5.人を喰らう花
足元に気をつけながら全速力で森を駆ける。
洗礼武装の剣は私からすると少し重い。長時間の走行で既に呼吸も荒くなっている。
だがそれすらも無視してただ前へ、前へと進んだ。エルベの話によれば魔物が発見されたのは森の中の泉。
そしてその泉はもう目の前まで迫っていた。
──サナちゃん、無事でいて……!
頭を埋め尽くすのはただその想いだけ。何も魔物を倒す必要は無い。今はサナさえ保護できればそれでいい。
魔物はいずれ街に攻めてくるとエルベが言っていたが、まだ何日かの猶予はあるはずだ。その間に何とか自分の祝福を目覚めさせることができれば私は万全の状態で戦える。
刹那、耳に届いたのはバリバリという奇怪な音。太い木の枝を力任せに折ったような、そんな耳障りな音が聴こえてくる。
私は咄嗟に近くの木陰に隠れた。魔物かもしれない。そう思い音のする方へと少しずつ距離を詰めていく。それに連れて音は徐々に明確になっていった。
破砕音に混じってグチャという果実を潰すような音が聴こえてきた。私も定期的にお菓子作りをしているので聴き慣れているはずなのだか、何故か今は酷く不快に感じる。その不快感の正体を突き止めるために恐る恐る幹から顔を出した。
視界に入ったのは巨大な植物。ただの植物ではない。体長は二メリルを悠に越している。根を模した無数の脚。泥団子を肥大化させたような歪な胴体。そこから腕のような二本の太い蔓と細々とした無数の蔓が個別の意志を持っているかのように畝っている。
特徴的なのは胴体から真上に伸びる太い茎。
その先端では五枚の大きな花弁に包まれた巨大な単眼が不規則に動いていた。
異形と呼ぶに相応しいその姿に背筋が凍る。
あれがおそらく【花の魔物】と呼ばれた怪物だろう。蠢く魔物の足元には濃密な深紅の海が広がっていた。
「っ……!」
慌てて顔を引っ込め、口元を抑えた。
あれは絵の具ではない。正真正銘、生き物の血液だった。量からして鳥や小動物のものでないのは明白。
なら一体何の血液なのか。考えることすら恐ろしい。意を決し再び覗き込む。
鮮血の上で蠢いている魔物。歪に膨らんだ胴体は大きく裂けては閉じてを繰り返す。それは人間でいう口だった。開閉する度に生々しい音がする。おそらく何かを食らっているのだろう。
一体何を捕食しているのか。気配を殺しつつ身を乗り出す。すると視界の端にあるものが映った。
──赤い、靴。
子供用の小さな赤い靴。少女が好みそうな可愛い装飾が施されているそれは、赤い海の上に転がっている。別段珍しいものではない。街でなら同じような物が何足も売られているだろう。
だが私は知っている。その花のような装飾を気に入っていた女の子を知っている。
「え……」
魔物の触手から解放され、生々しい音を立てて落下する肉塊。既に原型は留めていない。四肢はなく、臓物を引き摺り出され、体中は牙のようなもので掻き回された痕跡が幾つもある。ただ一つ識別できるものがあるとすれば髪。暖かみのある栗色の髪にはべったりと血がこびりつき、無惨に散らされていた。
「あ、あぁ……」
体から血の気が引いた。目の前の惨状を見ても尚、頭が理解を拒んだ。視界が歪む。吐き気が押し寄せる。
これが悪い夢なら早く冷めて欲しい。しかしどれだけ待とうともその瞬間が訪れることはなかった。
これは現実だった。覆りようのない悲劇だった。無残に食い散らされたのは他の誰でも無い。
花屋の一人娘。妹のように可愛いがっていた少女サナだった。
「ああああああああああああああ!!」
剣を手に取り、木陰から飛び出した。私は絶叫しながら魔物へと一直線に走る。
まともな思考などとう消え失せていた。
「許さない……! よくも、よくもサナちゃんをッ!!」
巨大な植物へ力任せに剣を振り下ろした。
剣先が膨らんだ胴体を掠め、紫色の体液が飛び散る。植物ではなく肉のような手応えを感じた。
「Esdiwh!?」
奇妙な叫び声を発する魔物。この程度の攻撃で倒れてくれる程、生易しい相手ではないことぐらい最初からわかっていた。
すかさず二度目の追撃を加えるべく手首を返す。もはや祝福など要らない。逃げる必要もない。ここで殺す。ただその殺意だけで頭を満たす。
しかし魔物もただやられる側ではいてくれなかった。防衛本能のようなものだろう。絶叫しつつも細い蔓を鞭のように伸ばして迎撃してきた。
それを刀身で弾き返してから数歩後退する。
細い見た目とは裏腹に一撃が重たい。更に厄介なことに細い蔓は視界に映るものだけでも数十本存在している。
あれを全て捌き切り、接近するのは至難の業だろう。
「Qnqnnnnnllf!!」
刹那、理解不能の絶叫と共に魔物から三本の蔓が放たれる。軌道は読みやすかったので一本目と二本目は何とか剣で弾くことに成功するが、その合間をすり抜けてきた三本目が腹部を掠めた。
「かはッ……!」
肌を抉るような縦横無尽の鞭。命が削られる感覚とはこういうものなのだと理解する。
しかしこの程度の痛みで止まるつもりなど毛頭なかった。サナはこの何倍もの苦痛を味わったはずなのだから。
私は揺らぎかけた体勢を立て直し、突進を再開する。
「はあああああ!!」
襲い来る無数の蔓。致命傷になり得るものだけを叩き落とし、残りは無視して突き進む。腕、肩、太腿、膝、焼かれるような痛みが各部に走った。
唇を噛んで激痛をやり過ごす。魔物までの距離は僅か三メリル。その汚い眼球に刃を突き立てるべく、剣を逆手に握り直す。
だが、そんな無謀な突進が通用する訳も無かった。魔物の右腕と思しき太い触手が風切り音を発しながら目にも止まらぬ速度で動く。
気づけば私は完全に魔物の間合いへと誘い込まれていた。身体は突進を止められない。咄嗟の回避は不可能と判断し、左腕で防ぐ。
太い触手が左腕に直撃した。バキッ!という耳障りな音と共に、鎚で横から殴られたような衝撃が身体の芯まで響く。
──あ……これ、死ぬ。
声をあげる暇もなく、私の身体は吹き飛ばされた。まるで時間がゆっくりと過ぎているかのような感覚に襲われる。滞空時間は異様なほど長く感じられた。やがて五メリルほど宙を舞ってから、泉の水面へと投げ出される。
大量の水飛沫を上げて私の身体は水に呑まれた。ブクブクと昇っていく泡を見つめながら自分の敗北を悟る。
結局何も出来なかった。威勢の良さだけじゃどうにもならなかった。この時のために沢山剣を振ってきた。身体だって鍛えた。サナや彼女の両親のような大切な存在を守るために頑張ってきたというのに。
悔しさと哀しさを錘にして沈んでいく身体。遠ざかっていく陽の光を見て、間近に迫る死を自覚した。
──他の勇者も、こうやって死んじゃったのかな……
そんな疑問を抱きながら水底へと落ちていく私の指先に、硬い鉄のようなものが触れた。
意識はそこで途絶えた。