【連載版始めました】 私を捨てたのはあなたでしょう。今さら後悔しても遅いです
連載版始めています。詳しくは後書きにて
アリシア・レインフォートには、かつて婚約者がいた。相手はこの国の王太子、ローゼン・クライゼン。二人は幼い頃から共に育った幼馴染であり、長い婚約期間を経て、いずれ夫婦になることを当然の未来として受け入れていた。ローゼンは決して言葉の多い男ではなかったが、アリシアが寒そうにしていれば黙って外套を掛け、何気なく食べてみたいと口にした菓子を何週間経っても覚えているような人だった。アリシアもまた、そんな不器用な彼を誰より理解しているつもりだったし、王太子妃になりたいからではなく、ローゼンの妻になりたいからこそ結婚を望んでいた。
けれど婚礼を目前に控えたある朝、その未来は突然終わった。ローゼンは何の前触れもなく婚約破棄を告げ、アリシアが理由を尋ねても、何一つ説明してくれなかった。何か悪いところがあったのなら直す。妃教育が足りないならもっと努力する。王宮で暮らすことが負担なら、どこで暮らしても構わない。そう泣きながら縋っても、最後までローゼンは理由を明かさなかったのである。
それから四年。王都を離れたアリシアは、北方にある小さな村で薬師として暮らしていた。華やかな王宮とは正反対の土地であり、朝になれば自分で火を起こし、井戸から水を汲み、冬が近づけば薪の残りを気にする生活だったが、今ではすっかり慣れている。村人たちにも受け入れられ、風邪を引いた子どもには薬を調合し、怪我をした農夫には傷薬を渡しながら、穏やかな日々を送っていた。
そして、その家にはもう一人住んでいる。
四歳になる息子、エドガーである。
黒い髪に青い瞳を持ち、目元こそアリシアによく似ていたが、それ以外は幼い頃のローゼンをそのまま小さくしたような顔立ちだった。少し不満があると黙って口を尖らせ、何かに集中すると周囲の声が聞こえなくなるところまでよく似ている。もちろん、エドガーの父親はローゼンだった。王都を去ってしばらくした頃に妊娠へ気づき、そのままこの村で産んだのだが、ローゼンへ知らせることはなかった。
もう二度と会うこともない。そう思っていたアリシアだったが、ある年、北方一帯で原因不明の流行病が広がったことで状況は変わった。高熱と強い倦怠感を伴う病は周囲の村へ次々と広がり、既存の薬もほとんど効かなかった。しかし、アリシアが古い薬草学書を頼りに調合した薬だけは患者たちの症状を改善させた。その噂はやがて王都まで届き、治療法を確認するため医師や役人が派遣されることとなった。
そして、その一行を率いて村へやって来るという国王の名を聞いた瞬間、アリシアはしばらく言葉を失った。
四年前には王太子だったローゼンは、既に王位を継いでいたのである。
王家の一行が到着する日の朝、アリシアはできることなら家から出たくなかった。それでも薬を作った本人が姿を隠せば、村人たちへ余計な迷惑を掛けることになる。必要な説明だけをして帰ればいいと自分へ言い聞かせながら外套を手にすると、木彫りの馬を持ったエドガーが当然のようについてこようとした。
「今日はお留守番よ。ママはお仕事のお話をするだけだから、すぐ戻ってくるわ。お腹が空いたら戸棚のお菓子を食べてもいいけれど、二つまでだからね」
「三つがいい。……じゃあ、大きいの二つにする」
「そういうところだけ妙に頭が回るのね。とにかく今日は外へ出ないこと。分かった?」
「はーい」
返事だけは立派な息子の頭を撫で、アリシアは家を出た。広場には既に多くの村人たちが集まり、街道の先を落ち着かない様子で眺めている。やがて遠くから馬の蹄が響き、王家の紋章を掲げた騎士たちと医師を乗せた馬車が姿を現した。その中央を一頭の黒馬へ跨って進んでくる男を見た瞬間、アリシアの足が止まった。
ローゼンだった。
四年前より少し痩せ、顔立ちは大人びていたものの、何かを考える時に僅かに眉を寄せる癖も、周囲を静かに見渡す目も昔と変わっていない。胸の奥が嫌になるほど強く鳴り、アリシアは気づかれないうちに人混みを離れようとした。
