「ごちそうさん」――満たされて、空
昼下がりの風は少し湿ってぬるく、空の色もどこか中途半端だった。
晴れとも曇りともつかず、薄い雲が陽をぼかし、街全体が眠たげな色をしている。
アスファルトの上を風がなぞるたび、どこかの飲食店の油の匂いがふっと流れてきて、男の腹が小さく鳴った。
通りの端で、男は立ち止まった。
見上げた先にあるのは、古びた木製の看板――「ラーメン一丁」。
文字の赤は褪せ、木目の割れ目には長年の埃が刻まれている。
暖簾が風に揺れて、かすかに「一丁」という文字が波打つたびに、空腹の音が胃の奥で響いた。
財布を開く。
中は空っぽ。
硬貨の一枚もない。
ついさっき、コンビニの募金箱に全部入れてしまったのだ。
自分でも理由は分からなかった。
ただ、レジの前で手のひらに残った小銭を見つめたとき、心のどこかで「もう要らない」と思ってしまった。
金も、未来も、生きていく理由も。
手放した瞬間、何かが少しだけ軽くなった気がした。
その軽さが怖くもあり、心地よくもあった。
――だから、これでいい。
これが最後の食事でいい。
最後のラーメンを食べて、静かに終わろう。
男は暖簾の隙間をくぐった。
カラン、と鈴が鳴り、乾いた音が店内に弾んだ。
⸻
店の中は、昼の終わりのように静かだった。
四人がけのテーブルが二つ、カウンターが六席。
壁のカレンダーは去年のままで、テレビは色が滲み音を失っている。
換気扇の唸る音だけが、ゆっくりと回っていた。
カウンターの向こうに、一人の老人がいた。
白い頭巾をきっちり被り、新聞をたたむ手つきがどこか丁寧で、静かだった。
「いらっしゃい」
その声は意外に穏やかで、どこか懐かしい響きがあった。
男は軽く頭を下げ、空いた席に腰を下ろす。
椅子の脚がきしんだ音が、やけに大きく響いた。
店主はこの店を一人で三十年切り盛りしてきた。
妻は十年前に病で逝き、息子も数年後に事故で失った。
以来、習慣のように毎朝シャッターを開け、湯を沸かし、スープを取っては、同じ時間に同じ湯気を見る日々を繰り返してきた。
もう十分だと思っていた。
家賃も重い。体も言うことを聞かなくなってきた。
店を畳み、年金で静かに余生を過ごす。
そう決めようとしていた矢先――。
暖簾をくぐってきたのが、この若い男だった。
頬はこけ、目の奥には生気がない。
まるで、心の中に風が吹き抜けているようだった。
その虚ろな瞳を見た瞬間、店主は直感した。
――こいつ、食い逃げするな。
けれど、なぜか腹は立たなかった。
人間、何かを諦めた顔というのは、見ていられないほど静かで、痛々しい。
その沈黙を壊したくないと思うほどに、悲しみが澄んでいる。
店主は黙って鍋に火をかけた。
⸻
「ラーメン一つ」
男は小さな声で言った。
店主は「はいよ」と短く返す。
湯が沸く音が、店の隅々にまで響いた。
湯気が立ちのぼり、照明の光をぼんやりと滲ませる。
空気が湿って、時間がゆっくり溶けていくようだった。
男は湯気の向こうに店主の影を見た。
あの背中には、もう何も残っていないのだろう――そう思った。
だが、自分も同じだった。
どちらが先に消えてもおかしくない、そんな静けさをまとった二人だった。
⸻
スープを注ぎ、麺を上げる。
店主は無意識のうちに、亡き妻の癖をなぞっていた。
湯気を少し吸い込み、味を確かめ、塩加減を整える。
今日も、いつもの味だ。
「はいよ」
湯気の向こうで、白い丼が差し出された。
男は軽く会釈して、箸を取る。
手が少し震えていた。
一口、また一口。
麺をすすりながら、男は目を閉じた。
まるで何かを祈るように。
まるで、「これが最後だ」と自分に言い聞かせるように。
熱い。だが、旨い。
豚骨と鶏ガラの香りが、鼻の奥にやさしく抜ける。
脂は控えめで、どこか懐かしい醤油の味。
ひと口ごとに、体の奥へ温かさが染みていく。
冷たくなっていた内臓が、ゆっくりと動き出す。
涙がにじんだ。
それが熱さのせいなのか、別の理由なのか、男には分からなかった。
⸻
食べ終えると、男は深く息を吐いた。
これで終わりだ。
あとは店を出て、川沿いまで歩いて――。
そのとき、新聞の紙が擦れる音がした。
店主がページをめくっている。
今だ、と腰を浮かせたその瞬間、電話が鳴った。
⸻
店主は軽く舌打ちして受話器を取る。
「はい、ラーメン一丁です」
受話器の向こうから、やけに軽い声が響いた。
「警察の者ですが、あなたの口座が不正利用されてましてね……」
店主はすぐに詐欺だと気づいた。
