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滝の手鞠と兎と狗と

作者: 菅原もみぢ

 盆から一月が経った時節外れに、少女は曾祖父母の郷を訪れた。

 体調を崩しがちな少女には、わざわざ来る必要はないと両親は気遣ってくれたけれど、話にしか聞いたことのない曾祖父母の郷に興味があった。


 父の運転で数時間の果てに辿り着いたのは、道の整備もされてはいない、買い物をできるような店もない。街灯も見当たらない、山の合間に作られた小さな集落であった。

 曾祖父母の家の取り壊しについて、管理を任せている者に話をするため、数日間を滞在の目途に、到着初日は挨拶回りや、墓参りで陽暮れとなった。

 少女の中に曾祖父母の記憶はなく、写真も残っていない他人であったけれど、曾祖父は集落にあって信頼も厚かったようで、身罷って久しい今となっても、昔語りを聴くことが多かった。こんな田舎まで墓参りに来てくれて、感心なものだと両親を頻りに褒めていた。会う人会う人に、面影を感じる、似ている、何もないところではあるがゆっくりしていきなさいと声を掛けられた父親は人当たりのする笑みを浮かべながら家々を回っていた。


 最後の一軒への挨拶が済んだ去り際、玄関を一歩出たところで思い出したように昔話を持ち出したのは集落の長である老婆である。

 曾祖父母の世代の子供はよく滝へ遊びに行ったものだと、懐かしげに呟いたのを耳聡く拾ったのは少女だけであった。両親は背を向けており、老婆も人の反応など気にする風でもない。丸まった背中を薄暗い部屋へと引っ込めていた。

 集落を一回りをして少女が抱いた感情は友人のものとは少しだけ違っていた。友人は親戚の田舎に行く煩わしさを嘆いていたけれども、少女にとって初めての田舎巡りは新鮮なものであった。無論恙無くというわけではなかったけれど、親の隣で愛想良くしていれば、構われることもなくなり、今はまだ友人が辟易するほど面倒なものとも思われなかった。

 それでも会う人間は皆少女の祖父母と近い世代であり、少女と同世代の者はおろか、父母の世代の人間すら稀であった。盆参りの時期から外れていたことも、理由の一つかもしれなかった。

 ともあれ、閉塞感のある淀んだような中に、若い存在が発生すれば、血縁の有無に依らず年寄りは構いたがり、集落を一巡りした最後には果物や野菜、あるいは手製の菓子と、盆の供え物らしい物品を押し渡されていた。

 少女はその晩、長旅の疲れや慣れない年寄り付き合いのために、食後すぐにうとうとと舟を漕ぎ出した。両親が明日のことを相談する声が遠くなる中で感じる古い畳の匂いは嫌いではなかった。輪郭を失う意識の中で老婆の言葉がいつまでも頭の中に響いていた。



 陽が昇る前の山の朝は冷え、蒲団から零れた手足を思わず引っ込めていた。隣の家も遠く、両親も眠っている家は静謐に満ちており、耳鳴りがするほどの寂漠であった。踏めば沈む畳。雨戸を開けば遠くに見える暁に雲は欠片も無い。寒露に濡れた庭の草花が艶やかに輝き、空気は凍る。

 両親が起き出さぬようにひっそりと家を抜け出すと、少女は東の滝に向けて歩み始めた。朝露に匂い立つ土を胸に満たし、若草の瑞々しさにを浴びる。しっとりと濡れた土を踏む足取りは軽い。明るみを増す方角が東であるという推測を微塵も疑いもせず、一本道に迷いはない。

 住人の姿も見えない今は、世界に自分だけがいるようで心地好さは一入であった。誰にも邪魔をされない気安さに自然と表情は綻んでいた。

 集落の寒さは、普段よりも一枚余計に重ねただけでは心許なく、誕生日に友人がくれた上着をさらに羽織っていた。けれど歩むにつれて徐々に汗ばみ、胸許をはためかせて風を送ることになった。迷いようのない一本道からは、家屋が消え、収穫の終わった田圃が左右に広がる。見上げた朝焼けには薄い雲が流れて来た。

 滝の影は未だ見えず、田圃への引水が細やかなせせらぎを響かせる。この水の源こそが滝であろうと予想を付けて少女は足を止めず、やがて土道は草道となり、時に獣道となり、徐々に勾配を増し、山道へと分け入る。潺を見失い、思い掛けない悪道にも構わずに進んだのは、足許を汚してまで滝を見ないのが悔しかったからに他ならない。

 徐々に昇る陽に空は明るみを増すが、聳える峰に陽の出はまだ遠い。高い木にも遮られ少女の行く道は薄暗いままである。

 足を滑らせ、枝に服を引っ掻け、木の葉を浴び、蜘蛛の巣に捕らわれ、山道を徨っていた少女はやがて見つけた清流を辿り、徐々に流水の幅は広くなり、先程までの流れが支流であると知った。


 ようやく滝へと辿り着いた。

 それは少女が生まれて初めて見る本物の滝であった。

 老婆の昔話に招かれた少女が見つけた滝は、三階建の建物ほどの高さの、幅は大人が四人腕を広げたほどのものであった。

 滝壺は轟と唸り、伸びる流れは広く、豊かな水から顔を出す石は大小様々である。あるいは平坦で、あるいは尖り、いずれも少女一人くらいでは、びくともしない大きさで、滝壺の縁には特別背の高い岩があった。