「……アリシア?」
その願いは叶わなかった。
聞き慣れた声に身体が固まる。振り返ると、いつの間にか馬を降りたローゼンが数歩先に立ち、信じられないものを見るようにこちらを見つめていた。
「本当に君なのか。どうして、こんな所に……」
「住んでいるからよ。四年前からずっとね」
それだけ答えると、ローゼンは何かを言おうとして口を閉ざした。その姿を見て、アリシアの胸の奥が少しだけ冷える。四年前と同じだった。何かを言いたそうな顔だけして、肝心なところでは何も話さない。
その時だった。
「ママー。もうお話終わったの?」
聞き慣れた幼い声が響き、アリシアは息を呑んだ。
ローゼンの視線は、家の玄関から顔を覗かせたエドガーへ釘付けになっていた。つい先ほどまで国王として村人たちの前に立っていたとは思えないほど、その表情からは余裕が失われている。大きく見開かれた青い瞳が、エドガーの顔立ちを確かめるように動いていた。
エドガーは玄関の扉へ小さな手を掛けたまま、不思議そうに首を傾げている。もう片方の手には、戸棚から持ってきた焼き菓子が握られており、口元には小さな欠片が付いていた。家の中で待っているように言い聞かせたはずだが、外があまりにも騒がしかったため、気になって様子を見に来てしまったらしい。
「まだ終わっていないわ。お家の中で待っていてちょうだい」
「でも、ママ、すぐ戻るって言ったよ?」
「そうだけれど、もう少し掛かりそうなの。だから――」
アリシアが何とかエドガーを家へ戻そうとした時、隣にいたローゼンが突然動いた。何の断りもなくアリシアの横を通り過ぎ、真っ直ぐ玄関へ向かって歩き始める。
「ちょっと、ローゼン?」
呼び掛けても足を止めない。先ほどまで呆然としていたのが嘘のように大股で進み、あっという間に玄関の前まで辿り着いてしまう。見知らぬ男が近づいてきたことで、エドガーは驚いたように目を丸くすると、扉の向こうへ引っ込んだ。
「待ちなさい。何を勝手に入ろうとしているのよ」
アリシアは慌てて腕を掴もうとしたが、わずかに間に合わなかった。ローゼンは扉へ手を掛け、そのまま家の中へ入ってしまう。
「もう!人の話を聞きなさいよ!」
四年ぶりに再会したというのに、挨拶も説明もなく、いきなり人の家へ踏み込むとはどういうつもりなのか。アリシアも急いで後を追い、扉を閉めた。広場に残された騎士や村人たちがこちらを見ていた気もするが、今は気にしている場合ではない。
室内では、エドガーが机の向こうへ隠れ、そこからローゼンの様子を窺っていた。突然知らない大人が入ってきたため、どうすればよいのか分からないらしい。手にした焼き菓子だけはしっかりと握ったまま、机の端から顔を半分だけ覗かせている。
「ママ、この人だれ?」
「ええと、その人は……」
何と説明すればよいのか、すぐには言葉が出てこなかった。国王陛下だと教えれば、今度は国王とは何かという説明が必要になる。昔の知り合いとだけ伝えるのも間違いではないが、それではあまりにも簡単に片付けすぎている気がした。
ローゼンはアリシアの迷いなど気にも留めず、エドガーを凝視していた。髪の色や目の形、鼻筋や口元まで、一つずつ確認しているように見える。エドガーが居心地悪そうに身体を動かしても、その視線は外れなかった。
「そんなに見つめないでちょうだい。エドが怖がっているでしょう」
アリシアは咄嗟にエドガーの前へ立ち、ローゼンの視線から隠した。すると、背後からエドガーが外套の裾を掴んでくる。普段は人見知りをしない子だが、さすがに今のローゼンは怖かったのだろう。その小さな手の感触に、アリシアの声は自然と厳しくなった。
「いきなり人の家へ押し入ったうえに、幼い息子をジロジロと見るなんて、国王陛下は随分と立派な振る舞いをなさるのね」
「睨んでいるわけではない」
「同じようなものよ。少なくとも、エドにはそう見えているわ」
