4.鍛錬の日々
ゆったりとした寝巻き姿のまま階段を降りる。食卓を囲んでいたのは三十代ぐらいの男性と女性、そして栗色の髪の幼女。
私に気づいたらしい女性がニコリと微笑む。
「おはよう、モモちゃん。朝ご飯出来てるわよ」
「おはようございます! わぁ、美味しそう!」
女性に勧められるまま席に着く。今朝の朝食は目玉焼きの乗ったパンだ。香ばしい香りが食欲を煽る。
私は丁寧に「いただきます」と手を合わせてから、手をつけた。
平面状に広がる白身の上には弾力のある黄身があり、ナイフで軽く突いただけでとろっとした中身が溢れてきた。
そんな光景に見惚れていると、目の前に座る小さな女の子から視線を向けられていること気づいた。
彼女の名前はサナ。ここハルティノに訪れたばかりの頃、街を案内してくれた幼女だ。
「モモお姉ちゃん、おはよう! 今日も訓練行くの?」
「うん。魔物を倒せるようになるためにも、強くならないといけないからね!」
大聖堂で勇者の役目を引き受けてから早三ヶ月。私はあれから故郷のカルム村には帰っておらず、今はサナの両親が営む花屋に住まわせてもらっている。
この街に滞在している理由は大きく二つ。一つ目は身体を鍛えるためだ。エルベにも言われたように、当時の私は剣の持ち方すら知らない少女だった。そんな貧弱なまま魔物に挑めば命がいくつあっても足りない。
それ故に七日のうち三日は剣術、二日は格闘術の訓練を欠かさず受けている。残りの二日は休日だ。
二つ目の理由は私の【祝福】がまだ発現していないこと。色々と試してみてはいるものの未だに覚醒の予兆は見られない。こればかりは解決方法すら見つからず、教会側も過去の文献を漁って必死に情報を集めてくれているんだとか。
いずれにせよ、私は勇者としてまだまだ未熟だった。一刻も早く強くならなければ。
そんな私の胸中を察したのか、斜め前に座るサナのお父さんは心配そうな顔をしていた。
「あまり無茶はしちゃ駄目だぞ? 勇者とは言え君も女の子だ。その、辛かったら故郷に帰るという選択肢だって……」
「大丈夫ですよ。私がやりたくてやってるだけですから!」
故郷に帰るという提案は確かに魅力的だ。両親とはもう三ヶ月近く会っていない。勇者になると決めた時点で頻繁に会えなくなるだろうと覚悟は決めていたが、やはり寂しいものは寂しかった。
朝食を食べ終えた私は訓練に向かうべく身支度を整えていた。以前まではゆったりとした衣服を好んで着ていたが、最近は動きやすさを重視した格好にすることが多い。年頃の娘としてどうかとは思うのだが。
玄関へ向かうとそこには先客がいた。お気に入りの赤い靴を履いているのはサナだ。髪は綺麗に結ばれ、服も着替えているのでどうやら彼女も外出するらしい。
「あ、サナちゃんも出かけるんだ」
「うん! 今日は森にお花を探しに行くんだ!」
「へぇ、どんな花なの?」
「とっても大きなお花だよ! 友達も言ってたの。『あのお花を見ると願い事が叶うんだよ』って!」
おとぎ話にありがちな内容だなと思った。私も幼い頃は友達とそんな夢のある話で盛り上がったものだ。
ある日は高い木に登って見たことのない果実を取ろうとしたり。またある日は珍しい色の鳥を探しに行ったり。
そんな小さな冒険の数々は今でもよく覚えている。サナも今はそういった冒険にときめく年頃なのだろう。そう思うと少し微笑ましかった。
「そっか、でもあまり遠くまで行っちゃ駄目だよ? もしかしたら怖〜い魔物に食べられちゃうかも……!」
笑いながら「きゃあああ!」と可愛らしく悲鳴をあげるサナを抱き抱えてやる。
こんな風に笑って過ごせる日々を守るためにも、私は強くならないといけない。今一度強く決心した私は日課である訓練を受けるべく空き地へと向かった。
***
カコン、カコンという乾いた音が広場にこだまする。
木製の物体同士がぶつかり合うその音は、二人の人物の間から発せられたものだった。
「そこ、動作が大きいですよ」
「っ!……はい!」
白髪の教徒カタリスは的確な助言を送りながら木剣を振るっていた。その顔には汗ひとつ無く、呼吸も全く乱れていない。
