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東京本郷下宿屋あさぎり、異能者二人の帝都暮らし  作者: 丹羽夏子


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第1話 学生侍と空腹御曹司

 徳川十七代将軍家清(いえきよ)は、名君であった曽祖父十四代家茂(いえもち)の再来と謳われている。民からの信頼は厚く、先帝崩御ののち新年号は家清にちなんで泰清たいせいに改められたほどである。当初は公家からの反発もあったそうだが、そろそろ五年になる今はとんと聞かない。


 そうでなくとも、近年の日本という国はまるで青春時代に入ったかのようだった。二十世紀に入ってからこちら幕府主導の西洋化もなかなかに好調で、社会全体が爛熟に向かって進んでいるような雰囲気がある。


 開国にともなう文明開花で月代さかやきは剃らなくなったが、侍たちは身分まで捨てたわけではない。江戸幕府はあくまで武士政権、侍たちの身分は今も一応保証されている。開国の頃には貧困で無様に喘いでいた幕臣は、武士貴族という新しい階級の創設によって課税をまぬがれ、新制度の俸禄も得られた。したがって祥彦さちひこの実家の家計状況も悪くはなかった。


 それでも祥彦が江戸改め東京府東京市で下宿暮らしをしているのは単なる意地であった。武士らしからぬ弱腰の父への反発であり、それでも父のたまの横暴に逆らえない母への反発であり、祥彦を野蛮人と蔑む兄弟への反発であった。


 祥彦は現役で東京帝国大学に進学した勉学の才と大小二振りの刀に見合う剣の腕を持つ文武両道の男だ――と自負している。黒い学生服に同じく黒い制帽、腰には打ち刀と脇差の二本差しの姿は学生侍祥彦の象徴だ。すべてはそんな自分の魅力を解しない実家の面々が悪い。


 今に見ておれ、うんと出世して見返してやる。と、心意気だけは人一倍でも、愛刀夢虎丸(ゆめとらまる)は代々沼津藩水野(みずの)氏の嫡男に伝わるものであり、皮肉なことにこの刀を差すことは父への恭順を示しているのであった。悔しい。


 沈んでいく夕日を眺めて、すべては若さゆえの強がりなのだろうか、と途方に暮れる日もある。日が短くなる秋はどうもいけない、感傷的な気分になる。時折無性に郷里の沼津藩改め駿河府沼津市に帰って富士山を臨むあの海岸で大声で馬鹿野郎と叫びたくなるのであった。


 湯島の剣道道場から本郷の下宿に帰る。徒歩で片道およそ二十分、激しい運動の後の冷却沈静化クールダウンにぴったりの距離だ。


 湯島の道場に通うようになってもうすぐ二年になる。師範代と言っても基本的にはお侍さんに剣を教わりたい子供たちのお守りだ。日当で指導料を貰っている。これも父の縁故なのが悔しい。幕臣の世間は狭い。


 東京は坂道の街だ。本郷に向かって上っていくと、下宿屋の立ち並ぶ通りに辿り着いた。そのうち一軒が祥彦の住まう下宿屋『あさぎり』だ。


「帰ったぞ」


 味噌汁の香りが漂ってくる。鰹節の香ばしさと味噌のしょっぱさがいい。おかみの多喜たきが夕飯の支度をしているのだ。なんだかほっとした。


 廊下をのしのしと歩いて奥に進む。


 台所が近づくと明るい声が聞こえてきた。多喜の娘の小町こまちの声だ。花も恥じらう女学生で、多喜が女手ひとつで育てている看板娘である。おてんばなわりに健気な小町は多喜をよく手伝う。


「おい、帰ってきたぞ」


 のれんを上げて土間を覗いた。案の定そこに多喜、小町、そして書生姿の男の三人がいて、何が楽しいのかきゃらきゃらと笑い声を上げながら料理をしていた。


 小町が振り向いた。木綿の着物に前掛けをつけて三つ編みふたつのおさげをしている。多少名前負けしているようにも思うが愛嬌のあるたぬき顔だ。


 大鍋におたまに突っ込んで掻き混ぜているのは同じく木綿の着物の上に割烹着をまとった多喜である。こちらは四十路とは思えぬ若々しさで艶っぽく、再婚話のないのが不思議だ。


「あらさっちゃん、おかえり。お夕飯までまだ時間があるから着替えてきな」

「その前に土産だ」


 祥彦はずっと左腕に抱えていた紙袋を突き出した。


「道場で塾生の親にもらった。お多喜さんと小町で食べろ」


 小町が笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。


「なになに? なにくれるの?」

「焼き芋」


 渡すと彼女は紙袋をびりびりと裂いた。


 紙袋の中から出てきたのは、太くて立派なさつまいもだった。袋から出した途端石焼きの香りが土間に広がった。皮の裂け目からは黄色い実が見え、蜜を垂らしている。それが全部で三本もある。