嫌味を言われたローゼンは、ようやくエドガーから目を離した。だが、次にアリシアへ向けられた視線は、先ほどよりも強いものだった。
「アリシア」
「な、何よ」
名を呼ばれただけなのに、思わず身構えてしまう。ローゼンは何も言わず、一歩ずつ距離を詰めてきた。アリシアも反射的に後ろへ下がるが、すぐに背中が壁へ触れ、それ以上は逃げられなくなる。
「ちょっと、近いわよ」
言ってもローゼンは止まらなかった。目の前まで来ると、両手を伸ばし、アリシアの肩を掴む。
「きゃっ……!」
突然のことに小さな悲鳴が漏れた。ローゼンの手には思いのほか強い力が込められており、逃がすつもりはないらしい。
「まさか、君がこの村にいたことにも驚いた。だが……子どもまでいたのか」
「見れば分かるでしょう!」
アリシアは平静を装って答えたが、心臓は落ち着きなく跳ねていた。四年ぶりに顔を合わせた相手に肩を掴まれ、これほど近い距離から見つめられているのだから、動揺するなという方が無理である。それでも悟られるのだけは悔しくて、わざと眉を寄せた。
「それがどうかしたの?」
「どうかしたのではない」
「じゃあ、何なのよ」
ローゼンの手にさらに力が入った。痛いほどではないが、その切迫した様子にアリシアも誤魔化すことができなくなる。
「誰なんだ」
「何が?」
「この子の父親だ」
低く絞り出すような声だった。その問いを聞いた瞬間、アリシアの胸の中で、四年間押し込めてきたものが一気に膨れ上がった。
「……どうして、あなたに答えなければならないのよ」
「アリシア……まさか浮……」
手を振り払おうと肩を動かしたが、彼は離そうとしなかった。アリシアも負けじと睨み返す。
「あなたには関係ないでしょう」
「関係ないわけがない」
「どうして? 私たちはもう終わったのよ。そうしたいと言ったのは、あなたでしょう?」
ローゼンの表情が僅かに歪んだ。しかし、アリシアはそれを見ても言葉を止めなかった。
「離縁してほしいと告げて、理由も話さずに出て行ったのはあなたよ。それから四年間、一度も会いに来なかった。それなのに今さら現れて、この子の父親が誰かなんて、随分と勝手なことを聞くのね」
「それは……」
「何かしら。今度はきちんと説明してくれるの?」
皮肉を込めて問い返すと、ローゼンは口を閉ざした。やはり何も話さない。その態度が昔と変わらないことに、アリシアは腹立たしさを覚えた。
「ほら、また黙る。自分は何も話さないくせに、私には答えろと言うの?」
「今は、この子のことを聞いている」
「私は四年前のことを聞いているのよ!」
二人の間で視線がぶつかる。どちらも引くつもりはなかったが、背後で小さな物音がして、アリシアは我に返った。振り向くと、エドガーが机の陰から心配そうにこちらを見ている。
「エド、大丈夫よ。少しお話しているだけだから」
アリシアから肩を離し、ローゼンがエドガーと向かい合うと、否応なく似ているところが目についた。真剣になると眉間へ僅かに皺を寄せる癖も、警戒しながら相手を真っ直ぐ見返すところも、驚くほどよく似ている。髪や瞳の色だけなら偶然で済ませられるかもしれないが、こうして並べば血の繋がりは明らかだった。
それなのに、ローゼンはまだ確信を持てずにいるらしい。しばらくして、エドガーへ今は何歳なのかと尋ねる。
「よんさい」
「四歳……」
その年齢を聞いた瞬間、ローゼンの顔からさらに血の気が引いた。頭の中で年月を数えているのだろう。アリシアが王宮を去ってから四年。少し考えれば、可能性にはすぐ気付くはずだった。
それでもローゼンは、アリシアへ視線を戻した。
「本当に誰の子なんだ。頼む、教えてくれ。覚悟はできているんだ」
先ほどのような勢いのある声ではなく、確かめることを恐れているような掠れた声だった。アリシアは腕の中へ寄ってきたエドガーを見下ろす。何の話をされているのか理解できないらしく、残っていた焼き菓子を齧っている。その口元へ付いた欠片を親指で拭ってやりながら、少しだけ答えるべきか迷った。