対する私は息を切らしながら果敢に斬り込む。
ファティス教会本部のすぐ側にある開けた空間。そこは草一つ生えておらず、戦闘の訓練をするには最適な場所。私とカタリスはそこで木剣を交えていた。
木剣が軋むほどの激しい攻防。とは言え技量の差は明確だった。私が全力で繰り出した攻撃はいとも簡単に相殺され、カタリスはまるで赤子と戯れるかのように軽く受け流していく。
まるで手応えのないその感覚。焦燥感に駆られそうになるが、なんとか寸前で踏みとどまった。
人間は焦れば焦るほど冷静な思考能力を失い、手の内が読まれやすくなる生き物だと教わった。そしてそれを私に教え込んだのは他でもない目の前の教徒だ。
二メリル程度の距離を取って一度呼吸を整える。どこを狙い、何を誘うのか。頭の中でこの後の展開を思い描き、再び攻撃を仕掛ける。
「せあっ!」
上段から剣を振り下ろす……ように見せかけた下段への回し蹴り。カタリスはそれすらも読んでいたようで僅かに後ろに飛び退いた。私の脚は虚しく空を蹴る。
だがまだ終わりではない。私は持っていた木剣を退いたカタリス目掛けて全力で投擲する。
その時、彼の顔に一瞬だけ焦りが浮かんだ。
「……!」
回転しながら飛翔する木剣はいとも簡単に弾かれてしまったが、それによりカタリスの体勢が少しだけ崩れた。余裕のあった彼に僅かな隙が生じる。
「はあああっ!」
整った顔面に全力の右拳を見舞うべく、地面を蹴った。勢いよく右腕を突き出しながら私は勝利を確信していた。
しかしあと一手足りなかったらしい。私の拳はあと十セリルのところでカタリスの左手に止められてしまった。パシンッ!という肌と肌が接触する音が耳に届く。まさかあの体勢から防がれようとは。
拳を受け止めた張本人はニコリと笑う。
「お強くなられましたね、モモ様。三ヶ月前とは見違えるようです」
「ありがとうございます。まぁ今日も勝てませんでしたけど……」
私は不貞腐れながら腕を下ろした。
三ヶ月前から始まった身体を鍛えるための訓練。主な内容はある程度自分で選ぶことができたため、私は剣術と格闘術を志望した。
だが幸か不幸か、教会内でそれらを最も得意としていたのはこの男。枢機卿カタリスだった。
色々と因縁のある相手なので最初は戸惑った。何しろ理由があったとは言え両親の記憶を勝手に弄った男だ。懸念しない方がおかしいだろう。
しかし驚いたことに師となった彼は実に頼もしかった。カタリスは訓練を始めてからすぐに私の特徴や細かな癖を見抜き、随時的確な助言をくれたのだ。
そのおかげで剣の振り方さえ知らなかった私はたった三ヶ月で大きく成長し、ついに師の顔面を殴り飛ばす一歩手前まで辿り着いたのだ。
特に深い意味はないが、やはり殴れなかったのは少しだけ残念だった。
自分の爪の甘さに思わずため息が漏れる。
「気に止むことはありませんよ。私はあくまで対人の技術を幾つか会得しているだけですから。魔物相手なら生きては帰れる保証はありません」
「カタリスさんぐらいの人でも魔物には勝てないんですね……」
それを聞いたカタリスは残念そうに目を伏せる。
「えぇ。相性次第では善戦できるかもしれませんが、基本的には呆気なくやられてしまうでしょう。そもそも私の洗礼武装は戦闘向きでは無く、どちらかと言えば戦後処理に特化したものなので」
「あんなにすごい力なのに戦闘向きじゃないんですか?」
対象を眠らせることができ、記憶すら書き換えてしまえる力。私は中々に強力なものだと思っていたが、当のカタリス自身はそうでもないらしい。
「はい。私の今の役目はエルベ様の身の周りのお世話をすることですが、以前は『忘却』の美徳を説く司教を務めていました。
忘却とは即ち過去からの解放。魔物に襲われ、愛する人を失い、心を閉ざしてしまった人々から辛い記憶を取り除く。それが司教であった頃の私の役目。この洗礼武装もそのために授かったものです」
カタリス右手を持ち上げ、嵌められている銀の指輪を見せた。
今の話を考慮するとあの力の内容にも納得がいく。
