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『線を引いた男』  作者: GT☆KOU


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3/12

第三話 帰る場所

 家に帰ると、玄関の灯りが点いていた。

 時計は二十二時を回っている。遅くなる日は連絡を入れているが、それでも灯りがあると胸の奥がわずかに緩む。

「おかえり」

 リビングから妻の声がする。穏やかな声だが、どこかに疲れが滲んでいる。

「ただいま」

 靴を脱ぎながら答える。ネクタイを緩めると、ようやく一日が終わった気がする。

 食卓にはラップのかかった夕食が置いてあった。温め直しながら、テレビのニュースが目に入る。景気動向、海外情勢、原材料価格の高騰。どれも工場の数字に直結する話題だ。

「また海外?」

 妻が湯呑みを置きながら聞く。

「ああ。少しな」

 少し、ではない。だが詳しく話すことはしない。家庭に持ち込むべき重さと、持ち込まない重さがある。

 高校生の娘はすでに部屋に戻っているらしい。廊下の向こうから、かすかに音楽が漏れてくる。

「最近、帰り遅いね」

 妻の言葉は責める調子ではない。ただ事実だ。

「立て直しに時間がかかってる」

「立て直し?」

「数字の話だよ」

 それ以上は説明しない。説明すれば、きっと分かろうとしてくれる。だが、分からせる必要はないと思っている。

 食事を終え、湯呑みを持ったままベランダに出る。

 夜空は薄く曇っている。星はほとんど見えない。

 守るとは何か、と考える。

 会社を守ること。現場を守ること。部下を守ること。

 そして、家族を守ること。

 その全部を、同じ力で守ることはできない。だから線を引く。だが、どこに引くのが正しいのかは、いつも揺れている。

 若い頃は違った。とにかく前に出ればよかった。成果を出せば評価され、評価されれば家族も安心すると信じていた。

 だが今は分かる。

 残業で埋める成果は、家族の時間を削っている。無理で作る数字は、誰かの体力を削っている。

 ――定時までが実力だ。

 あの言葉は、現場だけの話ではない。自分にも向けられている。

 リビングに戻ると、妻がソファに座っている。

「体、大丈夫?」

 唐突な問いに、少しだけ言葉に詰まる。

「大丈夫だよ」

「無理しないでね。あなたが倒れたら、会社は回るかもしれないけど、うちは回らないから」

 軽く笑いながら言うが、その目は真剣だ。

 吉山はうなずく。

 会社は、誰かが抜けても回る。仕組みだからだ。だが家庭は違う。代わりはいない。

 それでも明日も工場へ行く。

 線を引かなければならない。誰かがやらなければならない。

 寝室の灯りを消す前、彼は娘の部屋の前で足を止める。ドアの向こうから、笑い声が聞こえる。スマートフォンで友人と話しているのだろう。

 その声を聞きながら、ふと考える。

 この子が大人になる頃、働くということは、どんな形になっているだろうか。

 無理を前提にしない働き方は、本当に可能なのか。

 吉山は静かに自室へ戻る。

 翌朝もまた、灰色の空の下で門をくぐるだろう。

 守る場所があるということは、重さでもあり、支えでもある。

 工場と家庭。その間に引いた線が、今日も揺れている。

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