九章
9
祭の初日は各集落の頭領たちが竜神さまに一年間の成果を報告したり、竜神さまから神託を受けたりして終わるのだそうだ。
シェインが山へ赴いたのはつい二、三日前のことなのに、ずいぶん昔のことのようだ。結局のところ、シェインには竜神さまの声も姿も分からなかった。頭領たちは普通に竜神さまと意思の疎通が出来るのだろうか。
奇しくもシェインは頭領たちが山にこもったのと同じように、岬の小屋で丸一日を過ごした。小屋の裏手は崖になっており、真下は岩場の磯になっている。小屋といっても物置小屋ではなく、生活ができる程度の家具や設備は整っているようだ。ただ、普段あまり使っていないのか、室内はどことなく空気がよどんで、埃っぽい。奥の掃き出し窓を開けるとテラスになっていたので、シェインは椅子を持ち出して、ぼうっと海を眺めながら遠話の練習に励むことにした。
宣言通りフィフィが昼食を持ってきてくれた他は、代わり映えのない一日だった。何度もフォーレンを呼び出したり、皇帝である兄を呼び出したりしてはみたのだけれど、つながったような気配はまるでない。
青かった空が、いつの間にか夕焼け色に輝いている。空と海の境界線は盆の端のようにうっすらと丸みを帯びている。念のために海を見張ってはいたものの、波も穏やかで、平和そのものだ。帝国軍は本当に攻めてくるのだろうか。
そろそろ帰ろう。そう思って、立ち上がった時だった。
耳の横を何かがかすめていくような音がした。驚いて振り返ると、さっきまで座っていた場所に、鐔のないナイフが突き刺さっている。
「えっ……」
血の気が引いた。誰が、どこから狙っているのだろう。第二波を警戒して、身体をかがめる。しゃがみながら、じりじりと掃き出し窓に近付こうとしていたら、テラスの柵をひらりと乗り越えて姿を現す者がいた。
「まったく。悪運だけはお強いようですね」
男は苦笑しながら髪をかき上げた。
目鼻立ちのはっきりした童顔の男――シェインの従者、フォーレンだった。
「なんで……」
「あなたが呼びだしたんでしょう。要件も言わずに何度も何度も。うるさいったらありゃしない」
フォーレンは表情を消して、腰の剣を抜いた。切っ先は喉元に向いている。シェインは思わず尻餅をついてしまった。こちらには武器はない。あったとしても、実力でのし上がってきたフォーレンに剣の腕で敵うとも思えない。
フォーレンはシェインの従者だが、そもそもは皇帝の直属だ。シェインは旅の途中でフォーレンに殺されるのだろうと予想していた。ところが、標的であるシェインがラザにさらわれてしまったので、暗殺の件はうやむやになったのだとばかり考えていた。どうやら考えが甘かったようだ。
もしかしたら、フォーレンとは最初からこうなる運命だったのかもしれない。このまま彼に殺されるのだと悟ったら、何故か度胸がすわってしまった。
目の前には長剣の切っ先が夕陽を弾いて輝いている。
「……また会えて嬉しいよ、フォーレン。嫌味じゃないよ。心からそう思ってる」
シェインは微笑んだ。フォーレンは表情を変えない。
「だけど、何も知らずに死ぬのは嫌だな。せめて理由くらい教えてくれよ。俺は何のために殺されるんだ? 戦争の理由がほしいなら、俺がさらわれたことでもう充分なんじゃないのか?」
「皇帝陛下があなたの生死を気にしてらっしゃるのでね。気は進みませんが、こちらも宮仕えの身ですので」
「陛下が俺に死んでほしいと? 俺なんかが生きていても、大して変わりはないだろうに」
「さあ。私には陛下の気持ちなど分かりませんよ。害はなくとも、あなたの存在が目障りなのではありませんか?」
「――そこまで嫌われていたなんて知らなかったな」
何度も呼び出されたとフォーレンは言っていた。ということはつまり、兄である皇帝・クローネスに対しても遠話は成功していたということだろうか。シェインは急におかしくなって笑いそうになってしまった。つながっていないと勘違いして「フォーレン、聞こえる?」「兄上?」「クローネス陛下?」など、意味のない言葉ばかりを繰り返していた。何とか笑いを堪えはしたが、そんなつもりもなく嫌がらせをしてしまっていたことがどうにもおかしい。姿の見えない相手から何度も名前を呼ばれるだなんて、地味に嫌だ。しかも、殺そうとしている相手の声だなんて。
(……そういえば、フォーレンは驚かなかったのかな)
初めて遠話で話しかけられた時、部屋に誰もいないはずなのに声が聞こえてきたから物凄く驚いた。
(もしかして、陛下は俺の生死を気にかけているって……声の正体が幽霊なのかそうでないのかを確かめて欲しいってことなんじゃないのか?)
