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六角邸恋奇譚シリーズ

六角邸恋奇譚 ― 侯爵家の兄弟は、女中になった元伯爵令嬢に恋をする ―

作者: 星谷明里

六角邸ろっかくてい恋奇譚こいきたん


挿絵(By みてみん)

※ 作品のイメージイラストです。


✧✦✧ 大正浪漫 × 愛憎劇 × 王道ロマンス ✧✦✧

【 約3万字・読了目安:1〜1.5時間 】


没落した伯爵家の娘・紗弥子さやこは、亡き母の旧知である侯爵夫人の厚意で六角邸に引き取られた。

だが、待っていたのは、女中として働かされる辛い日々だった。


彼女に手を差し伸べるのは、六角家の兄弟──

誠実な嫡男・真孝まさたかと、穏やかな次男・葉月はづき


二人の優しさに揺れる紗弥子は、

愛と憎しみに翻弄されながらも、

やがて自らの未来と愛を、静かに選び取る──


※ 愛憎劇・シリアスな場面が多めの作品ですが、切なくも美しい希望のある結末で締めくくられます。


※ この物語は、大正浪漫を思わせる架空の時代・国を舞台にしています。


⚠ この物語には、ヒロインが心ない言葉や態度にさらされる場面があります。

⚠ 本作品は、流血描写等を含みます。

序章『春風に開かれる扉』



 淡い桜の蕾が綻び、冷たかった風に温もりが感じられるようになる季節──


 伯爵家である三条さんじょう家の一人娘、紗弥子さやこは十七を迎えたばかり──漆黒の絹糸のように艶やかな長い髪に、深く澄んだ黒曜石の瞳を持つ美しい娘だった。

 だが、栄華を誇った家は既に影を落とし、父母は相次いで世を去り、全てを失った屋敷は静まり返った。

 残されたのは、冷たい風の吹き抜ける空虚と、幸せだった幼き日の記憶だけ。


 そんな折、亡き母のふるき友であるという、六角ろっかく芙佐子ふさこという女性から一通の手紙が届いた。


 ──『三条紗弥子嬢を六角家で引き取ります。迎えの馬車を手配するので、どうぞ六角家へおいでください』


 六角家は侯爵家であり、綴られていたその文面は救いであるはずなのに、紗弥子の胸には安堵よりも、言いようのない翳りを落とした。


 そして今。侯爵家である六角家から遣わされた馬車に揺られ、紗弥子は小さな焦茶のトランクをひとつだけ抱えて、知らぬ未来へと運ばれてゆく。

 彼女の纏う濃紅こいくれないの美しい振袖からは、苦労を知らぬ雪のように白く細い手が覗いている。この振袖は母の形見で、彼女に唯一残されたものだった。他のものは、全て失われてしまった。


 紗弥子がそっと顔を上げると、豊かな黒髪が一筋、華奢な肩からするりと流れ落ちる。

 赤茶に磨き込まれた木枠の窓から覗くのは、淡く霞のかかる春の街路樹。萌え出ずる瑞々しい若葉が春風に揺れても、その柔らかな景色は彼女の瞳に映らない。

 胸の奥に広がるのは、両親を喪った深い哀しみと、行き先に待ち受けるものへの漠然とした不安──。


 車輪の軋む音がやけに大きく響く中、紗弥子は膝の上で固く両手を握りしめた。

 街路樹の若葉が春の陽に輝くたび、彼女の心に宿る影が、かえって濃さを増すように思えた。



* * *



 馬車がゆっくりと止まり、御者の「着きました」という声が響いた。

 馬車の扉が開かれ、紗弥子は焦茶のトランクを胸に抱いたまま、深く息を吸う。

 緊張で冷たくなった指先を確かめるように握り締めると、静かに馬車を降り立つ。紗弥子の足を包む金茶色の草履の底が、整えられた玉砂利を静かに踏みしめる。


 目の前に広がったのは、侯爵家である六角家の威光を示す壮麗な邸宅だった。

 白茶の漆喰しっくいと煉瓦を組み合わせた洋館。左右に広がる庭園には丹精込めて育てられた四季折々の花々が彩りを添えている。

 奥へと続く石畳の道の脇には、規則正しく植えられた松の木が並び、その堂々たる姿は、伯爵家に育った紗弥子ですら圧倒されるほどだった。


 だが、その荘厳さは、まるでおりのように彼女を迎え入れるようだった。


(……ここが、これからわたくしが暮らす六角家の……)


 緊張で胸が高鳴る。だがその高鳴りは、期待ではなく、不安の色を帯びていた。


「……あなたが、紗弥子さんね」


 紗弥子の出迎えに現れたのは、侯爵夫人の六角芙佐子だった。細身の体に青紫の絹の着物を纏い、結い上げられた豊かな黒髪には品の良い金細工の簪が輝いている。

 切れ長の瞳を持つその美しい女性は、手紙にしたためられていた『母の旧き友』という柔らかな響きから想像していた人物像とはまるで違っていた。


「はい、三条紗弥子と申します……」


 紗弥子が一礼して顔を上げると、芙佐子は紗弥子の顔を一瞥し、わずかに眉を寄せると表情を曇らせた。紗弥子を迎え入れる言葉もなく、むしろ厳しい視線を投げかける。

 戸惑いに口籠る紗弥子がわずかに瞳を伏せると、静かな足音が響いた。


「紗弥子お嬢様ですね。遅れて申し訳ございません。私は、家令かれい立花たちばなと申します。紗弥子お嬢様を、お部屋へご案内致します」


 芙佐子の背後から現れたのは、立花と名乗る初老の男性。

 彼が紗弥子を案内しようとすると、芙佐子の冷たい眼差しと紅を差した唇がきっぱりとそれを制した。


「その必要はありません。……立花、紗弥子さんを、女中たちの部屋に案内なさい」

「芙佐子奥様……」


 呆然としている立花に、芙佐子は冷たい視線を投げ掛ける。


わたくしは部屋で休んでいます。……紗弥子さんに、女中の仕事を教えてあげなさい」


 芙佐子が放った言葉に紗弥子は瞬きも忘れ、声を失った。

 手紙の文面から思い描いていた漠然とした未来は、たった一言で打ち砕かれてしまったのだ。


 呆然と立ち尽くす紗弥子に冷たく背を向けると、芙佐子は深紅の絨毯が敷かれた階段を静かに登っていく。

 その後ろ姿を、紗弥子はただ見つめることしか出来なかった。


 かつては伯爵家の令嬢だった自分が──これからは、六角家の使用人として生きていく……。


 冷たく重い現実が、紗弥子の胸の奥に静かに沈み込んでいった。



* * *



 六角邸の女中部屋は、北側の廊下のいちばん奥にあった。昼でも薄暗いその部屋には畳が敷き詰められ、簡素な箪笥と鏡台、二段の長持ちが整然と並べられている。窓枠のガラスは細かく波打ち、差し込む光を柔らかく砕いて床に落としていた。

 女中頭が、手早く紗弥子の荷を受け取り、畳に置く。


「紗弥子お嬢さん、こちらにお着替えを。……お召し物は、お預かりしますよ」

「お梅さん、ありがとうございます」


 女中頭のお梅に渡されたのは、墨黒の地に細かな縞の入った質素な着物、それに肩口と裾に小さなひだ飾りの付いた白い割烹着。

 紗弥子が背に流していた長い黒髪はお梅の指で手際よく梳かれ、低い位置で一つに編まれていく。


 濃紅の振袖が畳まれるのを見て、紗弥子の瞳が震えた。亡き母の気配を留める大切な衣が、たった今「過去」に仕舞われる気がして──。


「……紗弥子お嬢さんは、肌が白くてお綺麗ですから、余計に映えること……」


 墨黒の着物を纏った紗弥子を見て、気遣うように微笑むお梅。その優しい眼差しに、紗弥子は小さく微笑んだ。

 周りで様子を見守っていた若い女中たちは、どこか同情を含んだ目を紗弥子に向けている。


「……紗弥子お嬢さん、お辛いでしょうけど……」


 お梅は、それ以上を口に出来なかった。

 紗弥子は、本来であればこのような着物を纏う生まれでも育ちでもない。ましてや、今朝までは紗弥子はこの六角家に養子のような形で迎え入れられる予定だったのだ。

 “紗弥子お嬢様”として迎えるはずだった少女への扱いの変わりように、使用人たちは皆戸惑いを隠せなかった。


「ありがとうございます。わたくし、できることを精一杯致します」


 自分の声が思いのほか落ち着いているのを、紗弥子は不思議に感じた。胸の奥は荒波に浮かぶ小舟のように不安で堪らないのに、表面は静かな湖面のようだった。




* * * * *




春の章『美しい(おり)



 六角家当主の実政さねまさは仕事のために長らく海外へ行っており、当分戻る予定はなかった。屋敷には、侯爵夫人の芙佐子ふさこと嫡男の真孝まさたか、次男の葉月はづき。そして大勢の使用人たちが暮らしていた。


 お梅から、真孝は二十二歳、葉月は十九歳なのだと聞かされた。もし、周りの言う通り、この家に令嬢として迎えられていたなら、二人の“兄”のような存在ができていたのだろうかと、紗弥子は少しだけ考えた。

 だが、姿見に映る墨黒の着物と割烹着を纏う姿を見つめ、静かに息を吐く。


 ──私は、この六角家の女中になったのだ……。


 この広く美しい六角邸で、伯爵令嬢だった紗弥子の、女中としての日々が始まった。


 紗弥子に与えられた最初の仕事は、廊下の拭き清めだった。

 美しい組み木の床は朝のうちに磨かれているが、昼にはもう細かな砂塵が溜まる。六角家の敷地は広く、門から屋敷までの砂利道を人や馬車が行き交う度に、微かな砂が風に乗って入り込むのだという。


 紗弥子は桶に水を張り、絞った雑巾で板目に沿って膝を進める。指の腹に伝わる木の感触は、幼い頃に家令の目を盗んで廊下滑りをした記憶を呼び起こした。あの頃、母は笑って叱った──「お客さまがいらっしゃる前だけにしてね」と……。


(いけない……前を向かなくては……)


 紗弥子はわずかに首を振ると、雑巾を絞り直した。慣れない手付きでもう一度床へと雑巾を滑らせる。動作はぎこちないが、丁寧で正確だ。

 見張るつもりもなく傍らに立っていた先輩女中のおただがそっと口を開く。


「紗弥子お嬢さん、少しずつで大丈夫ですから……無理はなさらないでくださいね」

「お正さん、ありがとうございます」


 お正の気遣いに紗弥子は微笑むと、再び雑巾の端を指で整えた。


 そのとき、廊下の向こうに影が差した。やって来る足音は規則正しく、迷いがない。

 目の前に現れた青年が纏うのは、黒の上質な詰襟に銀のタイピン。きちんと撫で付けた短く整えられた黒髪。端正な顔立ちに凛とした気配が空気を引き締める。


「真孝様……」


 お正や他の女中たちは頭を下げ、廊下の端に控える。紗弥子は雑巾を握り締めたまま、現れた青年を見上げることしか出来なかった。


(──真孝様……確か、六角家の嫡男の……)


(……新しい使用人が入るとは、聞いていなかったが……それに、使用人にしては──)


