彼の姿を探した。ブルーのダンガリーのシャツに色褪せたジーンズ、細身の体つきで眼鏡をかけていた。ちょうど、閲覧室を出て行く姿が目に留まる。

「――あの!」

 振り向いた視線が下へ下がる。

「あ、あの、…二冊あって、両方いっぺんに借りる必要ないし、あの、だから良かったら…」

 思考に言葉が追いつかず、焦りで頭の中が真っ白になっていく。

 初対面の見も知らない人に、私は一体何を言っているんだろう?

 そんな私の動揺に反して、彼は意を解したように頷いた。

「―――ああ、なるほど」

「…あの、だから…」

「ありがとう。でも、もう他のを借りちゃったから、僕は君の後で構わないんだ。だから――ね?」

 遠回しな拒否。

(何か、余計な事しちゃってる――)

 彼の優しい声よりも、私はその思いに捕らわれ更に動転した。

「ご、ごめんなさい…!」

「謝る事じゃないよ」

 勝手に思考を暴走させ自爆した私を放って置けなくなったのか、彼は私の前に屈みこんで苦笑する。私よりも、視線が少し低くなった。

「君も、熱帯魚好きなの?」

 唐突な話題の転換に、私は目を丸くした。

「え?」

「綺麗だもんね」

「う、うん」

 穏やかな口調と答えやすい誘導展開が、私の中の焦りと自己嫌悪をさらりと拭い去った。

「この人の写真はいいよ。海外版でも出ているから、探してみるといい」

「え?」

 彼の言葉の意味を理解しようと、写真集の著者の名前に目を落とす。それまで、写真集は写真だけ見るものだったから、著者の名前なんて気にした事がなかった。

「じゃあね、わざわざありがとう」

 気が付けば、彼は立ち上がって小さく手を振りながら出口の方へ歩いて行く。

 胸の中に、何かがことりと音を立てて転がり落ちてきた気がした。

「あ、あの! ありがとう」

 何と言って良いか分からず、とにかく胸に浮かんだ言葉を口にする。

 彼はもう一度振り返ると、小さく笑って出ていった。


 それが『彼』との最初の出会いだった。


   ◇   ◇   ◇


 私にとって、その図書館は近所である事もあり、お気に入りの場所の一つだった。明るく清潔で、蔵書も多い。座る場所も多くて、ゆっくり本の世界に沈み込むことができる、静かな空間。

 そんな図書館に通う理由が、もう一つ増えていた。

 彼に会いたかったのだ。

 教えてもらった通り、著者の名前で蔵書を検索したら、他にも数冊の写真集が見つかった。

 なるほど、外国で出版されたものらしく、タイトルや中の説明はすべて英語で書いてある。

 それはやはり美しい魚たちを写したもので、驚くほど至近距離でとった不思議な魚の顔や、深い珊瑚の海に群れる色とりどりの魚の大軍、水面からの光の加減なのか幾重にも折り重なる鮮やかな色が信じられないほど幻想的な世界を繰り広げている。

 私は夢中になってその人の写真集に見入っていた。

 同時に、この感動を誰よりも彼に伝えたかった。

 また、来るだろうか?

 放課後になると私は図書館に直行し、彼の姿を探した。

 子供向けの棚だけでなく、専門書や哲学書など、読む事も難しそうな普段は近寄らない棚も何度も行き来した。

 とは言え、小学生ではないのだから毎日図書館に来れるほど暇ではないのだろう。今日び、小学生だって忙しい子は塾だ習い事だと忙しい。

 彼はなかなか姿を見せなかった。


 ―――だから。 彼の姿を見つけた時は嬉しくて飛び上がりそうになってしまった。


(あの人だ――!)

 細身の背中。細い銀フレームの眼鏡。少し伸びすぎた様な、サラサラと音を立てそうな前髪。

 しかし、膨れ上がった喜びは急速にしぼんでいく。

 一体、何と言って声をかければよいのだろう?

 こんにちは? 私を覚えていますか?