だが、すぐには切らなかった。
若い客が逃げる時間を作ってやろうと思ったのだ。
「そうですか、それは困りましたねえ」
わざと声を大きくして、話を合わせる。
背後で椅子がかすかに動く音。
――行け。今のうちに行け。
店主の心の中で、そうつぶやきが響いた。
しかし次の瞬間、男の声が店内に落ちた。
「それ、詐欺ですよ」
⸻
その言葉は、意外なほどはっきりしていた。
店主は驚いた顔をしたが、すぐに「……やっぱりな」と笑った。
電話を切ると、静かに鍋に火をかける。
「じゃあ、餃子でも焼くか」
鉄板の上で、餃子が鳴った。
じゅう、と油が跳ねる。
店の空気が一気に香ばしく変わる。
「餃子ってのは、焼いてる間は目が離せないんですよ」
店主は火加減を見つめながら言った。
その背中に、男の視線が吸い寄せられていた。
まだ逃げていない。不思議な奴だ、と店主は思った。
食い逃げなんて言葉が似合わない。
まるで、どこかで何かを取り戻そうとしているように見えた。
⸻
湯気と油の香ばしい匂いが混じる。
外では夕立の気配がして、窓の外が少し暗くなっていた。
男は店主の背中を見つめた。
火を見つめる姿が、なぜか格好よかった。
あの背中も、きっと何か大きなものを失っている。
だから、あんなに穏やかでいられるのかもしれない。
逃げようとするたび、何かが邪魔をした。
電話、餃子、他の客。
そのたびに、店主と目が合い、目が合うたびに、逃げられなくなった。
「ビール、一本」
男は手持ち無沙汰にそう言った。
「昼間っからか。羨ましいな」
隣の客が口を出す。
店主は笑って受け流した。
「お前は仕事が待ってんだろ。とっとと食って帰れ」
冗談が返り、笑い声が広がる。
笑い声が、湯気に混じって店の隅に溶けた。
男は久しぶりに、人の笑い声を聞いた。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなった。
⸻
日は傾き、窓から橙色の光が差し込む。
店主は手ぬぐいで額を拭き、顔を上げた。
男の姿が消えていた。
テーブルの上には、空になった丼と皿。
ラーメン二杯、餃子四人前、ビール二本。
「いつの間にか、ずいぶん食っちまったな」
店主は小さく笑い、新聞の陰の空の器を見つめた。
――やっと、逃げたか。
そう思うと、不思議と嬉しかった。
「ごちそうさん」
まるで、代わりに言うように小さくつぶやいて、店主は皿を片付けた。
⸻
外はすっかり暮れていた。
夜風は昼間よりも冷たく、街灯の下を通るたび、蛾が光に集まっていた。
男は通りを歩いていた。
罪悪感よりも胸に残っていたのは、温かさだった。
あの人、きっと分かってたな。
そう思うと、涙がこぼれた。
風が頬を撫でて、それを乾かした。
死ぬのは、今日じゃなくてもいいか。
そう思った瞬間、胸の奥に、小さな火が灯ったような気がした。
空には一つだけ、星が光っていた。
それはどこまでも静かに、強く輝いていた。
⸻
翌日。
男は早朝から駅前を歩き、日雇いのバイトを探した。
求人の紙はどれも古びていて、雨に濡れた跡がある。
ようやく一軒、建設現場の募集を見つけた。
鉄骨を運び、汗を流す。
手のひらの豆がつぶれ、足が震える。
だが、不思議と嫌ではなかった。
体が痛いほど、「生きている」感じがした。
夕方、ポケットの中の封筒を取り出す。
日当が入った、小さな茶封筒。
重さはほんの少し。
だが、それがこの上なく確かなものに感じられた。
男はそのまま歩き出した。
目指すのは、あの古びた看板。
夕陽の中で、「ラーメン一丁」の文字が少し金色に光っていた。
⸻
「昨日の分、払わせてください」
ドアを開けて、男は言った。
鈴が鳴り、湯気がふわりと迎えた。
カウンターの向こうで、店主が顔を上げた。
「なんだ、帰ってきたか」
「はい」
男は皺くちゃの札と小銭を、両手で丁寧にカウンターに置いた。
店主は受け取らず、代わりに鍋を火にかけた。
「ラーメン、いるか?」
「……お願いします」
湯気が立ちのぼる。
火の音、スープの香り、鉄板の焼ける匂い。
昨日と同じ音なのに、まるで違って聞こえた。
耳が、生きる音を拾い始めた。
生きるというのは、こんな小さな音を聞くことなのかもしれない。
ラーメンが出来上がり、男は箸を取った。
店主も隣で湯をすすった。
二人の間に、言葉はなかった。
けれど、そこには確かな温度があった。
じゅう、と餃子の焼ける音が響いた。
湯気の向こうで、二人は同時に微笑んだ。




