〇.夢の世界
冷たい空気が磨き抜かれたレンズのように、その不気味な月の模様を鮮明に映し出していた。顔のように丸い月に、ぽっかりと骸骨の眼のように丸い影が二つ。頬を裂くように弧を描く口が、地上を見下ろして笑っているかのようだった。
『魔王の微笑み』――今夜の月はそう呼ばれていた。
月に一度だけ顔を見せる満月は、その国では毎回その模様が違った。ある時は酒の杯だったり、また別の時は二人の男女が向きあっている姿だったり。
したがって、その国では暦の読み方がその月の模様になぞらえられていた。杯の月、双子の月、砂の月……十二ある模様を一巡すると、再び杯の月から新しい年が始まるのだ。
そして、今は『魔王の月』。季節でいえば冬。不吉な名前の月である故に、人は外に出ようとはせず、家でひっそりと暮らすことが慣習となっていた。ただそれは縁起の悪さだけという訳ではなく、この時期は作物が不足しがちで、雪が積もって雪崩が起きたり、動物達の少なくなった山では腹を空かせた獣が人を襲ったり、何かと不幸の起きやすい時期でもあるという理由もある。
実際にそういうことが月の影響で起こるとは考えられないものなのだが、人というものは悪いことが起こると何かのせいにしたくなるもので、神殿騎士であるアリスも今夜のいざこざを全て月のせいにしてしまいたい気分だった。
厳しい訓練を終えて宿舎で眠ろうとしていたアリスは、同僚の騎士に叩き起こされ、今は城の捜索に当たっている。賊が城に侵入したという報告を受けたからだ。
そして先ほど、賊の正体を突き止めたらしい。『禁断の魔術師』と揶揄される、裏の世界では有名な男だった。
難儀な話だ。相手が魔術師であれば、見つけるのは容易ではない。今頃は宮廷魔術師が動員されているだろうから、彼らが賊の所在を掴むまでアリスはする事がなかった。
手持無沙汰になっているアリスは、ローメン城の東にある廊下の窓から月を見上げた。まるで魔王が嘲笑っているかのようだと、そんなことを思った。
「アリス!」
兵士にしては最低限の防具に身を包んだ男が走ってきて、アリスは視線を月から廊下へと移す。肩にまでかかった短めの黒髪が、月の光を反射してふわりと揺れた。
琥珀色の瞳に映るのは、アリスを叩き起こした張本人だ。
「ジャスティン、賊は見つかったか?」
細面の顔は美人なのだが、吊り上がった目はその気迫も相俟ってまるで睨んでいるかのようだ。ちょっとばかりキツイ目も同僚の男は慣れっこのようで、特に気にする様子はない。
もっとも、今はそんなことなど構っていられないほどらしい。武装をした男は息を弾ませながらも、青ざめた目をアリスに向けた。
「まずいことになった。宝物殿の封印がやぶられた」
「なんだって!?」
思わず大声を出してしまったが、それも仕方がないだろう。それほどまでに、それは異常な事態だった。
「あれは大魔導師ローハルがかけた封印だぞ!? そう簡単に破られるシロモノじゃないはずだ」
「だが破られたのは事実だ。その証拠に、『次元の宝珠』が盗み出されていたらしい」
ジャスティンが決して冗談を言う人間ではないのは、アリスがよく分かっている。アリスの顔に焦燥が浮かぶ。例え宮廷魔術師を全員集めても破る事が出来ないほど強力な結界だ。それを破ったという賊の力と、この事態を楽観視していた自分に舌を打った。
「わかった、私はセーラのところへ行く。宝珠が盗み出された今、一番危険なのはセーラだろう」
「巫女姫様か。分かった、そっちはまかせる。神殿には男は入れないしな。俺は西側に行ってみる。くそっ、こんな時にラハールトのやつは何をやってるんだ。あいつがいれば、魔術で簡単に見つけられそうなものなのに」
「ラハールトか。あいつ、まだ見つからないのか?」
同僚の男は頷き、深く溜息を吐く。
「二日前に酒場に出掛けたまま、帰ってきていない。前々から放浪癖のある奴だったが、全く、いくら優秀な魔術師だからって無断で消えればクビになるぞ。娘のティアちゃんはいつものことだって大して気にしてなかったがな」
