序章
そこは、木々が生い茂り、美しいがどこか寂しい色をした湖を静かに讃える、ひと気の無い場所だった。その近くには大きな屋敷があり、いつも静まり返っていた。昼間から一人で行くには心細く近くの村の者たちは、ほとんど近寄らなかった。
森を抜け山を下ると、そこには大きなクスノキがあった。人々はそのクスノキを守り神とし、守りの大楠、と呼んで大切にしていた。時に森へ入らねばならない時には目印としていた。
中世ヨーロッパの片田舎。大楠の麓の霧深い小さな集落。村人は、家畜や農作物を育て、工芸品を作り、生計を立てていた。豊かではなかったが、五十人程の村人たちは、助け合い毎日を大切に生きていた。
工芸品は主にガラスや陶器の製品で、食器などの生活雑貨から、アクセサリーなどの装飾品まで様々なものを作っていた。工房は火を使い、力のいる仕事だったので、男手が主流であった。男手がいない家では工房を運営出来なくなり、閉めていく家もあった。元々、少数の集落のため工芸も衰退している状態は否めなかった。
その集落で暮らす、ミリアムは18歳。父親を早くに亡くし、母親と病弱な妹との三人で仲良く暮らしていた。父親が亡くなってからはガラス工房は閉めていた。そのため母親の内職と、畑仕事で生計を立てていた。だがそれでは家計は賄えず、ミリアムは、村の工芸品を街へ売りに行く仕事を請け負っていた。元々は村長がその仕事を全て担っていたが、村長はミリアムの明るく朗らかな性格と、商品を見る才をみて、任せてみる事にしたのだ。ミリアムは期待に応えて、村の商品は高値で取引されるようになっていた。女一人では心許ないと心配した村長が、彼の息子であるステファンを共に街へ行かせていた。おとなしい彼はミリアムの同い年の幼馴染。小さな頃からいつも一緒にいた。ステファンはミリアムの勝気な性格にやり込められながらも、ほのかに想いを寄せていた。
村長のワーズワース氏は、小さな村をまとめる穏やかな人物だ。隣町とも距離があり、何かと閉塞的になりがちだが、その中にいても博識で冷静な人だった。ミリアムは父親がわりに、彼によく相談したりしていた。ワーズワース氏もミリアムを娘のように可愛がった。ステファンのミリアムへの気持ちも知っていたが、ワーズワース氏から見ても、おとなしい息子の妻に、とは難しいだろうな、と息子を見て少し切なく感じていた。
ミリアムの母親は、ミリアムの勝気な性格にいつも閉口していた。女らしさや男性を立てる大切さなど、娘に解くが聞く耳を持たない。父親を早くに亡くしたから仕方ないとは思うが、せめて幸せな花嫁になってくれたら、と淡い夢を見ていた。妹は、アリシア。ミリアムの三つ下。心臓が弱く、家で家事を手伝う事がやっとだった。自分の病を恨むこともあったが、それでも明るく、母や姉を手伝い自分に出来る事を出来る限り頑張っていた。
いつもの週末。夜も明けないうちに、ミリアムは馬車に荷物を積み込んでいた。街の朝市に間に合うように作業を急ぐ。
「ステファン!帳簿にあるのはこれだけよね?」
ステファンに確認すると、
「あ、ちょっと待って、それは…」
と帳簿を見ながら少し答えに困っていると、ため息つきながら、
「毎週の事なのに、しっかりしてよね。」
ミリアムは、荷物の綱をぎゅっと締める。
「あ、うん、ごめん。」
ステファンは、しょんぼりしている。ミリアムは、ステファンの肩に腕を回すと、
「しょんぼりしないの!丁寧なのがあなたのいいところでしょ!」
と、励ます。まさに、親分と子分といった様子だ。ステファンはそんな自分にまた落ち込みそうになっていた。
「ミリアム。今日もよろしく頼むよ。ただ、最近、また盗賊が出てるそうだから、充分気をつけるんだよ。」
村長は、穏やかに話す。
「村長、お気遣いありがとうございます。しっかり高値で売ってきますから、任せてください。」
ミリアムは、笑顔で馬車に乗る。ステファンも、置いていかれないよう、急いで乗り込んだ。
「ステファン、いざという時はお前も男だ。しっかりミリアムを守れよ」
ステファンは村長である父親の言葉に苦笑いし、手綱を握った。ミリアムの母は、
「もう少し女らしくしないと、嫁の貰い手がないわよ。全く…。」
とため息をつく。するとミリアムは、
「私の事、お嫁にもらいたい人なんているのかな。」
と言い、ケラケラ笑った。その様子を見て益々大きなため息を母はついた。
ステファンは、小さな頃からミリアムを側で見てきて、彼女が勝気で男勝りでも、本当は思いやりがあり、村人の為なら自分を省みない優しい人だとわかっていた。自分が彼女を守れる程の男になれれば、と常に思ってはいても叶わない事をどこか悟っていた。
2人を乗せた馬車はまだ真っ暗な山道を下っていく。二人は黙って馬車を走らせる。毎週日曜の朝市に間に合うように街へ向かうのだ。
「ミリアム、この間さ、おかしな噂聞いたんだ。」
ステファンが話し始める。
「山向こうの村の家畜が襲われたんだって。」
「襲われた?」
「うん。村の人が朝、牛舎に行ったら牛が一頭、死んでたって。」
「狼に襲われたの?」
「いや…。」
ステファンは、声を低くして続けた。
「死に方がおかしかったんだって。身体に傷がないのに、血の気がなくて冷たくなってたって。狼の殺し方じゃないだろ?狼なら食い荒らす。」
「じゃ、どうやって死んだの?」
「わからないんだって。」
「…。」
「それで、噂になってるんだ。吸血鬼の仕業じゃないかって。」
二人とも黙ってしまった。
「吸血鬼?おとぎ話みたいな事、みんな本気にしてるの?なにかの病気じゃないの?」
ミリアムが話すと、
「でもさ、今まで聞いたことない死に方だろ?血の気がなくなるなんて。何かおかしいよ。」
珍しくステファンが声を高くして言った。ミリアムはその勢いに少し驚いたが、
「疫病みたいにうつると困るわね…」
と、深妙な顔で言った。
少しずつ遠くの空が白み始めていた。




