6.勇猛の記録
気がつくとそこは泉の底ではなく、森の中だった。
いつ陸に上がったのだろう。その点に関する記憶が全く無い。日は既に沈みかけている。真っ赤な太陽は木々を橙色に染めていた。
が、私はそれどころではなかった。
──身体が透けてる……何これ!?
手足が透き通っている。まるで水面に写された幻のようにゆらゆらと揺れ、今にも消えてしまいそうなほど頼りない。
嫌な予感がして恐る恐る近くの木に手を伸ばす。こういう時の勘ほど当たってしまうものだ。予想通り私の手が幹に触れることはなかった。むなしくズボッと木の中へと沈み込む。
──私、死んじゃったのかな……。
昔読んだおとぎ話にこんなものがあった。
ある事故で死んでしまった青年。彼の身体は既に埋葬されていたが、未練を残した魂だけが現世を彷徨っていた。
青年は死後、人にも物にも一切触れることができなくなった。彼の声は誰に届くこともない。存在そのものが消され、最終的に彼は愛する人を見守ることしか出来なくなった。
そんな彼の数奇な人生と今の私の状況はだいぶ重なる。実際、私の存在はこの夕暮れの森からも隔絶されているように思えた。
膝を抱え、無気力に座り込む。何がどうなってこんなことになっているのか。これから何をすべきなのかもわからない。
きっと今頃、私の身体は泉から引き上げられ、あの魔物に惨たらしく食い散らかされているだろう。
──何も、できなかった。
虚しさと大きな喪失感が胸中を満たした。
勇者だと持ち上げられ、優しい家族にお世話になって、どこか舞い上がっていたのかもしれない。その結果がこれだ。大切な人も守れず、その仇を討つことすらままならなかった。
世界を救う勇者が聞いて呆れる。このまま一生、誰にも気づかれずに現世に繋ぎ止められ続ける。それが罰だと言うのなら受け入れるのも止む無しだ。
その時、ある違和感に気づく。周りは先程見た光景と何ら変わらない。泉に落とされる前のあの森と全く一緒だ。
そのはずなのだが、魔物の足元に広がっていた血の海はどこにもない。サナの靴も、彼女の遺体も。
同じようで違う。ここは一体どこなのか。
その答えを確かめるべく重い腰を上げた。相変わらず自分の身体は幻のように霞んでいる。
森の中を散策し始めると程なくして一つの金属音が耳に届いた。
──何だろう……?
どうせ誰にも触れられないし、おそらく気づかれることもないので、身を隠すことなく堂々と音の方へと向かう。
林を掻き分ける必要もなく、障害物を幾つかすり抜けて進んで行くと、その先には意外な光景が広がっていた。
「はあああッ!!」
気迫と共に剣を振るう少女がいた。揺れる赤い髪、キリッとした鋭い目。軽装の鎧を纏った少女は敵対者へと勇敢に攻撃を仕掛ける。
そんな彼女のすぐ目の前には既視感のある異形がいた。巨大な泥団子に花を植え付けたような奇怪な姿。
細部は異なるが間違いない。あれは先程まで私が相対していた【花の魔物】だ。
魔物は十本近くある細い蔓を振り回すが、少女はその悉くを刃で打ち落とす。
──すごい、魔物相手にあんなに機敏に動いてる……!