「そうか。まあ、いないものは仕方がない。とにかく、居る者だけで探そう」
互いに頷き、逆方向に走り出す。
「コニスか、くそ……」
アリスは唇を噛んで、拳をぎゅっと握りしめた。
『禁術師コニス』――ありとあらゆる禁術に手を出した外法の魔術師であり、裏の世界でさえも疎んじられている男だ。
神殿騎士のアリスが裏稼業の人物の名前などそう知っているはずもないのだが、その男の噂だけは、とくにここローメン城には轟いていた。
というのも、この国の宝『次元の宝珠』は、禁術の触媒として有名だったからだ。他に類を見ない宝物として保管されているというよりも、世に出してはならないものとして封印されているといった方が近いだろう。
そのような代物であるからして、禁断という二つ名を持つコニスに狙われるのは道理であった。それゆえに、事前に対策を講じておきながらこの体たらくでは立つ瀬がない。
だが、禁術の触媒である宝珠もそれだけでは意味を成さない。宝珠と、その力を引きだす宝具が必要であり、それは代々『巫女姫』が常に身につけるように義務付けられている。
宝珠を奪ったであろう禁断の魔術師は、次に巫女姫の宝具を狙ってくるはず。言い換えれば、これが最後の防衛線だ。
アリスは魔王の月を恨みがましく睨みつけると、かつて異世界の勇者が召喚されたという神殿へと急いだ。明らかにとばっちりを受けた月は、何を気にするでもなくひょうひょうと空に浮かぶのであった。
*
『異世界の勇者』とは今では伝説として語り継がれているものだが、その人物は確かに存在した。
今から約三百年ほど昔のことである。全ては一人の男が国の一つを滅ぼしたことから始まる。
少し大きい図書館などでは、この男に対してこのような記述を残す書物を見つけることができるはずだ。
――刃も矢もその身を傷つけること適わず、魔術ですらも全て受け付けず、炎を手繰り氷を纏い、幾多の魔獣を従えし者。
その男は後に『魔王』と呼ばれることとなる。
一人の男に次々と国を滅ぼされ、これを憂いた神は一人の巫女に神託を授けた。
『異世界から勇者を召喚せよ』
選ばれた巫女は二つの神器を授かり、これを以って勇者を召喚した。異世界からやってきた男の独特の形をした剣は、誰も傷つけることの出来なかった魔王を見事に切り裂いたのだ。
こうして世界に平和が訪れた。二つの神器のうちの一つ『次元の宝珠』はローメン王国の王族が代々受け継ぎ、もう一つの神器『次元の宝具』は神託を受けた巫女の一族が守護することとなった。
次元の宝具を護る一族は巫女としては特別な存在であり、次元の宝具を継承した巫女は代々『巫女姫』と呼ばれるようになった。
その第十五代目にあたる巫女姫――セーラは、神殿の祭壇に膝をつき、手を組み合わせて祈りをささげていた。ゆったりとした白い布の巫女服こそ質素だが、指にはいくつもの指輪が嵌められており、セーラが頭を持ち上げるとジャラジャラと幾重にも重ねられたネックレスや黄金の髪飾りが音を立てた。腰にまで届く長い金髪に隠れてはいるが、その耳にはピアスがつけられている。
これらのアクセサリーは単に彼女を着飾るという意味だけではなく、それぞれが魔力を込められた呪具だ。セーラは巫女であると同時に魔術師でもあるのだ。
まるで彫像のように祈祷の姿勢を保ち続けていたセーラだったが、身につけたアクセサリーをじゃらじゃらと音を鳴らしながら、だが清らかな水が流れるような動作で立ち上がった。
うっすらと目を開くと、淡い空色の瞳があった。猫の目が月の光に反射して光るように、彼女の瞳もうっすらと青く輝いているように見える。
そして、薄い唇が開き、小さく空気を振動させる。
「ここは男子禁制ですよ。即刻、出ていってもらいましょうか、『禁断の魔術師』さん?」
