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「ごちそうさん」――満たされて、空

作者: 真野真名
掲載日:2025/10/11




 昼下がりの風は少し湿ってぬるく、空の色もどこか中途半端だった。

 晴れとも曇りともつかず、薄い雲が陽をぼかし、街全体が眠たげな色をしている。

 アスファルトの上を風がなぞるたび、どこかの飲食店の油の匂いがふっと流れてきて、男の腹が小さく鳴った。


 通りの端で、男は立ち止まった。

 見上げた先にあるのは、古びた木製の看板――「ラーメン一丁」。

 文字の赤は褪せ、木目の割れ目には長年の埃が刻まれている。

 暖簾が風に揺れて、かすかに「一丁」という文字が波打つたびに、空腹の音が胃の奥で響いた。


 財布を開く。

 中は空っぽ。

 硬貨の一枚もない。


 ついさっき、コンビニの募金箱に全部入れてしまったのだ。

 自分でも理由は分からなかった。

 ただ、レジの前で手のひらに残った小銭を見つめたとき、心のどこかで「もう要らない」と思ってしまった。

 金も、未来も、生きていく理由も。


 手放した瞬間、何かが少しだけ軽くなった気がした。

 その軽さが怖くもあり、心地よくもあった。

 ――だから、これでいい。

 これが最後の食事でいい。

 最後のラーメンを食べて、静かに終わろう。


 男は暖簾の隙間をくぐった。

 カラン、と鈴が鳴り、乾いた音が店内に弾んだ。



 店の中は、昼の終わりのように静かだった。

 四人がけのテーブルが二つ、カウンターが六席。

 壁のカレンダーは去年のままで、テレビは色が滲み音を失っている。

 換気扇の唸る音だけが、ゆっくりと回っていた。


 カウンターの向こうに、一人の老人がいた。

 白い頭巾をきっちり被り、新聞をたたむ手つきがどこか丁寧で、静かだった。


「いらっしゃい」


 その声は意外に穏やかで、どこか懐かしい響きがあった。

 男は軽く頭を下げ、空いた席に腰を下ろす。

 椅子の脚がきしんだ音が、やけに大きく響いた。



 店主はこの店を一人で三十年切り盛りしてきた。

 妻は十年前に病で逝き、息子も数年後に事故で失った。

 以来、習慣のように毎朝シャッターを開け、湯を沸かし、スープを取っては、同じ時間に同じ湯気を見る日々を繰り返してきた。


 もう十分だと思っていた。

 家賃も重い。体も言うことを聞かなくなってきた。

 店を畳み、年金で静かに余生を過ごす。

 そう決めようとしていた矢先――。


 暖簾をくぐってきたのが、この若い男だった。


 頬はこけ、目の奥には生気がない。

 まるで、心の中に風が吹き抜けているようだった。

 その虚ろな瞳を見た瞬間、店主は直感した。


 ――こいつ、食い逃げするな。


 けれど、なぜか腹は立たなかった。

 人間、何かを諦めた顔というのは、見ていられないほど静かで、痛々しい。

 その沈黙を壊したくないと思うほどに、悲しみが澄んでいる。


 店主は黙って鍋に火をかけた。



「ラーメン一つ」

 男は小さな声で言った。

 店主は「はいよ」と短く返す。


 湯が沸く音が、店の隅々にまで響いた。

 湯気が立ちのぼり、照明の光をぼんやりと滲ませる。

 空気が湿って、時間がゆっくり溶けていくようだった。


 男は湯気の向こうに店主の影を見た。

 あの背中には、もう何も残っていないのだろう――そう思った。

 だが、自分も同じだった。

 どちらが先に消えてもおかしくない、そんな静けさをまとった二人だった。



 スープを注ぎ、麺を上げる。

 店主は無意識のうちに、亡き妻の癖をなぞっていた。

 湯気を少し吸い込み、味を確かめ、塩加減を整える。

 今日も、いつもの味だ。


「はいよ」


 湯気の向こうで、白い丼が差し出された。

 男は軽く会釈して、箸を取る。

 手が少し震えていた。


 一口、また一口。

 麺をすすりながら、男は目を閉じた。

 まるで何かを祈るように。

 まるで、「これが最後だ」と自分に言い聞かせるように。


 熱い。だが、旨い。

 豚骨と鶏ガラの香りが、鼻の奥にやさしく抜ける。

 脂は控えめで、どこか懐かしい醤油の味。

 ひと口ごとに、体の奥へ温かさが染みていく。

 冷たくなっていた内臓が、ゆっくりと動き出す。


 涙がにじんだ。

 それが熱さのせいなのか、別の理由なのか、男には分からなかった。



 食べ終えると、男は深く息を吐いた。

 これで終わりだ。

 あとは店を出て、川沿いまで歩いて――。


 そのとき、新聞の紙が擦れる音がした。

 店主がページをめくっている。


 今だ、と腰を浮かせたその瞬間、電話が鳴った。



 店主は軽く舌打ちして受話器を取る。

「はい、ラーメン一丁です」


 受話器の向こうから、やけに軽い声が響いた。

「警察の者ですが、あなたの口座が不正利用されてましてね……」