閃いたら、しっくりきた。皇帝は遠話がなんなのか理解してはいない。それなのに、フォーレンはどうやら理屈が分かっているらしい。
落ち着いて考えてみると、不自然なことだらけだ。どうしてフォーレンは声を聞いただけでシェインだと分かったのだろう。百歩譲って、脅威の記憶力の持ち主だから分かったということにしてもいい。だとしても、声を聞いただけでどうやってシェインの居場所を突き止めることが出来たのだろう。シェインをさらった怪しい黒い船の行先がこの島だと見当をつけていたとしても、島の周囲には結界が張られている。竜神さまに認められた島の住人以外は近付くことすら出来ないという話なのに。
だが、フォーレンが元々島の住人なのだとしたら、色々なことの辻褄が合う。
今は島に住んでいない、この島の住人だった人物。
心当たりは脳裏に一人浮かんでいる。
「話はもういいでしょう。さようなら、シェインさま。あなたのことは嫌いではありませんでしたよ」
フォーレンは淡々と剣を構え直した。
童顔は南の集落の特徴だ。
フォーレンの年齢は二十八歳だと聞いている。
七つ年上で、行方不明の兄。ラザは二十一歳。計算は合う。
「……魔力行使。ラザに遠話!」
剣が振り下ろされる瞬間、シェインは椅子を払うように蹴り飛ばした。刃とシェインとの間に、背もたれのある椅子が転がる。
フォーレンは椅子を叩き壊した。刃が背もたれのカーブに食い込んでしまったようだ。フォーレンは足を使って引き抜こうとしている。
今のうちに逃げようと、シェインは尻餅をついたままテラスの床を這った。背中が壁につく。立ち上がろうとしたが、腰が抜けてしまったのか足に力が入らない。魔法行使の宣言をしても何の変化も感じられないが、フォーレンの言葉を信じるならば遠話はきっと成功している。殺される前に、せめてこれだけは伝えておかなければ。
「あの、ええと、すみません、シェインです。この人……もしかしてラザのお兄さんなんじゃないかなあ⁉」
「っ……!」
フォーレンは力任せに剣を外した。遠話では姿形が見える訳ではないので、これではラザにも判別は出来ないだろう。こんなことなら、見たものを伝えられるような魔法も習得しておけば良かった。
「黙れ!」
フォーレンは再びシェインに斬りかかった。
シェインは目の前に迫りくる白刃を見つめた。背後は壁だ。もうこれ以上は逃げられそうにない。振り下ろされる剣は先程よりもゆっくり感じるのに、身体は思ったようには動かない。
(遠話を終了させておかないと、このままじゃ断末魔の悲鳴がラザに直通だなあ……)
痛いのは嫌だな、と思いながら、シェインはそっと目を閉じた。
「そんな場合か⁉ 助けを求めろ、馬鹿!」
ラザの叱責の声が聞こえる。
声と同時に、激しく金属同士がぶつかる音がした。
ハッとして瞼を開けると、目の前にはラザの背中があった。ラザが剣を横に払ってフォーレンの一撃を弾き飛ばしたところだった。ヴェールこそつけていないが、着ているものは儀式の時に着ていた真っ白いドレスのままだ。
薄紫に染まり始めた夕闇の中で、ラザの姿だけが輝いているように見える。オレンジがかった赤い髪が、まるで燃えるように風にたなびいていた。
「――ラザ⁉」
「っ、早く遠話を終了しろ!」
「魔力行使、終了!」
以前フィフィに怒られたことを思い出して、シェインは慌てて終了の宣言をした。近くで遠話を継続していると声が二重に聞こえてしまう。こんな状況では少しの違和感も命取りになるだろう。
ラザは剣を構えたまま後ろ手に腰のリボンを引いた。どうやらスカート部分は二重になっていたらしい。裾の長い巻きスカートが完全に落ちきる前に、布を腕にぐるりと巻きとった。強度がどうなっているのか分からないが、構えからするとあれが盾の代わりになるようだ。