 大部分は凹凸もなく滑らかであり、苔もなく色の斑もない。岩で別れ、再び交ざり、白波を立てる流れは鋭い。東雲の空に照らされる水飛沫は霧となり、少女の肌で弾ける。


 澄んだ空気に臓腑を晒すと、火照った身体に霧の冷たさが心地好かった。顔を撫でる涼気の清々しさに身を任せると感覚が鋭敏になり、朝鳥の鳴き声も、草露の匂いも、花の彩も、把握できた。

 腰掛けに丁度良い石で身体を休めていると、学校でのこと、家族とのこと、集落にやって来てからのことが一秒ごとに忘れ去られていった。伴って感情もなくなり、美しい世界を甘受する人形のようであった。

 聳えた峰から陽が零れ始める。花も木も鳥も水も、今この世界は自分一人だけのものだった。

 静やかな世界は桃源郷も斯くや、とてもとても美しかった。一つ羽休めを終えて、川の幅を等間隔に区切るように生える飛び石を見止め、戯れに一つ目の石に足を置いてみる。ぐらつくことはおろか微動もしない。安心して石に移り、次の石を確かめて、移り、確かめ、移る。対岸に向けて渡ってゆく歩幅は、普段よりも少しだけ広い。


 その内の二箇所は他よりも距離が大きく、少し勢いをつけなければ届かないくらいの隙間であった。弾むように一つ二つと飛び移り、やがて対岸に渡り切る。童心に返ったように自然に混ざる今の時間が楽しかった。人眼を気にする必要もない解放感は得も云われぬ心地好さであった。

 一度と云わず二度と云わず。あちらに渡り、こちらに戻り。飽きることなく、延々岸の往復を楽しんだ。風に乗る水飛沫に衣を濡らし、服を斑に染めるのも悪い気分ではなかった。

 はしゃぎ疲れてきた頃でもあった。履物がスニーカーではなく、お気に入りのブーツであったのもいけなかったのだろう。


 しかしそれ以上に大きな理由があった。


 少女が石を移る最中、視界の隅に一つの人影を見た気がした。

 居るとも思わなかった人影に気を取られた足許は疎かに宙を踏んだ。

 あれと思う間もなく、踏み出した左足は水に嵌まり、赤ん坊の瞳よりも澄んだ清らかな水へと身を落とした。徐々に迫る水面に声も出ず、気付けば凍る水に濡れ鼠となった。

 一拍遅れて、息が詰まり、心臓が締め付けられる。陸から見るよりもずっと深く身体が埋まる。半ばパニックに頭は真っ白となり、もがき手足をばたつかせ、飛び移ろうとしていた石に抱き着いた。溺れることはなかったが、腰まで浸かる身を切る冷たさに、喘ぎ、瞬く間に体温が抜けていくのが知覚できた。滴る水も膚に張り付く濡れ羽も、纏わりついた衣もそのままに呆然としていた。

 我に返る眼前の、手を伸ばせば届くすぐそこに、一つの鞠が揺蕩っていた。岩の合間に挟まって、二進も三進もゆかないという風采の、燃えるような緋色に黄色の花が咲き、鮮やかな色糸が描いた美しい柄は可哀想にどこまでも濡れていた。


 手鞠を救い上げた瞬間。少女は敏感に何かの気配に気付いた。


 糸で引かれるように視線はぐるりと巡り、一つの岩の奥へと固定された。少女が川渡りを楽しんでいた場所よりも上流、滝壺の淵に聳える丸みを帯びた大岩は大の男の姿さえ易々と隠してしまうほどである。その奥に何者かが潜んでいると少女の五感が告げた。


 自分を落とした原因がそこにあると。


 身動ぎもせずに一点を、穴が開くほど見つめたが、相手も我慢比べとばかりに動きを見せることはなかった。

 しかし不意に訪れた一陣の風に少女はくしゃみをし、均衡が崩れた。


 岩陰から覗いた顔と眼が合い、驚きにお互い言葉もなく、静かに見つめ合っていた。滝の唸る音と軽い水の破裂音が世界を占めていた。

 少女が言葉が発せなかった理由は、覗いた顔が兎であったことに他ならない。

 兎はそのまま隠れることもなく時間が流れ、少女が手許に移した手鞠から雫が落ちる。手鞠は少女の手に安心して収まっていた。

 濡れた衣が重く、上手く身体を引き上げられず、ざぶりざぶりと清流を掻き分けて岸に上がる。兎の視線は静かに少女を追い掛ける。

 自分を追う視線には値踏みするような厭らしさはなく、純真な好奇心を向けられているのだと理解した。くるりと振り向けば兎の肩が跳ね、ちらと覗いた着物の鮮やかさ。

 濡れた前髪を雑に掻き上げ近付こうとすると、兎は岩陰に回り込み、さらに少女が近寄れば、石から石へと重さもなく、言葉の通り脱兎と逃げる。対岸に渡り、ふわりと舞った袂がしんと垂れる頃、少女を振り返る。

