1.日常はいとも簡単に崩れ去る
雲一つ無い青空。
という訳でも無いが、目の前には実に鮮やかな空模様が広がっていた。
例えるなら青と白の染料を混ぜて薄く伸ばして描かれた絵画のよう。
肌を撫でる心地の良い風。鼻腔をくすぐる土の匂い。
それら一つ一つをじっくりと堪能してから身体を起こす。
「ん〜、よいしょっと!」
お尻についた土を払って立ち上がる。
ここは豊かな自然に囲まれた【カルム村】。この丘の上からだとその全貌を見渡すことができる。
まず真っ先に視界に入ったのは我が家だ。白銅色の石材で築かれた壁に赤い煉瓦の屋根が映える。煙突からは黒々とした煙があがっている。もしかしたらお母さんが料理をしているのかもしれない。
その隣には大きな倉庫。こちらは木造建築で家と比べるとどこか物足りない外観だが、良く言えば保存という役割を果たすことに特化した構造といえるだろう。
続いて石畳を挟んで逆側に広がっているのは大きな畑。形も色もバラバラな多種多様な果物、野菜の存在が遠目で見てもわかる。
お父さんの話によると畑は縦横共に二十メリル程度の規模らしい。
今の私の身長は百五十セリルなので、メリルに換算すると一.五メリル。
単純に計算すると私を縦に十人積み上げても届かない長さだ。
そう考えると毎日畑の様子を確認して回るお父さんの苦労が伝わってくる。
自宅周辺の地形はざっとそんな感じ。
そこから石畳の道を通ってまっすぐ北方面に向かうと他の村人達の住宅や雑貨屋を始めとする様々な店が連なっている。
雑貨屋では髪飾りや指輪といった綺麗な装飾品も取り扱っている。当然、子供の私には少額のお小遣いしかないので買うことは出来ないが、それらを見て回るだけでも充分楽しい。
そういった店があるおかげで退屈することはない。
そんな村の中心には一本の鐘塔が突き立っている。白亜の石材で築かれたその塔は十メリルの高さを誇り、村の建造物の中だと一際目立つ。上部にある黄金の鐘は少しくすんではいるが、響かせる音色は中々のものだ。
そして村全体を囲っている木製の柵。所々に棘が仕掛けられているその柵は、【魔物】の侵入を防ぐためのものらしい。
だが実のところ私は魔物という存在を目にしたことが一度もない。そのため大人達の噂や本の内容から姿を想像することしか出来ないのだが、「大きな角が生えている」という人もいれば、「何本もの手足を持っている」と記載されている文献もあった。
結論から言うとどれも信憑性に欠ける。果たして村の外には本当にそんな奇怪な生物達が生息しているのだろうか。
頭の中で魔物とやらの形を思い描いていると、重厚感のある鐘の音が耳に届いた。もちろん村の鐘塔から発せられているものだ。鐘は一日三回、朝、昼、夜の始まりを告げるために鳴らされる。
今朝は既に一度目の鐘が鳴らされているので、これは昼の休息を知らせるための鐘だ。村人達はこの昼の鐘がなると昼食をとり始め、一休みする。
そこまで考えてから、ふと私は大事なことを思い出した。
「あっ、いけない。お母さんと昼食を作る約束してるんだった!」
丘の上で優雅に日向ぼっこをしている場合ではなかった。私は乱れた前髪を整え、短い草木が生えた丘を駆け降り始めた。
***
私の名前はモモ。農家に生まれた一人娘だ。
名前の由来は髪色が桃の花のそれに似ていたかららしい。
血は繋がっているため母の髪色も私に近いのだが、細かく言うと私より少しだけ薄い。所謂桜色という色だ。
受け継いだ特徴は何も髪色だけではない。
母親譲りの可愛いらしいこの顔に、父親譲りの運動神経。まさに両親の良い所を受け継いだ恵まれた子供と言えるだろう。
蝶よ花よと愛でられてきた私は豊かな自然と共にすくすくと成長し、今年で十五歳を迎えた。
今はこうして昼食を作るお母さんの手伝いをしているが、幼い頃は男の子達と混じって土臭い匂いと共に野原を駆け回っていた。
お母さん曰く男の子にも負けないぐらい活発で、それは手のつけられない子供だったらしい。
私は都合の悪い記憶には蓋をしてしまう人間なので、その頃の思い出はあまり覚えていない。というか思い出したくない。
ともあれ十歳を超えた辺りからようやく女の子としての自覚が芽生え始めた私は、髪や衣服といった身だしなみにも気を遣うようになった。
だが子供の頃に染み付いた習慣は中々抜けない。丘の上で澄んだ空気を取り込み、陽の光を全身で浴びる行為はもはや日課になりつつある。