 小町の目が輝いた。


「浅草から通ってる奴がいてな」


 そういう趣味というわけではないが、やはり少女が喜んでいる顔を見るのはいいものだ。芋を手に持ち「ありがとう」と言う小町に癒された。


「あら、悪いね。切ってみんなに配ろうかね」


 かまどに張りついていた男が立ち上がった。


「そうしよう、そうしよう!」


 祥彦は眉間にしわを寄せた。


「僕も食べたい! 切ってや!」


 立襟のシャツの上に着物を着て袴をはいた若い男だ。ふんわりとした柔らかい毛のざんぎり頭にひょろりとした細身の体躯は、強くて太い剛毛の髪に筋肉質の祥彦とはまるで真逆である。顔立ちは多喜に「頭は悪いが顔はいい」と評価されているので女うけする造作なのだろう。


 彼は焼き芋を食べられると思い込んでそのお綺麗な顔にいっぱいの笑みをたたえ明るい裏声を出した。


「おおきに祥彦! 僕ほんまお腹空いて夕飯までもつか不安やってん! これでしのげるわ!」

「お前にやるとは言ってねぇ」


 小町の手元に手を伸ばした彼のその手を叩き落とした。


「俺はお多喜さんと小町のために持って帰ってきたんだ、明生あきおの分はねぇんだよ」


 彼、明生があからさまに眉尻を垂れて悲しそうな顔をした。


「三本あるやん! 毎日土間で火ぃ焚いてる僕を労ってくれるんちゃうん!?」

「声でけぇな、それこそ他の連中にも芋があることがバレるだろうがよ」

「お芋さん食べたい! お芋さん! 芋ー!」


 祥彦は小町の手から芋を二本急いで取り上げた。一本は小町が急いで食らいついたのでさすがの明生もこれ以上欲しがらないだろう。


 明生より祥彦のほうが十センチ近く背が高いので、腕を上に伸ばすと明生の手は祥彦の手に届かない。狭い土間で男と戯れるのは癪だが、味噌汁から目を離せない多喜の手が空くまではこの食欲大魔神から芋を守らなければならないのだ。


「三本目は! 俺の!」

「いけずすんなや! 半分に割りぃ!」

「他の誰でもなくお前に食わすのが嫌なんだよ、お前の喜ぶ顔を見たくない」

「そういう趣味なん? 変態! 僕の笑顔は可愛かいらしいしみんな見たがるものやと思っていたのに!」

「人生楽しそうで何よりだ」


 明生が一歩踏み込んだ。その足が祥彦の足と絡んだ。祥彦の体が後ろにかしいだ。こんな奴の足払いが効くとは、一生の不覚、武士の名折れだ。

 祥彦は「ああっ」と悲鳴を上げながら後ろに倒れた。それでも身についた柔術の要領でなんとか受身を取ったが、明生は猿のごとき俊敏さで祥彦の手から芋を奪う。


「あ、ああー!?」


 明生がその場にしゃがみ込んだまま芋にかじりついた。祥彦は急いで起き上がって芋を奪い返そうとしたが明生の食への執念はすさまじい。明生の執念と祥彦の握力の戦いだ。


「お前それでも公家のぼんぼんかよ!」

「祥彦かてお武家さんの惣領息子やのにふところが狭いのと違います!?」


 そんな二人を見て、右手におたまを持ち、左手を腰に当てた多喜が、渋い顔で言った。


「おやめ。あんたたち大学生にもなってなにしてるんだい」


 多喜の低い声に身をすくませる。


「明生」

「はい」

「焼き芋くらい自分で買いなさい」

「はい……」

「働くんだよ。あんたも賃労働しな」

「はい…………」


 土間の床に突っ伏した明生を、祥彦は嘲笑いつつ適当に「がんばれー」と言った。


「公家は食わねど高楊枝ーだっけか」

「そんなこと言うてへん……食べなあかん……死……」

「お勉強のできる頭に産んでもらったことをおふくろさんに感謝しろよな。私学だったら今頃破産して大陸に身売りだ」

「うっ……お母さん、それからお父さんも……不出来な息子を許してくれはりませんか……」


 多喜がとどめを刺した。


「その親御さんだけど、今月のあんたの賃料滞納してるから。今月末までにあんたが自分で稼いでこなかったら来月うちから出ていってもらうよ」


 明生が右手に芋を持ったまま震えた。それでも食事は削減しない多喜の優しさに義理人情を感じるべきだと思うが、没落貴族の明生はその優しさを感じ取れるほど世間を知らないのだった。


「明生ちゃん、がんばって! わたし、応援してる!」

「僕の味方は小町ちゃんだけやで……」

「俺もがんばれって言ってやったのにな」

「祥彦からは悪意を感じるんやわ……」


 多喜が食器棚から茶碗を取りながら「手伝って」と言ってきた。三人は気を取り直して「はーい」と返事をした。



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