振り返らず、まだあどけなさを残す少女は、毅然とした態度で言った。静まり返った礼拝堂に、張り上げた訳でもない声が必要以上に響いた。
背後からくくっと、男にしては少し高めの声が返ってくる。
「男子禁制。いい響きだね、ゾクゾクしちゃう。それにしても、もうバレちゃったのか。ここの騎士団は意外と優秀だね」
全く出ていく様子のないコニスだったが、もちろんこれで出ていくようなら最初からここにいないだろう。
セーラはゆっくりと振り返る。賊を目の前にして物怖じしない彼女は、己の力に自信があり、また宝具を守らなければならない使命があったからに他ならない。
だが、コニスを目の前にして彼女はぎょっとした。それは、目の前の男が彼女の想定し得る人物像と到底かけ離れていたからだ。
目の前に立つコニスは、何とも小柄な男だった。革のパンツに麻布の白い服を着た、町人と変わり映えのしない格好だ。
だが、一目みて普通の人とは違うことに気付く。
身体は針金のように細く、手足などは枯れ枝のようだ。月の光しかないこの場所では、死人のように青白い肌が、まるで墓地から蘇ってきたのかと思わせる程に不気味さを演出していた。毛糸で編んだようなカップの形をした帽子を被っていて髪の色は分からないが、鼻は低く蛇のような切れ込みが入ったような形で、唇は肌の色に溶け込んでまるで顔に穴が空いているだけのように見える。
そして、ギョロっとした大きな目。瞳の色が灰色の所為か、まるで死んだ魚のようだ。その目が、どこか愉しげにセーラを見つめていた。
セーラはコニスを見て、憐れんだ。禁術師のなれの果て。何故このようなことになってまで禁術に手を出すのか、理解に苦しむ。
「愚かなことです。そのような身体になってまで禁術に手を出し、一体何が得られるというのです」
言われたコニスは、ほとんどない眉毛を寄せて、すこしムッとした様子で言った。
「失礼な。この顔は生まれつきだ」
…………。
静寂であることが常であるはずの礼拝堂に、痛い沈黙が訪れた。気まずい空気が流れる中、先に口を開いたのはセーラだった。
「あなたが奪った宝珠、返してもらいます!」
「わお、何もなかったことにしたよコノ人。ま、別にいいけど。さてさて、それじゃあ宝具を貰い受けるとしますか。えっと、どれが宝具かな?」
コニスは品定めをするかのような目つきでセーラの頭の先からつま先までジロジロと見た。数あるアクセサリーを象った呪具の中に、一つだけ目的の宝具があるはずだ。無駄に多い装飾も、宝具を隠すのに一役買っていたようだ。
コニスは不敵な笑みを浮かると、腰を落として静かに唇を震わせた。ただの文字の羅列を繋ぎ合わせたかのような意味のないような言葉。しかし、変化が起こる。コニスの周囲に淡い橙色の靄がどこからともなく現れ、コニスの右手に吸い込まれるように収束していったのだ。
コニスが詠唱を始めたのを見て、セーラも詠唱を始める。コニスとは違い、セーラの周囲には白い球状の光がポツポツと現れた。
コニスが詠唱を終える。
『火炎弾!』
指先から炎の玉が迸る。人一人を飲み込むほどの大火球だ。それがまるで大砲の如く撃ちだされた。
物凄い勢いでセーラを飲み込もうとする火球だが、セーラは慌てることもなく詠唱を続けている。炎の光で巫女装束が赤く映える。熱風が先に届き、セーラの頬をチリチリと焦がすも、セーラは慌てることなく詠唱を終えた。
『極光護布』
セーラの周囲にあったいくつもの白い光の玉が急激に縦横に広がり、他の光の玉と重なって一枚の壁を作った。その壁が火球と衝突する。その瞬間、巨大な火球は一瞬で霧散した。拮抗するとか、そういうことは起こらない。触れた瞬間に炎が花を散らしたかのように弾けたのだ。
コニスが楽しそうに笑う。
「絶対魔法防御の神聖術か。それに――」
コニスの濁った眼に何かが映る。笑みを浮かべるセーラは両手を高く掲げ、そして周囲にいくつもの魔法陣を浮かばせていた。