 そっと胸の高さに掲げた紅葉が少女を手招く。

 その仕種は遊び相手を求める子供のように思われ、遊びに乗ってやろうと少女は兎を追うことに決めた。

 水浸しになったブーツも脱ぎ捨て、美しい手鞠を片手に兎を目指す。


 兎と少女の鬼ごっこが始まった。


 小柄な兎が跳ねる度に、華やかな袂が躍り、裾が跳ね、白足袋との隙間からほっそりと可愛らしい足が覗く。時に近付き、すぐに離れ、揺れるように距離が変わる。もう一歩で手が届くと確信した途端、兎はするりと少女の指を擦り抜ける。手鞠のようにころころと転げる兎は、無言ながらも楽し気に見えた。綿のように音もなく空を飛ぶ軽やかさは、無邪気さと相俟って空へと攫われてしまいそうだった。鼻歌を歌うような兎に対して少女は肩で息をして、すっかり青息吐息ながら精一杯幼子を追い掛けた。

  

 少女が膝に手をついて深呼吸をする間、兎は逃げるのを止める。身体を揺らし、くるりと舞い、少女の様子を見遣り、そうかと思うと無防備に近付いて、小さく跳ねては、少女の気を引き、眼の前で手を振る素振りすら見せるのであった。眼の前の兎に手を伸ばすこともできず、乱れた息を整えるので精一杯であった。

 伏せた顔を覗き込む兎の顔が眼と鼻の先に迫り、あわや触れるところで慌てたのは少女であった。慄いた拍子に尻餅をつき、深紅の宝石に見下ろされる。小首を傾げて可愛らしく、片手を口許に添えていた。

 意地になり、掴まえようと伸ばした両手も空を切る。

 少女が自分の相手をできなくなったと知った兎は、少女に背を向け歩み去り、滝の奥へと姿を隠す。兎の通り抜け様、幽かにその姿が淡くなって見えた。最後に振り返った兎の、何だか勝ち誇ったような雰囲気が癇に障り、少女は半ば自棄に重い足を引き摺り動き出した。何としても負かしてやろうと、それだけが少女の気力となっていた。


 今更濡れることも厭わず滝を潜ろうとした少女であったけれど、水の勢いは想像を遙かに上回り、兎の軽やかさでは抜けられず、水に潰され危うく溺れる思いをした。滝の裏を覗き込むも、隠れたはずの兎は風に吹かれた煙のように、跡形もなく姿を消していた。

 陽の光も届かない深い滝裏を端まで見渡しても何の影もなく、残り香もありはしない。

 裏から見る滝は眼新しく、音が籠もり、反響し、まるで自分がどこにいるのかがわからなくなる。夢幻と消えた兎を求めて今一度滝を潜るも、鬼ごっこの気配を残すものはなかった。張り付く衣の重さを今になって実感し、濡れた身体が冷えてゆく。身震いをして、くしゃみが一つ。今一度溜息をついた瞬間、林の奥で木が揺れて、露草を踏む柔らかな音が響いた。いつの間にあんなところに行ったのかと、音の出処を凝視していると、姿を見せたのは先程の可愛らしい兎ではなく、すらりと背の高い一人の女であった。

 いや、女と云うのは正確ではなかった。


 何故ならその人物は狗の面を被っていたのである。


 深草色を基調とした白い格子の着物を纏う。帯は仄かに朱が混じる黄色であり、その色合いは一眼で少女の気を惹いた。滑るような足取りに何気ない手指の動き。立ち居振る舞いから褄捌きの一つにまで、高貴な者の気配を感じた。

 突然の訪問者に戸惑い、眼を丸くしたけれど、一つだけ明確な結論を得ていた。


 この狗は兎の身内であると。


「おや。人の子とは珍しい」

 心底意外と云う声色が寂寞に抜ける。滝壺の唸りも、鳥の囀りも、梢のざわめきも遠く霞む、凄まじく美しい音色であった。吐息すら失われる世界で、女の声だけが二重三重の響きを以て広がる。揺らぐ音は品の良い楽器の心地好さで伸びやかに、疲れ果てた少女の眠気を誘った。

「どうもうちの兎が失礼をした。すまぬが、それを返してはくれぬか」

 女の顔がそっと傾ぎ、少女の熱を帯びた手鞠を示す。そのつもりで兎に近付いたはずが、いつしか始まった追いかけっこの末、兎に遊ばれ、返せず終いとなっていた少女は躊躇いもせず女へと差し出した。幽かに指先が触れた瞬間、ふわりと香る甘さは香木に似る。

 兎が鞠を落とさなければ。せめて早う受け取ればよかったのだが。

「すまんの。面倒を掛けた。しかし娘よ……」

 ふむと小さく鼻を鳴らし矯めつ眇めつ、少女を見下ろす。尖る鼻先が、鋭い牙が、底知れぬ鳥羽色の玉が少女を縛り付けた。

 徐に伸ばす白魚の指の美しさに少女は見蕩れ、自身に近付く指先から眼が離せなかった。零れた袖から覗く膚は白いと云うより蒼褪めて、冬の気配を孕むようだった。

 人差し指で少女の額を、咽喉を、胸を軽く衝き、透ける掌で瞳を塞ぐ。柔らかな温もりが冷えた身体に伝わり、初めは顔に、首に、胸に、やがて手足に至るまで、陽の香りに抱かれた。

 微睡みに沈んでいたようにぼんやりと、ふわふわと取り留めの無い意識は夢見心地の温かさである。濡れていた黒髪は淑やかに朝の風に揺れ、鬱陶しいほど膚と一つになっていた衣もさらりと乾く。