フォーレンは剣を収めないまま、どこか眩しそうに目を細めた。
「……久し振りだな、ラザ」
やはり、フォーレンはラザの兄――リノだったらしい。
シェインは壁に背を預けたまま震える足で立ち上がった。真後ろにいるので、シェインのいる場所からはラザの顔は見えない。
「あのね。……私ね、お兄ちゃんにまた会えたら、ずっと聞きたかったことがあるのよ」
ラザは小さな子供のような口調で、泣き笑いのような声を出した。普段の勇ましい口調とは違って、少し驚いた。ラザがどんな表情をしているのか心配だったが、いまシェインが妙な動きをしたらきっと邪魔になってしまう。
ラザの構えに隙はない。だが、ラザの背中はどこか頼りなく小さく見えた。
「一つだけ教えて。……お兄ちゃんは、私のことが嫌いになったから島を出ていっちゃったの?」
「――そんな訳ないだろう! 誰がそんなことを……⁉」
フォーレン――、いや、リノは目を見開いて剣の構えを解いた。本当に驚いているようだった。フォーレンは嘘つきだから、本気の言葉なのかどうかシェインには判別がつかない。けれど、本当であって欲しいと心から思った。
リノがこの島と和解が出来れば、もしかしたら帝国軍の侵攻も止めることが出来るかもしれない。
ところが、リノが足を一歩踏み出した瞬間、異変が起きた。
「うわっ⁉」
ざわっと音がして、床から虹色の鱗を持つ魚が現れた。ものすごい大群だ。魚は夕陽の残滓を弾いて、視界を遮る。竜神に会いに行ったときに目撃した空飛ぶ魚だ。まるで空に向かって滝が流れるかのようだった。山で見たときは高いところを優雅に泳いでいたのに、まるで堰を切ったかのような勢いで空に昇っていく。昆虫の羽のような翼が触れ合って、しゃらしゃらと音を立てる。あまりの数と、ほとばしる生命力におののいてしまう。
「スカイフィッシュが……どうして⁉」
ラザは腕で目元をかばいながら後退った。
シェインはラザの肩を掴んで引き寄せた。魚の洪水による壁の向こうで、リノはよろめいている。
「フォーレン! 島に戻ってきなよ……! 帝国に居たって良いことなんか一つもないだろう⁉ ラザと殺し合いをするつもりなの⁉」
シェインが叫ぶと、リノはムッとしたように顔を上げた。そのまま、我に返ったかのようにバックステップでテラスの柵まで後ろに下がっていく。
「――まだ、帰れない」
一人言のような声量で呟くと、リノはひらりと柵の向こうに消えた。
床からあふれるように湧いていたスカイフィッシュは、リノがいなくなると同時にぱたりと止まった。慌ててリノを追いかけるように崖下を見下ろしたが、リノの姿はどこにも見えない。岩場と波しぶきが見えるだけだ。
視界の端で光がまたたくのを感じて顔を上げると、スカイフィッシュの大群が竜の尾のように細く伸びて、空に向かっていくのが目に入った。シェインは身を乗り出して上空を見上げた。藍色の闇の中に、銀色の連なりが吸い込まれるように消えていく。
静かになったテラスには、シェインとラザだけが残された。
ラザはどこか暗い目をしてシェインを見つめた。
「帝国が攻めてくると聞かされていたのに、真剣に取り合わなくて済まなかった……お互いに情報を共有しておいた方が良さそうだな」
シェインは素直に頷いたが、少しだけもどかしいような気持ちになった。ラザの口調は普段と同じものに戻ってしまっている。いつか自分とも、リノと話していた時のような口調で話してもらえる日が来るのだろうか。
(実のお兄さんに対して対抗心が湧いてしまうなんて、ここのところ俺はどうかしているな……)
シェインは思い通りにならない自分の感情を持て余して、こっそりと恥じた。ラザがシェインの心の動きに気が付いていなさそうなことだけが、せめてもの救いであるような気がした。




