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現代隠し神

 江戸時代。

 日本の人口はほとんど増えなかった。この一要因として、産まれて来た子供を殺してしまう“間引き”の風習があった事が挙げられている場合があるが、これは恐らくはプロセスが逆なのではないかと考えられる。

 “間引き”が行われるから“人口が増えなかった”のではなく、“人口を増やせなかった”から“間引き”が行われるようになったと考えた方が遥かに自然だ。

 限られた食糧生産量では、限られた人口しか支えらないのは当然の話。これを裏付けるように、様々な宗教で観られる性行為の禁忌は実は人口の増加を抑える為に機能していたのではないか?という仮説がある。

 間引きの風習を彷彿とさせる民話等は実は豊富に存在する。現在では妖怪として説明されるオバリヨン、スネコスリ、ノツゴ、座敷童等は間引きの風習の影響を受けていると言われているし、有名な怪談“累ヶ淵”が生み出され、広く流布した背景には、間引きの風習によって子殺しがリアリティのある物語として当時の人々に捉えられていたからだろう。

 そして、或いは“隠し神”の伝承もそんなうちの一つなのかもしれない。

 

 出雲真紀子には、最近、一つ心配事があった。同居している夫の父親の様子が、少しおかしいような気がするのだ。

 認知症に罹っている訳ではないと思う。だが、反応が鈍かったり、物忘れが酷くなったり、更に時折、まるで夢の中にいるような態度を見せたりと、明らかに以前とは様子が異なって来ているのだ。

 彼女は祖父と触れあった事がほとんどない。夫と結婚するまでは、高齢の人間と長い間一緒に暮らした経験など皆無だ。だから知らないだけで、或いはそれは普通の高齢者の当たり前の変化なのかもしれない。

 そう思いもした。

 が、それでも彼女から不安は消えなかった。

 それは恐らくは、彼女の家に、一歳になる息子がいるからだろう。

 

 子育てをする事は彼女の長年の夢だった。充分な愛情を注いで健やかに育てるつもりでいる。ただし、実を言うのなら彼女の家に経済的な余裕はそれほどなかったのだった。

 子育てをする為に自分は仕事を辞めざるを得なかったのだが、夫の収入は多いとは言えず、盤石とはとても言えなかった。夫の父親には一応年金収入があるが、月にわずか8万円程度でしかない。今後、介護が必要になったら、これまでのような生活をし続けられるかどうかはかなり怪しい。

 “もしも、お義父さんの介護が必要になったら、子供を保育園に預けて働きに出る事も難しくなる。

 そうなったら、一体、どうすれば良いのだろう?”

 つい彼女はそんな悪い想像をしてしまう。

 

 ――だから、かもしれない。

 

 とも出雲真紀子は思う。

 夫の父親の様子が気になるのは、そんな経済的事情の所為なのかもしれない。

 もっともそればかりが原因とは言い切れない。夫の父親がもし奇行を取るようになったなら、その被害を息子が受ける可能性はゼロではないのだ。夫の父親はまだ車を運転しているが、息子を乗せている時に事故を起こす危険だって考えられる。

 ただ、そんな不安を抱えつつも、彼女はそれを誰に相談する事もできないでいた。“同居している夫の父親が怖い”などと言ったら、まるで悪口を言っているように聞こえてしまうのではないかと思うと、気軽には口にできなかったからだ。

 そして、そんな折だった。

 彼女は“子取り”の噂を聞いたのだった。

 

 「コトリ?」

 

 それを聞くなり、彼女の夫は怪訝そうな顔でそんな声を上げた。彼女は直ぐに夫が“子取り”を“小鳥”と勘違いしたのだと察すると、こう付け足す。

 「子供を取ると書いて“子取り”。人さらいよ。近所に出るのだって」

 それは今日、彼女が公園で近所の母親達とのお喋りを楽しんでいる時に出た噂話で、なんでも古風な洋装の服を身に纏った年齢不詳の男が子供をさらうのだという。彼女がそれを聞いてイメージしたのは、最近ネット上で生まれたスレンダーマンという怪物だった。もっとも、痩せているという特徴をその子取りが持っていた訳ではないのだが。

