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『線を引いた男』  作者: GT☆KOU


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第九話 戻せという声

 通達は簡潔だった。


 “評価基準を旧方式へ一時的に戻すことを検討する。”


 文面は柔らかい。だが意味は明確だ。


 慣らしロットを含めた評価は凍結。安定後データのみで再評価。数字を“戻す”という判断。


 吉山は通知メールを閉じた。


 想定内ではある。株主説明、四半期決算、外部評価。短期の揺らぎは嫌われる。


 だが、戻せば何が起きるかも分かっている。


 午後、臨時会議が開かれた。


「現場の負担も増えている」


 役員が口を開く。


「停止も発生した。市場は安定を求めている。今は戻すべきだ」


 吉山はゆっくりと資料を置く。


「停止は摩耗周期の連動不足が原因です。評価基準そのものが直接原因ではありません」


「しかしタイミングは一致している」


 一致している。だから疑われる。


「揺らぎを隠せば、数字は戻ります」


 静かに言う。


「だが構造は変わらない」


「構造は時間をかけて変える。今は耐えるべきだ」


 耐える。

 誰が。


 吉山は視線を上げる。


「耐えているのは現場です」


 部屋の空気が固まる。


「完璧な報告を作るために、慣らしを除外し、冷却を詰め、残業で帳尻を合わせる。今までそれを続けてきました」


「証拠はあるのか」


「あります」


 湊が静かに立ち上がる。ログの相関資料を映す。冷却短縮と油温上昇、残業時間とばらつき安定の相関。


 数字は語っている。


「戻せば、また同じ動きになります」


 湊の声は震えていない。


 役員の一人が腕を組む。


「理想論だ」


 その言葉は冷たい。


「理想で会社は守れない」


 吉山は一瞬だけ目を閉じる。


 理想か。


 守りたいのは理想ではない。壊れない形だ。


「戻せば、数字は整います」


 短く言う。


「だが、半年後か一年後に、もっと大きな停止が起きる可能性がある。そのとき、市場は何と言いますか」


 沈黙。


「私は、戻す判断には賛成できません」


 はっきり言う。


「責任は取ります」


 またその言葉だ。


 部屋の空気がさらに重くなる。


 会議は結論を出さずに終わった。だが流れは見えている。上層部は揺れている。数字を戻せば、今は楽になる。


 廊下に出ると、湊が隣に並ぶ。


「戻りますかね」


「分からない」


 吉山は窓の外を見る。灰色の空。光は弱い。


「戻れば、俺の線は消える」


「消えません」


 即座に湊が言う。


「ログは残ります。構造も見えました。一度見えたものは、完全には戻りません」


 若い声だ。


 だが、その言葉にわずかな救いがある。


 成形棟に戻ると、プレス機はいつも通りに動いている。揺れながら、止まらずに。


 戻すか。進むか。


 線は、今にも消えそうだ。


 だが、まだ残っている。

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