 兎も手鞠も狗も。すべて一時の幻かと思われた。

 しかし裸足の両足は、清流の畔に残したブーツと靴下は、先までの景色が夢でないことを示す。鬼ごっこの足跡も乾き、少女は一人残されたのだった。

 幻視するように見上げた空は高く、秋が遠山の稜線を縁取っている。

 微風が秋草の芳しさを載せてきた。


 

 初めて訪ねた滝は少女に大きなものを残した。

 ブーツを履き、紐を結んだところで眼に飛び込んだのは、兎が着ていたのと色違いの鮮やかな着物で、兎の紅に、こちらは納戸であった。咲く花も等しく、大きな牡丹が幾つかに、色取り取りの小さな花が彩りを添えた。

『それは詫びの代わりだ』

 納戸の着物を一掬い。少女は滝を顧みて一時の幻に想いを馳せる。滝壺の岩陰に兔を見た気がした。

 気付けば長居をしてしまった帰り道。日常の諍いも、悩みも、煩わしさとも無縁の晴れやかな心持ちで土を踏んでいた。

 感度を増す五感は強く風の匂いを受け止め、そこに混じる土の匂いを、花の匂いを、草の匂いを、木の匂いを感じさせた。時に甘く、時に鋭く、時に濡れた匂いを。踏む土が沈む僅かな感触を、傷から漏れた草汁の匂いを。足を滑らせ崩れた土の揺らぎを知らせた。空気の孕む水の粒さえ認識できるようで、日常の世界は、滝からの帰りで一変した。

 水滴に陽光が差し、弾け、広がり、収束し、虹が十重二十重に揺蕩う。


 帰り道は迷うこともなかった。羽が生えたように足取りは軽く、研ぎ澄まされた感覚に身を任せ、ふらふらと右へ流れ、はたまた左に漂った。露を抱えた女郎蜘蛛の巣を弾き、獣の足跡を辿り、花の蜜を吸い、時刻はいつしか昼食時を過ぎていた。



 麓に降りた時、人の姿はどこにも見えなかった。家々の窓や煙突からは香ばしい昼餉の気配が溢れていた。

 曾祖父母の家の近くで擦れ違った野良仕事の帰りの老人は、昨日の挨拶回りに顔を合わせていた人物であった。視線が交わり会釈をした少女は、濁った嫌な気配に僅かに顔を顰めた。

 あぁ、昨日の。

 普段見ることのない若い顔は老人への印象も強かったようで、馴れ馴れしく横柄に話し掛け、視線は少女の抱く美しい着物を瞬時に捉えた。少女の持ち物とは思えない、一眼見て高級な着物を見た老人の眼の色が変わる。一歩二歩と少女へ迫り、伴って少女の足が退がる。

 自身の一張羅すら見窄らしく劣ってしまう、美しい花の咲く納戸色に、老人が放つ気配には淀みが混ざり、ねっとりと重い不快感に息が乱れる。欲に当てられ、眩暈を起こす。

 その着物はどうしたのだ。

 いただいたのです。

 誰に。

 素敵な方に。

 それは誰のことだ。

 ごめんなさい、急いで戻らないといけませんから、失礼します。

 矢継ぎ早の詰問を遮り背を向けるも、諦められない老人はしつこく少女へと迫り、鈍黒い影が少女を捕まえようと腕を伸ばして見えた。禍々しい不定形に後退る足が縺れてしゃがみこみ、雲も無い満天の空まで瞬くうちに暗転する。少女の視界に広がる老人の影は卑しさを腐臭とし、濁った澱が空気を穢す。一際強く着物を抱く。狗の女に縋るように。

 煙の様に曖昧であった黒影の先端が色を濃くし、輪郭を形作る。逃げることも忘れた少女が呆然と影に呑み込まれようとした瞬間、鮮やかに影を祓う風が吹いた。

 ぴくりと少女の身体が跳ね、同じくして老人がはっと眼を丸くする。瞬間見つめ合う二人には、夏の気配を残す秋の陽射しが再び届いた。

 金縛りが解けた少女は振り返ることもできず、知らず溢れた涙が着物の色を深めた。



「ただいま」

 おかえりと、帰ってきた娘を揃って迎えた両親は、置き手紙もなく姿を消した少女に一言伝えるつもりであったけれど、いつ以来見る彼女の泣き顔に戸惑った。怪我をしている風でもない、服が汚れているわけでもない、何があったのかわからず狼狽える。

「何かあったのかい?」

 言葉は妙な静けさを以て薄暗い玄関に沈む。

「ううん。大丈夫。ちょっと吃驚することがあってね。ごめん、少しだけ休むね……」

 自分の考えを伝えず、一人抱えがちな娘であるものの、今ほど様子のおかしい姿を見た記憶はなかった。ここ数年は家族にも涙を見せたことは無い。


 両親は互いに言葉を無くし、少女の背を見送るばかりだった。取り乱し様に虚を衝かれ、少女が大切に抱えていた着物も二人の記憶には残らなかった。幽かに朝露が香る。

 何かがあったのならば警察を呼ぶ必要があるだろうか。集落の長に声を掛けるべきだろうか。それとも、すぐにでも集落を立ち去る事が彼女のためになるだろうかと思案する。そのためにも話をする方がいいだろう。種々の考えが取り留めも無く頭を廻り、考えが整う前に別の思考が紛れ、答えが見つかるよりも先に玄関戸を叩く音に意識を引き戻された。