 二人の視線が交錯する。

 真孝は、床に膝を付いたままの紗弥子から目を逸らすと、お正へと向き直る。


「お正、紗弥子嬢を知らないか? もう到着しているはずなんだが」と真孝が問いかける。


「それは……」


 お正が気まずそうに瞳を伏せると、奥に控えていた女中頭のお梅が代わりに答える。


「……真孝様、こちらが先刻お着きになった紗弥子お嬢さんで──」

「紗弥子……?」


 真孝の瞳が困惑に染まる。

 彼は、紗弥子の傍らに置かれた桶と白い手に握られた雑巾へと目を落とし、それから彼女の割烹着と後ろでひとつに編まれた髪を見た。

 短い沈黙。やがて彼は、まっすぐ紗弥子を見据える。


「貴女には、客間を準備しているはずだ。誰がこんなことを命じた」


 廊下の空気が張り詰めた。お梅は言い淀み、他の女中たちも互いに目を見交わすだけだ。

 紗弥子は慌てて頭を下げた。


「真孝様。わたくしのことはどうぞお気になさらずに……六角家にお世話になる以上、私もお役に立ちたく──」

「貴女が、そのようなことを気にする必要はない」


 きっぱりと言い切った真孝の声には、揺らぎがなかった。だが強さの底に、微かな苛立ちと戸惑いが混ざっているのを、紗弥子は感じた。

 真孝は家令を呼びつけ、短く命じる。


「──立花、彼女を客間へ。女中の着物も早く着替えさせてあげなさい。母上には、私が話す」


 真孝は言うや否や踵を返す。早足で去ったその背中が角を曲がって見えなくなるまで、誰も言葉を発せなかった。

 最初に息を吐いたのは、一番年配の女中のおたかだった。


「……紗弥子お嬢さん、真孝様のおっしゃる通りに……」


 紗弥子は胸の奥がじんと熱くなるのを覚えた。助けられた安堵と、真孝の好意に甘えてはならないという思いが、反対方向へ引っ張り合う。


「ありがとうございます。ですが──」


 言いかけた時、廊下の向こうで再び足音が響いた。今度は早く、硬い。

 程なくして、真孝が戻ってくる。顔色は変わらないが、目の奥には冷たい光が宿っていた。


「母上は……意志を変えられないそうだ。──当座は女中部屋で、とのこと……」


 女中たちが一斉に瞳を伏せる。紗弥子は静かに頭を下げた。


「ご配慮、痛み入ります。どうか、お気を揉まれませんように」


 その言葉に、真孝の眉がほんの少しだけ動いた。彼は短く息を吸い、何か言いかけて、やめた。


「……困ったことがあれば、……私に言いなさい」


 それだけ告げると、彼は去っていった。

 紗弥子はしばらくその背を見つめ、それから桶の水を替えに立ち上がった。胸の中に、温もりと諦念ていねんの二色がゆっくり混じり合っていった。



* * *



 昼下がり、紗弥子は庭の掃き清めを任された。春の陽は高く、風はまだ少し冷たい。白茶の洋館の庇から落ちる影が、石畳にくっきりと縞を作っている。

 慣れない竹箒の柄を握り直し、落ちた葉を払っていく。ここでの仕事は全てが初めてで、当然のように上手くはいかなかった。


 掃きながら足を進めると、庭の片隅、池の畔に、人影が立っているのが目に入った。

 最初は静かに佇むその姿に、彫像かと紗弥子は思った。だが、風に髪だけが揺れていた。

 その青年は、細身の体に白いシャツを纏い、濃灰の洋袴ズボンを履いていた。

 陽に透ける亜麻色の髪に、白磁のような肌。──陽を受けた横顔は、儚い美しさを湛えていた。


(──確か、六角家の……)


 六角家の次男は異人の血を引くという話を思い出し、紗弥子は箒を止め、頭を下げる。


「埃が立ちましたら、申し訳ございません」


 その青年は、緩やかに振り向いた。驚いたように瞬きをして、それから柔らかく微笑む。


「いえ……庭を綺麗にしてくれて、ありがとうございます」


 その穏やかな声は優しく、少し低い。耳に届いた瞬間、胸の奥の緊張がひと筋解けた気がした。


 ──綺麗な、色……。


 澄んだ青灰色の瞳に暫し見惚れてしまった紗弥子は、箒を持ち直すと浅く会釈する。


「今日から六角家でお世話になります、三条──いえ、紗弥子と申します」


 青年は名乗ろうとして、少しだけ言葉を選ぶように視線を落とした。


「……葉月はづきと申します」


 彼は、名を告げる仕草まで、どこか遠慮がちだった。立ち姿は隙なく美しいのに、風に吹かれて消えてしまいそうな儚さを感じた。

 その時、紗弥子の視線が葉月の手元で止まる。


「その御本……」


 葉月の手にする本は、紗弥子に見覚えがあった。父の書斎にあった、異国の本を翻訳されたもの。読んだことはないが、華やかで美しい装丁そうていに目を奪われたことがあったのだ。


「この本ですか?」

「はい……読んだことはないのですが、見かけたことがあって……」


 そう言って口籠った紗弥子に、葉月の眼差しが和らぐ。


「良かったら、お貸ししましょう」


 差し出された本に、紗弥子の瞳が揺れる。 


 その時だった──


「紗弥子お嬢さん! ──あ、葉月様……」


 やってきたお正が葉月に一礼して、紗弥子の元へとやって来る。


「そろそろ休憩の時間ですよ。一緒に行きましょう」

「お正さん、ありがとうございます」


 紗弥子は葉月に一礼すると、お正の後に続く。


「紗弥子……」


 ひとつに編んだ黒髪を春風に揺らし、静かに去っていく紗弥子の背を、翡翠の瞳が見つめる。


(確か、兄様が言っていた、三条家の令嬢の名も──)



* * *



 夕刻、土間に置いた桶で紗弥子が雑巾を洗っていると、戸口の向こうから囁き声がした。女中たちの控えめな声は、紗弥子の耳にも届く。


「──真孝様、昼からずっと奥様と……」

「お二人ともお声が怖いの。背筋が冷たくなるわ……」

「本当に、紗弥子お嬢さんがお気の毒で……でも、奥様も、どうして急に……」


 水に手を浸したまま、紗弥子はそっと目を閉じた。季節はもう春だというのに、冷たい水が骨まで染みるようだった。

 やがて手を上げ、雑巾を絞り、桶の水を替える。立ち上がれば、再び仕事が待っているだけだ。


 紗弥子が裏庭へ続く戸を開けると、夕暮れの風が頬を撫でた。空はいつの間にか茜色に染まり、松の影は長く伸びる。

 ふと、回廊の角に立つ人影が見えた。

 真孝だった。背中で手を組み、庭を眺めている。表情は読めない。


「──失礼いたします」


 声を掛けると、彼はゆっくりと振り返った。黒い瞳の奥に、昼より柔らかな色が差す。だが、その眼差しは揺らいでいる。


「具合は」

「大丈夫でございます。皆さまが、よく教えてくださいますから」

「そうか……」


 短い言葉。だがその一音に、安堵が微かに混じっていた。

 紗弥子は、昼のことのお礼を述べる。


「先刻は、ありがとうございました。真孝様のお気持ちが……とても、嬉しかったのです」


 ふわりと微笑んだ紗弥子に、真孝の瞳がわずかに見開かれる。

 彼はふと視線を落とし、すぐに戻した。


「当然のことをしたまでだ……」


「力になれず……本当に、申し訳ない」と真孝が頭を下げた。


「そんな、いけません、真孝様……!」


 狼狽えて駆け寄る紗弥子に、真孝が顔を上げる。


(──本来なら、紗弥子嬢には『兄様』と呼ばれていたはず……母上も、何故このようなことを……)


「とにかく、無理はしないでくれ……私も、出来る限りのことはするつもりだ」

「ありがとう、ございます……」


 紗弥子は、胸の奥が温かくなるのを感じた。先刻、彼の言葉に混じっていた苛立ちが、彼自身に向けられていたことを、ようやく理解する。


 紗弥子が会釈をしてその場を辞したとき、回廊の陰に、亜麻色の髪がかすかに揺れた。

 葉月が、二人の様子を見ていた。

 その瞳は、水面のように静まり返っている。けれど、深いところで、小さな光が灯っているようにも見えた。


 ──三つの視線が、音もなく交差する。


 その夜、紗弥子は女中部屋の布団に横たわり、掌を胸に添えた。隣では、お正が静かな寝息を立てている。その様子を見て、紗弥子は淡く微笑んだ。


(皆様、良い方たちばかりで、本当に良かった……)


 明日は、何が起こるのだろう。

 怖れと、ほんの微かな期待と……。

 遠い海の水平線のように、まだ色のない未来が、紗弥子の心の内でゆっくりと形を取り始めていた。



* * *



 その頃、芙佐子は一人で自室の文机ふづくえに向かい、小さなロケットを開いていた。

 その銀の枠に大切に収められているのは、凛々しい青年の古びた写真。


「……正篤まさあつ様」


 紅を差した唇から、甘やかな吐息のような声が零れる。指先でそっと写真をなぞりながら、芙佐子の瞳は遠い日の記憶に揺れていた。


 女学生だった頃──。

 美人で自信に満ちていた芙佐子よりも、いつも人々の目を惹きつけたのは親友の詩津子しづこだった。

 その詩津子に、兼ねてより芙佐子が恋い慕っていた三条伯爵子息の正篤が一目惚れしたと知ったとき、彼女の胸を満たしたのは絶望と嫉妬。

 正篤との結婚が決まって幸せそうに微笑む詩津子に、笑って祝福の言葉を口にしながら、心の奥底では、『想い人を奪われた』という痛みと憎しみが燃え続けた。


 その後、三条家よりも格上の侯爵家の六角へと嫁ぎ、地位も名誉も手にしたはずなのに──その炎は決して消えることはなかった。


 だからこそ、二人が亡くなり、三条家が失くなったと耳にしたとき、彼の娘の紗弥子を引き取ろうと思ったのだ。

 想い人だった彼の血を継ぐ子を守りたい。せめて、あの人の面影を身近に置いて生きたい。


 けれど、目の前に現れた紗弥子の姿は──紛れもなく、若き日の詩津子の生き写しだった。求めていた想い人の面影など、どこにも感じられなかった。

 その瞬間、胸に渦巻いたのは愛しさではなく、消し去ったはずの嫉妬と怒り。


「どうして……あんなにも詩津子に似ているの……」


 呟かれた声が、誰もいない部屋にこだました。

 芙佐子はロケットをそっと閉じると、冷たい眼差しで虚空を見つめた。

 かつての想いを断ち切れぬまま、紗弥子に冷たく接することしかできない自分を、心のどこかで呪いながら──。



* * *



 紗弥子が六角邸に来て、一週間が経った──


 午後の光が硝子越しに差し込み、六角家の書庫は静けさに包まれていた。

 紗弥子は脚立に乗り、上段の棚に積もった埃を丁寧に拭き取っている。

 背筋を伸ばして雑巾を動かすたび、埃が煌めきながら宙に舞った。


「……失礼します」


 低く穏やかな声が背後から届き、紗弥子は振り返った。

 そこに立っていたのは、亜麻色の髪を陽に透かす葉月だった。その手には数冊の本を抱えている。


「……葉月様」


 思わず声が上ずる。

 (もう……私の正体をご存じのはず。それなのに……)と胸がざわめいた。

 だが葉月は前と同じように、柔らかい微笑みを浮かべただけだった。


「高いところは危ないですよ。足元、どうかお気をつけて」


 優しい声音に、紗弥子は一瞬言葉を失った。

 その動きは驚くほど自然で、葉月の変わらぬ丁寧さに、胸の奥の緊張が少し解けていく。


「……ありがとうございます。もう少しで終わりますから」

「僕にも手伝わせてください」


 そう言って微笑むと、葉月は本を机に置いて、脚立の下で静かに手を添えた。

 それだけで、紗弥子は脚立がずっと安定したように感じ、頬がわずかに熱を帯びる。


「葉月様が、そんなこと……」

「倒れてしまっては、大変ですから」


 穏やかに告げられたその言葉は、紗弥子を使用人としてではなく、一人の人間として気遣っているものだった。

 その優しさに触れ、紗弥子は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。



* * *



 葉月は、六角家当主の実政が芙佐子との結婚後に見初めた異国の女性との間にもうけた子だった。

 だが、生まれ落ちた瞬間から、彼の運命には静かな影が差していた。


 葉月の母は、亜麻色の髪に青い瞳を持つ、誰もが振り返るほど美しい人だったという。実政は、自らの子を身籠った葉月の母を六角の屋敷に迎え入れた。

 だが、正妻である芙佐子の嫉妬と苛烈な仕打ちに耐えかね、葉月の母は幼い息子を残し屋敷を去った。異人である自分が女手一つで育てるよりも、侯爵家である六角家で養育されたほうが我が子のためになると考えたのかもしれない。


