第十話 星崎賢治の決断
社長室の窓から、成形棟の屋根が見える。
灰色の空の下、巨大な箱のように広がる建屋。その中で、何百人もの人間が動いている。
星崎賢治は腕を組み、窓の外を見ていた。
四半期決算の資料が机に並んでいる。赤い数字。株主からの質問予想。市場アナリストのコメント。
安定を求める声は強い。
揺らぎは嫌われる。
完璧な数字は歓迎される。
だが、星崎は知っている。
完璧な数字は、長く続かない。
若い頃、海外工場の立ち上げを任されたとき、無理を重ねたことがある。納期を守るために残業を重ね、評価を上げ、短期的な成果を出した。
だが一年後、ラインは崩れた。
人が辞め、金型が壊れ、取引先を失った。
安定は作るものではなく、育てるものだと、そのとき知った。
机の上に、吉山の報告書がある。
“慣らしロットを含めた安定率評価への移行”
数字は確かに悪化して見える。だが、説明は論理的だ。揺らぎを隠さずに出す。無理を前提にしない。
星崎は会議室へ向かう。
役員が並ぶ中、吉山と湊も座っている。
「基準を戻す案が出ている」
星崎は静かに言う。
「市場は安定を求めている。短期の悪化は好まれない」
誰も反論しない。
「だが」
そこで言葉を切る。
「戻して、何が残る」
部屋が静まる。
「完璧な数字か。それとも、削られた余裕か」
星崎の視線が、吉山に向く。
「半年で戻すと言ったな」
「はい」
「戻せなければ?」
「退きます」
迷いのない声だ。
星崎は一瞬だけ目を閉じる。
退かせたくはない。だが、経営は感情で動かせない。
「評価基準は戻さない」
はっきり言う。
空気が動く。
「ただし、半年で結果を出せ。数字を戻せ。揺らぎを含んだままで安定させろ」
難題だ。
だが、それが経営の役割だ。
「責任は私が取る」
星崎は続ける。
「市場への説明は私がやる。短期悪化は構造改革の一環とする」
役員がざわつく。
「社長、それはリスクが――」
「承知している」
星崎は窓の外を見る。
灰色の工場。揺れながら動いている。
「私は数字を守りたいわけではない」
静かに言う。
「会社を、十年後も残したい」
沈黙。
「戻せば楽になる。だが楽な選択は、たいてい未来を削る」
星崎は席を立つ。
「揺らぎを隠す会社にはしない」
会議は終わる。
廊下で、吉山が一礼する。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
星崎は短く言う。
「結果で示せ」
それが経営者の言葉だった。
窓の外、雲の隙間からわずかに光が差す。
星はまだ見えない。
だが、光はある。




