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第1話 目覚め

第一話です。よろしくお願いします。

 ――風が吹いていた。

 乾ききった砂塵を巻き上げるその風は、かつて人々の喧騒で満ちていた大通りを、音のない砂時計のように削り取っていった。


 天を突く塔は、もはや影だけを残していた。

 数百年の歳月を経てもなお、廃都エデンの中心にそびえるその巨塔は、崩れながらもなお空を目指し続けている。壁には無数の亀裂が走り、崩落した瓦礫は街全体を覆っていた。それでも塔は倒れなかった。まるで世界が滅びてもなお、この塔だけは人類の傲慢を告げる碑文のように、空へと突き立っている。


 瓦礫の影の中で、一人の青年が目を覚ました。

 名を――カイ。


 瞼を開けた瞬間、彼は息を呑んだ。頭上に広がるのは暗雲を切り裂く光の筋。そして、遠くそびえる塔。彼はその光景を知っているようで、知らない。心臓の奥に冷たいものが流れ込み、震えが走った。


 「……ここは……どこだ」


 自分の声がかすれている。長い間眠っていたような、あるいは生まれ落ちたばかりのような感覚。手を伸ばすと、掌には古びた布が巻かれていた。服も、装備も、どこか見知らぬもの。だが、それ以上に恐ろしいのは――記憶がないことだった。


 名前だけは浮かんでいた。

 ――カイ。

 それが自分の名であることに、なぜか疑いはなかった。だがそれ以上のものは何もない。過去も、家族も、故郷も。


 身体を起こすと、遠くから囁き声が聞こえた。


 「……el……ios……」

 「……lingua……perdita……」


 聞いたことのない言語。だが、耳に入った瞬間、意味が理解できた。

 「……エリオス……失われた言葉……」


 カイは目を見開いた。なぜだ。知らないはずの言葉が、理解できる。胸の奥で何かが疼いた。まるでこの廃都そのものが、自分に語りかけているように。


 廃墟の街を歩き出す。建物の壁には崩壊の跡が残り、石畳の道は砂に埋もれ、窓枠だけが骨のように残っている。かつてここに人が暮らしていたのは確かだ。だが、その気配はどこにもない。ただ、時折吹く風が、瓦礫を転がす音だけが響いている。


