偽りの婚約
-VII-
北での戦いからユートが帰ってくることになりました。
戦いはとても激しいもので【中央の国】と【北の国】の両軍にたいへんな犠牲者が出ておりました。
最初のうち、ユートを含む中央の軍は【北の国】の領土を三分の一は奪う攻勢で戦いを進めていたのですが、プータック王の死が知られるようになると軍に動揺が広がりました。
そこから争いは一進一退となります。
やがて【北の国】が少し勢力を押し戻したところで両軍のあいだに一時休戦の約束が交わされたのでした。
シスフィーネはユート帰還の報を聞き、旧国境近くにまで馬車を出してお迎えに出ました。
ホノカが騎士エジムードに誘拐されたことを、その原因がシスフィーネにもあると感じ彼女はとても申し訳なく思っていたので、ユートにできるだけ早く謝りたかったのです。
「ユート様」
軍の天幕でシスフィーネは彼を一目見て、怪我もなく元気そうなのでとても安心しました。
まっすぐな眼差しでユートはシスフィーネを見つめると、あたたかな笑顔を浮かべます。
「ああ、あなたがシスフィーネ様なのですね」
「えっ?」
「戦いのなかで魔法を使いすぎたのですよ。おかげで自分のことが誰だったかも忘れてしまいました」
ユートは記憶を失っていました。
ショーマとホノカのことや、自分が別の世界から来たことも覚えていないのでした。
「あなたのことを忘れているなんて本当にすみません。私としたら、親友だったニーブンが私を庇って死んでしまったというのに、彼が最後に言い残した言葉すら思い出せないのです」
「まあ、あのニーブン様が……」
「シスフィーネ様は私の婚約者だというのに。でもこうしてお会いしてみると話に聞いた以上にあなたは可憐で美しい人だ」
シスフィーネは言葉を失いました。
ユートはシスフィーネの父によって都合のいいように失った記憶を教えられて立場を変えられていたのです。
王亡きあと主導権を奪いあう【中央の国】での駆け引きが続くなかで、シスフィーネの父は有能なユートを味方に引き入れておくことにしたのでした。
ユートの帰国後、プータックの妹で幼い竜帝の母であるカシミナという人が実権を握りましたが、バザン将軍という粗暴な男を重用することから反発は強く、敵対する者は次から次に増えるありさまでした。
「竜帝様のあの顔つき……やはりあれはカシミナ様とバザンの子なのでは?」
「しっ。そんなこと、大きな声で言ってはいけないよ」
いつしかバザン将軍がカシミナの愛人であることは公然の秘密にまでなっておりました。
それを咎める者、揶揄する者はカシミナが捕らえて殺してしまうのですから、彼女の人気は衰えるばかりです。
ユートも、シスフィーネと彼女の父を守りながら【中央の国】を離れ【西の国】に移りました。
「カシミナに味方するのも、敵対するのも、どちらも愚か者のすることだ」
シスフィーネの父をはじめ【中央の国】で竜帝の縁戚であるために貴族とされる一族の多くは争いのない【西の国】に亡命したのでした。
貴族たち一行を警護しながら西へ進むユート。
その目が憂いをおびていることにシスフィーネは心配しました。
「どうなさいましたの」
「何か……とても大事なことを忘れている。そんな気がしてならないのです」