第一話 線の始まり
それは、星が語られる前の物語。
老舗メーカーの成形棟。
完璧すぎる報告書。
揃いすぎた数字。
吉山武史は知っている。
現場はそんなに綺麗じゃない。
壊すでもなく、隠すでもなく。
彼はただ、“線を引く”。
守るべきものは何か。
変えてはいけないものは何か。
そして、未来に残すべきものは何か。
「定時までが実力だ」
その言葉の裏にあったのは、
持続する強さと、構造を正す覚悟だった。
これは、
改革の前に立っていた一人の責任者の物語。
星はまだ降らない。
だが、線は確かに引かれていた。
始業ベルが鳴るより三十分早く、吉山武史は工場の門をくぐった。冬の朝はまだ暗く、吐く息が白い。守衛に軽く会釈をし、そのまま成形棟へ向かう。鉄と油の匂いが混ざった空気を吸い込むと、自分が立つ場所を改めて思い出す。
照明は半分しか点いていない。巨大なプレス機は眠った獣のように静まり返っている。その列の前で立ち止まり、吉山は手袋をはめ、金型の表面にそっと触れた。わずかなざらつき。昨日の最終ロットの癖が、まだ残っている気がする。数値にはならないが、触れれば分かる違和感だった。
「今日も崩れるなよ」
誰に向けたわけでもない独り言を落とし、彼はラインを一通り見渡す。
責任者として十年。怒鳴ることはほとんどない。だが現場は、彼の判断を見ている。吉山は知っていた。この工場は、帳票の数字ほど盤石ではない。歩留まりは悪くない。納期も守っている。だが、その数字の裏側には、誰かの無理が積み重なっている可能性がある。
昨夜届いた海外拠点の品質報告書が、机の上に置かれている。ばらつきは驚くほど小さく、波形も寸法も揃いすぎていた。
現場はそんなに綺麗ではない。
油温は揺れる。作業者は交代する。金型は疲れ、機械は息をする。揺らぎがあるからこそ持ちこたえる。揺らぎが消えるとき、何かが削られている。
会議室で資料が投影されると、上層部は安堵した表情を見せた。「安定している」「改善が効いている」と声が上がる。吉山は黙って聞きながら、報告書の端を指で押さえていた。
指摘すれば波紋が広がる。見過ごせば、この場は穏やかに終わる。
若い頃、海外工場で叩き込まれた言葉がよみがえる。
――定時までが、その人の実力だ。
残業で埋める成果は続かない。無理で作る数字は、どこかで破綻する。完璧すぎる報告は、その無理を覆い隠している可能性がある。
吉山は静かに手を挙げた。
「一点、確認させてください。このばらつき、条件ログと照合しましたか。油温、型替え後の慣らし、作業者交代のタイミング。揃いすぎています」
責める口調ではない。ただ事実を並べるだけだ。会議室の空気がわずかに固まる。
誰かを吊るし上げたいわけではない。構造として正したいだけだ。問題は個人ではなく、追い込む仕組みにある。
会議後、吉山は成形棟をゆっくり歩いた。機械が動き始め、低い振動が床を伝う。鉄の匂いが濃くなる。
守るとは何か。
会社か。現場か。数字か。それとも人か。
全部を守ることはできない。だからこそ、どこに線を引くかを決めなければならない。
彼は報告書を書き直した。責任追及ではなく、背景説明へ。海外拠点の納期圧力、人員構成、コスト制約。完璧な数字の裏にある可能性を丁寧に並べ、改善提案としてまとめる。強い言葉は使わない。強い言葉は敵を作る。静かな言葉だけを選ぶ。
やがて始業ベルが鳴り、機械が一斉に目を覚ました。
灰色の工場は今日も動き出す。
吉山武史はラインに立つ。星を語るつもりはない。自分が光になるとも思っていない。ただ、崩れないための線を引く。それだけでいい。
いつか誰かがその線を辿るとしても、それはまだ少し先の話だった。