「娘さん、帰っとるかね」

 勝手に扉を開き現れた老人は、少女の着物を奪わん勢いで詰め寄っていた黒影の主であった。挨拶周りで顔を合わせてはいたものの、娘を名指しすることに小さくない違和を覚えた。泣いて帰って来た娘のすぐ後に、彼女を訪ねた老人は好々爺然とした笑みを浮かべていたけれど、タイミングの良さは気味が悪かった。

「昨日はどうも。すみませんが、娘は長旅のせいか、寝込んでしまいまして……娘に何か?」

「いやいや、大したことじゃないんやが、まあそれなら、ええよ。お大事に云うといて」

「伝えておきます。どうも」

 心配を装いながらも値踏みをするような視線を家の奥や少女の靴に向ける様子に虫の知らせを聞いた。

 この老人が娘の一件に関係しているのだろう、と。

 去り際にも再三家を振り返り、雨戸の奥を透かし見るように凝視していた。

 集落の様子がおかしく見えたのは、その夜であった。

 老人たちが頻りに家を訪ねて来た。何かと理由を付けて家に上がろうとする老人も一人や二人ではなかった。あるいは訪ねずとも、往来の際にちらちらと覗き見るような気配を感じる。その多くが娘のことを口に出し、いよいよ両親の疑念は確信へと変わっていった。



 窓を閉め、障子を閉め、襖を閉め、どこからも悪意が漏れ込まないように堅く部屋を閉ざし、臥せる座蒲団には線香が移っていた。

 老人の背から膨れ上がる黒影を思い出しては頭を振り、しかし忘れようとするほどに悪夢は強く根を張って離れない。明確な悪意を含み、自分へと指を伸ばす異形。

 自分に触れる直前、黒影が弾かれ、一瞬間だけ暗黒が晴れたのは、女の着物のおかげだと信じていた。彼女が自分を守ってくれたのだと、当てもなく信じていた。女の着物に縋る間は、嫌な記憶を忘れることができた。怖い思いを忘れることができた。


 温かく柔らかな桃の香りは、瞳を塞がれた一時を思い起こさせた。幽かに混じる乳の香りは懐かしく、正絹を抱き締める力に合わせて強く、弱く。鼻孔から肺腑を濯ぎ、吸い込んだ悪夢を攫って掃き出す清浄。

 水に落ち、兎と遊び、女に出会った幻夢に浸り、幸福な世界を想い起こす。無邪気に駆ける兎の足取りを、優美な女の振る舞いを。眼前で弾ける水飛沫の一粒を。

 今を忘れるために、夢に溺れる。

 抱くだけでは足りず、端々まで丁寧に畳まれていた着物は夢への惑いに広がり、乱れ、少女を安寧へと誘う。身動ぐ度に着物は解け、差し込まないはずの風に揺れ、少女を包んでゆく。頭から爪先までを、一欠片の悪意からも覆い隠す着物の檻に少女は穏やかに微睡み、夢の中で再び兎と遊ぶ。


 家族と年寄りの騒がしさは聞こえない。

 少女は座蒲団に埋まり、畳に沈む。着物の中には薄桃の芳しさが満ち、十重二十重に匂いが層を成し、表層が廻り少女を守り続けた。

 陽が暮れた頃に眼を覚ました少女の心持ちは幾分穏やかさを取り戻していたけれど、未だ顔色は優れない遠い笑みの夢見心地。



 夕食になっても自室に籠もった少女が姿を見せることはなかった。気に掛けた父親が襖を一寸開いた先の少女は、見たこともない青い布を頭から被り、猫のように蹲り、部屋の隅の行燈も静まっている。

 眠っているのか起きているのかも判然としなかった。

 寝息も無く、衣擦れも聞こえない。それでも声を掛けるのを躊躇わせたのは、泣き顔への遠慮であった。そっと部屋を後にして戻った先、両親は翌日の予定を相談し直した。

 少女の様子がおかしいのは、早朝からどこかに出掛けていたことが原因であろう。彼女が帰宅するなり老人達が家を訪ね始めたのは偶然とは思えない。老人たちとの間にトラブルを生じたことが考えられる。今は老人達も鳴りを潜め、互いを牽制する雰囲気を見せていたけれど、誰かが一線を越えれば、形振り構わず危害を加えてくることは否定しきれない剣呑な空気があった。


 ぎしりと二人の後ろで床が軋み、ぞっと振り返ると、柱にしな垂れかかり両親を窺い見る少女があった。くしゃくしゃに丸めた女の着物をぎゅっと抱えて表情はぼんやりと、未だ夢に微睡むように。