 その説明を聞くと、帰宅したばかりの彼女の夫はスーツの上着を脱ぎながら、「それ、また例の“事案発生”ってやつだろう?」と皮肉交じりの声で言った。

 昼間の時間帯、普通は成人男性は職場で働いていると思われている所為か、ただ成人男性が町中にいるだけで“怪しい”と判断され、警察の通報情報に掲載されて子供を持つ親達の間で共有される場合があるのだ。

 別に自分が通報された訳でもないのに、彼女の夫はそれが気に食わないらしい。だから、そんな反応を見せたのだろう。

 「真面目に話しているのよ?」

 彼女がそう抗議すると、夫は少しだけ肩を竦めたように首を傾げ、「悪かったよ」とそう言ってからこう続けた。

 「しかし、あれだね。そういう心配性なところは君達母親の本能的なものなのかもしれないな。

 ……子供を護ろうっていう」

 それを聞くと「心配し過ぎだって言うの?」と彼女は文句を言うように問いかけた。今度はズボンを脱ぎながら、夫はこう応える。

 「まぁ、怒らないで聞きなって。

 その手の噂話は、この辺りじゃずっと前からあってさ、僕も子供の頃によく聞いたもんなんだよ。

 いつの頃からあるのかは知らないけど、恐らくは“隠し神”の一種なんだろうな」

 「隠し神って?」

 彼女の夫は大学時代に民俗学を学んでいた関係で、そういった類の話に詳しい。

 「教育の為の妖怪っていうのかな?

 見知らぬ人間に付いて行かないように子供に注意する為に使ったりとか、遅くまで外で遊んでいる子供に、お化けに連れて行かれてしまうぞ!って注意するのに使ったりとかするんだよ。

 隠れ座頭とか、油取りとか、隠しん坊とか、名前や性質も各地で様々…… 

 真剣に心配されたケースもあったようだけど、ただの俗信だよ。それほど気にするような話じゃない」

 その夫の説明に彼女は少し安心した。

 「古風な洋装とか、ちょっと変だなって思ってはいたけど、言われてみれば確かにそうかもしれないわね」

 そして、そんな事を言った。

 頷きながら、夫は返す。

 「仮にもし本当にそんな服装の子供好きの変人がいたのだとしても、この家の中にいる限りは大丈夫だろうよ。太一はまだ一人で外を歩き回るような歳でもないんだから」

 しかし、それを聞くと彼女は頬を軽く引きつらせたのだった。その様子の変化を敏感に感じ取った夫は「どうかしたの?」と尋ねた。彼女は慌てて答える。

 「いいえ。一歳だからって安心はできないって思って。だって元気にハイハイしているのだもの」

 「やっぱり、心配性だ」

 と、それに夫。苦笑しながら、「そうかもしれないわね」と彼女は返す。そして、心の中でこう続けた。

 “――本当に、心配性だわ、私は”

 実は彼女は夫に嘘をついて誤魔化していたのだ。彼女が本当に心配したのは家の中での事だったから。

 高齢になって判断能力の衰えた夫の父親が、息子に何か悪い事をするのではないか?