夕陽に映し出された少女の影はさながら何かの演目のように鮮烈だった。流石にキリが無いと判断したのか、赤髪の少女は大きく後退する。
その手に握られているのは一本の剣。柄から剣先まで金一色の優美な剣は、夕陽を反射して眩しく煌めいている。
人の手によっね作られたものではない。そう感じる程に神秘的で美しい代物だった。
少女は剣先を異形へと向け、高らかに叫ぶ。
「私は女神ファティスに選ばれた勇者、貴様も我が祝福で灰に返してやる!」
──勇者!? だって私以外の人は皆死んじゃったって……
衝撃の発言に動揺してしまう。エルベの話では私より前の勇者は全員戦死、あるいは消息不明になっているはずだ。
ならば彼女は一体何者なのだろう。もしかすると歴代勇者の中にも生き残りがいたのか。あるいは私の後を継いだ百一代目が早くも派遣されてきたのか。
いずれにせよ情報が少な過ぎて断定出来ない。
私が考察を進めている間にも戦局は終盤へと差し掛かっていた。
赤髪の少女は剣先をピタリと魔物に合わせた。まるで弓を引く狩人のように。
「──|焼き尽くせ、【ヘリオス】!」
彼女がそう叫んだ次の瞬間、剣先から一条の光が放たれた。夕日に劣らない強烈で眩しい光。
それは高温の熱線となり、花の魔物に直撃した。仮初の熱風がここまで伝わってくる。
現実離れしたその光景に息を呑む。それはさまさしく神の御業だった。灼熱の奔流に貫かれた魔物はその身を焼かれて狂ったように悶えたが、やがて力無く地に倒れる。戦いを制したのは赤髪の少女だった。
──やった!
思わず拳を握りしめて喜んだ。魔物の猛攻に遅れを取らない彼女の剣技は実に見事だった。
だがそれよりも特筆すべきはやはりあの黄金の剣だろう。日の光を彷彿とさせる膨大な熱量を伴った攻撃。あれは人の成せる技ではない。
推測の域を出ないが、あれがおそらく勇者にのみ授けられる人知を超えた力【祝福】と呼ばれるものなのだろう。だとすれば彼女が勇者だという事実にも納得がいく。
教会が勇者を求めていた理由が改めてわかった気がした。確かにあれだけ強大な力があればたった一人でも魔物に立ち向かえるだろう。
私も早く祝福に目覚めていれば、あの魔物と相打ちぐらいには持っていけたのかもしれない。そう思うと悔しくて仕方なかった。
赤髪の少女は細長く息を吐くと剣を鞘に収め、魔物の元へと歩み寄った。しかしその顔はどこか不満そうだ。
「随分と呆気ない魔物だったな……。まぁいい、これでしばらくはこの森も安全だろう。さて、街に戻って教皇に報告しなけれ──」
刹那、グチャと何かが抉られるような音がした。
──え……?
突然の出来事に頭が追いつかなかった。
私と同様に赤髪の少女も困惑していた。程なくして彼女の口から一筋の血が伝う。
彼女が恐る恐る下を見ると、そこには見慣れないモノがあった。
大人の腕よりも一回り太い触手が彼女の腹部を貫いていたのだ。
「う、嘘……なんで……」
腹部に走る激痛を堪えながら少女はすぐに理解した。
全て演技だったのだ。やられたと見せかけ、獲物を油断させるための。
それを悟り、彼女は自身を貫く触手を断つべく剣を振り上げた。
しかしそれを待ってくれるほど、怪物にまともな思考回路はなかった。
少し遅れて伸びてきた二つ目の触手は刃のように鋭利で、少女の右腕を肘元からいとも簡単に斬り飛ばした。
細い腕は優美な剣を握ったまま弧を描き、回転しながら宙を舞った。
「ああああああ! ……わたしの、うでぇ……!」
血を吐きながら亡くなった右腕を見つめ続ける少女。切断面からはドボドボと赤い液体が溢れ落ちていく。
絶望に彩られた瞳、あまりの激痛に泣き喚く姿はもはや勇者ではなく、哀れな一人の少女に過ぎなかった。
やがて棘だらけの細い触手が少女の四肢に幾重にも巻きついた。鋭利な棘は鎧すらも貫通し、柔らかな白い肌に食い込んでいく。
少女はその度に顔を歪めた。
「Srrvqqpqgknmwz!!」
異形は待ち侘びたとばかりにその顎を開いた。人一人をまるごと呑み込んでしまえる程に大きな口を。
口内には鋭利な牙がずらりと並び、黄ばんだ唾液が糸を引いている。