 空を仰ぐと、塔の先端が雲に隠れて見えなかった。

 「……エデン」

 口をついて出た言葉。自分でもなぜ知っているのか分からない。だが確信があった。この廃都の名は――エデン。


 しばらく歩くと、崩れた噴水広場に出た。中央の女神像は首を失い、両腕も折れていた。その足元に、奇妙な影が佇んでいた。


 ――人だ。


 いや、違う。

 背を丸め、両腕をだらりと垂らし、首を不自然に傾げた存在。衣服はぼろ切れで、肌は灰のように色を失っている。目が合った瞬間、カイは息を呑んだ。その瞳には光がない。


 「……lingua……perdita……」

 また、あの言葉だ。失われた言葉。


 だが今度は、カイは確かに理解できた。

 「……帰れぬ者……」


 その存在は、呻きながらカイに歩み寄ってくる。だが敵意は感じない。ただ、何かを訴えかけるように、口を開閉している。


 カイは恐怖よりも先に、言葉が理解できた驚きに囚われていた。

 「……お前の声が……分かる」


 灰色の存在は、一瞬だけ動きを止めた。目に光が宿ったように見えた。だが次の瞬間、どこからか鋭い声が響いた。


 「下がりなさい!」


 弓矢が飛んだ。

 灰色の存在の肩に突き刺さり、倒れる。


 カイが振り向くと、瓦礫の上に立つ影があった。

 ――少女。


 腰までの金の髪、深い緑の瞳。軽装の鎧をまとい、手には弓を握っている。その姿は、荒廃した廃都の中で異様なほど生き生きとして見えた。


 「あなた、どうしてここに……」


 少女は驚きの表情を浮かべ、弓を下ろした。

 名を――リシア。

 この出会いが、カイの運命を大きく変えてゆくことになる。

----

 リシアは弓を下ろしたまま、砂の舞う広場でカイを見つめた。その緑の瞳には、好奇心と警戒心が混ざり合い、廃都の荒涼とした景色と同化しているかのようだった。


 「……あなた、ここで何をしていたの? それに――誰?」


 カイは答えられなかった。自分でも知らないのだ。目の前の少女の言葉が届く前に、胸の奥に冷たい感覚が走った。記憶が、感情が、砂塵のように霧散している。


 「……カイ。僕の名前は……カイ」


 口に出した瞬間、自分の名前が確かに存在することを感じた。少女は少し首を傾げた。


 「カイ……ね。覚えているのはそれだけ?」


 「うん……それ以外は……何も」


 リシアはゆっくりと頷くと、周囲を見渡した。瓦礫に覆われた広場、折れた塔の一部、砂に埋もれた石畳――すべてが長い時の沈黙を語っていた。


 「ここは……エデン」

 リシアの声は低く、震えることなく、しかしどこか遠くを見据えていた。

 「かつて、人々が天を目指して塔を建てた都市。だけど……失敗した。神の怒りか、それとも人間の傲慢か。理由は誰にも分からない。でも……こうして廃墟だけが残った」


 カイは塔の方向を見上げる。頂は雲に隠れ、荒廃した壁には亀裂が走っている。光と影が入り混じり、あたかも塔自体が生きているかのように見えた。


 「……廃都……」

 カイの声は自然に零れた。

 「でも、あなたは……なぜここに?」


 リシアは一瞬、視線を落とした。手元の弓を握る指が少し緊張している。

 「私は……探検者だから。失われた王家の末裔として、この塔に眠る遺産を探している。廃都の中には、古の知識、技術、そして――言葉を失った者たちがいる。私はそれを確かめるためにここにいる」


 言葉の重さが、カイの胸にずっしりと沈み込んだ。

 「……言葉を失った者?」


 リシアはうなずいた。

 「そう。あの灰色の存在たち……人間だったのか、それとも何か別のものだったのか、誰にも分からない。だけど、彼らは廃都に囚われ、意思を伝えられないまま彷徨っているの」


 カイの頭の奥で、何かが疼いた。あの灰色の影――帰れぬ者――の声が、遠くの意識と結びついている気がした。

 「……僕、話せるみたいだ」


 リシアは驚きと警戒の入り混じった表情を見せた。

 「話せる……?」


 「灰色の者たちの言葉が……分かる。意味が、分かるんだ」


 その言葉を聞いたリシアは一歩前に出た。

 「……なるほど……それなら、あなたは――廃都に縁があるのかもしれない」


 風が二人の間を吹き抜け、砂塵が舞う。廃都は静まり返り、時折、遠くの瓦礫が転がる音だけが響く。塔の影は長く、冷たく、そしてどこか誘うように立ちはだかっていた。


 「……塔に行くの?」

 カイは問いかけた。


 リシアは深く頷いた。

 「もちろん。ここで何百年も眠り続けていた遺産を、探さなければならない。あなたも……ついてくる?」


 カイは一瞬迷った。だが、胸の奥に言いようのない衝動が走った。

 ――ここに答えがある。僕の名前、僕の過去、そして――廃都の秘密。


 「……うん、行く」


 リシアの瞳が一瞬、鋭く光った。

 「……わかった。でも、気をつけて。廃都はただの廃墟じゃない。あらゆるものが、時に敵に、時に試練に変わる」


 二人は瓦礫を踏みしめ、廃都の迷路を進み始めた。遠くの塔は依然として、冷たい光を放ちながら空を突き抜けている。


 砂塵の匂い、崩れた壁の陰影、折れた像や瓦礫――全てが、古代文明の傲慢と栄光の残滓を物語っていた。


 歩くたびに瓦礫が崩れ、足元の石が崩れ落ちる。風の音、遠くの石の転がる音、そして時折、耳元に囁くかすかな声――灰色の者たちの声なのか、それとも廃都自体のささやきか。


 カイはそれを聞き分けようとする。

 「……この声は……?」


 リシアは少しだけ微笑む。

 「分からない。廃都は生きているのかもしれない。塔も、街も、声を持っているのかも……」


 二人は言葉少なに歩き続ける。瓦礫に隠された小道、崩れた建物の間、古代文字の残る石碑――全てが過去を語りかけてくる。


 「……ここに、答えがある」

 カイの声は小さいが、確かな決意を帯びていた。


 リシアはうなずき、再び弓を握り直す。

 「なら、塔まで案内するわ。だけど、気を抜かないで」


 二人の影が、長く廃都の地面に伸びた。風は冷たく、砂塵が舞い、瓦礫の街は静かに二人を迎え入れた。

----

 二人は廃都の迷路のような通りを進んでいた。崩れた建物が連なり、瓦礫の山があちこちに積まれている。風が巻き上げる砂塵は目に染み、口元に触れるたびに喉を乾かした。


 カイは足元の石畳を慎重に踏みしめる。瓦礫の下には何が潜んでいるか分からない。時折、低く呻くような音が響き、影が揺れる。灰色の者たちの声か、それとも風の幻か――区別がつかなかった。