 彼女は“家の中にいる限り大丈夫”という夫の言葉を聞いて、ついそんな悪い想像をしてしまっていたのだ。

 

 昼。居間にいる夫の父親が、何事かを自分に訴えようとして止める。そんなしぐさを何度か繰り返していた。

 夫の父親にはのっぺらぼうのような印象があり、昼行燈という言葉がよく似合う。しかし、それでいて意外に背が大きく、存在感だけは矢鱈にある。だから、そんなしぐさを繰り返されると、嫌でも目立ってしまうのだ。

 出雲真紀子はその動作を不審に思っていたが、敢えて何も言わなかった。息子の太一は自分達の部屋のベビーベッドの上で気持ち良さそうに寝ている。さっき確認したばかりだ。だから、何も心配はいらない。

 「ああ、ええと、真紀子さん」

 ようやく夫の父親が口を開いた。「なんですか?お義父さん」とそれに彼女は返す。煩わしいとは思わなかったが、気にはなった。

 「あの、ほら、家によく遊びに来る近所の男の子がいるじゃないか…… えっと、確かヒ…」

 「ヒロ君?」

 ヒロ君というのはまだ六歳の男の子で、真向いに住んでいる。何故か彼女の家の庭に迷い込んで来たのを切っ掛けに仲良くなった。真紀子にとてもよく懐いていて、彼女としては一人っ子の太一の兄代わりになってくれるのではないかと期待している。

 「ヒロ君がどうかしたのですか?」

 彼女がそう尋ねると、夫の父親は瞬きをしながら「いや、どうもしないのだが、そのヒロ君がちょっと前に遊びに来てな。今、君達の部屋にいるぞ」と応えて来た。

 それに彼女は驚く。

 「どうして、もっと早く教えてくれなかったのですか?」

 乱暴をするような子ではないと知ってはいるが、赤ん坊がたった一人で寝ている部屋なのだ。そもそも止めて欲しい。

 「いや、すまん。何か忘れているような気がしていて、ずっと言おうと思っていたんだが、何故か思い出せなんだ……」

 そう夫の父親が言い訳を言い終えるのを待たず、彼女は自分達の部屋へと向かった。その言葉通りヒロ君はそこにいて、夫が太一用に買って来たまだまだ早すぎる絵本を一人熱心に寝そべって読んでいた。

 太一には少しも触れていない。

 彼女は無邪気な様子のヒロ君を見ると軽くため息を漏らした。

 「こんにちは、ヒロ君。よく来たわね。でも、家に入って来たのだったら、ちゃんと言わないと駄目でしょう?」

 そして、そう軽く叱った。

 すると彼はこう返す。

 「こんにちは、おばさん。

 でも、入る時にちゃんとおじいちゃんに言ったんだよ?」

 「お爺ちゃんにだけじゃなくて、私にも言って。それに、ここはお爺ちゃんの部屋じゃなくて、私達の部屋なのよ? 勝手に入っちゃ駄目でしょう?」

 それを聞くと、ヒロ君は頬を膨らませた。

 「だって、あの女の人が入って来なさいって言うんだもん!」

 その言葉に真紀子は驚く。

 

 ――女の人?

 

 「女の人って誰? 女はこの家に私一人だけよ?」

 それにヒロ君は首を傾げる。

 「でもいたよ? それに、前から時々見ているけど」

 その言葉に真紀子は恐怖を覚えた。

 嘘を言っているようには思えない。だけど、間違いなくこの家には自分以外の女性などいない。

 唾液を飲み込むと、彼女はゆっくりとこう尋ねた。

 「その女の人は、どんな姿をしているの?」

 「白い服を着ているの。多分、歳はおばさんと同じくらいだと思う」

 白い服。

 いかにも怪談といった感じだ。

 それから太一はこう続けた。

 「とっても優しくてね。撫でてくれるんだ。あ、太一の事も好きみたいだよ。ベッドにいる太一を撫でながらずっと見ているもの」

 それを聞いて、彼女の恐怖は一気に膨らんだ。

 「その人は今は何処にいるの?」

 太一はまるで風になびく草のような動作で不思議そうに身体を傾けるジェスチャーを見せると、

 「いっつもいつの間にかいなくなっているんだよね。ねぇ、おばさん。この家、押し入れの中とかに、秘密の抜け道とかない?」

 そう言われて、彼女は慌てて押し入れを開けてみたが、もちろん、いつも通りに衣服や布団や座布団が仕舞ってあるだけだった。何もいない。

 「本当に、女の人なんていたの?」

 それでヒロ君にそう尋ねたが、ヒロ君は「いたよ」と澄ました顔で言うだけだった。やはり嘘には思えない。が、これ以上訊いても仕方ないと思い、彼女はそれからはもう何も言わなかった。