光で出来た円の中心に、うねうねとミミズのような紋様が描かれている。その魔法陣は文字を中心として回転し、球状となる。回転速度が緩くなり、再び円に戻った時、中心の紋様は消えており、代わりに手の平に乗るぐらいの人型があった。白い肌に、可愛らしい大きな目。緑色の髪が不自然に揺れて、髪と同じ色の服を着ている。その小人たちが、周囲に六人。
セーラが目の前の敵を指差し、高らかに声を上げた。
「おきなさい、風の精シルフィードたち」
穏やかなその声に反応し、風精たちはコニスに向かって宙を走った。風の精と呼ばれるだけはあり、その姿はまるで風のように速い。
コニスは目を見開き、その場から横に飛び退くと同時に手から火炎弾を放った。先ほどとは違い、握り拳ほどの大きさだ。
三発ほど撃った火球は、二発は避けられたが一発だけ風精の一体に命中した。その場に小さなつむじ風が巻き起こり、風精の一体が消える。残りは五体。
「神聖術に召喚術か。まったく、巫女姫と呼ばれるだけのことはあるね!」
叫びながら、風精が作った風の刃を避けた。と同時に呪文の詠唱に入る。先ほどと同じくオレンジ色の光が右手に収束していった。
『火炎弾!』
詠唱時間は先ほどよりも圧倒的に短く、威力もそれに比例して小さな火球を生み出す程度だ。それでも風精たちには十分らしく、五発放ったうちの三発が命中し、風精は残り二体となる。
少し余裕が出来てきたのか、コニスは一発セーラに向けて撃ってみた。だが予想通り、コニスの火球は極光護布によって防がれてしまう。
「これは、ちょっと厳しいかも」
コニスは風精の攻撃を避けながら苦笑した。先ほどセーラに魔法を撃った時に見た光景。セーラの前方に、巨大な魔法陣が出来ていたのだ。大きさはセーラの身長の約三倍。目の前の風精とは比べ物にならない程の強力な何かを召喚しようとしているのは一目瞭然だった。その証拠に、セーラが身につけている呪具のほとんどが共鳴を起こしている。
だがコニスはここにきて唇を思いっきり吊りあげた。悪魔の笑みを思い浮かばせるようなその顔は、まるでこの現状を理解していないかのように見える。強力な召喚体の予兆と、未だに残っている風精二体、セーラを守る鉄壁の魔法障壁。コニスにとっては絶望以外何物でもないはずだ。
セーラはそのコニスの表情を見て、危うく集中力が途切れて召喚術を中断しそうになった。不気味だ。そして何よりもおかしい。禁術師として名を轟かすはずの男が、未だに正統派魔術しか使っていない。もしここが闘技場か何かで観客でもいれば、クリーンな試合に賛辞が述べられていることだろう。
油断してはいけない。あの男は人の道を踏み外した外道なのだ。つけ入る隙を見せることは許されない。
「おいで――ガラテア」
全力をもってあの男を倒す。その決意を示すように、セーラの目の前には、巨人とも思わせるほどの女戦士の姿があった。肌は異常な程に白い。人間の肌では比較することが出来ないほど真っ白な肌は陶器で作られたかのように無機質で、気味が悪い。黄金の鎧を纏い、顔を半分ほど隠すヘルメットを装着している。そして右手には炎のような曲線を描く剣。
それを見て、コニスは目を見張った。
「……『断罪のガラテア』か。ボクを相手にそれを選ぶとは、なかなか洒落がきいてるね」
残りの風精を片づけると、コニスは腰に手を当てて笑った。罪に罪を重ねた禁術師と、断罪の名を持つ戦乙女がにらみ合う。だがその対比は大人と子供どころではない。コニスの体格が小柄なのも相俟って、まるで弱々しい子犬のようだ。
ガラテアが歪な曲線を描く剣を振り下ろす。コニスは呪文を詠唱しながらそれを横に避けた。針金のような身体からは想像もつかない俊敏さだ。
呪文を唱えるコニスの足元に、薄らと桃色の光の筋が走る。それを見てセーラは目を見張った。魔法というものは詠唱中の予兆を見ることである程度予測を立てることは出来るが、コニスの使う魔法はセーラの知らないものだった。