 残された幼子はづきは、母の面影をそのまま受け継いでいた──亜麻色の髪も、その美しい白い顔も……。

 嫡男を産んで間もない、正妻である自分を差し置いて、夫の子を身籠り寵愛を得た女の姿を思い出させるその姿は、芙佐子の怒りを呼んだ。


 そして、葉月は物心がつく前から、ひっそりと冷遇され続けてきた。

 しかし彼は、声を荒げることもなく、ただ静かに日々を受け入れていた。影の中にありながらも、その瞳には深い優しさと儚い光が宿っていた。



* * *



 柔らかな日差しが差し込む、六角邸の庭──

 新緑の中、紗弥子が庭掃除をしていると、静かな足音が近づいてくる。


「紗弥子さん」

「真孝様、どうなさいましたか?」


 紗弥子が振り返ると、そこには真孝の姿があった。


 「これを……その、ささやかなものだが……」

 

 真孝に差し出されたのは、淡い桃色の千代紙の貼られた小箱。大きな手のひらの上に乗せられたそれは、とても可愛らしく見えた。


「ありがとう、ございます……」

 

 おずおずと小箱を受け取った紗弥子。真っ直ぐな瞳にじっと見つめられ、わずかに頬が熱くなる。


「その……甘いものは好きだろうか」

「はい、好きです」


 頷いた紗弥子を見つめる眼差しが和らぎ、真孝が微かに微笑む。


「それなら、また持ってこよう」


 そう言った後、真孝は一瞬言いかけて、何かを飲み込むように視線を伏せた。


「くれぐれも無理はしないように……何かあれば、すぐに言ってくれ」と付け加えるように言うと、彼は静かに屋敷へと戻っていった。

 紗弥子は、遠くなる真孝の後ろ姿を見つめていた。


「紗弥子さん、どうされたんですか?」


 そこへお正がやってきて、紗弥子の手にある小箱に目を留める。


「可愛らしい小箱! まさか、真孝様から……?」


 「はい……」と頷いた紗弥子に、お正が目を輝かせる。


「真孝様、こんなことは滅多になさらない方なんですよ!」


 顔を上げた紗弥子に、お正が微笑みかける。

 紗弥子は、真孝にもらった小箱をそっと開けた。


(真孝様……)


 小箱の中には、色とりどりの可愛らしい金平糖が詰まっていた。


「皆で分けるようにお菓子をいただくことは、ありますけど……紗弥子お嬢さんのことを、とても気に掛けていらっしゃるのでしょうね」


 お正の言葉に、紗弥子の胸はじんわりと温かくなった。

 柔らかな風に、若葉がさやさやと揺れる。


 新たに始まった六角家での生活に、不安を感じていた紗弥子。その胸に、淡く温かな光が灯った瞬間だった。




* * * * *




夏の章『花影に潜む闇』



 外の空気はすっかり暖かくなり、紗弥子も六角邸での暮らしに少しずつ慣れてきていた。


 そうして、季節が初夏になる頃、屋敷を訪れたのは、伯爵令嬢の西園寺さいおんじ百合子ゆりこだった。

 六角家の兄弟の幼馴染だというその令嬢は、まるで我が家に帰ってきたかのように六角邸に馴染んでいた。


 百合子は、紗弥子と同じ年の愛らしい令嬢で、少し癖のある焦茶の長い髪を耳の上から後頭部に結い上げて紅色のリボンで飾り、美しい薄紅色の振袖を纏っていた。

 彼女の可憐な微笑みは、女中である紗弥子にも向けられた。



* * *



  六角邸の応接間で、芙佐子と真孝、百合子が談笑している。


 お梅と紗弥子の二人が、来客接待の対応をすることになり、応接室の隣の間で紅茶と菓子の準備をしていた。


「お梅さん、一人分足りませんが……」


 盆の上に菓子を並べる紗弥子が、呟くように言った。


「足りていますよ。さ、お持ちしましょう」

「でも、葉月様の分が……」


 応接室に、芙佐子と真孝、百合子が入っていくのを紗弥子は目にしていた。葉月も、もう少ししたら遅れて現れるはず──


「奥様は、葉月様と席をご一緒されないんですよ……昔から、そうでしたから」


 瞳を伏せてそう言ったお梅。その眼差しは、憐憫の情を宿していた。


「それは……」


(昔から──まさか、お食事の席でも……)


 紗弥子の脳裏に、一人で食事を摂る葉月の姿が浮かぶ。

 幼い頃から、一人で食事を摂り続けてきたのだろうか……。孤独に耐える幼い葉月の姿を想像してしまった紗弥子。黒曜石の瞳が、僅かに滲んだ。


「……さ、紗弥子さん、お茶をお出ししましょう」


 明るく微笑んだお梅に、紗弥子は静かに頷き、二人は隣の応接室へと向かった。



* * *



 六角邸の応接室。

 お梅に指示された通りに、紗弥子は焼き菓子の乗った皿を丁寧な所作でテーブルに並べていき、お梅が紅茶を淹れる。


 紗弥子が現れると表情を凍りつかせ、その姿を見ようともしない芙佐子と、紗弥子を穏やかな眼差しで見つめている真孝。


「紗弥子さん、ありがとう」


 真孝の言葉に、紗弥子が瞳を伏せて一礼する。

 真孝の隣に座る百合子は、その様子を微笑みながらじっと見つめていた。


 お梅と紗弥子の二人が一礼して応接室を後にすると、再び芙佐子の明るい笑い声が響いた。


 芙佐子は百合子をいたく気に入っており、二人は笑顔で仲睦まじく会話していた。その様子に真孝は席を立とうとするも、母の芙佐子に制されて百合子との会話に相槌を打つ。

 百合子は真孝を「真孝お兄様」と呼び、まるで実の兄に甘えるように接していた。


 百合子は可憐で心優しい令嬢で、お梅や紗弥子、他の使用人たちにも、分け隔てなく優しく接した。



* * *



 真孝が退室し、芙佐子も用があるとのことで、部屋へ下がった。百合子も帰宅するために応接間を出て、玄関へと向かう。

 廊下を歩く途中、通りがかりの使用人へ声を掛ける。


「そこのあなた、少しよろしいかしら?」

「これは、百合子お嬢様、いかがなさいましたか?」


 愛らしい百合子に呼び止められ、まだ若い使用人の男が表情を緩ませる。


「紗弥子さん、という女中の方は、新しく入った方なの? ……とても良くしていただいて、年も近いようだから気になって……」


 可憐な微笑みを浮かべる百合子に、使用人の男が笑って答える。


「あの方は、三条家のご令嬢なのですが、今は六角家で女中を……」


 その言葉を聞いた百合子は、一瞬言葉を詰まらせると、愛らしい口元に白い手を添えた。


「まぁ、三条家の……何て、お可哀想……」と百合子は愛らしい顔を曇らせた。


 そうして、百合子が玄関を出ると、庭師の若い男たちの会話が耳に飛び込んでくる。


「いやぁ……西園寺の百合子お嬢様は、本当に可憐だよなぁ」

「心根まで、本当に花のようなお嬢様だ」


 聴こえてくる称賛の声に立ち止まると、百合子は静かに微笑んだ。


「俺は、紗弥子お嬢さんだな……」

「紗弥子お嬢さんかぁ……確かに、健気で清楚で……お美しいよなぁ」

「なんてったって、地味な女中の格好をしていてもあの美しさだ……振袖を着たらどれ程か」


「しかし、伯爵家のお嬢様が、お気の毒になぁ……」と呟かれた言葉。


 百合子の大きな瞳には、翳りが差していた。



* * *



 数日後、再び百合子が六角邸を訪れた。

 淡い水色の振袖を纏い、女中部屋まで顔を出した彼女は、紗弥子に向かって可憐に微笑んだ。


「どうぞ、女中の皆さんで召し上がって」と可愛らしい風呂敷包が差し出された。中には、色とりどりの干菓子が並んでいる。


「百合子お嬢様、私たちにまで……本当にありがとうございます」


 頭を深く下げたお正に合わせて、紗弥子も頭を下げる。

 使用人たちにも温かく接してくれる百合子に、紗弥子も温かな気持ちを抱いていた。



* * *



 その後、紗弥子が大広間の拭き掃除をしているときだった。

 開かれた大きな扉の方から、静かな足音と微かな衣擦れの音が響いた。

 紗弥子が顔を上げると、百合子がこちらへ向かってくるのが目に入る。


(百合子お嬢様……?)