 「……ここ、本当に人が住んでいたの?」

 カイが呟く。


 リシアは肩越しに答える。

 「かつては栄えた都市よ。塔の周囲には広場や庭園、商店、住居が連なっていた。でも、全ては崩れ落ちて……今は砂と瓦礫だけ」


 その言葉通り、建物の残骸は無秩序に積まれ、天井や壁の一部が崩れていた。中には家具の残骸や古い書物が散乱し、紙の香りと埃の混ざった匂いが漂う。


 「……古代語の文字もある」

 カイは崩れた石碑に刻まれた不思議な文字を指でなぞる。文字の輪郭は擦り減り、ほとんど消えかけていたが、かすかに残る形から何かを感じ取れる。胸の奥に、見知らぬ記憶が呼び覚まされるような感覚が走った。


 「触れるな、危ない」

 リシアが手を伸ばすカイの腕を止める。

 「廃都の中には、古の罠や崩落の危険が残っている。気を抜くと瓦礫に潰されるか、迷い込んだまま戻れなくなるわ」


 二人は慎重に進む。瓦礫の山を越え、崩れた建物の中を抜けると、視界が開けた。そこにはかつての広場があったらしく、中央に円形の噴水の跡が残っている。だが水は枯れ、石の表面は苔と砂に覆われていた。


 「……静かすぎる」

 カイの言葉に、リシアもうなずく。

 「そう。ここに人の気配はない。だけど……声が聞こえるでしょ?」


 微かに、低く、空気の奥から囁き声が響いた。灰色の者たちの声。形は見えないが、意識の隅で確かに感じ取れる。


 「……僕には分かる。彼らは迷っている。帰る場所を失って……」


 リシアの表情が引き締まった。

 「だから、この廃都は危険なのよ。声に惑わされる者は、永遠に彷徨うことになる」


 その時、遠くで瓦礫が崩れる音がした。二人は瞬時に身を伏せる。影が砂塵の中で揺れ、低く唸る音が響いた。


 「……灰色の者?」

 カイが息をひそめる。


 リシアは弓を構えた。

 「わからない。でも、慎重に進むしかない」


 二人は互いに距離を保ちつつ、廃都の奥へと足を進める。瓦礫の道は迷路のように入り組み、天井が崩れかけた建物がトンネル状になっている。光は薄く、空は遠くの雲に隠れている。


 歩くたびに足元の砂が崩れ、小さな石が転がる。その音は、静寂を破る唯一の証だった。だが、二人の意識の奥では、もう一つの音が聞こえていた。


 ――低く、鈍い響き。


 カイの胸の奥に共鳴するように響くその音は、灰色の者たちの声とも、人間の声とも異なる。廃都そのものが語りかけているかのような感覚。


 「……塔は、あそこだ」

 リシアが指差す先、崩れたビルの間から、塔の頂が微かに光を反射して見えた。


 「僕……行く」

 カイは強く言い、砂塵の中を歩き出す。


 瓦礫の道は続き、崩れた建物の陰影が二人を包む。かつて人々が暮らした証、そして廃墟に取り残された過去の記憶――全てが、静かに二人を迎え入れる。


 歩くたびに、遠くで囁く声が強くなり、風に乗って耳元で響く。カイはそれを理解しようとする。灰色の者たちの苦悩、廃都の怒り、塔の呼びかけ。全てが彼の胸に波のように押し寄せる。


 「……ここで答えを見つけるんだ」

 カイの決意は固い。失われた記憶、失われた言葉、そして廃都の真実――すべてを解き明かすため、塔へ向かう。


 二人の影は、廃都の瓦礫の間に長く伸びた。風が砂を巻き上げ、廃都は静かに息をしているかのようだった。


 瓦礫の陰影、崩れた壁、折れた石像――全てが、遠い過去の記憶と語らぬ真実を宿していた。

----

 二人は廃都の奥深くへと進むにつれ、瓦礫の道はますます荒れ果てていた。崩れた建物の間を抜け、石畳の道は途切れ、砂に埋もれた小道が続く。風が巻き上げる砂塵は視界を遮り、耳を刺す。だが、それでも塔の頂は遠く光を放ち、二人を誘うかのように立っていた。