 

 「アハハハ。そりゃ良い。納戸婆かもしれないぞ」

 夕食の時に夫にその事を話してみると、彼は機嫌良さそうにそんな事を言った。

 「納戸婆って?」

 どうせまた妖怪か何かなのだろうと思いつつもそう尋ねると「妖怪だよ。納戸にすんでいるっていう婆さんだな」と、案の定、そう返して来た。

 「お婆さんじゃないわよ。私と同じくらいって言っていたんだから」

 すると彼は「なるほど。それじゃ、ギリギリ婆さんじゃないな」などとおどけてきた。

 「あら? あなたはそんな歳の女と結婚したの?」

 呆れながら真紀子は返す。すると、頭を掻きながら「ごめん、ごめん」と返した後に彼はこう続けた。

 「……ま、もし仮に納戸婆だとしても別に良いじゃないか。元は神様だそうだし、優しいのだろう?」

 「真面目にお願い」

 それに軽くため息をつくと夫はこう返す。

 「ま、ヒロ君くらいの子供にはよくある事さ。自分の想像と現実の区別が付かないのだな。多分、その女の人は、ヒロ君の逞しい想像力が生み出した想像上の女性だろうさ」

 「そうかしら?」

 「それ以外に何があるって言うんだい?」

 そう言われて真紀子は、ヒロ君の言う女性が存在するのだとしてみた。見ず知らずの女性が自分達に知られないまま同じ家の中を徘徊していて、しかも息子の太一をずっと見ている……

 どう考えても怪談にしかならない。

 「ま、あり得ないわね」

 だから、そう応えた。

 ただ、そう応えながらも彼女は少しだけ想像してしまっていた。白い服を着た謎の女性が今もこの家の何処かから、すぐそこでハイハイしながら遊んでいる太一をじっと見ている姿を。

 怖い。

 その時、夫の父親が大きないびき声を上げた。その音に彼女は驚く。

 夫が帰って来るより前に夕食を済ませた夫の父親は、どうやらテレビを観ながら眠ってしまっていたらしい。

 それで彼女は深く大きなため息をついたのだった。如何にも呑気に見える。気楽そうで羨ましい。

 

 夜中。

 息子の太一は出雲真紀子の隣で大人しく眠っていた。幸い太一は夜泣きが酷い方ではなく、彼女達はそれほど睡眠不足に悩まされることはなかった。可愛い寝息の音が暗闇の中に微かに反響している。その小さな胸に耳を当てたなら、きっと幼い心臓の音も聞こえるだろう。そう思うと彼女はなんとも穏やかな心持ちになる事ができた。

 そっと手を伸ばして、頬を撫でる。

 そこでふと彼女は思い出した。今日、ヒロ君が言っていた白い服を着た女の話を。その女性ももしかしたらこんな風に太一の頬を撫でていたのかもしれない。

 「押し入れに秘密の抜け道」と、ヒロ君は言っていた。

 不安になって目をやってみたが、押し入れの方に誰の姿もない。やはり気にし過ぎだ。夫の言うように、その女性はヒロ君の想像の産物なのだろう。

 が、その時だった。

 彼女の身体は太一を撫でている姿勢のまま動かなくなってしまったのだ。

 ――金縛り?!