「大丈夫かい?」

 父親の声が聞こえていないのか、少女は反応を示さずに立ち尽くしたままであり、寝乱れたままの髪が頬に張り付いていた。

「大丈夫か?」

「あぁ……うん、……ちょっと元気になったよ」

 少女の言葉とは裏腹に顔色は優れない。時折着物を口許に押し当てるのを見て、漸く両親も尋ねることができた。

「もし何かあったのなら、きちんと云いなさい。今日の様子はちょっと普通じゃなかったよ。集落の人に何かをされたのか?」

「ううん。何かされたわけじゃないよ」

「本当かい?」

「うん……この着物をさ、もらったんだ。それでおじいさんに聞かれたの。その着物はどうしたんだって」

「それで?」

「綺麗な人にもらったって云ったら、そのおじいさんから靄みたいなのが出てきて、それが真っ黒で……すごく怖くてね」

 抱き抱えたままの着物を慈しむように撫でる指先は白く、さらさらと軽やかな音とともに生まれる香りは、花よりも甘く、清冽な爽やかさが古い和室に仄かに広がる。

 少女の表情に両親は些か以上の不安を覚えた。遠い眼をした娘がそのまま消えてしまうのではないかと思えてならなかった。力無い笑みはとても儚く、現実感を失わせていた。

 それが怖くて父親は少女の肩を掴んだのだけれど。


「っっ、いやっ!」


 か細い悲鳴とともに腕を払い退け、揺れる瞳は焦点を失い、浮かぶのは恐怖であった。息は荒く、爪が立つほど身体を抱きしめる。

 少女の喘ぎだけが沈黙を破り、着物に顔を埋める。やがて息も落ち着き、顔を上げる頃には瞳は色を得た。

「ごめんなさい、ちょっと……びっくりしちゃった」

「本当に大丈夫かい?」

「うん。大丈夫。もう、落ち着いたから」

 顔を隠すように大切に抱える着物が乱れ、一際強い香りが届いた。

 少女の様子は思いの外深刻であり、改めて相談をするまでも無く両親の間で一つの結論が出た。

 今晩の内に、この集落を去ろう。



 走り疲れ、黒影に苛まれ、楽しい想い出を、忘れ難い恐ろしさを一時に浴びた少女は後部座席で丸くなっていた。車の振動の度に女の着物からは華やかな色が飛び出し、香り立ち、静かな車内を塗り替えてゆく。車内に浮かぶ花は蓮華であり躑躅であり撫子である。浮かんでは流れ、置き替わり、移ろい、一年を駆け、遡る。朗々たる月影が静かに刺すばかりである。

 幻想に浸る中で、両親が語らう。その声は水の中から聞くようにぼんやりと間延びし、少女の耳には届かない。水面を漂う睡蓮のように。少女は着物に包まれている。

かつて子供の遊び場だったという滝は、人の気配もなくひっそりと静まり返っていた。誰もいない滝で少女は出会う。兎の面をした童女と狗の面の手弱女に。その二人はきっと人間ではなかった。

 兎の粗相で転がった手鞠を拾い、それが縁となり少女が出会う偶然。

 兎は手鞠を求めて少女を見遣り、少女は手鞠と兔を見比べる。手渡そうと近付けば兎は逃げ、離れれば近寄る。互いに引き合う星のように距離が縮まらない、離れない。痺れを切らした少女が駆けると、兎は一跳、嬉々として逃げる。手鞠のことなど忘れたように、少女から逃げ続け、挑発するように振り返り、手招いた。



 夢の中で少女は再び兎に会った。



 滝も、水も、森もない、何もない真っ白な世界に少女と兎の二人だけ。今は女もなく、少女の手には美しい手鞠が一つ。少女が近付いても兎は逃げず、近付いて来る少女をまじまじと見つめな、立ち居振る舞いは穏やかである。面の下の表情はささやかな笑みであろう。

 大きな花の咲く手鞠を差し出すと、兎は紅葉の両手でふわりと受ける。手も小さく指も細い、触れれば壊れてしまう造形は硝子細工めく繊細。手渡しに少女と兎の指が触れ、兎が驚き、手を引いた。

 大切な手鞠を胸に掲げる兎はくるくると踊り、身体に遅れて袖が揺れ、袂が振れる。裾から覗く細い足は白雪。赤い鼻緒が派手やかに強く眼を引いた。くるりと廻り少女から離れ、くるりと滑って少女へ近付き、やがて離れて遠去かる。兎の足踏みに合わせて手鞠の鈴がりんと鳴り、ころころと転がり、少し籠もった音色が谺する。 くるくるくるり、くるくるり。


 兎は少女に正対し。片袖を手繰って手鞠を衝いた。

 一つ衝いた地面から浅葱の波紋が広がる。

 一つ衝いた地面から深緋の波紋が広がる。

 一つ衝いた地面から山吹の波紋が広がる。

 一つ衝けば朱鷺色が。

 一つ衝いて紺桔梗。紫紺、紺青、紅樺、常盤、茜、金赤、胡粉色。


 兎が手鞠を衝く度に、手鞠の色糸から解けた彩りが純白の世界を染めてゆく。

 初めは芝が、次には夏草、梅、薄、桃、藤、、薄竜胆、桔梗刈萱女郎花。土が広がり、草が乗り、花が開き、木が伸び、枝葉が茂り、梢が揺れ、騒めく。湧き起こる水は止めどなく滾滾と。兎の背後から生まれた水が溢れる一条の流れは、緩やかに蛇行する。湧水は広がり、兎の足許を飲み込み、徐々に少女の元へと辿り着く。爪先を、足裏を、踏んでいた下草とともに踝を飲み込む。


 流れは蛇となり、白く美しい、鱗さえつるりと滑らかな柔らかな手触りで、次第に太くなる胴は腕ほどに膨らみ、温度のない陶器めいた艶やかさで少女の足に絡む。血を舐めた舌がちらりと笑い、触れようと伸ばした指を擦り抜け、蛇は振り返りもせずに見えなくなる。蛇の通じた轍に水が満ち、滔々と淀みなく蛇を追う。水嵩はついに膝に届く。