 何事だろうかと手を止めた紗弥子の前で、百合子が立ち止まる。

 紗弥子が見上げると、百合子の大きな瞳が見下ろしていた。普段とは違うその雰囲気に、紗弥子は少しだけ息を呑んで、口を開く。


「百合子お嬢様、いかがされ──」

「あなた、三条家の令嬢だったんですってね……今は、這いつくばって床掃除だなんて、本当にお可哀想……」


 百合子はそう言い放つと、紗弥子を不躾に眺め回し、歪んだ微笑みを浮かべた。


 呆然と見上げる紗弥子を冷たく一瞥すると、百合子は大広間を去っていった。


 それから、紗弥子が一人でいる時を狙うように、百合子がやってきては、冷たい言葉や嫌味を投げ掛けて来るようになった。

 六角家の女中になった紗弥子は、伯爵令嬢の百合子に言い返すことも出来ず、ただ黙って耐えることしかできなかった。


 百合子は、六角家の使用人たちの間でも『可憐で心優しいお嬢様』と評判だった。

 誰に打ち明けることも出来ず、いつ来るかもわからぬ百合子の影に怯える、紗弥子の不安な日々が始まった。


 そうして過ごすうちに、百合子の名前が出たり、百合子が屋敷を訪れるたび、紗弥子は表情を曇らせるようになった。

 そんな紗弥子の様子を、葉月の静かな瞳が見つめていた。



* * *



 六角邸に、夏が訪れた──


「皆様、御機嫌よう。今日は、お花のお稽古があって……」


 昼下がり、薄黄色の絽の振袖を纏った愛らしい百合子が、美しい百合の花束を胸に抱いて、六角邸に顔を出した。


「まぁ、綺麗な白百合……可憐な百合子さんにぴったりの花ね」と微笑む芙佐子に、百合子は頬を染めた。


「そんな……お美しい芙佐子様のために、分けていただいたのです」と微笑む百合子に、芙佐子も笑い返す。

 上機嫌の芙佐子はお梅を呼ぶと、すぐに百合の花を飾るよう言いつけた。


「百合子さん、残念だけれど、わたくしはこれから用があって……真孝は部屋にいますから、どうぞゆっくりお過ごしになってくださいね」

「芙佐子様、ありがとうございます」


 着飾って出掛けていく芙佐子を笑顔で見送ると、百合子は廊下へと向かう。


「葉月お兄様!」


 視線の先に廊下を歩く葉月の姿を見つけ、百合子が急ぎ足で近付く。


「……百合子、今日も遊びに来たんだね」

「はい。百合子はお兄様方にお合いしたくて……」


 百合子は愛らしくはにかむと、薄黄色の懐からそっと小さな包みを取り出す。


「これは、百合子が葉月お兄様のために作ったのです」


 百合子が差し出したのは、スミレの押し花で作った可愛らしいしおりだった。


「御本がお好きな葉月お兄様のために、春から準備していたんです」


「……ありがとう」と薄く微笑んだ葉月に、花のように笑う百合子。


 その様子を、紗弥子は廊下の端から見ていた。その心は、不安と百合子への恐怖に支配されていた。

 紗弥子は震える足で静かに立ち上がると、雑巾を入れた桶を持ち上げ、屋敷の反対側にある廊下へと移動した。



* * *



 紗弥子は、長い廊下の拭き掃除をしていた。そこへ、静かな足音と衣擦れの音が近づいてくる。

 紗弥子の心臓が嫌な音を立て、雑巾で床を磨く手が、わずかに震える。


「御機嫌よう、紗弥子さん……今日も変わらず励んでらっしゃるのね」


 静かな回廊に、愛らしい声が響いた。

 視界に揺れる薄黄色の振袖に、紗弥子は顔を上げられなかった。

 動かない紗弥子の様子に少し沈黙した百合子は、辺りに人がいないことを確認すると、紗弥子の傍らにある桶を蹴ってひっくり返した。

 塵が溶けて濁った水が紗弥子の膝を濡らし、廊下に広がっていく。


「まぁ、汚い……ごめんなさいね。わざとじゃありませんのよ」


 紗弥子が文句も言わず必死に床を拭く姿を見て、百合子が笑う。

 だが、俯いたまま反応もせず、黙々と床を拭く紗弥子に興味を失くしたように、百合子は表情を消した。


「……精々、励んでくださいましね」


 足音と、衣擦れの音が遠ざかっていく。

 百合子がいなくなった廊下で、紗弥子は安堵の表情を浮かべ、ため息を吐いた。

 その澄んだ瞳から、涙が一粒零れ落ちた。



* * *



 部屋で書を読んでいた真孝の耳に、小さなノックの音と愛らしい声が届く。


「真孝お兄様……お忙しいですか?」


 真孝が扉を少し開けると、小首を傾げて覗き込む百合子の姿があった。


「今日は、どうかしたのか? ……母上は……」

「お母様は、ご用事があるとお出かけに……」


 そう言いながら、部屋へと入ろうとする百合子を遮るように、真孝は部屋の外へ出た。


「百合子は、お部屋に入ってはいけませんか?」


 大きな瞳で見上げてくる百合子の頭に手をそっと置くと、真孝が微かに微笑む。


「百合子も、もう十七だろう。男の部屋を軽々しく訪ねるものではない」


 真孝の言葉に、百合子は愛らしい頰をわずかに膨らませる。その様子を見て薄く笑った真孝に、百合子の白い頬が薄紅に染まった。

 真孝は、穏やかな眼差しで百合子を見つめる。


「百合子……女中たちから聞いたが、紗弥子さんのことを、気にかけてくれているようだな」


「ありがとう。これからもよろしく頼む」と微笑んだ真孝に、百合子の表情が一瞬固まった。

 だが、すぐに可憐な微笑みを浮かべる。


「そんな、当然のことですわ……百合子は、紗弥子さんがあまりにお可哀想で……」と眉を下げた。


「……真孝お兄様は、紗弥子さんと……親しいのですか?」


 囁くような百合子の問い掛けに、真孝の瞳が揺れる。百合子は、その揺らぎを見逃さなかった。


「いや……彼女が、気の毒でならなくて……」

「……そうですか……真孝お兄様は、本当にお優しいのですね」


 百合子が普段と変わらぬ、愛らしい微笑みを浮かべる。


(女中の分際で……よくも、百合子の真孝お兄様に……)


 その可憐な微笑みの裏で、紗弥子に向けられる歪んだ感情は、更に燃え上がっていた。



* * *



 廊下の拭き掃除がやっと終わる頃、紗弥子の背後から近付く影があった。


(あの黒い髪も、本当に目障りだわ……)


 百合子は冷たい光を宿す瞳で、黙々と拭き掃除をする紗弥子の後ろ姿を見つめていた。

 音もなく背後から近付くと、編まれた黒髪の襟足近くに左手を伸ばす。


 「痛い……っ!」と髪を掴まれた紗弥子が声を上げた。


「床掃除をなさるとき、髪が長くて邪魔でしょう?」


 震えながら振り返った紗弥子の瞳に、百合子の姿が映る。いつも可憐に微笑んでいる花のようなかんばせに、表情はなかった。


「女中のあなたには、髪を整える者もいないでしょうから、わたくしが整えて差し上げるわ」と薄く笑う百合子。

 薄黄色の懐から取り出されたのは、漆黒の花鋏はなばさみ

 紗弥子の黒曜石の瞳が、恐怖に見開かれる。


 思わず、「嫌っ……」と口にしてしまった紗弥子の髪を、百合子は更に強く掴み上げた。その痛みに、紗弥子が小さく呻く。


「わたくしに向かって……何ですって? 『百合子お嬢様、どうかおやめください』……の間違いでしょう?」と百合子が笑う。


 紗弥子が「……百合子お嬢様、どうか、おやめください……」と震えながら口にすると、百合子は髪を掴んだまま楽しげに笑う。

 紗弥子の黒曜石の瞳は、恐怖に濡れていた。


(……まさか、百合子お嬢様が、あんな……)


 その様子を、中々戻らない紗弥子を心配してやってきたお正が見ていた。だが、伯爵令嬢の百合子相手に女中が逆らえるわけもなく、廊下の陰から震えて見ていることしかできなかった。


「百合子お嬢様、おやめください……」


 紗弥子が震える声で懇願しても、百合子は髪を掴んだ手を放そうとはしなかった。そのまま、開いた花鋏を編まれた髪の根元へと近づける。


(私の、髪が……)


 恐怖と絶望に染まった紗弥子の瞳に涙が滲む。

 そのときだった。

 紗弥子を守るように、白い手が伸ばされる──


「──っ……」

「葉月様……!?」


 弾かれた花鋏が床に転がり、百合子の小さな悲鳴が上がる。

 花鋏から紗弥子を守ったのは、葉月の手だった。その白い指先は、赤く染まっている。


(葉月様、どうして……)


 葉月を見つめる紗弥子の瞳が揺らぐ。


「葉月…お兄様……」


 狼狽える百合子に、葉月が鋭い視線を向ける。


「君は、彼女にいつもこんなことをしていたの?」

「ち、違います。わたくしは……!」


 そのとき、お正が、「葉月様、お怪我を!」と叫び、真っ青になった百合子は急ぎ足でその場を去る。


「紗弥子さん……」


 床に座り込んだまま、ぽろぽろと涙を零し始めた紗弥子の肩に、跪いた葉月の左手がそっと触れる。

 紗弥子の涙を見つめる青灰色の瞳は、心配そうに揺れていた。


「葉月様、すぐにお手当てを……」

「僕は大丈夫だから……紗弥子さんを頼むよ」


 お正にそう言い残すと、葉月は静かに去っていく。


(紗弥子さんの様子が変わったのは、やはり百合子が……)


 白いその拳は、強く握られていた。




* * *

 


 その日の夕刻。


「──ねぇ、聞いた……?」


 廊下を進む真孝の耳に、女中たちの囁き声が届く。


「百合子お嬢様が、紗弥子お嬢さんの髪を切ろうとしたとか……葉月様が庇われたんですって」

「まさか、あの百合子お嬢様が……何かの間違いでしょう」


 馬鹿げた噂話だと笑い飛ばす女中たちの声に、真孝は足を止めた。


──『百合子は、紗弥子さんがあまりにお可哀想で……』


 真孝の脳裏に、可憐な顔を曇らせる百合子の姿が浮かぶ。


(虫も殺せぬ百合子が、まさか……何かの誤解だろう……)


 そう自分に言い聞かせるように、真孝は廊下の奥へと歩を進めた。

 けれども、その胸の奥には拭えぬ違和感が小さく燻り続けていた。


 ──少し前から感じていた、時折目にする紗弥子の怯えた眼差し。


 ──頻繁に屋敷を訪れるようになった百合子。


 その断片が、繋がらぬまま真孝の胸を重くする。


(葉月に確認を……)


 立ち止まった彼は、深く息を吸い、吐き出した。

 そして、僅かに首を振る。


(……いや、今はやめよう)


 そう心に言い聞かせると、自室へと足を向けた。


(百合子のことは、きっと、何かの間違いだ……)


 真孝は、百合子が赤子の頃からずっとその姿を見てきた。

 幼い頃、葉月と三人で庭を駆け、かくれんぼをして遊んだ思い出が鮮やかに蘇る。小さな彼女はいつも、一人では隠れずに真孝の傍を離れなかった。

 愛らしく無邪気なその笑顔は、今も変わらぬままで……。

 真孝は、五つ年下の百合子を、実の妹のように想っていた。


 だが、それよりも、彼の心に浮かぶのは──


(紗弥子さん……)


 慣れない女中の仕事に励む健気な姿と、憂いを帯びた黒曜石の瞳が浮かぶ。

 本来は、“妹”になるはずだった少女。だが、気付けば、彼女の姿を無意識に探すようになり、目に入ればその姿を追ってしまう。


 ──初めて会ったあの日、残酷な現実を突きつけられても、気丈に向き合おうとする姿と、夕映えの中で花のように微笑んだ彼女の姿が、真孝の胸に焼き付いて消えなかった。


(──彼女のことは、私が守らなくては……)


