乗客一名
「また、窓際を空けておいてくれたのね」
「君はそっちが好きだろう」
「あなた、いつも通路側ね」
「先に降りて、手を貸せる」
「まだ、そんな年じゃないわ」
「君はいつも、足元を見ずに降りるから」
「海を見ていたのよ」
「今夜も見えるといいな」
「海岸通りに着く、少し前から見えるわ」
「その駅、新しい路線図には載っていないんだ」
「この切符には、ちゃんと書いてあるわ」
「紙の切符か。よく持っていたな」
「海に来た記念にって、あなたが取っておいたのよ。はい、落とさないでね」
「君が、靴の中まで砂を入れた日だな」
「あなたが、遠いほうの浜まで歩こうって言ったからよ」
「半分は僕の靴にも入った」
「玄関で払ったら、叱るつもりだったのに」
「だから、駅のベンチでひっくり返しただろう」
「靴下にも入っていたでしょう」
「君は笑っていた。助けもしないで」
「あなたも笑っていたでしょう」
「君が笑うと、つられるんだ」
「今夜は、少し疲れた顔をしているわ」
「大丈夫だ。眠りが浅いだけだよ」
「ちゃんと、何か食べてる?」
「駅前で、いつもの弁当を買った。二つ」
「ひとつでよかったでしょう」
「ひとつだけ、と言うのが、どうしても苦手で」
「じゃあ、残りは明日のお昼に食べてね」
「君は、食べないのか」
「私は、もういいの」
「昨日も、そう言ったな」
「覚えているのね」
「その言い方は。でも、君とどこで別れたのか、思い出せない」
「この列車の中よ」
「どうして、毎晩ここなんだろう。家で待っていてくれればいいのに」
「あなた、帰るときはいつも、先に靴を脱いでいたわね」
「君の荷物を受け取るためだ」
「そう。それから、振り返ってくれた」
「今でも、そうするよ」
「ええ。いつも、そう言ってくれる」
「なのに、いつも……なんだろう。玄関のところだけ、うまく思い出せない」
「そんなに、思い出そうとしなくてもいいのよ」
「思い出さないと、君をまた置いて帰ってしまう」
「少し、手の力を抜いて。切符が破れてしまうわ」
「人数のところ、大人一名になっている」
「あなたの切符だもの」
「君のは?」
「私は、いらないの」
「一緒に乗っているのに」
「ええ。こうして話すことはできるのにね」
「手を貸してくれ」
「ここよ」
「……もう少し、強く握ってくれないか」
「そんなに力を入れると、あなたの手が痛いでしょう」
「君の手の大きさは、覚えているんだ。指の、ここが少し硬くなっているのも」
「包丁だこよ。あなた、いつもそこを撫でていた」
「温かさだけが、どうしても……」
「握れなくても、ここに置いておいて」
「こうか」
「ええ。少しだけ、隣に」
「切符の日付、三年前だ」
「二人で、海から帰った日ね」
「帰った……のか?」
「家まで帰ったのは、あなただけだったわ」
「僕は、三年も君を待たせていたのか」
「待っていたのは、あなたよ」
「それで、毎晩ここへ?」
「ええ。いつも、私の席を空けておいてくれる」
「僕は、君に何があったのか……」
「私の顔を見て。今は、ここにいるから」
「そう言うのも、毎晩なのか」
「ええ」
「僕は毎晩、初めて聞いたような顔をする?」
「……今夜は、いつもより長く、手を出してくれているわ」
「離したくないんだ」
「離していないわ。ちゃんと、隣にあるもの」
「本当は、握れていないのに」
「窓を見て。海よ」
「暗いのに、波の端だけ白いな」
「あの日も、そう言ったわ」
「君は、きれいねって」
「そう。きれいね」
「もう着いてしまうのか」
「ええ」
「次の駅まで行こう。降りなくてもいい」
「ここが終点なの」
「だったら、折り返すのを待とう」
「あなたは、帰らなくては」
「君を一人にしたくない」
「……あなたも、一人になりたくないのね」
「うん」
「私の前でまで、平気な顔をしなくていいのよ」
「……帰ってきてくれないか」
「……」
「すまない。そんな顔をさせたかったんじゃない」
「帰ったら、ちゃんと明かりをつけてね」
「ああ」
「暗いままで、ご飯を食べないで」
「君がいないと、つけるのを忘れる」
「明日は、お弁当を温めて食べてね」
「わかった。……君の声まで、忘れてしまわないかな」
「今、聞こえているでしょう」
「明日も、聞けるか」
「あなたが、ここへ来てくれたら」
「来るよ。今日のことも、今度こそ覚えてくる」
「無理に約束しなくていいのよ」
「君に、毎晩同じことを言わせたくないんだ」
「私は、何度でも言うわ」
「……ひとつだけ、頼んでもいいか」
「なあに」
「帰ったときみたいに、言ってくれないか」
「おかえりなさい」
「……ただいま」
男が目を開くと、列車の窓も、隣に差し出されていた手も消えた。
机の上の遺影には、さっきまでと同じ笑顔があった。写真の脇に、三年前の日付の紙切符が置かれていた。
画面には二本の音声波形が残っていた。女の声の横に、〈対話人格――妻〉。
男は妻の最後の一言を、もう一度だけ再生した。返事をしようとして、口を押さえた。
明日の予約を入れてから、終了画面を開いた。〈事故に関する記憶を一時消去〉。男はその欄の印を外した。
隣の椅子へ伸ばした手が、冷たい座面に触れた。男はそこに掌を置いたまま、うつむいていた。
やがて手を戻すと、外したばかりの印をつけ直した。指先が止まった。それから、〈終了〉に触れた。
耳もとの端末が、短く震えた。男は頬に触れ、不思議そうに濡れた指を見た。
それから端末を外し、隣の椅子を、座りやすい向きに直した。