当然、地面に寝転べば服は汚れるし髪も乱れる。乙女としては禁忌に等しい行為である。なるべくそういった行動を控え、可憐な少女になることが当面の目標だ。
隣に立つお母さんはナイフで手際良くパンに切り込みを入れ、そこに火の通った薄い豚肉とみずみずしい野菜を挟んでいる。極め付けに何やら刺激の強い匂いがする粘稠液状の調味料をかけ、そこに一つの作品が完成した。
その過程を見ているだけで空腹が刺激される。
「お母さんってすっごい料理上手だよね。私もお母さんみたいに上手く出来ればいいんだけど……」
お母さんを真似てパンを切り、具材を詰め込んでみたが、出来上がったそれは理想とは程遠かった。なんというかぐちゃっとしている。
それを見たお母さんがくすっと笑う。
「大丈夫よ、お母さんもモモぐらいの歳の頃はナイフで指切ってばかりで大変だったもの。だからモモがお嫁さんに行く時までにお母さんがみっちり教えてあげるからね!」
「あはは……お手柔らかに」
こういう時のお母さんは本気だ。
普段は優しいが料理や裁縫といった女の子要素が絡むと途端に豹変する。
おそらく娘の私にはきちんとした家事能力を身につけて欲しいのだろう。
いつか婚姻して家庭を持った時のために。
──お嫁さん、かぁ……
自分が誰かの元に嫁ぎ、家事をする姿はとても想像できない。そういう願望が無いわけでは無いのだが、私もまだ成人前の子供だ。故に将来について考えるのはまだ難しかった。
そんな未来のことを考えながら呆けていると、お母さんが私の肩を叩いた。
「モモ、お昼ご飯出来たからこれお父さんのところまで持って行ってくれる?」
差し出されたのは木編みの籠だった。中からは香ばしい香りが漂ってくる。先程作ったばかりのパンが入っているのだろう。
「うん、わかった」
慎重に持ち手を受け取る。お父さんも今頃お腹を空かせている頃だろう。冷めたら美味しさも半減してしまうだろうし、一刻も早くお母さんの手料理を届けなくては。
いつか私もこんな素敵なお母さんになれるといいな、なんて思いつつ玄関から外に出た。
目の前に広がっているのは見慣れた畑。
広いといっても育てている植物の身長は低いので、ここからでもお父さんの姿を捉えることは出来た。
遠目でも目立つ赤い髪、逞しい身体。間違いなくお父さんだ。
どうやら午前の作業は既に終わっているらしい。農具は地面に放ったらかしにされ、お父さんは東の方を向いて突っ立っていた。
転ばないように気をつけつつ、私は小走りでお父さんの元に向かう。
「お父さーん、お昼ご飯にしよ〜!」
しかし返答は無かった。私の声が届いていないのか、お父さんは心ここにあらずといった様子で立ち尽くしている。
「お父さん?」
そこで異変に気づき、歩く速度を落とす。
耳を澄ませると微かに話し声が聴こえた。一つはお父さんの声、もう一つは知らない人の声だ。
「誰だろう……?」
正確な内容までは聴き取れない。好奇心に負けた私は静かに畑へと侵入し、植物の影に隠れながらこっそりと近づいていく。
やがてその声は明瞭になり、お父さんともう一人の人物の姿もはっきりと見えた。
その者はゆったりとした白い外衣を纏っている。六月とは言え今日はそれなりに暖かい。あのような厚手の衣服を纏っていて暑くないのだろうか。
目元は頭巾で隠れていて見えないが、声の低さからしておそらく男性だろう。身長はお父さんより少し高い。百七十セリルぐらいだと思われる。
首からは特徴的な金の首飾りを下げていた。独特な形をしているが、何を象ったものなのかはわからなかった。
ある程度の距離まで近づいた私は再び二人の会話に聴き耳を立てる。
「なんで、うちの娘なんですか……どうして……!」
「教皇様が取り決めになられたことです。神託の結果、選ばれたのは貴方の娘さんでした」
声を荒げるお父さん。対して白いローブ姿の男は感情の乗らない声で淡々とそう告げる。
「そんな……嘘だ……」
お父さんは目を見開き、力なく膝をついた。
体調でも悪いのだろうか。そう思い駆け寄ろうとしたが、何故か身体が固まってしまったかのように動けなかった。
まるでここから飛び出してはいけないと私の本能が告げているかのように。
「これも神のお導き。モモ様は必ずやこの世界を魔の手から救い出してくれるでしょう」
白い外衣の男は首飾りを握り、天へ掲げるような動作をとる。その姿はどこか不気味で寒気がした。
それと同時に一つの疑問が頭を過ぎる。
──どうして私の名前を呼んでるんだろう?