 決意を胸に刻んだ瞬間、ふと窓の外に目がいった。

 西の空はすでに夕暮れの名残を失い、薄闇が廊下を静かに満たしていく。

 格子窓から射し込むかすかな光が、床の上に細長い影を落とし、しんとした空気が屋敷を包み込んでいた。

 真孝はゆっくりと歩を進め、胸に残るざらつく違和感を抱えたまま、自室へと戻っていった。




* * * * *




秋の章『紅葉(こうよう)きざはし



 六角邸の庭を渡る風が、夏よりもひんやりと冷たさを増した頃──。


 書庫で本を整理していた紗弥子の背後から、柔らかな声が響いた。


「……紗弥子さん」


 振り返ると、亜麻色の髪を秋の光に透かした葉月が、数冊の本を抱えて立っていた。


「紅葉が、とても綺麗に色づいています。少し……庭を歩きませんか」


 その声音は、どこか遠慮がちで、けれど温かさを含んでいた。


 二人は、紅葉の絨毯を踏みしめながら並んで歩く。風に揺れる枝から、ひとひらの赤が舞い落ちた。

 ふと足を止めた紗弥子の肩に、それがそっと触れる。


「……あ」


 思わず声を漏らした紗弥子の肩に伸ばされた指先が、紅葉を静かに払い落とした。近すぎる距離に、胸がわずかに熱を帯びる。


「秋の庭は、静かで好きです……本を読むときに、誰にも邪魔されないから……」

「……わたくし、ここに来てから、四季をゆっくり感じる余裕がなくて……」


 紗弥子が吐息まじりに零した言葉に、葉月が柔らかく笑んだ。


「今は、感じていますよ。……こうして」


 翡翠の瞳が紗弥子を映し、開かれた白い手のひらには、紅い葉が乗っている。

 優しいその眼差しに、胸の奥の不安が少しずつ溶けていくのを、彼女は確かに感じた。


「また本をお貸しします。……返すのは、いつでも良いですから」

「葉月様……ありがとうございます」


 約束の言葉が交わされた瞬間、紅葉の葉が風に散り、二人の間にひらひらと舞い落ちた。



* * *



 その日も、百合子は六角邸を訪れていた。

 けれど珍しいことに、紗弥子に声を掛けてくることはなく、侯爵夫人の部屋に顔を出したり、真孝の近くに控えて談笑している姿が目に映った。

 女中たちの間では「やっぱり仲睦まじいこと」と微笑ましく囁かれる一方で、紗弥子は胸の奥に小さな棘のような違和感を覚える。


 ──いつもなら、必ず言葉を掛けてくる百合子お嬢様が、どうして今日は何も言ってこないのだろう。


 けれど、束の間でも心穏やかに過ごせるのは、彼女にとって思いのほか嬉しいことでもあった。



* * *



 昼下がりの六角邸──

 二階の階段付近を掃除していた紗弥子。

 二階から階段に続く白木の手摺に雑巾を沿わせ、磨き上げようと足を踏み出したその刹那──視界の端を、紅い影がふわりと掠めた。

 振袖の裾のような……見間違いだろうか。そう思う間もなく、背を何かに押され、手元が僅かに滑った。


「──っ!」


 階段の上で重心が崩れ、体が宙に投げ出される。ふいに床が遠ざかり、喉の奥で息が凍りつく。


「紗弥子さんっ!」


 その叫びが、遠くから、けれどはっきりと耳を打った。


 一階のホールから紗弥子を見上げていた真孝だった。彼の瞳に映ったのは、白い前掛けを翻しながら落下してくる華奢な少女の姿。

 間に合わなければ──その恐怖が全身を貫く。


(……間に合え!)


 咄嗟に全力で階段を駆け上がる。踏みしめた靴音がホールに響き渡り、真孝は必死に腕を伸ばす。

 重い時間の中、ようやく掴んだのは、冷たく震える紗弥子の手。

 そのまま細い体を胸に抱き込むと、互いの体温が一瞬だけ確かに触れ合った。


 しかし──次の瞬間、二人の体は階段の中腹から転げ落ちていった。


 硬い段差が背に当たる衝撃、絨毯を擦る音、紗弥子を庇おうと体を捻る真孝の息遣い。

 女中たちの悲鳴が、ホールから二階にかけて響き渡る。


 やがて、ごうん、と重い音を立てて二人はホールに倒れ込んだ。

 真孝の腕に抱かれたままの紗弥子は、胸の上で瞼を閉じ、力なく彼に身を預けていた。


「紗弥子さん……っ!」


 全身を襲う痛みに堪えながらも、真孝は何度も呼び掛けた。

 その腕は、温もりを確かめるように、気を失った紗弥子を抱き締めていた──



* * *



「何ですって!? 真孝さんが──!?」


 女中から報告を聞いた瞬間、芙佐子は蒼ざめた顔で部屋を飛び出した。青い着物の裾が翻り、乱れた息のまま、勢いよく扉を開け放つ。


「母上……」


 寝台の上に起き上がった真孝が、静かに彼女を見やった。額には白い包帯が巻かれ、頬にかすかな擦過傷が残っている。その姿を目にした途端、芙佐子の瞳に涙が浮かんだ。


「真孝さん、大丈夫なの?! どうして、こんな……」


 声が震え、細い肩が小刻みに揺れる。普段は冷静な彼女の狼狽に、部屋にいた使用人たちも言葉を失った。


 その時、控えめなノックの音が響く。


「真孝様……紗弥子お嬢さんが、お目覚めになりました」

「そうか……」


 翳っていた真孝の瞳に、光が差す。


「彼女は、大事ないか」

「はい。お医者様も問題ないと」

「そうか……良かった……」


 安堵と同時に、かすかな微笑が彼の唇に浮かぶ。その表情を芙佐子が見逃すはずもなかった。


「……紗弥子さんが、どうかしたの?」


 芙佐子の声音は、先ほどまでの母の動揺ではなく、冷たい刃を含んでいた。真孝は答えに詰まり、視線を伏せる。

 沈黙を破ったのは、若い使用人の声だった。


「階段から落ちた紗弥子お嬢さんを、真孝様がお庇いになって……」

「何ですって……?」


 芙佐子の切れ長の瞳が鋭く揺らぎ、その奥底に氷のような光が宿る。室内の空気が一瞬にして張り詰めた。


「……丁度近くにいたのです」


 真孝は母親の顔色を窺いながら、静かに言葉を紡ぐ。


「私はこの通り、平気ですから」

「どこが平気なの!? 怪我をしているじゃないの!」


 芙佐子は叫ぶように吐き捨てると、唇を噛み、拳を握り締めて踵を返す。長い裾を乱しながら部屋を出ていった。


 扉が閉まると、静寂だけが残った。真孝は深く息を吐き、視線を伏せる。


「……悪いが、時間のある時に紗弥子さんの様子を見てやってくれ。……その、また怪我でもしたら大変だから」


 押し殺すような声音に、若い使用人は力強く頷いた。



* * *



「そんな、真孝お兄様が、お怪我を……?!」


 庭の回廊を散策していたという百合子の桜色の唇が、わなわなと震える。その頬には、冷たい風に当たったせいか、うっすら赤みが差していた。


「でも、真孝様、素敵よねぇ……身をていして庇ってくださるなんて……」

「だって、紗弥子さんは生まれながらのお嬢様だし……何より美人だもの」

「私たちじゃあ、守ってもらえないわよね!」


 「でも、真孝様がご無事で良かったわ」と笑い合う女中たちに、百合子は一瞬だけ張り付いたような笑顔を浮かべた。


(……わたくしは庭にいた。誰も私だとは疑わない──でも……)


 くるりと踵を返すと、焦茶の長い髪と深紅の振袖が閃く。


 ──百合子の脳裏に、幼い頃から兄のように、そして特別な男性として慕ってきた凛々しい姿が浮かぶ。


(……許さない……)


 大きな瞳に宿った憎悪が、陽射しに紅を宿した。



* * *



 紗弥子と真孝が階段から落ちて二週間が経った。

 紗弥子の体の痛みはようやく和らぎ、軽い仕事なら任されるようになっていた。

 その日は庭の落ち葉掃きをしていたが、腰を屈めた拍子に激痛が走り、小さく息をついた。


「大丈夫か?」


 背後から低く優しい声がして、振り返ると真孝が立っていた。黒い瞳が心配そうに揺れている。

 彼は紗弥子の手から竹箒を取り上げ、代わりに握った。


「まだ無理をするな。……休むのも、務めのうちだ」

「……でも、皆さまのお役に立ちたくて……」


 伏せた黒曜石の瞳に影が落ちる。そんな紗弥子の細い肩へ、真孝は脱いだ上着をそっと掛けた。


 ──暖かい……。


 真孝がよく纏っている黒の詰襟は、紗弥子が羽織るととても大きかった。だが、秋風に冷えた体が、彼の温もりに包まれるように暖まっていく。

 ほのかに漂う彼の香りに包まれ、紗弥子の雪のような肌が、ほんのりと紅く染まる。


「……真孝様が、お寒いでしょう」


 見上げた黒曜石の瞳。わずかに紅く色付いた目尻は、寒さのせいか、それとも──


「私は、貴女より頑丈にできている」


 微かに微笑んで大真面目にそう言った真孝に、紗弥子が声を上げて笑う。花の咲いた様な笑顔に、真孝が眩しげに目を細めた。


「……貴女がここにいてくれるだけで、十分だ」


 短い言葉なのに、紗弥子の胸の奥が熱くなる。思わず顔を上げ、二人の視線が交わった。

 その黒い瞳の真剣さに、頬が紅に染まる。


「紗弥子さん……」

「……真孝様……」


 返した呼びかけは、風に溶けるほど小さかった。


 その光景を、少し離れた植え込みの陰から百合子が見ていた。

 桜色の唇を噛み締め、胸の奥に黒い炎が燃え上がる。


(……真孝お兄様が、あの子に……)


 指先が震え、深紅の袖をきつく握りしめる。

 可憐と評されてきた少女の瞳に、柔らかな色は既になかった。


 その眼差しは、紅葉に宿る炎のように揺らめき──まだ言葉にならぬ憎悪を秘めていた。



* * *



 秋の陽はやわらかく、六角邸の庭を黄金色に染めていた。

 高い松の枝の上で、若い庭師が黙々と剪定を続けている。脚立の上で鋏を動かすたび、細かな松葉がさらさらと落ち、石畳に散らばった。


 その足元で竹箒を手にするのは紗弥子だった。落ち葉と混じる松葉を少しずつ丁寧に掃き集め、静かに息を整える。黒髪を束ねた白い首筋に、秋風がさらりと触れる。


(……やっぱり、紗弥子お嬢さんは、お綺麗だ……)


 庭師の胸がじんと熱くなる。

 伯爵令嬢としての気品を纏いながら、女中として健気に働く紗弥子の姿。どんな雑事にも真剣に向き合い、華奢な腕で箒を動かすその仕草ひとつが、胸を掴んで離さない。

 憧れとも恋慕ともつかぬ感情を胸に抱えたまま、彼は視線を逸らせなかった。


 そんな二人の光景を、少し離れた廊下の窓から百合子が覗いていた。

 桜色の唇に、わずかに笑みを浮かべる。


 ──『俺は、紗弥子お嬢さんだな……』


 百合子の脳裏に、庭師の言葉と声が思い出される。


(──あの庭師ひと……確か、紗弥子さんのこと……)