 店主はすぐに詐欺だと気づいた。

 だが、すぐには切らなかった。

 若い客が逃げる時間を作ってやろうと思ったのだ。


「そうですか、それは困りましたねえ」

 わざと声を大きくして、話を合わせる。


 背後で椅子がかすかに動く音。

 ――行け。今のうちに行け。

 店主の心の中で、そうつぶやきが響いた。


 しかし次の瞬間、男の声が店内に落ちた。


「それ、詐欺ですよ」



 その言葉は、意外なほどはっきりしていた。


 店主は驚いた顔をしたが、すぐに「……やっぱりな」と笑った。

 電話を切ると、静かに鍋に火をかける。


「じゃあ、餃子でも焼くか」


 鉄板の上で、餃子が鳴った。

 じゅう、と油が跳ねる。

 店の空気が一気に香ばしく変わる。


「餃子ってのは、焼いてる間は目が離せないんですよ」

 店主は火加減を見つめながら言った。

 その背中に、男の視線が吸い寄せられていた。


 まだ逃げていない。不思議な奴だ、と店主は思った。

 食い逃げなんて言葉が似合わない。

 まるで、どこかで何かを取り戻そうとしているように見えた。



 湯気と油の香ばしい匂いが混じる。

 外では夕立の気配がして、窓の外が少し暗くなっていた。

 男は店主の背中を見つめた。

 火を見つめる姿が、なぜか格好よかった。

 あの背中も、きっと何か大きなものを失っている。

 だから、あんなに穏やかでいられるのかもしれない。


 逃げようとするたび、何かが邪魔をした。

 電話、餃子、他の客。

 そのたびに、店主と目が合い、目が合うたびに、逃げられなくなった。


「ビール、一本」

 男は手持ち無沙汰にそう言った。


「昼間っからか。羨ましいな」

 隣の客が口を出す。


 店主は笑って受け流した。

「お前は仕事が待ってんだろ。とっとと食って帰れ」


 冗談が返り、笑い声が広がる。

 笑い声が、湯気に混じって店の隅に溶けた。


 男は久しぶりに、人の笑い声を聞いた。

 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。



 日は傾き、窓から橙色の光が差し込む。

 店主は手ぬぐいで額を拭き、顔を上げた。

 男の姿が消えていた。


 テーブルの上には、空になった丼と皿。

 ラーメン二杯、餃子四人前、ビール二本。

「いつの間にか、ずいぶん食っちまったな」

 店主は小さく笑い、新聞の陰の空の器を見つめた。


 ――やっと、逃げたか。

 そう思うと、不思議と嬉しかった。


「ごちそうさん」

 まるで、代わりに言うように小さくつぶやいて、店主は皿を片付けた。



 外はすっかり暮れていた。

 夜風は昼間よりも冷たく、街灯の下を通るたび、蛾が光に集まっていた。

 男は通りを歩いていた。

 罪悪感よりも胸に残っていたのは、温かさだった。


 あの人、きっと分かってたな。

 そう思うと、涙がこぼれた。

 風が頬を撫でて、それを乾かした。


 死ぬのは、今日じゃなくてもいいか。

 そう思った瞬間、胸の奥に、小さな火が灯ったような気がした。


 空には一つだけ、星が光っていた。

 それはどこまでも静かに、強く輝いていた。



 翌日。

 男は早朝から駅前を歩き、日雇いのバイトを探した。

 求人の紙はどれも古びていて、雨に濡れた跡がある。

 ようやく一軒、建設現場の募集を見つけた。


 鉄骨を運び、汗を流す。

 手のひらの豆がつぶれ、足が震える。

 だが、不思議と嫌ではなかった。

 体が痛いほど、「生きている」感じがした。


 夕方、ポケットの中の封筒を取り出す。

 日当が入った、小さな茶封筒。

 重さはほんの少し。

 だが、それがこの上なく確かなものに感じられた。


 男はそのまま歩き出した。

 目指すのは、あの古びた看板。

 夕陽の中で、「ラーメン一丁」の文字が少し金色に光っていた。



「昨日の分、払わせてください」


 ドアを開けて、男は言った。

 鈴が鳴り、湯気がふわりと迎えた。


 カウンターの向こうで、店主が顔を上げた。

「なんだ、帰ってきたか」

「はい」


 男は皺くちゃの札と小銭を、両手で丁寧にカウンターに置いた。

 店主は受け取らず、代わりに鍋を火にかけた。


「ラーメン、いるか?」

「……お願いします」


 湯気が立ちのぼる。

 火の音、スープの香り、鉄板の焼ける匂い。

 昨日と同じ音なのに、まるで違って聞こえた。

 耳が、生きる音を拾い始めた。


 生きるというのは、こんな小さな音を聞くことなのかもしれない。

 ラーメンが出来上がり、男は箸を取った。

 店主も隣で湯をすすった。

 二人の間に、言葉はなかった。

 けれど、そこには確かな温度があった。


 じゅう、と餃子の焼ける音が響いた。

 湯気の向こうで、二人は同時に微笑んだ。

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