ここで誤魔化すこともできる。あなたの子ではないと言えば、ローゼンは絶句するかもしれない。四年前に捨てられた身としては、それくらいの意地悪をしても許される気がした。
だが、目の前のローゼンは国王としての体裁も忘れるほど取り乱していた。エドガーを見るたびに表情を変え、答えを待つ手まで僅かに震えている。その姿を見ていると腹が立つ一方で、胸のどこかが妙に熱くなってしまった。
もしかすると、嫉妬しているのだろうか。
そんな考えが浮かび、アリシアは慌てて打ち消した。今になって少しばかり必死な顔を見せられたからといって、心を許すつもりなどない。それでも、ここまで真剣に求められて何も感じないわけでもなかった。
「そんなに知りたいの?」
「ああ。どうしても知りたい」
「国王陛下ともあろう方が、随分と必死なのね。答えなかったらどうするつもり?」
「答えを聞くまでは帰らない。何とでも言ってくれ」
あまりにも迷いのない返事に、アリシアは言葉を詰まらせた。嫌味の一つでも返してくるかと思っていたのに、ローゼンは少しも目を逸らさない。昔の彼は、自分の感情を正面からぶつけてくるような人ではなかった。何かを望んでも我慢し、一人で抱え込んでしまう人だった。その彼が今は国王としての立場まで忘れ、答えを聞くまでは帰らないと子どものようなことを言っている。
少しだけ嬉しいと思ってしまった自分が、どうしようもなく悔しかった。
「……馬鹿ね。本当に、昔からそういうところは全然変わっていないんだから」
ローゼンは意味が分からないというように眉を寄せた。その表情が、隣で焼き菓子を食べているエドガーとあまりにもよく似ており、アリシアは余計に腹が立ってきた。
「何で分からないのよ。目は付いているのよね。年齢だって聞いたでしょう。少しは自分で考えなさいよ!」
「まさか……この子は……!」
「最後まで言いなさいよ!」
ここまで来ても続けて話すことができない彼に、アリシアの我慢はとうとう限界へ達した。
「この私が!!!!あなた以外の人と子どもを作るわけがないでしょう!!!!」
エドガーが驚いて顔を上げるほどの声が室内へ響いた。言い切った瞬間、恥ずかしさが一気に押し寄せる。まるで今でもローゼン以外の男など考えられないと宣言したようなものだったが、もう止められない。
「エドは貴方と私の子よ! 年齢も顔も、これだけ似ているのにどうして分からないのよ、この馬鹿!」
ローゼンは完全に固まった。
アリシアは真っ赤になった顔を隠すように腕を組み、ぷいっと顔を背ける。何も知らないエドガーだけが、ローゼンを見上げながら首を傾げていた。
「ママー。この人、どうして泣きそうなの?」
「知らないわよ、そんなの!」
けれど、ローゼンは本当に泣きそうな顔をしていた。自分の息子だと知れた喜びよりも先に、何も知らなかったという事実が押し寄せてきたらしい。視線がゆっくりと家の中へ向けられていく。玄関には小さな靴が揃えられ、壁には子ども用の外套が掛かっている。机の端には木彫りの馬や読みかけの絵本があり、棚には小さな食器が並んでいた。柱にはエドガーの背丈を測った線が何本も残され、その隣には日付まで書き添えられている。一番下の線は今よりずっと低く、それから少しずつ上へ、新しい線が増えていた。
ローゼンは、その一本一本を見つめていた。
自分は何も知らない。
アリシアが妊娠へ気づいた時も、エドガーが生まれた時も知らなかった。初めて笑った日も、寝返りを打った日も、立ち上がった日も、一人で歩いた日も知らない。夜泣きが続いた時に誰が抱き上げたのか、熱を出した夜に誰が眠らずそばにいたのか、初めて喋った言葉が何だったのか、何を食べれば喜び、どんな遊びが好きなのかさえ、父親である自分は知らなかった。
四年間。息子の人生の最初の四年間を、丸ごと失っていたのである。
「……私は、本当に何も知らないんだな」