 流れの色は花筏。散った花弁が混交し兎と少女の顔を照らす。木が立ち揃い、滝が始まり、山が頂を重ねるまでになった景色は、始まりの滝である。

 滝は白糸を導き、弾けた水は霧雨となって二人に届く。赤い明暗を伴う秋月の影に照らされ、二人の姿は残らず水飛沫に浮かぶ。弾け、くっつき、千切れ、空高く、流れに引き寄せられ、煌めき、遠近に現れては消える。

 手鞠に合わせて世界は鮮やかに移ろう。華やぐ満開の花弁に露が乗り、不意に口許を濡らす甘露。滲み入る風味に代わるものはなく、涼やかな薫風が漂う。兎の手鞠は心地好い音を、とつりとつりと刻む。それは時計の針よりも正確に。


 ぽつりと衝いて鈴が鳴り。

 とつりと衝いて風が舞う。

 兎は手鞠を掬って見せて、床しくふわりと振り上げられた手鞠から伸びる色糸は五色の虹となって少女の手に届き、柄模様の異なる手鞠を結んだ。視線が今一度交わる兎はきっと面の下で笑っている。兎の云わんとすることがわかり。


 兎に倣って手鞠を衝いた。

 指先を離れた手鞠は白蛇の水面で弾み、二十重三十重の細波を伝える。花筏は波に乗り、一つの生き物のように脈動し、流れ、舞い、風に掬われ吹雪となる。二人を満たす花いきれ。

 一つ衝き。二つ衝き。

 兎の鞠衝きにも負けない錦の妙は、彩雲を招き、月を誘う。日月が同居し、溶け合う昼と夜は螺旋を導く。星明かりが混じり、満天の夜空の奥には、全天の秋空が覗く。

 水面で別れた雫が星となり、一息の内に空を穿ち、微行する星座に四季が乱れる。星が増え、ちらめき、最後の星が飛び、眼まぐるしい景色は妙妙と。

 兎を真似て手鞠を掬い、解けた糸は縺れることなく、兎の許で鞠を編む。二人を渡る度に模様を変え、今は茜の二つ菊。両手で掲げる兎は微笑む。色が二人に橋を掛け、紅緋、山吹、翡翠、瑠璃紺は蜘蛛糸よりも細く、陽を浴び、月を浴び、星を浴び、珊瑚、花葉、白緑、勿忘草と、次第次第模糊となる。雫が奪った光彩は二人の髪に落ち、手鞠の円弧が虹を巻く。

 兎が投げて少女が受けて、少女が投げて兎が受ける。

 手鞠が二人を往復し、その度に景色は駆ける。枝垂桜は紅葉に、蝉の交じる向日葵は、空気すら凍る白銀に染まる。


 兎は水面を歩み、波も立てずに足を運ぶ。鏡を進むように、沈みもせず、浮きもせず。眼の覚める緋色から覗く足は、柔らかな花色に染まっていた。

 兎が一歩前に出れば少女も水を分け進む。一歩ごとに手鞠が弾み、眼くるめく煌めく。二人は手鞠を手渡すまでに迫る。

 既に世界は飽和し、何を差し挟む余地もない清冽な彩りの坩堝であった。

 兎が手を差し出し、少女は躊躇いなくその手を取る。二人の指が触れ、互いの色が相手に滲み、静かに色味を変えてゆく。少女よりも小さな兎の手に引き上げられ、少女もまた水に乗り、滝へと水を遡り、流れゆく花弁を超え、渡った花筏の数は知れない。花を跳び、石を踏む。


 不意に兎が水面にしゃがみ、はらりと掬った清水は指先を白練に染め、零れた欠片は氷雨となって少女に届く。袂から溢れた紅絹は夕焼けを思わせる。冷ややかな陽射しが眩しく、星は絢爛に、時折耐えられず地へと引き寄せられた。

 滝の音も間近に霧が二人に注ぎ、一粒には少女の姿が、別の粒には兎の姿が。あるいは過去の。あるいは未来の。見ることのできない夢の中の姿を。一粒ごとに異なる景色を広げ、少女の認識できない内に、変わり、混ざり、別れる。

 少女が、兎が、狗の手弱女が。無限の霧も三人の世界であった。

 足を止めた兎に従い少女も足を止め、滝の裏から現れた女を見遣る。女を出迎えた瞬間の兎の感情は、絡まった指伝いに少女へと流れ込み、瞳は爛々と、少女を引く力が俄に強くなる。

 優雅に歩み寄る手弱女もまた二人に違わずに水面に踊り、手を伸ばす。

 向けられた相手は兎ではなく少女であった。

 虚を突かれて兎と女を左見右見。兎はにこやかに頷き、花の香り高い女の手を握り返す。幽かに交じる沈香の甘さ。

 少女は両手に美しさを携え、二人の歩みの乗って滝を潜り……。



 唐突に身体を激しく揺すぶられた。



 少女の意識は三人の世界から攫われ、極彩色の明暗に縁取られた世界から呼び戻されたのは、車の後部座席であった。

 母親は泣きながら肩を揺すり、少女の覚醒に安堵の息を漏らした。夢に取り残された少女の意識は現実を認識できなかった。

 着物の香りは車中をうっすらと満たしていた。

「あぁ、よかった……よかったぁ」


 狗の女と被った母親に差し向けれた手は瞬時に握り返され、母親の熱は滝の二人とはまったく異なる、焼けるような錯覚に瞬時に幻夢は失われた。強く抱き締められ、嗚咽の混じる震える声が耳許で囁く。