少なくともあの男との面識は無い。
ならば一方的にあの男が私を尋ねてきたということになる。
加えて神の導き、世界を救うという言葉の意味もわからない。
ひとまず家に戻ろう。お母さんならあの男の言っていることがわかるかもしれない。そう思い後退りし始めたその瞬間。
耳元で羽虫が通り過ぎた。
「わわっ!」
虫は苦手では無いが、流石に不意をつかれるとどうしようもない。私は思わず声を出してしまった。
辺りは静まり返っている。今の声は明らかに目立ち過ぎた。
慌てて口を抑えるが、もう手遅れだった。
いつの間にか私のすぐ真横には男が立っていた。一瞬の出来事に唖然としてしまう。
先程まで人形のように無表情だったその顔には薄い笑みが浮かんでいた。
「そちらにいらしていたんですね。わざわざ出向いて頂き感謝します。勇者様」
「勇、者……?」
勇者様、という言葉は間違いなく私に向けられたものだった。
その意味を理解する前に、お父さんが声を張り上げる。
「モモ、逃げろ!!」
鉄性の鍬を両手に握りしめたお父さんが男へ突進する。私は一切状況が飲み込めなかった。
「いけませんね。教会に逆らうということは神に逆らうことと同義。それ相応の罰を与えなければ」
男は呆れた様子で振り返り、その細い指先でお父さんの眉間に触れた。
何が起こったのだろう。あれだけ威勢の良かったお父さんの動きが不自然にピタリと止まった。畑に一時の静寂が訪れる。
やがてお父さんは糸が切れた人形のようにその場でうつ伏せに倒れてしまった。行き場を無くした鉄製の農具が土の上に転がる。
その光景に居ても立ってもいられず、私はその場から飛び出してお父さんの元へと駆け寄った。
「お父さん!」
何が起きたのかはわからない。だがそんなことよりもお父さんの方が心配で仕方がなかった。
身体を揺さぶってみるが反応はない。最悪の結末を想像してしまい、目元に熱いものが込み上げてくる。
そんな私を見た男は、優しい口調で語りかけてきた。
「安心してください勇者様。お父様には眠って頂いただけです」
「お父さんから離れて!」
「錯乱されているのですね。わかりますとも。他の勇者様も最初は貴女と同じように戸惑ったそうですから」
ハハッと軽快に笑いながらも男はお父さんの側から離れようとはしなかった。頭巾の下から覗くその目は笑っていない。私から見てもこの男は“異常”だった。
急に真顔に戻った男が口を開く。
「ですがそれは出来ません。その者は明確な殺意を持って私を襲おうとしました。それはとても罪深き行為です。教会に伝わればきっと重く苦しい罰を課せられることでしょう。あぁ、なんと哀れな……」
わざとらしく目元を抑える男。
お父さんがどうしてこの男に襲いかったのかはわからない。だがそれはきっと私を思ってのものだ。それだけは間違いない。
そんな心優しいお父さんが罰せられるなんて許せなかった。
いつの間にか屈んでいた男は私の耳元でそっと囁く。
「勇者様、お父様を助けたいとは思いませんか?」
「助けられるの……?」
男はその言葉を待っていたとばかりに勢いよく立ち上がった。
再び大袈裟な動作で両腕を広げ、天を仰ぐ。
「えぇ、えぇ、もちろんですとも! 何故なら貴女は勇者様なのですから! 貴女のご意向であればこの程度の罪、神はお赦しになられる!」
そう叫ぶ男の表情はどこか恍惚としている。果たして神に酔っているのか、あるいは勇者と呼ばれる存在に心酔しているのか。
どうあれ普通の少女でしかない私に残された選択肢など一つしかなかった。
意を決し口を開く。
「……私は、どうすればいいんですか?」
冷静さを取り戻した男が無機質な声で応えた。
「簡単です。私と共にファティス教会の本部へ参りましょう。そこで教皇様とお話しして頂くだけで、全て丸く収まります」
ファティス教会。聞いたことの無い名前だ。
とは言え神に仕えることを目的としている集団なら、その装いにも合点がいく。
非常に怪しい団体だが、お父さんの罪を許してもらうためには言う通りにする他なさそうだ。
震える身体を押さえつけ、私はコクリと頷いた。
男は土で汚れることなど意に介さずその場で膝を突き、頭巾を取って顔を露わにした。
波打つ白髪が風に揺れる。
「名乗りが遅れて申し訳ありません。私はファティス教会の枢機卿の一人、カタリス。ずっと貴女を待ち侘びておりました。“百人目の勇者”モモ様」
カタリス。そう名乗った男は整った顔の上に取ってつけたような薄い笑みを浮かべていた。