掠れた声で呟いたローゼンへ、アリシアは慰めの言葉を掛けなかった。少し前までなら、その苦しそうな顔を見れば思わず手を伸ばしていたかもしれない。けれど、今は自分の傍らにエドガーがいる。
「当たり前でしょう。貴方はいなかったもの。エドが生まれた時も、夜泣きが続いて私がほとんど眠れなかった時も、初めて高熱を出して怖くて仕方がなかった夜も、この子が初めて『ママ』って呼んでくれた日も、全部知らないでしょう」
責めるために話しているつもりはなかった。けれど、一つ一つ事実を伝えるたび、ローゼンの表情から力が失われていく。
「四年前、貴方が自分で手放したのは私との婚約だけじゃないのよ。エドガーが生まれる瞬間も、この子の成長を一番近くで見守る時間も、父親として少しずつこの子の中に居場所を作っていくはずだった四年間も、全部よ。それなのに今になって、他の男との子どもなのかなんて疑って、そんなに必死な顔をするなんて……本当に勝手ね」
ローゼンは反論しなかった。できなかったのだろう。アリシアが泣いて縋っても何も説明せず、自ら二人の関係を断ち切った結果として今がある。誰かに奪われたわけでもなければ、運命によって引き離されたわけでもない。自分から手を離したのである。
重苦しい空気を気にしていないエドガーは、残っていた焼き菓子を食べ終えるとアリシアへ抱きついた。口元に残っていた欠片を拭ってやれば、嬉しそうに笑う。その何気ない親子のやり取りを、ローゼンは黙って見つめていた。きっとこの四年間に何百回と繰り返されてきた日常なのだろう。アリシアがエドガーを抱き、エドガーが母親へ甘える。そこには二人だけで積み重ねた時間があり、今日突然現れたローゼンが簡単に入り込めるようなものではなかった。
やがてエドガーが、何かを思いついたように顔を上げた。
「ママ。この人、ぼくのおとうさんなの?」
「……そうよ。エドのお父さんは、この人」
アリシアが隠さず答えると、ローゼンの瞳へほんの僅かな期待が浮かんだ。けれどエドガーは少しだけ彼の顔を眺め、「ふーん」と頷いただけだった。そしてすぐにアリシアへ身体を向け直し、そろそろお腹が空いたと訴え始める。
ローゼンだけが取り残されたような顔をしていた。
それも当然だった。四年間、一度も会ったことがない。一度も抱き上げてもらったことがなく、一緒に食事をしたことも、遊んだことも、眠る前に話を聞かせてもらったこともない。血が繋がっていると教えられただけで、今日初めて会った男が突然「お父さん」になるわけではない。
「……エドガー」
恐る恐る名前を呼ぶと、エドガーは素直に振り返った。
「なあに、おじさん?」
父親だと知ったあとでも、呼び方は変わらなかった。
そこに悪意などない。ただエドガーにとって、ローゼンはまだ父親としての実感がない。それだけだった。それでもローゼンには何より堪えたらしく、一瞬だけ顔を歪める。それでも呼び方を訂正しようとはしなかった。父親だからそう呼べなどと言えるはずがないのだろう。
それからしばらく何も言えずにいたローゼンだったが、このまま帰るつもりもないらしく、やがてアリシアへ向き直った。
「……君とエドガーを、王宮へ連れて帰りたい。エドガーが私の息子なら、このまま何もなかったことにはできない。王家の子として必要なこともある。君たちが困らないよう、すべてこちらで用意する」
その申し出を最後まで聞いたアリシアは、迷うことなく首を横へ振った。
「嫌よ。私たちはここで暮らしているの。エドには友達もいるし、村のみんなにも可愛がってもらっている。私だって薬師として仕事をしているわ。それを、自分の息子だと分かった途端に全部捨てて王宮へ来いなんて、また貴方一人で決めるつもり?」
ローゼンが何かを言おうとしたが、アリシアは止まらなかった。
「四年前もそうだったでしょう。きっと貴方の中には婚約を終わらせる理由があったのかもしれない。でも、それを私には何も話さずに一人で決めて、一人で終わらせた。そして今度は、エドが自分の息子だと知ったから王宮へ連れて帰ると決めるの?私の人生も、エドの人生も、貴方一人のものじゃないのよ」