禁術かもしれない。そう思ってセーラは身構える。
地面を走る光の筋が無数に増えると、コニスは魔法を発動させた。
『棘縛陣』
コニスの足元を走っていた光が、ガラテアに向かって駆ける。そして、その途中で地面から植物の蔓が堅い石床を突き破って現れた。薔薇のように棘のついた蔓が、ガラテアの身体に巻き付く。一本一本が大人の胴周りぐらいの太さのある、太い薔薇の蔓だ。ガラテアはが引っ張ってもギュウギュウと音を立てるだけで引き千切ることは出来なさそうだが、蔓にびっしりと走る棘はガラテアの肌を傷つけることはない。
「ガラテア!」
セーラが叫ぶ。そしてすぐに呪文の詠唱を始めた。セーラの周囲に風が巻き起こる。風の刃で蔓を切ろうとしたのだ。
だが、コニスの行動の方が早かった。
「ふぅ。悪いけど、君には退場してもらおうか。あまり遊んでる時間もないんでね」
コニスが手の平を蔓に巻かれた戦乙女の方に向けると、ガラテアの周囲に召喚陣のような光の輪が現れた。
「なっ――」
セーラが驚愕の声を上げる。コニスはニッと笑うと、その輪は召喚術を使う時と同じように回転し、ガラテアを包み込むように球体を作った。
そして回転が遅くなると、中にいたガラテアはその姿を消していた。
セーラは苦虫を噛み潰したような顔になった。召喚獣を消される、そんなことが出来るとは夢にも思わなかった。
大体の想像はつく。今のは召喚術と全く逆のプロセスをたどった魔法であり、ガラテアはコニスによって強制退還されたのだ。
「さ、宝具を渡してもらおうか」
コニスが一歩詰め寄ると、セーラが一歩後ずさる。他の召喚獣を呼ぶにしても目の前の禁術師に対抗できるものは召喚に時間がかかるし、こう面と向かった状態では風精を呼んでも時間稼ぎにもならないだろう。
ゴクリとセーラは生唾を飲み込む。万事休す、と頭に絶望がよぎったところで、視界に何か動くものが見えた。
ほんの少しの表情の変化だった。セーラの目がぴくりと僅かに動いた。ただそれだけのことを、コニスは見逃さなかった。
コニスは身を低く屈める。その瞬間、先ほどまで首が有った場所を何かが横切った。ブオン、と空を切る音が遅れて届き、コニスの頭上を何かが通り過ぎ、そしてセーラの前に立ちはだかる。
「アリス!」
「セーラ、大丈夫!?」
白い軽鎧を纏った黒髪の女騎士が、コニスから視線を離さずに言った。
セーラは小さく頷くと、すぐに召喚陣を呼び出した。大きさは、セーラよりも一回り大きいものだ。ガラテアほどではないが、強力な魔法生物だろう。
アリスが剣を構え、セーラが召喚生物を呼び出す。互いに声を掛け合っただけで、互いにやることを既に見出している。
コニスは突然の乱入者に眉をひそめながら、だが少し上機嫌に言った。
「随分と可愛らしい名前の騎士様だね。残念だけど、君の出番はもうないよ」
アリスはふっと鼻で笑う。戦いの中で口を開くのは彼女の主義ではないのだが、セーラの魔法の時間稼ぎが目的ならそれもやぶさかではない。
「冗談は顔だけにしてもらおうか」
「ちょっ、これでも結構気にしてるんだけど!?」
わざとらしく頭を抱えるコニスに、アリスは少し困惑した。《禁断》と揶揄されているはずの男は、勝手な想像だがもっと陰湿な男だと思っていたのだ。
だが、油断はしてはいない。アリスとの戦闘の跡が残る礼拝堂の様子を見れば、どれだけ激闘があったのかは容易に推察できる。
油断しているとすれば、向こうの方。未だに頭を抱えているコニスに向けて、先手必勝とばかりにアリスは石床を蹴った。
白銀に輝く刃が空を斬る。流れるような動きに、まるで本当に空が切れているのかと思うような剣筋が見えるようだ。
だが、その剣はコニスに届かない。一閃、二閃と剣を振り続けても、コニスは魔法すら使わずに俊敏な動作で避けている。
その余裕の表情に苛立ち、アリスは舌打ちをしながら大きく一歩踏み込んで、白銀に輝く刃を大きく横に薙いだ。