 庭師の眼差しと胸の内に潜む熱を見抜いた百合子の瞳が、妖しく光る。

 臙脂色の袖で口元を隠し、百合子の桜色の唇がゆるりと孤を描いた。


 風に舞う紅葉を瞳に映す、大きく愛らしい瞳。彼女の微笑みは可憐さではなく、どこか残酷な色を帯びていた。



* * *



 その日も、百合子は六角邸を訪れていた。

 臙脂色の振袖を纏い、可愛らしい足取りで庭を歩く彼女の大きな瞳に、松の剪定をしている若い庭師の男の姿が映っている。

 脚立に座り、黙々と松の剪定をする若い庭師にそっと近付くと、百合子が口を開く。


「そこのお方、少しよろしいかしら?」


 愛らしい声に呼び掛けられ、若い庭師の視線が百合子へと落ちる。


「これは……、百合子お嬢様、どうされましたか?」


 すぐに脚立を降りてきた若い庭師が、百合子に頭を下げる。


「あなたに、お伝えしたいことがあって……」


 百合子は庭師に近付くと、愛らしい声で囁く。


「実はね……紗弥子さん、あなたのことがお好きなんですって……誰にも知られないように、抱き締めてほしいって、おっしゃってたわ」


 薄く微笑む百合子の言葉に、「そんな、まさか……」と笑う若い庭師。だが、その日焼けした頬はほんのりと赤らんでいる。


「わたくし、紗弥子さんとは同い年で、仲良しなの。本当よ」


 百合子の甘い囁きに、前に、松の木の傍で掃き掃除をしていた紗弥子と目が合ったとき、彼女が優しく微笑んでくれたことを思い出す。


(紗弥子お嬢さんが、俺の事を……)


 「でも、このことは、絶対に秘密ね……紗弥子さんも、恥ずかしくて誰にも言えないって、おっしゃってたから……約束してくれる?」と愛らしく囁いた百合子。


 その言葉に喉を鳴らした若い庭師は、静かに頷いた。

 微笑む百合子の瞳の奥には、鋭い光が確かに灯っていた。



* * *



 六角邸の秋の庭は、落ち葉が多く、庭掃除にひどく手間がかかった。

 紗弥子は、いつものように竹箒の柄を握ると、せっせと落ち葉を掃く。

 紗弥子は、六角邸に来たばかりの温かな季節を思い出す。あの頃に比べて、随分と慣れた手付きになってきているのを自分でも実感していた。


(……風も冷たくなってきたわ……もうひと頑張りしましょう)


 だが、一心に箒を振るう紗弥子の背後に、忍び寄る影があった。

 紗弥子以外は誰もいなかったはずのその一角に、落ち葉を踏む乾いた音が響くが、地面を見つめながら懸命に落ち葉を掃いている紗弥子の耳には届かなかった。


 日焼けした逞しい腕が、紗弥子の背後から伸ばされる──


「──っ?!」


 背後から不意に抱き締められ、恐怖に紗弥子の体が硬直する。彼女は声も出せず、震えることしか出来なかった。


「紗弥子お嬢さん……来ましたよ」


 耳元に落とされた熱い声に、紗弥子の全身が凍りつく。


(誰なの……?!)


「紗弥子お嬢さん……俺も、紗弥子お嬢さんのことが──」

「は……放してください……」


 紗弥子から発されたか細い声に、男の腕が解ける。

 安堵した紗弥子が震えながらも振り返ろうとしたとき、再び男の腕が伸ばされた。


「な……おやめください! 何をなさるのですか!」

「だって、紗弥子お嬢さんが、抱き締めて欲しいって……」


 ──『……紗弥子さんも、恥ずかしくて誰にも言えないって、おっしゃってたから……』


 その甘い言葉を思い出した男は、紗弥子の華奢な体に手を伸ばす。

 再び腕の中に閉じ込められそうになった紗弥子が身を捩らせ、落ち葉に足を取られて後ろへと倒れ込んだ。

 紗弥子が必死に集めた落ち葉が舞い、あたりが紅に染まる。紗弥子の白い肌と漆黒の髪が一層際立ち、それを見下ろす眼差しが変わるのを紗弥子は感じた。

 まるで押し倒されたかのような体勢のまま、身動きも取れぬ紗弥子の顔が恐怖に引き攣る。


「紗弥子お嬢さん……恥ずかしがらなくても良いんですよ」

「嫌……誰か……」


 ──紗弥子の脳裏に、真っ直ぐな黒い瞳と、柔らかな青灰の眼差しが思い出される。


 だが、恐怖に震える喉は声を紡ぐことができなかった。

 

(助けて……)


 覆い被さってくる影に、紗弥子はきつく瞼を閉じて顔を逸らした。その目尻から涙が零れ落ちる。


 その瞬間だった、どこからか駆けてくるような乾いた音と共に、押さえつけられていた紗弥子の体がふっと軽くなる。それと同時に、近くで鈍い音と男の呻き声が聞こえた。

 肩を包むように回された温もりに抱き起こされ、紗弥子は震える瞼を開く。


「紗弥子さん、無事か?」

「真孝様……」


 揺れる黒い瞳が紗弥子を見つめていた。安堵した紗弥子の瞳から、涙が幾つも零れ落ちる。その白い目尻は、紅く染まっていた。

 震える紗弥子の肩を抱いたまま、真孝が木の根元で倒れ込んでいる男に怒号を浴びせる。


「──貴様、どういうつもりだ!?」

「ま、真孝様……違うのです。これは、紗弥子お嬢さんが望まれたことで──」

「何だと?!」


 驚愕に目を見開いた紗弥子が震えながら何度も首を振る。真孝が駆けつけてもその体を震わせている紗弥子に、彼の黒い瞳が苦しげに揺らぐ。


「ふざけたことを! 彼女がそんなことを望むはずがない!」

「だって、百合子お嬢様が確かに──」


(百合子だと……?!)


 言葉を失った真孝。

 真孝の腕に支えられていた紗弥子が、ぶるぶると震え出す。


(──紗弥子さん……?)


「紗弥子さん……大丈夫か?」


 真孝が、紗弥子の顔を覗き込む。


「俺は、百合子お嬢様から聞いたんです! 紗弥子お嬢さんも、俺のことを好きで……その、誰にも知られないように抱いて欲しいと──」

「な……」


 声を詰まらせた真孝。その腕の中で紗弥子の首がぐらりと揺れた。白い瞼は閉じられ、力を失った身体が真孝の胸へ崩れ落ちるように倒れ込む。


「紗弥子さん……!」


 腕の中で気を失った紗弥子を、真孝の腕が支える。だが、真孝の腕は震えていた。


(彼女が、紗弥子さんを……)


 脳裏に浮かぶのは、まだあどけなさの残る、愛らしく微笑む幼馴染の姿──


 その時、真孝の背後から落ち葉を踏む音が響く。


「……兄様」

「葉月……!」

「立花を呼んである……紗弥子さんを、休ませてあげよう」


 いつからいたのか、真孝の背後には葉月が立っていた。

 その後ろから立花と他の使用人の男たちが姿を現し、庭師の男を取り囲む。


「──違うんです! 確かに、百合子お嬢様から聞いたんだ! 紗弥子お嬢さんも俺のことを──」

「いいから立て!」と怒鳴りつけられた若い庭師は、使用人の男たちに羽交い締めにされ、連れて行かれた。


「紗弥子お嬢さん……!!」


 紅葉が舞い散る中、庭師の叫ぶ声が庭に響き渡る。

 使用人たちに引き摺られるように歩く庭師の背中を見送りながら、真孝の黒い瞳は揺らいでいた。

 だが、紗弥子の華奢な体を守るように抱くその腕は強く、決して離すまいとするかのようだった。



* * *



 女中部屋の布団に、気を失って眠る紗弥子を横たえ、毛布を掛けたあと──


 真孝と葉月は、扉を静かに閉じて少し離れた廊下に並んで立っていた。

 眠る紗弥子には、お正が付き添ってくれている。


 夜の灯りが淡く揺れ、冷たい風が硝子窓の隙間から僅かに忍び込む。

 二人の間に、言葉を探すような沈黙が落ちた。


「……兄様」


 先に口を開いたのは葉月だった。


「紗弥子さんのことなら大丈夫だ。……きっと、すぐに目を覚ますよ」


 気遣う声音に、真孝は唇を強く噛む。


「俺は……百合子の名を聞いて愕然とした。まさか、あの子が紗弥子さんに……」

「僕は、前から気付いていたよ」


 葉月の青灰の瞳は、動じた色を見せなかった。


「百合子と紗弥子さんの様子が、どこかおかしいと……兄様は、気付いていなかったの?」


 葉月の問いに、真孝は低く息を吐く。


「……あの日、女中の噂を耳にした。『葉月が紗弥子さんを庇って、怪我をした』と。すぐにお前に相談すべきだった……それをしなかったことを、今も悔いている……」


 苦悩を滲ませる兄の言葉に、葉月は一瞬瞼を伏せ、そして静かに告げた。


「今回、守れなかったことは僕も後悔しているよ。……でも、これからは守りたいと思ってる」


 葉月の真っ直ぐな声音が廊下に落ちる。

 真孝は瞳を揺らし、やがて短く応じた。


「……私も、同じ想いだ」


 真孝の手は、きつく握り締められている。その手には、彼女を守りたい想いと同じだけの戸惑いが滲んでいた。


 ふたりはしばし無言のまま、閉ざされた扉を見つめていた。


 その静かな時間の底で──

 これまで一度も争ったことのなかった兄弟の間に、ひとりの少女を巡る火種が、静かに芽吹いていた。


 廊下の灯りが揺らぎ、夜風がひそやかに紅葉を運んでゆく。


 ふと、夜の庭に一陣の風が吹き、紅葉が硝子越しにひらひらと二人の間を舞い落ちる。

 その鮮烈な赤は、静かに忍び寄る狂気を予告しているかのようだった。




* * * * *




冬の章『雪灯ゆきあかりの残響』



 六角邸に、冬が訪れた。屋敷はまるで眠るかのように、雪化粧を纏っていた──


 冬を迎えた六角邸は、静かだった。

 夏から秋にかけて頻繁に訪れていた百合子の姿は見えない。


 芙佐子は、あの日のことを思い返していた。



* * *



 まだ雪の降る前、肌寒さが冬の始まりを告げていた日のこと。

 応接間には、泣きじゃくる百合子と、冷ややかな眼差しで彼女を見据える真孝の姿があった。


「違うのです! 真孝お兄様、信じて……! 百合子は、決してそんなこと……」

「──“そんなこと”とは、どういう意味だ」


 真孝の声は氷のように冴えていた。大きな瞳を潤ませた百合子の桜色の唇が、震えながら噛み締められる。


「百合子は、紗弥子さんには何もしていません! あの庭師が勝手にしたことでしょう!!」


 喚くように叫ぶ百合子を、冴え冴えとした瞳が射抜く。


「どうして、そのことを知っている」

「え……?」


 呆然と顔を上げた百合子を、真孝の声が冷たく突き刺す。


「“庭師”と言ったな……あの不祥事を知るのは、屋敷のごく一部のみ。口外すれば即刻辞めてもらうと、私が箝口令を敷いた。……誰から聞いた」


 問い詰められた百合子は、涙を零し続けるばかりだった。


「……彼女の髪も、切ろうとしたそうだな」


 その言葉に、百合子は弾かれたように顔を上げる。


「ご、誤解なのです……真孝お兄様。百合子は、本当に髪を整えて差し上げようとしただけで……」

「床掃除の最中にか」


 突きつけられた言葉に、百合子は顔をくしゃくしゃにして泣き出す。


「今日限りで、この屋敷には来ないでもらいたい……二度と顔も見せるな」

「真孝お兄様……!」


 呆然と見つめる百合子に、真孝は背を向ける。


「──だって! 女中の分際で、百合子の大切な真孝お兄様を……!」

「私はお前のものではないし、兄になった覚えもない。……それに、彼女を侮辱することは許さない。今後、彼女に何かしたら、西園寺を潰す。……二度と顔を見せるな」


 冷たく言い放ち、真孝が応接室の戸を開けたその先に、芙佐子が立っていた。


「真孝さん、これは一体……」

「母上……」


 真孝は視線を伏せ、淡々と口を開く。


「あれは、六角家に害をなす存在です。早く西園寺に連絡を……引き取ってもらってください」

「な、なんてことを……百合子さんに……」


 芙佐子は泣き崩れる百合子を抱き締めるが、百合子は声を上げて泣き続ける。

 やがて駆けつけた西園寺家の者に連れられて、百合子は屋敷を後にした。


 その後、彼女が六角邸を訪れることはなかった。


(……あの時、百合子さんは、“紗弥子”と言っていたわ)


 可愛がっていた百合子が来なくなったことを残念に思いながらも、芙佐子の心は次第に紗弥子へと傾いていく。


(母親に似て、清楚な顔で男をたぶらかすのだけは得意なんだから……真孝さんも、あの子のせいで怪我を……)


 階段から落ち、包帯を巻いた息子の姿が脳裏に蘇る。


(まさか、真孝さんは……紗弥子さんを……?)