今度こそローゼンは何も言えなくなった。
四年前のアリシアなら、ローゼンから一緒に戻ってほしいと言われただけで手を取っていたかもしれない。何を隠しているのかさえ分からないまま、それでも愛しているからとついて行っただろう。けれど、今は違う。この四年間でアリシアは自分の仕事を持ち、村人たちに助けられながらエドガーを育て、自分自身の生活を築いてきた。ローゼンに選んでもらえなければ何も残らない女性では、もうなかった。
「今日は帰ってちょうだい。貴方には流行病を調べる仕事があるでしょう。エドガーのことも、これからどうするのかは話し合って決めるわ。国王だからといって、私たちのことまで一人で勝手に決めるのは許さないから」
長い沈黙の末、ローゼンは小さく頷いた。その姿には、村へ入ってきた時に見せていた国王としての余裕などほとんど残っていない。
扉へ向かおうとしたところで、アリシアはもう一度だけ彼を呼び止めた。
「それから、もう二度と私に別の男がいるのかなんて嫉妬しないでちょうだい。人の貞操をを疑うなんてどうかしているわ」
「……分かっている」
「いいえ。今日まで分かっていなかったから、あんな顔でエドの父親を聞いたんでしょう?」
ローゼンは僅かに俯いた。
アリシアも、エドガーも、他の誰かに奪われたわけではなかった。四年前、すぐそばにあった未来を自ら手放した。その結果として、アリシアが息子を身籠ったことすら知らず、生まれる瞬間にも立ち会えず、四歳になるまで一度も抱くことができなかったのである。
その四年間は、国王になった今でも取り戻せない。どれほどの権力があろうとも、どれだけ金を積もうとも、エドガーが初めて笑った瞬間も、初めて歩いた瞬間も、初めて母親を呼んだ瞬間も買い戻すことはできない。
何より皮肉なのは、そのすべてを失わせた相手が他の誰でもなく、ローゼン自身だったということだった。
「おじさん、帰るの?」
エドガーの無邪気な声に、ローゼンはゆっくり顔を上げた。
「ああ。今日は帰る」
「じゃあ、ばいばーい」
「……ああ。またな」
父親だと教えられたあとでも、最後まで「おじさん」だった。
アリシアは訂正しなかった。無理に父親と呼ばせる必要などない。その呼び方を変えたいのなら、今度はローゼン自身が時間を掛けてエドガーとの関係を積み重ねていけばいい。それだけは国王の命令でも、血の繋がりだけでもどうにもならない。
扉が閉まり、ローゼンの姿が消えると、家の中には急に静けさが戻った。ところがエドガーは先ほどまでの出来事など大して気にしていないらしく、すぐにアリシアの服を引っ張る。
「ママ、ご飯!ぼく、お皿並べるよ!」
「はいはい。じゃあお願いするわ」
「はーい!」
元気よく台所へ駆けていく後ろ姿を見ながら、アリシアは小さく息を吐いた。
四年ぶりにローゼンと再会して、何も感じなかったわけではない。昔と変わらない仕草に胸が騒いだし、自分に別の男がいると思ってあれほど取り乱した姿を見れば、ほんの少しだけ嬉しくなってしまったことも認めなければならない。
けれど、それと許すことは別だった。
四年前に何があったのか、まだ何一つ説明されていない。失われた四年間が戻るわけでもない。そして今のアリシアには、ローゼンとは関係なく築いてきた生活と、何より大切なエドガーがいる。
今すぐ王宮へ戻るつもりなどなかった。
何より、今のローゼンには嫉妬などしている暇はない。他の男の存在を心配するより先に、四年間まるごと出遅れた父親として、実の息子から自然に「お父さん」と呼んでもらえるところまで追いつかなければならないのだから。
王宮に連れ帰った世界線の話を連載化しています。続きをみたい方は8話以降を!!
(分かりやすいように代表作に設定してます)
【一度は私を捨てたくせに、今さら口説き直すおつもりですか?】
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