 車は家に到着し、朝焼けの迫る空には月が茫洋と揺蕩っていた。

 夢の滝と同じ匂いの中にいた少女は母親の表情に気付かずに、どうしてこの人は泣いているのだろうと他人事のように見つめていた。

 それでも自分を抱き締めてくれる感触が嬉しく、幸福感を甘受していた。



 集落から戻って暫くの間、少女は昼となく夜となく、ぼんやりと滝の二人を懐かしんだ。夢に見ては喜び、見えなければ心淋しく、次第に二人の姿が霞むのを悲しみながらも徐々に現実に足をつけるようになった。

 いつか父親が集落から戻った明け方のことを教えてくれた。

 車が動き出すなり眠り始めた少女は道中一度も眼を覚ますことなく、あまりにも静かに寝入っていた。寝返りも寝言も、寝息すら聞こえず、声を掛けても反応を示さない。生きているのかと訝る両親は頻りに振り返るものの、着物に身を包んだ少女の様子は判然としなかった。まさか向こう側に逝ってしまったのではあるまいか。直前のこともあり、冷静を忘れるほど取り乱したらしかった。

 集落を立ち去って以来、少女があの土地を踏むことはなかった。家や蔵に残っていた種々の品は殆どが処分され、いくつかだけを家に引き取ると、土地の権利も手放し、終に集落とは縁が切れることとなった。



 いろいろなことに一段落が着き数年が経過した頃、少女は父親に頼み、再び件の集落へと連れて行ってもらったのだった。その間に集落の人間は数を減らし、当時の一件を記憶しているものも少なくなっていた。曾祖父母の家があった場所は、建物の跡形もなく、蔵も取り壊され、雑草が伸び放題の荒れ模様であった。父親は些少の感慨を覚えたようであった。

 当時を思い出し不安がる父親の付き添いを辞退して、一人で滝に辿り着いた少女は、知らず笑みを零した。当時と何も変わらない、誰に穢されることのない滝が少女を迎えた。

 懐かしい景色に。

 懐かしい匂いに。

 懐かしい気配に。

 願わくは、あの美しい人に会えることを。

 願わくは、あの可愛らしい兎に会えることを。

 

 そして少女の願いの通り、彼女は再会を果たしたのだ。



「おや、憶えのある匂いだと思うたら」

 音律も調子も高低も変わらない、並外れた楽器が奏でる、一切の淀みのない、清浄な上澄みをさらに濾した透明よりも澄んだ音色であった。思わず緩む頬を引き締め、少女は頭を下げた。

「少し、雰囲気が変わったの」

「そうでしょうか」

「あぁ。以前は……そうだな、今際の蝋燭のような匂いがしていた」

「それはきっと、あなたのおかげで。あの兎さんのおかげです」

「そうか。ならば結構なことよ。あれも、主との鞠遊びを楽しんでおったからな」

 女の言葉が事実であれば、少女にとってこの上ない幸いであった。

「この着物はお返しします」

 かつて女に貰った着物を返すために少女はこの滝まで足を運んだのだった。

「あぁ、その件は済まんかったな。着物のせいで主には怖い思いをさせてしまって。主には謝りたいと思っていた」

「いえ、そんな……とんでもないです」

「あの後、年寄りどもが供え物だのなんだのと、随分と持って来てわ。けれど何も貰えんとわかると、すぐに引き返しおってな。まったく滑稽じゃよ」

 黒紅の風呂敷に包まれた一抱えを受け取ってもらえ目的を果たすことができた。

「確かに受け取った」

 けれど少女の表情には翳りが見える。

「わざわざ持って来る必要もなかったのだぞ。何か思うところでもあったのか?」

 声色が仄かに和らぐ。夢の中で兎に語り掛けたような恩寵で。

 それがために少女の返答には躊躇いが混じる。

「あなたと兎さんにいただいた想い出が、私の中で膨らみ、私を満たし、私を占め、どうしてもあなたたちに惹かれてしまうのです。気が付けばこの着物に袖を通し、包まれ、滝の夢に縋ってしまいます。このままでは私はきっとあなたたちに惹かれるあまり、きっと現実に耐えられなくなります。ですから、私は……この着物をお返しに来たのです」

 告白する少女に対して女は神妙に頷いた。

「左様か。どうやら主には迷惑を掛けてばかりだな。主があるべき場所で生きていけるよう、願っている。妾らは当面ここにいるだろうから、またいつか巡り合うこともあるかもしれんな」

「そうかもしれません」

「直にあれも姿を見せるだろう。よければ一眼会ってくれ」

 静かに首肯し、拒絶されなかったことに安堵と歓喜が滲み、幽かに微笑む顔はいつになく幼く見えた。

 女は風呂敷包みを解くと納戸色の着物を取り、ばさり勢いよく広げた。鳴動する水流に着物を放り投げると、それは微行し緩やかに宙で広がり、解れた色糸の一本まで認識できる早さで静謐を揺蕩い、着物を貫く陽光は色を奪う。月白、白群、白菫、僅かに染まる光線とともに遂に滝壺へと至る。

 衣の色が水に溶け、着物であったはずの絹も形を失くし、流れ出した薄色の水が華やかに香った。過去の物になっていた匂いが瞬間強く鼻に届いた。

 あまりにも引き延ばされた時間に少女は言葉もなく眼を輝かせた。

 花色の水が流れ去った後、一拍遅れて漂い寄るのは、兎の美しい手鞠であった。


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