ハングリーファイト
日差しがさし、蝉の声が響きまわる。
僅かな風が吹き、音を立てている。
たくさんの木の中で、一人の女の子が歩いている。
「うぅぁぁーーーーー」
意味不明な声を出して、ゾンビのように歩く。
原因は簡単だ。
この少女は今、飢えているのだ。
山に迷って2日、少女猪袋 凛はただ一つの物を欲しがっている。
「肉ぅ……」
この山に住んでいる動物は少ない。
別に山に資源が少ないわけではない、むしろその逆だ。
山に資源は溢れている。
だが、動物は少ない。
この原因も簡単だ。
山の資源は大体、彼に独占されたのだから。
山を荒らし、ここの食物連鎖の頂点に立つ彼は。
キングと呼ばれる一頭の熊だった。
「うくぅーー」
今日の彼はいつも通り、自分の餌を求めて森を漁ってるのだ。
先に気付いたのはキングのほうだった。
彼を避けるため、大体の動物は普段隠れて息を潜めている。
こんな音を立てるのは奴らじゃねえと。
それと、この匂いは……
人間だ。
「うぅくぉ……」
キングは喜んでいるのだ。
今日の昼飯は人間だと。
凛はちょっとばかり後悔している。
家出るんじゃなかったと。
でもすぐその考えを消した。
そんなことより。
そんなことはもうどうでもいいんだ。
今考えるべきなのは、目の前のそのーー熊をどうすべきかということだ。
「くあぁぁーー!」
「たしかに肉だけど……」
まず、凛はこう考えた。
逃げられる?
ノーだ。
そして、こう考えた。
諦める?
ノーだ。
最後にたどり着いたところは。
どうする?
答えとともに、凛は行動し出した。
キングはまず思った。
食ってやる前に、ちょっと遊んでやろう。
逃げる獲物を追うのもいい運動だと。
昔にほかの熊たちを殺ったときのように、と。
だから油断をしたのだ。
彼は思いもつかなかった。
まさか、反撃する人間がいるとは!
熊の片目に刺さったのは、小さいナイフだ。
家出をした時、凛が持ち出したものだ。
健康な熊と戦うなら、凛に勝ち目などない。
でも、目が見えない熊なら、この状態を凌げるかもしれない!
「と、思ったんだけど……」
つばを飲んで、手の汗を感じている。
「もう一発、入れなきゃならないのよね……」
キングには、怒りも、驚きも表していない。
ナイフを手で除いたキングの目はまさにーー
狩人の目に変わった。
ーーお前には、女の子らしく生きてもらいたいーー
家を出たとき、父が凛に言った言葉だ。
自分に強制された様々の教育に、耐えられなくなった時に言われた言葉だ。
「でもよ父さん、あたしは」
無事なほうの手で目にしみる血を拭いて、凛は瞬くのフラッシュバックから現実に戻った。
一撃を入られただけで、左手が感じられなくなった。
まだつなげてるらしいけど、動く信号を送っても反応を表してはくれない。
「あたしは、自分らしく生きるのよ!」
右手で石を拾いで、凛は覚悟を決めた。
「あんたを食ってからだッ! このくそったれな熊が!」
痛みと絶望感を抑えて、凛がもう一つの目に石を投げた。
久しぶりだ。
自分は王だ。
この山に、自分に逆らう者などありやしない。
家族も、同類も、元の支配者も、全て食ったのだから。
その後は、山を荒らすしかやることはなかった。
久しぶりだ。
自分を逆らう者に出会うことが。
自分が本気で食ってやりたいと思うのが。
本当に久しぶりだ。
「かぁーー!」
叫び声とともに、投げられた石を捌いた。
凛は消えた。
一瞬にもそう思ったが、キングはすぐにわかった。
凛は木の後ろに隠れたことを。
匂いも、血の跡も、音さえも、凛のいる場所を教えている。
何を企んでいるのかもしれない、でもいいんだ。
それが弱者のあり方だ。
自分は強者のように、受け止めるだけでいい。
近づいてくることはわかる。
自分が隠れてるのがバレてるだろう。
「これで……いい」
バレてよかったって、凛は思った。
木の前に近づいて、キングは手を振り上げる。
「くぅ……」
木を折った。
折れた先に、凛はいた。
「木を折るのは予想外だけど……よかった、まだ予想内だった」
謎の液体が足元に広がって、キングは戸惑った。
「パックを開ける時間は稼げた」
凛は光る何かを投げた。
「焼くよ」
マッチの火が油によって拡散されるのは、数秒も経たなかった。
キングの身に火が移るのも、その数秒だった。
「くあぁぁぁぁーー!」
これはキングが生まれて以来初めて受けた衝撃だ。
爪を使うものもいた。
牙を使うものもいた。
足を使う、翼を使う……
動物たちはいろんなものを使ってきた。
でも、火を使うのはいなかった。
火を使うのは、人間しかない。
凛は思った。
「流石に反撃できないよね……?」
火に焼き付かれて、キングは驚きと怖がりを覚えた。
そして、怒りを思い出した。
火に焼かれて歩いてくる熊。
今の凛にとっては、一体どれほど恐ろしい光景なんだろう。
「ぃ…いやぁ、近づかないでよ!」
「うくあぁぁぁぁぁぁ!」
石を投げた。
効いてなかった。
枝を投げた。
効いてなかった。
「っ!」
凛は焦った。
「どうして止まらないのよ!」
凛は後ろへ一歩下がった。
火の中に、キングは思った。
ここまで追い詰められるのは初めてだった。
昔、山の中にはたくさんの肉食動物があった。
そいつらは全部食った。
強いのも、弱いのも。
でも、今起きたようなことは一度もなかった。
自分が食われるかもしれないと思うのは、今まで一度もなかった。
本能が逃げろと叫んでいる。
だが、プライドの逃げるなの声、もっと大きかった。
凛は思った。
逃げたいと。
帰りたいと。
こんなことになるなら、父さんのいうこと聞くべきだったと。
そして、こうも思った。
勝ったと。
凛は消えた。
まただと、キングは思った。
また木の後ろへと隠れたのかと思った。
「やはりね……」
「くぅ?」
声が近い、どこだと。
「片目はもう見えないのね」
声とともに、痛みが伝わってきた。
キングはやっと悟った。
凛は側にいたということを。
暗闇だ。
目の痛みとともに、暗闇がやってきた。
先まで、そんなに輝いてるのに。
キングは断末魔のように、隣を叩いた。
「凛よ、お前に女の子らしく生きてもらいたい」
父の声が響きまわる。
「我が一族は、争いを好む」
家を出た時のことが、流れていく。
「血性を抑えるために、こんな教育をした」
あの時答えたことが、凛の頭に蘇ってきた。
「もういや! こんな家、出てやる!」
どれだけ走ったのだろう。
適当にものをパックに詰め込んで、できるだけ走った。
気付いた時に、山に入った。
それからどうなった?
凛は思った。
あたしはどうなった?……と。
目が覚めて、凛は起きた。
通報を受けて、消防隊は現場に行った。
「山に煙がたてて、火事起こったのかもしれない」
ヘリコプターで上空から近づいて、あれを目撃した。
「煙って、こういう……」
半年後、凛は出院を果たした。
両手は奇跡的に、箸を持てる程度に回復してきた。
熊の肉を食べている娘を見て、父もいろんなことを諦めたらしい。
また家出をされたら何をするかわからないからな。
キングの皮は凛の部屋に飾って、友達が来た時すごく驚かせたみたいだ。
凛にとって、この家出は夢のような出来事だった。
……。
「ただいま!」