 そう思って必死に首だけを動かして辺りを見回したが幽霊も何もいなかった。が、不思議な事が一つ。何故か太一を撫でているその手だけは相変わらずに動き続けていたのだ。

 そしてそんな中で、彼女はずっと昔にも自分が似たようなことをしていたような気がし始めていたのだった。太一ではない、他の赤ん坊の頬を、自分は同じ様に撫でていた。

 そんな経験があるはずはない。

 理性ではそう分かっていた。自分が子供を産んだのは太一が初めてだし、他の赤ん坊の世話をしたこともないのだから。

 が、にも拘わらず、彼女の中のその有り得ない記憶は急速に膨れ上がっていくのだった。

 

 ――それはどこかの寂れた農村だった。

 家屋の一つで、彼女は横になって赤ん坊の頬を撫でている。近くには囲炉裏があって、その上には鍋が置かれていたが、中に食べ物は何も入っていない。水だけだ。さっきまで腹を空かして泣いていた赤ん坊は泣き疲れた所為か今ではすやすやと眠っていた。

 彼女は百姓の一人で、その子は彼女が結婚して初めて生んだ子供だった。

 今年に入って日照りが続いている。このままでは田んぼの稲は充分には実らない。そうしたら、家族は、否、村全体が飢えることになってしまう。そんな不安はあったが彼女はその一時だけはそれを忘れる事ができていた。

 ある時、家の外に何人かの気配があるのに彼女は気が付いた。何かを喋っている。どんな話をしているのかまでは分からなかったが、そのうちの一人が自分の父親である事だけは分かった。

 「――間引き漏れだ」

 そして、その会話の中に出て来るそんな単語を彼女の耳は捉える。

 ……わざと聞こえるように言っているんだ。

 彼女にはそれが分かった。彼女の父親は、産まれた子供を育てる事に反対していたから。彼女が頑なに育てると言い張り、結局は育てる事になったのだが、彼女の父親がそれを内心では面白くないと思っているのは明白だった。

 彼女は不安で堪らくなり、眠っている我が子を思わず強く抱きしめた。

 

 ――絶対にこの子を殺させたりしない。

 

 そして強く強くそう思った。

 

 目覚めると、出雲真紀子は全身に汗をかいていた。何か不吉で嫌な夢を見ていたような気がするが、それが何かは思い出せない。

 隣の布団を見ると、夫の姿がない。慌てて時計を確認すると、少しばかり寝坊をしてしまっていた。どうやら自分は目覚ましの音でも起きなかったようだ。

 「……起こしてくれれば良かったのに」

 リビングで勝手に朝食を用意して食べている夫を見つけると彼女はそう言った。

 「よく寝ていたものだからさ」

 それに夫はそう返す。

 「君は太一を撫でながら眠っていたんだぜ。よっぽど太一が可愛いんだな」

 そしてそれから可笑しそうに笑うと、そう続けて来た。

 「え?」

 それで彼女は自分が昨晩、太一を撫でている最中に金縛りにかかった事を思い出した。撫でていた手が止まらなかったのだ。そしてその所為で不吉な夢を見てしまったのだろうという事も。

 「どうかしたの?」

 彼女のおかしな様子に気が付いたのか、夫がそう尋ねて来る。

 「ううん。何でもない」

 と、彼女が答えるとそれほど気にする素振りも見せず彼は言った。

 「父さんはまだ部屋にいるみたいだ。多分、起きてはいると思うけど、何をやっているのだろうな?

 いつもの事だけど、父さんの分の朝飯の準備もよろしく頼むよ」

 「分かったわ」とそれに彼女は返す。

 そんな彼女の様子をじっと見ると、それから夫はこう言った。

 「今はまだ平気かもしれないが、辛くなったら遠慮なく言ってくれよ」

 「何の話?」

 「父さんの事だよ。申し訳ないとは思っているんだ。子育てだけでも大変なのに、父さんの世話まで君に押し付けて……」

 それを聞くと彼女は首をゆっくりと左右に振った。

 「別にいいわよ。あなたが悪い訳でもないのだし」

 ただ、そう応えながらも一抹の不安を彼女は覚えていたのだった。

 