 覚えている筈がない。たった一度すれ違っただけの子供を、覚えている可能性は限りなく低い。

 私が読めない英語の書棚に向かう、彼の背中を見ながら絶望が駆け抜ける。

 やっと会えたのに。ずっと、会いたかったのに。

 彼を目の前にして話しかけるきっかけを持たない事が、悔しくて仕方なかった。

 けれど、そんな私の視線に気付いたのか、彼は振り返っていぶかしげに私の姿を見下ろす。

 視線が合い、心臓がバクバク跳ねて口から飛び出しそうだった。

「あ、あの―――」

 彼はしばらく何かを思い出そうとするようにじっと私を見つめていたが、やがて眼鏡越しにその瞳を細めた。

「…ああ、あの時の」

 嬉しくて、泣きそうになった。

「あの! あの写真家さんのことを教えて頂いて、ありがとうございました。あの後色々探したの。どれもとても素敵だった!」

 まるで急いで告げねば彼が煙となって消えてしまうかのように、私は一気に喋りだす。

 そんな私に、彼は更に安心させるような優しい笑みを返した。

「そう。よかった、気に入ってくれて」

「ずっと、お礼を言いたかったんです。あの、変にじっと見ちゃってごめんなさい!」

 自分のとった行動の怪しさに気付き、私は慌てて頭を下げる。はっきり言って、私のした事はストーキング以外のなにものでもなかった。

 そんな私が可笑しかったのか、彼はくすくす笑いながら言った。

「うちにも結構いるんだ、熱帯魚」

「え?」

「だから…あの写真集を選ぶなら、他のもきっと気に入ると思って。余計なお世話だったかと後から思ったんだけど…そんなに喜んでくれて安心した」

 腰を屈めて視線の高さを合わせながら、人懐こい笑顔を浮かべる彼に私の胸が更に高鳴る。

 回転しない頭で必死に話題を探した。このまま、じゃあと言って別れるのは嫌だった。

「ほ、本当は本物が見られれば一番いいんだけど、うち、お父さんもお母さんも忙しいから…」

 思わずそんな事を口走る。水族館はこの街にはない。昔連れて行ってもらったところは、電車を何回か乗り換えなければならなかった。

「そうなの? じゃあ、良かったら見に来る?」

「え…?」

「あいや、うちにも結構いるんだけど……って、やっぱまずいか。いきなり知らないお兄さんについていくってのは」

 自分の言葉に驚いた様に、彼は慌てて語尾を濁す。その焦った様な姿が、逆に私を安心させていた。

「何がいるの? お兄さんの家」

「アロワナとか…カージナルテトラ、ネオンテトラ、ダブルテール・グリーン・ベタ、アフリカンランプアイ…」

 彼が挙げた大半は、知らない名前だった。分かるのはネオンテトラとアロワナくらいだ。けれど羅列される知らない名前が、まるで魔法の呪文の様に私を興奮させた。

「遠いの? お兄さん家」

「七塚の4丁目。七塚公園の北の方なんだけど…」

 それは知らない地名ではなかった。よく行く場所でもないが、学区内で自宅からも遠くない。何より、このまま彼と別れてしまいたくなかった。家まで遊びに行けると言う事は、親密度もそれだけ上がるかもしれない。何より、宝石の様な魚たちの名前が私の警戒心を和らげていた。

「……本当に、行ってもいいの?」

 おずおずと切り出した私に、彼はにっこり微笑む。

「お父さんやお母さんには言わなくて平気?」

「大丈夫。時間までに帰れば、何も言われないもん。それにお仕事中はなるべく連絡しないようにしているし…」

 それに…両親に断れば反対されるかもしれない。

「じゃあ…まあ、いっか」

 くしゃりと崩れた笑顔には、純粋な好意しか映っていなかった。


 そう言えば、と彼は身体を起こして訊ねた。

「名前、まだ聞いてなかったね」

「まつい、ひろかです」

「ひろかちゃんか、いい名前だね」

 彼はもう一度目を細めてそう言った。


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