忘却。それは過去にあった出来事を忘れてしまうことだ。それが楽しいものだったか、辛いものだったかは人によって異なるだろうが、そうやって人は忘れることを繰り返して前に進んでいく。
私も我が儘で羞恥心のなかった幼少期の記憶は忘れたい。それこそ二度と蘇ってこないように蓋をして土に埋め、その上から錘を乗せてしまいたいほどに。
とにかく基本的に人には消したい過去があるものだ。しかし忘れようと思って忘れられるほど人間は器用な生き物じゃない。
それを洗礼武装の力を使って実現するのが、かつてのカタリスの役割だったということだろう。
実際、私の両親も「娘が勇者に選ばれてしまった」という辛い記憶を上手いこと消され、今は普通の生活を送っているはずだ。
流石に三ヶ月も家に帰らないと両親が心配してしまうのではないかとも思ったが、カタリスはその辺りもあらかじめ考慮し、都合良く解釈するように仕込んでいたらしい。全くもって便利な力だ。
だがそれ故に恐ろしい。
──もしかしたら気づいてないだけで私も記憶を弄られてたりして……?
急にそんな不安に駆られ、私は腕を抱きながらカタリスから数歩離れた。
あり得ない話ではない。勇者になると決めたのは確かに自分自身だが、この記憶も後から埋め込まれたという可能性は否定できないからだ。話を聞いた限りカタリスの洗礼武装ならそういった芸当も可能だろう。
この覚悟が誰かに用意されたものだなんて思いたくない。あの日、震える脚を抑えてエルベの前で高らかに宣言した自分は確かに本物だったはずだ。
私の胸中を悟ったのか、カタリスが軽快に笑う。
「安心してください。モモ様にこの力を使うようなことはありません。何故なら貴女は不都合な事実を忘れ去るのではなく、それを受け止めて前に進むことを選んだ強いお方だ。
その心の在り方は歴代の勇者様に劣らない素晴らしいものです。どうかそれはお忘れなきよう」
そう言ってカタリスは左胸に手を当てて頭を下げるファティス教特有の敬礼をした。
掴みどころの無い人物ではあったが、彼にお世話になったのも紛れもない事実だ。こうして三ヶ月もの間、任務を放り出すことなく私を鍛えてくれた。その恩はもちろん忘れない。
一応彼に感謝を伝えようとしたその時。
「カタリス猊下、ご報告があります!」
そう言って突然広場に駆け込んできたのは一人の教徒。その人物は息を切らしながらもカタリスの耳元に顔を近づけ、何やら囁き始めた。
それを聞き届けたカタリスの顔が曇る。
「……頃合いのようですね。モモ様、新しいお召し物を用意させますのでそちらに着替えてから大聖堂にお越しください。エルベ様がお待ちしております」
「お召し物……? 何かあったんですか?」
「はい。貴女には最初の任務へ向かって頂くことになりました」
***
訓練が終わった後、私は一度自室に戻った。濡れた布で身体を拭き、清潔になった私は教徒から受け取った不思議な装いに着替える。
肩出しの白い肌着、その上に纏っているのは袖なしの外套。色は髪と同じ桃色だ。
腰は帯革できっちりと固定され、下にはヒラヒラとした筒状の衣服を履いている。丈が短くて恥ずかしいが、ちょっと可愛い。
その他には指先まで馴染む手袋、太腿まで覆う長い靴。胸元には蝶々のように結ばれた繊細な織物等。
平凡な農家の娘から一点し、まるで私は旅する少女のような姿をしていた。そんな自分の格好にそわそわしつつ、大聖堂の扉を叩く。
ハルティノの街に滞在し始めてから早くも三ヶ月が経過しているが、ここに脚を運ぶのはこれで二回目だった。
最初に訪れた時はその内装の美しさに夢中になっていたが、今訪れてみると少しばかり緊張してしまう。
銀髪の女教皇エルベの姿があった。その姿は前回見た時と変わらず神秘的で人形のように美しい。彼女のすぐ側には二人の教徒が控えていた。
私に気づいたらしいエルベが丁寧にお辞儀をする。
「お待ちしておりました、モモ様。勇者としての装い、実に似合っていますね」
「えへへ……そうですか〜?」
エルベに褒められ思わず照れてしまったが、私はふと冷静になった。
──えっ、これ勇者の正装なの!?