 それから朝食の準備や太一の着替えや洗濯、掃除などの諸々の家事をこなすと、ようやく真紀子に自分の時間ができた。

 ただ、これといって何もする事がなかったので、彼女は自室のパソコンでインターネットに接続すると少しばかりネットサーフィンを楽しんだ。

 その時、ふとなんとなく江戸時代の子育てについて調べてみた。今ですらこんなに大変なのに、昔はどうだったのだろう?と疑問に思ったのだ。

 そこでこんな単語を見て驚く。

 「……間引き」

 何でも江戸時代では、子殺しが当たり前に行われていたというのだ。儒教の影響で芽生えた“子供は親の所有物”という考えや、死んだ子供の魂はすぐにまた生まれ変わるという当時の死生観の影響もあったのではないかという事だったが、それにしても本当は嫌だった親もいたのではないだろうか? なんと野蛮な風習だろう。

 真紀子はそう憤慨した。

 ただ、それから子殺しについて調べてみて少し考えが変わった。

 どうやら子殺しは飢饉の際に行われていたというのが一般的であったらしい。つまり、殺したくて殺していた訳ではないのだ。当時の食糧生産技術では、殺さざるを得なかったというのが実状なのだろう。

 そしてそこから翻って彼女は今という時代を考えてみた。

 現代社会では、高齢化の影響で現役世代の負担が重くなっている。そしてそれは出産や育児にも影響を与えていて、実際、現役世代の生活は徐々に苦しくなってきている。それはある意味では、江戸時代の状況に近付いているとは言えないだろうか?

 もちろん、彼女がそのように考えたのには、近い将来、義父の介護をしなくてはならなくなるかもしれないという彼女自身の心配があったのは言うまでもない。

 そしてその時に彼女は突然自分が昨晩に見た夢を思い出したのだった。

 「そうだった。私は間引きの夢を見たのだったわ……」

 彼女は何処かの農村の農婦で、そして父親が自分の子供を殺してしまわないかと怯えていたのだ。

 「なんで、あんな夢を見たのかしら?」

 彼女は心の奥底から湧き上がって来るような、言い知れぬ不吉な予感をその時感じていた。

 

 その晩、彼女は寝る前に夫に間引きについて質問をしてみた。その手の知識に詳しい夫は当然のように知っていて「当時と今じゃ、死生観が違うからな」などとまるで江戸時代の文化を庇うようなことを言った。

 「死んでしまった子供は、土間などに埋葬されていたそうだよ。“七つまでは神のうち”なんて言ってね、同じ人間としては扱われていなかったんだ」

 それを聞いて、なんだか彼女は違和感を覚えた。少なくとも彼女にとっては、子供を思うのに文化は関係なかったからだ。どんな文化でも自ら子供を殺すような事が、できるようには思えない。

 そんな彼女の心中を察しているのかいないのか、続けて夫はこんな事を言った。

 「それに現代だって子供を虐待して殺してしまう親はいるじゃないか。本人達に自覚があるかどうかは分からないが、この時代特有の生活苦の所為でストレスが溜まった結果、そんな行動に追いやられているのかもしれないぜ……」

 が、そう言い終えてから彼は気まずい表情を浮かべる。貧困とは言えないまでも、自分の家の状況もそれに近いと気が付いたからだ。もっとも、彼は彼女が息子を虐待するとは微塵も思っていなかったが。

 「そもそも人間ってのは本当は集団で子育てをする生き物であるらしい。子供というのは地域社会の共有の財産だったのだね。個々の家庭に子育ての多くを任せてしまっている現代社会の状況が、実は異常なのかもしれないな」

 気まずい空気を誤魔化すかのようなその夫の説明を聞いているのかいないのか、真紀子は深刻そうな表情で口を一文字に結んでいる。そんな彼女に対し、夫はもう何も言えなかった。

 

