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会話の中に

乗客一名

作者: parupuntist
掲載日:2026/09/12

「また、窓際を空けておいてくれたのね」

「君はそっちが好きだろう」

「あなた、いつも通路側ね」

「先に降りて、手を貸せる」

「まだ、そんな年じゃないわ」

「君はいつも、足元を見ずに降りるから」

「海を見ていたのよ」

「今夜も見えるといいな」

「海岸通りに着く、少し前から見えるわ」

「その駅、新しい路線図には載っていないんだ」

「この切符には、ちゃんと書いてあるわ」

「紙の切符か。よく持っていたな」

「海に来た記念にって、あなたが取っておいたのよ。はい、落とさないでね」

「君が、靴の中まで砂を入れた日だな」

「あなたが、遠いほうの浜まで歩こうって言ったからよ」

「半分は僕の靴にも入った」

「玄関で払ったら、叱るつもりだったのに」

「だから、駅のベンチでひっくり返しただろう」

「靴下にも入っていたでしょう」

「君は笑っていた。助けもしないで」

「あなたも笑っていたでしょう」

「君が笑うと、つられるんだ」

「今夜は、少し疲れた顔をしているわ」

「大丈夫だ。眠りが浅いだけだよ」

「ちゃんと、何か食べてる?」

「駅前で、いつもの弁当を買った。二つ」

「ひとつでよかったでしょう」

「ひとつだけ、と言うのが、どうしても苦手で」

「じゃあ、残りは明日のお昼に食べてね」

「君は、食べないのか」

「私は、もういいの」

「昨日も、そう言ったな」

「覚えているのね」

「その言い方は。でも、君とどこで別れたのか、思い出せない」

「この列車の中よ」

「どうして、毎晩ここなんだろう。家で待っていてくれればいいのに」

「あなた、帰るときはいつも、先に靴を脱いでいたわね」

「君の荷物を受け取るためだ」

「そう。それから、振り返ってくれた」

「今でも、そうするよ」

「ええ。いつも、そう言ってくれる」

「なのに、いつも……なんだろう。玄関のところだけ、うまく思い出せない」

「そんなに、思い出そうとしなくてもいいのよ」

「思い出さないと、君をまた置いて帰ってしまう」

「少し、手の力を抜いて。切符が破れてしまうわ」

「人数のところ、大人一名になっている」

「あなたの切符だもの」

「君のは?」

「私は、いらないの」

「一緒に乗っているのに」

「ええ。こうして話すことはできるのにね」

「手を貸してくれ」

「ここよ」

「……もう少し、強く握ってくれないか」

「そんなに力を入れると、あなたの手が痛いでしょう」

「君の手の大きさは、覚えているんだ。指の、ここが少し硬くなっているのも」

「包丁だこよ。あなた、いつもそこを撫でていた」

「温かさだけが、どうしても……」

「握れなくても、ここに置いておいて」

「こうか」

「ええ。少しだけ、隣に」

「切符の日付、三年前だ」

「二人で、海から帰った日ね」

「帰った……のか?」

「家まで帰ったのは、あなただけだったわ」

「僕は、三年も君を待たせていたのか」

「待っていたのは、あなたよ」

「それで、毎晩ここへ?」

「ええ。いつも、私の席を空けておいてくれる」

「僕は、君に何があったのか……」

「私の顔を見て。今は、ここにいるから」

「そう言うのも、毎晩なのか」

「ええ」

「僕は毎晩、初めて聞いたような顔をする?」

「……今夜は、いつもより長く、手を出してくれているわ」

「離したくないんだ」

「離していないわ。ちゃんと、隣にあるもの」

「本当は、握れていないのに」

「窓を見て。海よ」

「暗いのに、波の端だけ白いな」

「あの日も、そう言ったわ」

「君は、きれいねって」

「そう。きれいね」

「もう着いてしまうのか」

「ええ」

「次の駅まで行こう。降りなくてもいい」

「ここが終点なの」

「だったら、折り返すのを待とう」

「あなたは、帰らなくては」

「君を一人にしたくない」

「……あなたも、一人になりたくないのね」

「うん」

「私の前でまで、平気な顔をしなくていいのよ」

「……帰ってきてくれないか」

「……」

「すまない。そんな顔をさせたかったんじゃない」

「帰ったら、ちゃんと明かりをつけてね」

「ああ」

「暗いままで、ご飯を食べないで」

「君がいないと、つけるのを忘れる」

「明日は、お弁当を温めて食べてね」

「わかった。……君の声まで、忘れてしまわないかな」

「今、聞こえているでしょう」

「明日も、聞けるか」

「あなたが、ここへ来てくれたら」

「来るよ。今日のことも、今度こそ覚えてくる」

「無理に約束しなくていいのよ」

「君に、毎晩同じことを言わせたくないんだ」

「私は、何度でも言うわ」

「……ひとつだけ、頼んでもいいか」

「なあに」

「帰ったときみたいに、言ってくれないか」

「おかえりなさい」

「……ただいま」


 男が目を開くと、列車の窓も、隣に差し出されていた手も消えた。

 机の上の遺影には、さっきまでと同じ笑顔があった。写真の脇に、三年前の日付の紙切符が置かれていた。

 画面には二本の音声波形が残っていた。女の声の横に、〈対話人格――妻〉。

 男は妻の最後の一言を、もう一度だけ再生した。返事をしようとして、口を押さえた。

 明日の予約を入れてから、終了画面を開いた。〈事故に関する記憶を一時消去〉。男はその欄の印を外した。

 隣の椅子へ伸ばした手が、冷たい座面に触れた。男はそこに掌を置いたまま、うつむいていた。

 やがて手を戻すと、外したばかりの印をつけ直した。指先が止まった。それから、〈終了〉に触れた。

 耳もとの端末が、短く震えた。男は頬に触れ、不思議そうに濡れた指を見た。

 それから端末を外し、隣の椅子を、座りやすい向きに直した。

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