第三話 帰る場所
家に帰ると、玄関の灯りが点いていた。
時計は二十二時を回っている。遅くなる日は連絡を入れているが、それでも灯りがあると胸の奥がわずかに緩む。
「おかえり」
リビングから妻の声がする。穏やかな声だが、どこかに疲れが滲んでいる。
「ただいま」
靴を脱ぎながら答える。ネクタイを緩めると、ようやく一日が終わった気がする。
食卓にはラップのかかった夕食が置いてあった。温め直しながら、テレビのニュースが目に入る。景気動向、海外情勢、原材料価格の高騰。どれも工場の数字に直結する話題だ。
「また海外?」
妻が湯呑みを置きながら聞く。
「ああ。少しな」
少し、ではない。だが詳しく話すことはしない。家庭に持ち込むべき重さと、持ち込まない重さがある。
高校生の娘はすでに部屋に戻っているらしい。廊下の向こうから、かすかに音楽が漏れてくる。
「最近、帰り遅いね」
妻の言葉は責める調子ではない。ただ事実だ。
「立て直しに時間がかかってる」
「立て直し?」
「数字の話だよ」
それ以上は説明しない。説明すれば、きっと分かろうとしてくれる。だが、分からせる必要はないと思っている。
食事を終え、湯呑みを持ったままベランダに出る。
夜空は薄く曇っている。星はほとんど見えない。
守るとは何か、と考える。
会社を守ること。現場を守ること。部下を守ること。
そして、家族を守ること。
その全部を、同じ力で守ることはできない。だから線を引く。だが、どこに引くのが正しいのかは、いつも揺れている。
若い頃は違った。とにかく前に出ればよかった。成果を出せば評価され、評価されれば家族も安心すると信じていた。
だが今は分かる。
残業で埋める成果は、家族の時間を削っている。無理で作る数字は、誰かの体力を削っている。
――定時までが実力だ。
あの言葉は、現場だけの話ではない。自分にも向けられている。
リビングに戻ると、妻がソファに座っている。
「体、大丈夫?」
唐突な問いに、少しだけ言葉に詰まる。
「大丈夫だよ」
「無理しないでね。あなたが倒れたら、会社は回るかもしれないけど、うちは回らないから」
軽く笑いながら言うが、その目は真剣だ。
吉山はうなずく。
会社は、誰かが抜けても回る。仕組みだからだ。だが家庭は違う。代わりはいない。
それでも明日も工場へ行く。
線を引かなければならない。誰かがやらなければならない。
寝室の灯りを消す前、彼は娘の部屋の前で足を止める。ドアの向こうから、笑い声が聞こえる。スマートフォンで友人と話しているのだろう。
その声を聞きながら、ふと考える。
この子が大人になる頃、働くということは、どんな形になっているだろうか。
無理を前提にしない働き方は、本当に可能なのか。
吉山は静かに自室へ戻る。
翌朝もまた、灰色の空の下で門をくぐるだろう。
守る場所があるということは、重さでもあり、支えでもある。
工場と家庭。その間に引いた線が、今日も揺れている。