 ……うたた寝をしていた。

 その自覚はあった。だが、そう自覚しつつも、彼女は夢の中で自分が百姓の女になっている事を違和感なく受け入れていた。

 彼女は外で野良仕事をしていた。手に鍬を持ち、畑を耕している。

 そんな彼女の耳に赤ん坊の泣き声が聞こえて来た。きっとお腹を空かして泣いているのだと彼女は思う。早くご飯を食べさせてあげなければ。家のご飯は残り少ないけれど、自分の分を少し与えるくらいなら、きっと皆は文句を言わないだろう。

 区切りの良い所まで耕し終えると、彼女は鍬を置いて泣いている我が子のもとへ向かった。彼女はその泣き声を煩わしく感じる一方で、どこかで愛おしく感じてもいた。

 ところが、家の近くまで来たところで不意に赤ん坊の泣き声が止んだのだった。

 おや? と彼女は思う。

 泣き疲れてしまったのか、それとも空腹のあまり近くにある何かを口に入れて噛んでいるのか。もし変な物を食べていたらと心配になり、彼女は急いで家の中を覗き込んだ。

 すると、薄暗い家の中に誰かがいるのが見える。はじめ、よく分からなかったが、それはどうやら自分の父親のようだった。

 何をしているのだろう?

 父親は何か荷物を抱えていた。それが何かは分からない。肥料だろうか? しかし、家の中に肥料を置いておくとは思えないので腑に落ちない。

 やがて父親は家の裏口からやや慌ただしい様子で出て行ってしまった。不思議に思いながらも彼女は家の中へと足を踏み入れた。

 そこで彼女は愕然となった。

 ――赤ん坊がいない?

 そう。寝床で寝ているはずの赤ん坊がいなくなっているのだ。布団を捲っても見つからない。近くに転がていないかと捜しても見つからない。

 ――何処にもいない。

 探し疲れた彼女は、一呼吸の間の後で気が付いた。

 ――父親だ!

 さっき父親が抱えていた荷物のようなものはきっと赤ん坊だったのだ。

 それから彼女は慌てて家の外に飛び出していった。自分の父親は赤ん坊に何をするか分からない。以前は間引こうとすらしていたのだから。

 それから彼女は野良仕事もせずに父親と赤ん坊を探した。父親の方は夕方過ぎに戻って来た。戻って来た父親は「赤ん坊など知らない」と白を切った。それで彼女は赤ん坊を捜し続けたのだが、夜まで捜しても見つからなかった。

 そして、赤ん坊が行方不明になったのは“隠しん坊”という化け物の所為にされてしまったのだった。

 「恐ろしいことだ」

 と、父親は言った。

 だが、彼女には分かっていた。その隠しん坊の正体が、自分の父親であることを。少しでも食い扶持を節約する為に、父親は赤ん坊を殺してしまったのだ……

 

 ――目が覚めた。

 

 「おばさん! 起きて! おじいちゃんが大変なんだ!」

 

 目が覚めると目の前にはヒロ君がいて、必死な顔で出雲真紀子に向けてそう訴えていた。

 「どうしたの?ヒロ君」

 と、彼女は尋ねる。そう尋ねながら彼女は酷く不吉な予感を覚えていた。

 彼はこう返す。

 「太一が泣き止まなかったんだ。だからぼくはおばさんを起こそうと思ったのだけど、そうしたらおじいちゃんが“よく寝ているから起こすのは可哀想だよ”って言って、太一の所に………」

 そこまでを聞いたところで出雲真紀子は駆け出していた。“夫の父親が太一を殺そうとしている!”。そう思ったからだ。

 太一が寝ている自分の部屋のドアを開ける。するとそこには異様な姿の “もの”がいた。古風な洋装に身を包んだ長身の男。それがベビーベッドの上で前屈みになっている。太一に何かをしようとしている。

 ――子取りだ!