コニスはそれを見て後ろに大きく跳躍する。刃はコニスの首の手前を横切る――はずだった。
「――え?」
ざんっと音がして、胴体と離れた頭が変な声を出した。自分の意志とは無関係に遠のいていく景色の中、コニスは全てを理解した。
「……魔剣使い、だったか」
胴体が後ろ向きに倒れ、首がゴロゴロと石床を転がっていった。首を切り落としたというのに血がほとんど出ていないことが気になったが、あの異様な見た目と禁術師ということで、おそらくそういうものなのだろうと二人は納得した。
アリスはふぅと息を吐き、剣を鞘に納めた。その背後ではセーラは詠唱を中断させたところだ。回転していた光の輪は何かを召喚する前に薄らと影を薄くしていった。
「さすがアリス。助かったわ」
労いの言葉をかけられて、アリスはセーラの方に向き直るが、いつもと違うセーラの姿に少し違和感を覚えた。
「セーラ? 宝具はどうしたんだ?」
「え?」
いつも身につけている髪飾りがなくなっている。セーラ自身その事に気付いていなかったらしく、髪飾りがあったはずの場所を何度も撫でまわし、そしてそれがないことを知ると真っ青になった。
くすくす。
アリスの背後から聞こえてくる笑い声。嫌な予感がしてならなかったが、アリスはこめかみから汗を流しながら振り返った。
笑い声の主はコニスだった。首だけなのに、アリスたちを見て笑っている。後ろでセーラがひっと悲鳴を漏らした。
「探し物は、これかな?」
首だけのコニスが唇のない口を大きく開き舌を大きく出すと、その舌の上にはセーラが身につけていたはずの髪飾りがあった。アリスもセーラも目を丸くしている。一体、いつの間に? 何故それが宝具だと分かった!?
二人の疑問を見透いたのか、コニスは髪飾りを口の中に引っ込めると楽しそうに喋り始めた。
「ガラテアを出した時、唯一これだけが魔力の反応を示さなかった。それだけで、これが宝具だってことは想像できたさ。もっとも、二人の反応で確信に変わったわけだけれども」
セーラがあっと声を出した。強力すぎる召喚生物を出したことで、身につけている呪具が全て共鳴を起こした。それが仇となったのだ。
アリスが再び剣を抜くが、コニスは全く動けないというのに余裕の表情を貫いていた。
「君の出番はもうないって言っただろう? もう終わってるんだよ。後はこれを持ち帰って、異世界人を召喚するだけさ。でも、なかなか楽しかったよ。正直"本体"じゃなくて良かったと思ってる。次はこうはいかないよ、魔剣使いのアリスちゃん」
「ま、待て!」
アリスの問いに答える前に、首だけのコニスに突然変化が訪れる。コニスの顔が急にただれ、その蒼白だった顔の下から赤みのある肌が生まれてきたのだ。さらに顎や口元から髭が生え、その顔は全くの別人になっていた。
同時に、首の切り口から急に血が大量に吹き出した。胴体の方も同じで、こちらも針金のようだった身体から肉突きの良い一般男性のものと変わっていた。
「ラハールト!?」
アリスの顔が真っ青になり、見覚えのあるその顔に駆け寄った。間違いなく、先日から行方不明になっていた同僚だ。ごろりと転がる生首を見て、胸がどくんと高鳴った。この首を切り落としたのは、他でもない自分だ。
「……禁術」
セーラがぼそっと呟く。他人の身体を乗っ取り、かつ本人は安全な場所から好き勝手に操ることの出来るという最低最悪の魔術。
道理で先ほどの戦闘中に禁術を使わなかった訳だ。あれはコニス本人の身体ではなかったために、使わなかったのではなく使えなかったのだろう。
アリスは同僚の生首の前まで歩み寄ると、片手を額の前まで上げて黙祷を捧げた。そして立ち上がり、セーラの方に向き直る。
セーラはこくんと頷いた。やるべきことは分かっている。
空に浮かぶ魔王の月は、今夜の出来事を嘲笑っているかのようだった。
二日後、二人は城を発つ。全ては奪われた宝具を取り戻すために。