「それは駄目……絶対に……」


 芙佐子は思わず呟いていた。

 詩津子に瓜二つの紗弥子。あの女に、大切な息子を奪われるなど、決してあってはならない……。


 芙佐子の瞳に、紗弥子への憎悪の炎が燃え始めていた。



* * * 



 その日から、芙佐子による紗弥子への嫌がらせが始まった。

 この寒い時期に、外に面した回廊で拭き掃除をさせるのはもちろんのこと、早朝から日が沈むまで休みなく働かせた。元々多くはなかった食事も、使用人にきつく命じて、紗弥子の分だけを減らし、湯を使うことも禁じた。


 それを知った一部の使用人たちが、生意気にも口ごたえをしてきたが、主に逆らった罰として折檻すると、紗弥子がやってきて、泣きながら許しを請うた。紗弥子を庇うものが一人出るごとに、紗弥子を折檻すると伝えると、楯突く者はいなくなった。


 そして、養う家族のいる使用人には、「解雇」という言葉を出して、黙らせた。

 六角家を敵に回せば、どこにも勤め口はない。皆、可哀想な紗弥子よりも、家族を選ぶ他なかった。


(風邪でも拗らせて、さっさと逝ってしまえば良いんだわ……)


 雪の積もる回廊を掃除している紗弥子の様子を窓から眺めながら、芙佐子は薄く笑っていた。



* * *



 真孝と葉月の二人は、一週間前から侯爵である父の代理として、遠方で開かれた高位貴族の会合に参加していた。葉月も同行するように言われたのは、初めてのことだった。葉月は同行を遠慮したが、芙佐子は許さなかった。 


 夕刻、屋敷に戻った二人を迎えたのは、お梅とお正だった。一週間ぶりに見た二人は、顔や頭に傷を負っていた。


「真孝様、葉月様! 助けてください! 紗弥子お嬢さんが、死んでしまいます!」

「一体、何があったんだ!」


 真孝は声を荒らげた。涙ぐむ二人に案内されて、葉月と共に北側の回廊へ駆ける。


 そこで目にしたのは──


「紗弥子さん……!」


 雪の降る中、一人で外に面した回廊の床を磨く紗弥子の姿に、二人は立ち尽くした。

 白く美しかった手は傷だらけで赤く腫れ、元より華奢だった体は更に細くなっていた。


 人の気配に気付いた紗弥子が顔を上げる。たった一週間しか経っていないというのに、美しかったその顔はひどくやつれ、生気を失くしていた。

 紗弥子は小さく口を開いたが、その声は誰にも聞こえなかった。彼女は二人を見て安堵の表情を浮かべると、雪の積もる回廊に、力なく倒れた。



* * *



 直ちに真孝に運ばれた紗弥子は、暖かな真孝の部屋の寝台に寝かされた。

 すぐに医者に見せたところ、過労と栄養失調、低体温症で衰弱死するところだったと告げられ、皆言葉を失った。


 痩せ細り、人形のように力なく横たわる紗弥子の姿に、葉月が跪いて涙をはらはらと零す。


「僕が、ここに残っていれば……」

「違う、私のせいだ……。まさか母上が、これほどのことをするとは……」


 真孝は端正な顔を苦しげに歪めた。

 紗弥子を診た医者が帰った後、真孝の部屋に家令の立花が来て、泣きながら土下座したのだ。


 芙佐子のあまりの所業に危機感を覚えた立花はすぐに抗議したが、家族を盾にされてそれ以上は何も出来なかったと、彼は泣きながら頭を地に着けた。その後も、芙佐子の指示に従ったという使用人たちが何人も謝罪に来た。


(母上……)

 

 真孝は、怒りと悲しみに震えていた。



* * * 



 ひと月ほどの療養の末、紗弥子はようやく歩けるまでに回復した。

 芙佐子が何度も真孝の部屋を訪れたが、彼は母を許さず、部屋に近付けようとはしなかった。


 夜の帳が下りた六角邸。

 紗弥子は隣室で静かに眠り、小さな照明の揺れる部屋で、真孝と葉月が向かい合っていた。


「……あの時、もし帰りが遅れていたら、紗弥子さんはもうここにいなかっただろう。私は彼女を妻に迎え、母上には……誰にも、二度と手出しはさせない。六角の名のもとで、正しく守り抜く……それだけが、私にできる責任だ」


 真孝の言葉に、葉月が首を振る。


「兄様……それではまた同じことが繰り返されるだけだ。この家にいる限り、母上の影は必ず彼女を追い詰める。……僕は、そんな檻に紗弥子さんを閉じ込めておくわけにはいかない」


「何だと……六角の家が、檻だと言うのか」


 眉を寄せた真孝に、葉月が静かに頷く。


「いくら立派な家であっても、彼女にとっては逃げ場のない牢獄だよ。……僕ならここから連れ出せる。僕の母の故郷へ行けば、誰も彼女を縛れはしない」


 葉月の言葉に真孝の瞳が見開かれ、低く声を絞る。


「……紗弥子さんを、私から奪う気か」

「僕は、紗弥子さんを救いたいんだ。兄様が彼女を想うのと同じくらい、僕も……彼女を守りたい」


 真孝はしばし沈黙したのち、押し殺すように告げた。


「……ならば、いずれ答えを出さねばならないな」


 二人の間に、決して埋まらぬ隔たりが生まれた。

 隣室の紗弥子の寝息だけが、二人の張り詰めた空気を和らげていた。



* * *

 


 出歩けるようになった紗弥子は、屋敷の庭を少しずつ歩くようになった。その傍らには、真孝か葉月の姿が必ずあった。

 その姿を、窓から見下ろす瞳があった。芙佐子である。


(紗弥子……あの子さえ、いなければ……)


 真孝も葉月も、寄り添うように紗弥子を案じる。

 母として声を掛けても、真孝には冷たく拒まれ、傍へ寄ることさえ許されない。

 そのたびに、胸の奥で燻っていた黒い炎が、大きく燃え上がっていった。


(正篤様を奪った詩津子……その娘までもが、今度は私から真孝を……)


 芙佐子の中で、過去と現実が、次第に溶け合っていった。



* * *



 その日の夜更け──

 紗弥子は、真孝に用意された寝室で静かに横たわっていた。寝台の上で柔らかな布団に包まれて微睡む。


(何の音かしら……)


 不意に、扉の外から衣擦れの音と、低い囁きが聞こえた。


「……詩津子……」


 その声に紗弥子は息を呑み、布団に潜ると体を震わせた。心臓が、早鐘を打つ。


(──!)


 布団を被った紗弥子の耳に、キィ……と扉が開かれる音が届く。暗闇の中で、呼吸と早くなる鼓動の音を押し殺すように、紗弥子は小さく体を丸めた。


 長い裾を引き摺るような衣擦れの音と、ひた……ひた……とゆっくり歩く音が次第に近づいてくる。

 紗弥子は、布団の中で震えることしかできなかった。


「……詩津子……」

「──母上! おやめください!」


 駆け付けた真孝が、芙佐子の腕を掴む。


「正篤様……!」


 芙佐子は狂おしい声を洩らすと、泣きながら真孝を見上げ、その胸に縋り付いた。

 真孝の黒い瞳が、見開かれる。


「母上、私は真孝です! しっかりなさってください!」


 真孝の必死な声に、芙佐子は「正篤様……」と笑った。


 芙佐子の様子がおかしくなり始めたのは、この晩からだった。



* * *



 数日が経ち、晴れた日の日中、雪が薄く積もる庭で、真孝に寄り添われて紗弥子が歩いていた。


 弱々しく歩く紗弥子の前に、突然現れた芙佐子が立ち塞がる。


「出て行きなさい! あなたがいるから……!」


 強く突き飛ばされた紗弥子を、咄嗟に真孝が庇った。

 ごつりと鈍い音が響き、石灯籠と白雪に、ぽたりと落ちた赤がじわりと滲む。起き上がった真孝の額からは、血が流れていた。


「真孝様!」


 青ざめる紗弥子の声。だが芙佐子は、血を流す息子を見て泣き叫んだ。


「正篤様! どうして詩津子を庇うのですか!」

「母上! 私は真孝です!」


 必死にそう訴える息子の声は、もはや芙佐子には届かなかった。


 芙佐子の震える指先が、真孝に庇われるようにうずくまる紗弥子を指す。


「……詩津子……また、私から奪うのね……」


 錯乱した芙佐子の様子に、紗弥子は恐怖で言葉を失った。


「奥様を早くお部屋へ!」


 そこへ駆け付けた立花と使用人たちが、芙佐子を取り押さえる。


 芙佐子は黒髪を振り乱し、泣き笑いの顔は狂気に歪んでいた。

 そして、「正篤様……わたくしは、正篤様と一緒に……」と譫言うわごとを繰り返した。


 使用人に連れられて屋敷へと戻る母の背中を見つめる真孝。その黒い瞳は激しく揺らいでいた。


「兄様……母上は、もう休ませて差し上げよう……」


 葉月が、静かに言葉を落とす。真孝は苦しげに瞼を伏せ、頷くしかなかった。


 芙佐子はその後、遠い避暑地にある六角家の別荘へ“養生”という名目で送られ、医師や使用人たちの監視の元、軟禁に近い生活を送ることになった。



* * *



 六角邸の庭に雪灯が灯る。


 淡い光の中で、紗弥子を守ろうとする兄弟の想いは、なお交わらぬまま深く隔たれていった。




* * * * *




終章『開かれた扉』



 六角邸に、桜が咲く季節がやってきた──


 春を迎えた六角邸の庭では、桜が満開に咲き、淡い色の花々が春風に揺れ、美しい屋敷に彩りを添えていた。

 屋敷では、使用人たちが笑い合い、皆が穏やかな日々を送っていた。


 すっかり元気を取り戻した紗弥子は、一年前にこの屋敷を訪れた頃のように美しい濃紅の振袖を纏っていた。柔らかな春風に桜の花びらがちらちらと舞い、紗弥子の黒髪を飾る紅のリボンがひらりと揺れる。艶やかな黒髪と白い肌に紅い色がよく映え、紗弥子の美しさを一層引き立てていた。