 彼女はそう思う。

 子供をさらうという噂話の中の化け物。

 しかし、次の瞬間、気が付いた。その顔には見覚えがある事を。

 「お義父さん!」

 それは夫の父親だったのだ。

 「何をしているんですか! やめてください!」

 彼女は突進していくと、そのまま“子取り”の姿をした夫の父親に体当たりをした。夫の父親は何も声を上げずにその場に転がる。それを多少は奇妙に感じはしたが、太一の安全の確認の方が先だった。

 見てみると、太一は横になっておむつを外されていた。傍には替えの為の新しいおむつが用意されてある。何処にも怪我はない。それどころか笑っている。無事だ。

 そしてその様子は、どう見ても、ただ単におねしょをした太一のおむつを替えようとしている途中にしか思えなかった。

 あれ?

 彼女は不思議に思って、自分が突き飛ばした夫の父親を見てみた。すると、目を瞑って寝転がっている。意識がない。服も古風な洋装などではなく、いつも通りだった。

 「――ちょっと、お義父さん?」

 揺すってみたが目を覚まさない。死んでいるように思える。

 「……おばさん?」

 と、そこでヒロ君の声が聞こえた。部屋の出入り口から、自分を訝しげに眺めている。彼女は慌ててこう返す。

 「これは違うの。お義父さんが太一を襲っているように見えて……」

 ところがそれにヒロ君はこう返すのだった。

 「何を言っているの? 太一のおむつを替えている最中におじいちゃんが倒れて、だからぼくはおばさんを呼びに行ったんだよ?」

 そう言われて、出雲真紀子は愕然となる。

 え?

 だって、さっき、確かに私が突き飛ばして……

 だが、悩んでいる暇はなかった。それから彼女は急いで救急車を電話で呼んだ。しかし、既に時は遅く、夫の父親は完全に絶命していたのだった。

 

 父親が死んで、彼女の夫が悲しんでいたのは確かだった。だが、それ以外の感情もその複雑な表情を見ればありありと感じ取れた。

 在宅介護を行っている人間の負担は深刻で、聞いた話では自殺を考える者が2割にもなるという。自分の家庭の場合、そこに子育ての負担も重なるのだ。妻が堪え切れるかどうか分からない。これでは将来を不安に思わない方が無理がある。

 だが、彼は父親が死んだお陰で、その不安から解放された訳だ。

 「本来なら、国が支援するべきだと思うんだよ。出生率の低下がこれだけ深刻なんだからさ。もちろん、財政事情が深刻だって事は分かるけど、これは社会全体の死活問題でもあるんだから」

 ある時、夫はそのような事を言った。それはまるで自分の父親の死で安心を感じてしまっている罪悪感を和らげる為に言っているように思えた。

 ただ、出雲真紀子の方は淡白だった。

 どうせ夫の父親はもうそれほど長く生きないのだ。その父親の為に、これからの社会を支える幼い子供が犠牲になるような事があってはならない。

 そのように考えていたのだ。

 だから、もし仮に夢の中に出て来たあの女性が夫の父親を殺したのだとするのなら、感謝をしなくてはならないかもしれない、とすら考えていた。

 そして彼女は自分が間違っているとも思っていなかった。

 ただし、こんな風に考えてしまうからこそ介護する人間の虐待が起き続けているのかもしれない、とも思っていたのだが。

 

 我々の住むこの場所は、我々が仕合せに暮らす為に都合良くはできていない。

 

 なんともやり切れない何かを、彼女は心の中に、まるで怨霊のように抱え込んでいた。

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― 新着の感想 ―
[一言]  拝読しました。  子取りの怪と間引きの事例、入り混じる夢の記憶。それらが堆積する義父への感情と複雑に絡み合い、彼女は姥捨て山めいた仕業に一種の正当性を覚えていく。  鮮やかな筆致で描き出さ…
[一言]  高い筆力と、ところどころに挿入される伝承話が雰囲気を盛り上げておりました。  決して後味のいい作品とは言えませんが、社会問題を取り上げており、かなりの良作かと思われます。ラストに、あえてぼ…
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