勇者は全身を鉄の鎧で固めたような姿だと勝手に想像していたのだが、実際に渡されたのはあまりにも可愛らしい装いだった。
乙女としては喜ばしいが、この姿を見て人々は「勇者様だ!」とは思わないだろう。
エルベはコホンと咳払いしてから話を続ける。
「お呼び立てしたのは他でもありません。モモ様に魔物の討伐に向かって頂くためです」
エルベが話を切り出すと、近くにいた二人の教徒が大きな紙を広げた。そこには墨で何やら絵が描かれている。おそらくこの辺りの地形を記したものだろう。
地図上には現在地であるハルティノと思しき街があり、エルベはその左上に広がる森を示した。
「つい先日、ここハルティノの北西方面にある森にて一体の魔物が確認されました。外見の特徴と過去の記録を照らし合わせた結果、それは『花』と呼ばれる魔物でしょう」
「花……? どんな魔物なんですか?」
「情報によると大きな花のような姿をしているといわれています。なんでもその姿で獲物を誘い出し、幾つもの触手で捕らえてしまうそうです」
──大きな花……。
つい最近、そんな単語をどこかで聞いたような気がした。何か重大なことを忘れているのではないか。突然そんな不安に駆られ、原因を突き止めるべく記憶を遡る。
「現在、魔物は森の中の泉周辺に陣取っているようですが、いつ街を襲ってきてもおかしくはない状況です。ですので──」
エルベの話もほとんど頭に入ってこなかった。やがて私の頭に浮かんできたのは今朝の会話。朝食後のサナとのやり取りが一字一句そのまま再生される。
「うん! 今日は森にお花を探しに行くんだ!」
「へぇ、どんな花なの?」
「とっても大きなお花だよ! 友達も言ってたの。『あのお花を見ると願い事が叶うんだよ』って!」
そう言ってサナは北西の森へと向かってしまった。願いが叶うという「大きな花」を見つけるために。
「サナちゃん……!」
嫌な予感がして、私は考えるよりも先に身体が動いていた。赤い絨毯を踏み締め、全力で引き返す。背中越しに困惑したエルベの声が届く。
「お待ちくださいモモ様! どちらに向かわれるおつもりなのですか?」
「その森に行ってきます! 今ならまだ間に合うかも……!」
こうしている間にもサナの身には危険が迫っているかもしれない。どうしてあの時止めてあげられなかったのか。
この世界には【魔物】という末恐ろしい存在がいると知っていたはずなのに。
強く歯を噛み締め、走り始める。しかしそんな私を止めるかのように、一つの人影が往く手を阻んだ。そこには見慣れた白髪の男が立っている。
「邪魔しないでください、カタリスさん!」
「そんなつもりはありません。モモ様、こちらを」
カタリスは至って冷静に、白い棒状の物体を差し出した。長さは百セリル程度。白を基調に所々に桃色の線が走っているその物体は何かの祭具のような印象を受けるが、その形状は間違いなく剣だった。
「これは……」
「モモ様のために作られた洗礼武装です。名を【ロセウム】といいます。事情は存じ上げませんが、おそらくこれは必要になるかと」
洗礼武装。祝福を除けば魔物に傷を負わせることができる唯一の手段。それは未だ祝福が発現していない私にとって、今最も必要なものだった。
「ありがとうございます!」
もはや一瞬たりとも無駄に出来ない。
サナが花の魔物の元へと辿り着いてしまう前に彼女を連れ帰らなくては。
カタリスの手から白い剣を受け取った私は全速力で大聖堂を飛び出した。