その姿はまんまと騙された獲物を嘲笑っているかのようだった。
「嫌、誰かたすけて……いやっ、いやああああああああ──」
途絶える断末魔。千切れ飛ぶ四肢と臓物。易々と骨が砕かれていく音。
あまりの惨劇に目を瞑り、耳を塞いだ。
自分と近い年の少女が人形のように弄ばれて蹂躙されていく光景。このまま見続けていたらおかしくなってしまいそうだった。
***
ゴポゴポという不思議な音が聴こえてくる。
重い瞼を開けるとそこはもう夕暮れの森ではなかった。
先程まで何ともなかった身体は今や鉛のように重い。
試しに左腕を動かしてみると電撃のような痛みが突き抜けた。思わず眉間に皺を寄せる。
おそらく骨が折れているのだろう。
自分の口元から漏れた泡が上へ、上へと昇っていく。それを見てようやく気がついた。
──そっか、私まだ生きてたんだ。
ここが水中であることを思い出した途端、現実に引き戻されるかのように感覚が戻ってきた。
肺が圧迫される閉塞感。
骨折した左腕に走る激痛。
こうしているうちにも体温は失われ、身体から徐々に力が失われていくのがわかった。
荒れ狂ったように剣を振り回していた私はもういない。頭は既に落ち着きを取り戻していた。
──逃げ、なきゃ……
ひとまず早く地上に戻らなければ。そして逃げよう。あの魔物には勝てない。
それが私の導き出した結論だった。
その時、ようやく私はそれの存在に気づいた。
いつの間に握っていたのだろう。右手はどこか既視感のある剣をしっかりと掴んでいた。
それは黄金の剣。装飾品のような優美な造形に少し見惚れてしまう。
当然自分のものではない。カタリスから貰った白い剣は花の魔物に攻撃された際にどこかへとすっ飛んでいってしまった。
泉の底に突き刺さっているその剣はまるで私を引き止めるかのように、あるいは何かを訴えかけるかのように静かに佇んでいる。
既視感の正体はすぐにわかった。
目の前のそれはついさっき夢の中で見たものと全く同じ形をしていたからだ。
──どうしてあの子の剣が、ここに……
夢の内容を鮮明に思い返す。最終的に少女は魔物の触手に捕われ、右腕は剣を持ったまま斬り飛ばされた。ちょうど泉のある方角へと。
──そっか、順番が逆だったんだ。あの子は私より前にもう……
そもそも時系列を間違えていたのだ。あの赤髪の少女は私よりもずっと前に勇者として戦い、勇ましく散っていったのだ。水底に眠るこの剣の存在がその過去を物語っている。
剣を振るう彼女の姿は、今もまだ瞼の裏に焼き付いている。
残酷な最期を迎えてしまったが、それでも彼女は勇敢だった。勇者として立派に務めを果たしていた。
対する私は目の前の使命から、現実から目を逸らして逃げ出そうとしている。
決して望んで得た役職なんかじゃない。そもそも勇者なんて大役私には重過ぎるし、何より死にたくない。
だからこの行動自体は正しいものだ。
危ないから戦わない。怖いから逃げる。
人間という生き物はそういう風に出来ているのだから仕方ない。
敗走を正当化するのは簡単だ。多少怪我をして村に戻れば、きっと皆優しく迎えてくれる。
それで勇者を辞められるとは思えないが、しばらくは寝台の上で安静に過ごせるだろう。
あるいは頭がおかしくなったフリをすれば、勇者の任を解いてもらえるかもしれない。
だが彼女達はどうなる。魔物へと果敢に立ち向かった赤髪の勇者は死んだ。
素直で良い娘だったサナも死んだ。
どれだけ悔やんだってもうその事実は覆らない。
きっと彼女達にも明るい未来があったはずだ。友達と野原を駆けて、魅力的な人と恋に落ちて、可愛い子供に恵まれる。そんな未来が。
そう考えただけで胸が締め付けられた。
──あんな魔物さえいなければ……あの子も、サナも、幸せな人生を送れたはずなのに。
悔しさに拳を強く握り締める。左腕がズキリと痛んだ。
誰でもいい。誰かがあの化け物に一矢報いなければならない。でなければ彼女達はいつまで経っても報われない。
そう思い至った時、私の頭に浮かんだ選択肢はただ一つだけだった。
──私が、ブッ飛ばす!
平常な思考を失った頭に湧き上がったのは、そんな怒りだった。