 「……あそこが、塔の入り口……?」

 カイが問いかける。瓦礫の影から漏れる淡い光が、彼らの足元を照らす。


 リシアは頷き、慎重に足を進める。

 「ええ、でも簡単には辿り着けない。廃都は生きている……瓦礫や影、そして声が、無意識のうちに道を閉ざすこともある」


 微かな低音が、空気の奥から響いた。耳を澄ませば、廃都全体が囁くように波打つ。灰色の者たちの声、風のうなり、塔から漏れる光のざわめき。全てが、未知のリズムで胸に響いた。


 「……聞こえる?」

 カイがリシアに尋ねると、彼女は微かに笑った。

 「ええ、でもあなたは……もっと敏感ね。あの声、理解できるんでしょ?」


 カイは頷く。胸の奥で、遠い記憶と、灰色の者たちの呻き、そして塔の呼び声が絡み合い、微かに道を示している。


 二人は瓦礫の間を抜け、崩れかけた建物の壁に沿って進む。時折、砂に埋もれた石像や文字が視界に入り、廃都の過去を告げる。カイの心には、薄暗い空間にひそむ声が次第に意味を帯びて響いてきた。


 ――「アザリエル……」


 低く、しかし確かな声。塔の奥から届くようで、同時に胸の奥から響く。灰色の者の声とも違う、神秘的で威厳のある響き。


 「……聞こえた?」

 リシアが息をひそめる。


 「……うん。名前……アザリエル。誰か……この塔の主か、それとも導く者か……」

 カイは声の源を探ろうと、耳を澄ませる。心の奥に、過去の断片が浮かぶ。塔の頂、光の裂け目、そして失われた言葉のかすかな残滓。


 「塔は……試練を与える場所かもしれない」

 リシアの声は静かだが、覚悟に満ちている。

 「あなたが話せるのなら……きっと役に立つわ」


 廃都の迷宮のような道を抜けると、ついに塔の根元に到達した。入口は瓦礫で半ば塞がれ、古い鉄の扉は錆びて開閉もままならない。だが、扉の奥から微かに光が漏れ、呼吸のように揺らめいている。


 「……行くの?」

 カイが確認する。


 リシアは弓を握り直し、深く息をついた。

 「ええ。ここから先は……未知の世界よ。塔はただの建造物じゃない。試練、記憶、そして……何か大切なものを守っている」


 カイの胸の奥に、強い衝動が湧き上がった。

 ――ここに答えがある。

 失われた記憶、灰色の者たちの声、廃都の秘密……全て。


 二人は瓦礫を押しのけ、扉の前に立つ。扉の隙間から、古代文字が光を反射して微かに浮かび上がる。カイは手を差し伸べる。触れた瞬間、胸の奥で暖かい光が脈打ち、廃都の声が一つに重なった。


 ――「進め、迷う者よ」


 その声に、カイは深く頷いた。

 「行こう。リシア……」


 リシアも静かにうなずき、二人は瓦礫を踏み越えて扉の中へ進む。足元の砂、崩れかけた石、風に混じる遠い囁き――全てが彼らの行く手を迎え入れ、未知の塔の内部へと導いた。


 塔の奥は暗く、冷たく、そして静かに呼吸しているかのようだった。壁には古代の文字が刻まれ、天井からは光が差し込むが、足元の影は深く長く伸びる。


 「……ここからが本当の始まりね」

 リシアが呟く。


 「うん……」

 カイは塔の奥を見据えた。胸の奥に、遠い過去と灰色の者たちの声、そしてアザリエルの導きが混ざり合い、確かな決意を形作っている。


 二人は瓦礫の階段を上り、塔の内部へと歩みを進めた。廃都の風が入り込み、砂塵が舞う中で、二人の影は長く伸びた。塔の奥に潜む試練、過去の記憶、そして未知の真実――全てが、静かに二人を待っていた。


 塔の中に、廃都のすべてが封じ込められている。

 そして、カイとリシアの物語は、今、始まったばかりだった。

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