「紗弥子さん、ここにいたのか」

「真孝様……」


 振り返った紗弥子の微笑みに、真孝が目を細める。


「一人で出歩かないよう、言っていたはずだが」

「ここは六角邸の庭ですわ、真孝様」


 くすりと笑った紗弥子の手を取ると、真孝は真っ直ぐに見つめる。だが、その黒い瞳は、想いを少し抑えるかのように伏せられる。


「不安になるんだ……貴女に、もし何かあったらと思うと……」

「真孝様……」


 そよ風が二人を包み、淡い花びらが二人を包む。

 紗弥子は、もう六角家の侍女ではなくなった。今は、三条紗弥子として、元々彼女のために用意されていた部屋で寝起きし、何不自由ない生活を送らせてもらっていた。

 紗弥子の境遇を憂えてきた使用人たちは皆泣いて喜び、屋敷全体が優しい空気を纏うようになった。


「紗弥子さん……今日は、貴女に見せたいものがあって……後で、時間をもらえるだろうか」


 少し口籠りながらそう告げた真孝に、紗弥子は不思議そうな眼差しを向けるも、微笑んで真孝に寄り添った。紗弥子の様子に安堵した表情を浮かべた真孝が薄く微笑み、その背に手を添えて一緒に歩きだす。


(紗弥子さん……)


 その様子を、離れたところから葉月が見つめていた。青灰色の澄んだ瞳が、僅かに滲んでいる。


(もう、紗弥子さんは大丈夫だ……この屋敷で……きっと幸せになれるはず)


 兄と想い人が淡く微笑み合う横顔を見つめながら、葉月は苦しげに瞳を伏せた。その胸の内に湧き起こる切なさを押し込めながら、紗弥子の幸せそうな姿に微笑む。


「紗弥子さんが幸せなら、それで良い……」


 葉月は、そう自分に言い聞かせるように小さく呟くと、屋敷へと戻る。


「立花、出発を早めたいんだ……」

「葉月様……」


 立花からの、「いつが宜しいですか」との問いに、葉月は真っ直ぐに答える。


「今日、出たいんだ……すぐにでも」


 その言葉に、立花の瞳が揺れた。

 だが、葉月が生まれる前から六角家に仕えてきた彼は、一番この屋敷のことをよく知っていた。赤子の頃から冷遇されてきた葉月の孤独も、一人の少女を巡る、兄弟の静かな確執のことも……。


「かしこまりました。直ちに出発の手配をさせていただきます」


 僅かに瞳を滲ませた立花に、葉月は淡く微笑んだ。



* * *



「葉月、本当に行くのか」

「うん……前から、母さんの国を見てみたいと思ってたんだ」


 微笑んだ葉月に、真孝が表情を曇らせる。


「だが、あまりに急すぎる。……明日に……いや、もう少し先にしたらどうだ」

「兄様らしくないなぁ……」

「たった一人の弟がいなくなるんだ、淋しくなるのは当然だろう」


 そう返した真孝に、葉月が声を上げて笑う。


「……向こうについたら、手紙を送ってくれ」

「うん……ありがとう。兄様」


「葉月……」


 真孝は言いかけて口籠った。言えなかった。『紗弥子さんには、本当に告げずに行くのか……』と。 

 だが、芙佐子が六角邸から姿を消したこの屋敷で、日々彼女に寄り添うようになったのは、兄の真孝だった。この状況で彼女の名を出すことが酷なことは、当然真孝にもよく分かっていた。


(彼女に会うと、きっと辛くなる……まだ、こんなにも想っているから……)


 紗弥子がいるであろう六角邸を切なげに見上げると、葉月は真孝を真っ直ぐに見据える。


「兄様……紗弥子さんのこと、よろしく頼むよ」


「もし泣かせたら……僕が許さないからね」と笑った葉月に、真孝が強く頷く。その黒い瞳は、憂いを帯びていた。


「紗弥子さんのことは、必ず幸せにする」

「そうしてもらわないと、困るよ」


 そこへ、立花がやって来る。


「葉月様、馬車の支度が整いました。船の手配なども全て済ませてありますので……」

「ありがとう」


「兄様、立花、今まで本当にありがとう……皆にも、くれぐれもよろしく伝えておいて」


「それじゃあ、行ってくるよ」と微笑んだ葉月に、立花の瞳が潤む。


「葉月様、どうかお気を付けていってらっしゃいませ」

「葉月……いつでも、帰ってくるんだぞ」


 微笑んだ葉月が、馬車へ乗る。

 馬車から見える庭の景色に、一年前に始めて紗弥子と会ったときのことを思い出す。


(紗弥子さん……忘れないよ。ずっと……この想いは、胸の中に大切にしまっておくんだ……)


「紗弥子さん、どうか、幸せに……」


 葉月が囁くように呟いた言葉は、淡く溶けて消えた。


 桜の舞う中、葉月を乗せた馬車は春霞に紛れるように遠く消えていった。



* * *



(葉月様、行ってしまわれたのね……)


 紗弥子の揺れる瞳が、澄んだ薄青を纏う遠い空を見つめる。

 真孝から、葉月が六角邸を出て、葉月の母親の故郷である異国の地に旅立ったことを聞いた紗弥子は、桜に囲まれた庭でひとり佇んでいた。

 初めてこの屋敷を訪れたあの日から、月明かりのようにそっと見守ってくれた葉月を思い、胸の内でその幸せと旅の安全を祈る。


「紗弥子さん、待たせてすまない」


 僅かに硬さのある、低く落ち着いた声が響いた。

 桜の舞い散る中、黒い詰襟を纏った真孝が真っ直ぐに歩いてくる。


「真孝様……」

「紗弥子さん」


 舞い散る花びらの中、見上げてくる紗弥子の瞳を見つめ、真孝が紗弥子の手を取る。淡い花の香を纏う風が、二人を包みこんだ。


 長い沈黙ののち、彼が柔らかな声で言った。


「……紗弥子さん。あなたに出会い、守りたいと願ったあの日から、私の心は変わらない……。私は、貴女を愛しています」


 真っ直ぐな真孝の言葉に、見上げる紗弥子の瞳に涙が滲む。


「どうか……これからも私の傍にいてください。六角の名ではなく、ひとりの男として──貴女に生涯を捧げたい」


 紗弥子の瞳から涙が一粒零れ、それを掬うように淡い花びらが頬をかすめた。

 その薄紅の唇から、言葉は出なかった。ただ、彼女は幸せそうに淡く微笑み、真孝を見上げて静かに頷いた。


 その答えだけで十分だった。

 愛しげに瞳を揺らした真孝は、紗弥子を胸に抱き寄せ、その黒髪にそっと唇を寄せる。そして、溢れる想いを伝えるように、そっと額を合わせた。


「紗弥子さん、愛しています……」


わたくしも……真孝様を、お慕いしております……」


 囁くような紗弥子の甘い言葉に、真孝は愛しげに瞳を伏せると、そっと顔を寄せた。


 舞い散る桜の中で、淡く唇を重ねた二人の間に、甘い温もりが広がっていく。

 紗弥子は、胸の奥から溢れ出す安堵と幸福に包まれ、ただ真孝の腕の中で身を委ねた。


「……ありがとう、紗弥子さん」


 甘さを含んだ囁くような声に、彼女は涙を零し、小さく頷く。


 真孝は少し体を離すと、そっと懐から小さな桐箱を取り出した。


「……これを、貴女に贈りたい」


 彼の手によって開かれた箱には、深紅のビロードに包まれるように、白銀に煌めく指輪が収められていた。

 中央には、桜の花を映したような淡い紅を帯びた大粒の金剛石ピンクダイヤが輝いている。


「紗弥子さん、この指輪は貴女を想って選びました……どうか、私の変わらぬ想いとして、受け取ってほしい」


 真孝はその指輪を、紗弥子の左の薬指にそっと嵌めた。

 春光を受けた宝石は、花びらと同じ色を帯びて輝き、紗弥子の白い手に鮮やかに映える。


「真孝様……ありがとうございます……」


 声を震わせてそう告げた紗弥子の頬に、涙と笑みが同時にこぼれる。

 彼女は声にならない想いを瞳に託し、ただ真孝を見つめ返した。


「……紗弥子さん。これからは、共に未来を歩もう……」


 抱き寄せられた温もりに身を委ねながら、紗弥子は心の奥底から湧き上がる幸福を噛み締めた。



* * *



 ──その日を境に、六角邸では静かに紗弥子の嫁入りの準備が進められていった。


 立花をはじめとする使用人たちは、久しく見なかった主家の喜びに胸を躍らせ、屋敷の空気は明るく華やいでいった。

 お梅やお正の手によって、桜色の反物や、美しい友禅の打掛が次々と紗弥子のもとに運ばれる。使用人たちは皆、幸せそうな二人を微笑んで見守っていた。


 祝福に包まれた六角邸で、真孝は穏やかに微笑んだ。真孝の花嫁として歩む未来に、紗弥子はまだ夢のような心地で胸をいっぱいにしていた。



* * *



 六角邸に春風が吹き抜け、庭を彩る桜の花びらがひらひらと舞い落ちる。

 それはまるで、新しい門出を祝福するかのように、屋敷全体を淡く彩っていた。


 真孝の隣に並ぶたび、紗弥子は心の奥に温かな灯が灯るのを感じた。

 幾度となく涙に沈み、絶望に追い詰められた日々は遠ざかり──今は、春の光と共に幸せに満ちた未来が開けていく。


 寄り添う腕の温もりが、彼女に確かな安らぎと幸福を与えていた。


(もう、ひとりではないのね……)


 紗弥子は頬を桜色に染めながら、そっと微笑む。

 その微笑みを受け止めた真孝の瞳は、彼女への強い誓いを宿していた。


 二人の歩む道は──これからどんな困難に満ちていようとも、互いの想いがある限り、必ず乗り越えてゆける。


 紗弥子も真孝も、お互いにそう強く感じていた。

 淡い桜吹雪の中で、希望に満ちた新たな物語の扉が、静かに開かれていった──



― 終 ―


✧ 読んでくださった方へ ✧


この作品を読んでくださり、本当にありがとうございます。

初めて挑戦した短編ですが、楽しんで読んでいただけたら、とても嬉しいです。


この作品は、思いついてから三日間、夢中で書き上げた短編です。

熱量そのままに、切なくも美しい愛憎劇を描きました。


もし気に入っていただけたら、応援していただけると、とても励みになります。


星谷 明里



* * *



✦✧ 『六角邸恋奇譚・外伝』(短編)のご案内 ✧✦


本編では描けなかった、

兄弟と紗弥子の想いが交差する、危うい三角関係──秋のひと幕を描いた短い外伝です。


少しだけ切なく、ちょっとドキドキするようなお話になっています。

ご興味のある方は、ぜひこちらからどうぞ。


https://ncode.syosetu.com/n2428lb/


挿絵(By みてみん)

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